いやはや。まさに嵐のように過ぎ去った2008年であった。
オレ様にとってこの1年間は長い長い間、ずっと思い描いていたものが、やっと“カタチ”として現実のものとなった、このうえない幸せな時間となった。アボリジニアート『エミリー・ウングワレー展』の日本開催である。

これまでの苦労話や展覧会が実現した時のオレ様の尋常ならぬ興奮等は、すでに過去の紙面で綴らせてもらったので、今更あれこれと書くことは控えるが、こうした大きなものを達成した後の自分自身と、今、改めて静かに向き合いながら、実に様々な気持ちを楽しんでいる。
…といったら聞こえがいいかもしれないが、正直、毎日一人でボケーッとしながら自分の仕事部屋で大半の時間を過ごしているのが現状だ。何をやるわけでもなく、目の前に積み重なっている展覧会で使った資料をきちんと整理しなくちゃ…と思いながらも、まだ机の上はぐちゃぐちゃ状態。必要な資料を一つ探すたびに更に散らかるといった最悪の状態だ。
とにかくやる気が起きない。それでもちゃんと腹は減るので、ご飯をモリモリかっ食らう。食べたらたちまち眠くなる。とりあえず昼寝をする。そうすると夜眠れなくなって夜更かしする。夜更かしすると朝起きられない…といった生活パターンは、堕落人生まっしぐらのようだが、考えようによって、これはとても贅沢な暮らしではなかろうかと思うが、いかがだろう。

企業に勤めていたら、とてもこんなことはしちゃいられない。組織にいる為のコミットメントが山ほどあるからだ。こんなの当たり前のことだ。
“会社の名前ではなく、自分の名前で生きていきたい”。
そんな生意気なことを考えて、会社をポンと辞めたオレ様だった。当時26歳であった。
企業を辞めた途端、年賀状の数がグンと減った。それまでしつこいぐらいに「飲みに行こうよ~」と誘ってきたトノガタからも、さっぱり電話がこなくなった。
世間とはやはりそんなものか。今まで肩書きや組織に所属していた自分と付き合ってくれていただけなんだ、と思ったものだが、それはそれでせいせいして、結構気持ちが良かったもんだ。
逆に、会社の枠をとったことで、その後、実に多種多様な人達と仲間になれたことのほうが、オレ様の心はずっと満たされたものだった。

2000年に小さいながらも、自分の会社をオーストラリア、メルボルンで設立した。資本金なんてものはほとんどなく、泣きたくなるぐらいの貧乏会社でスタートした当時のオレ様には、希望に満ちた未来等はかけ離れた存在だった。だが、未来なんてものは「予測する」ものではなく「作っていくもの」だ、といつも自分に言い聞かせていた。自分のマインドひとつで、いくらでも変えられるものだとね。
貧乏ながらも積極的な意志を持つことが、後々の自分の人生を左右するんだと、ずっと思い続けていたら、本当に周りが少しずつ動き始めたから驚いたもんだ。
2008年10月、自分で企画する展覧会を神戸で開催した。オレ様の今年最後のイベントである。
大好評だったエミリー・ウングワレー展のおかげで、日本におけるアボリジニアートの評価も随分大きくなり、会場へはきっとたくさんの方々が、遠方からも足を運んでくれるに違いないと確信していた。
開催した『ギャラリー北野坂』、ここは安藤忠雄氏が設計されたというモダンで広々とした空間で、8,000km離れたオーストラリアの大地から、はるばる海を越えてやってきたアボリジニ達の作品を一段と華やかに、それはそれは美しく演出してくれる。
元々天地左右の決まりがないアボリジニアートを1点1点壁に掛けながら、「縦にしようか。いや、横に掛けてみようか?」と、ああでもないこうでもないと迷いながら行なう準備作業が、一番楽しいひと時だ。
通常、日本での展示会を行なう時は方法が二通りあって、一つは開催ギャラリーが「企画展」として行なう場合。もう一つは、主催するオレ様側が規定の賃料を支払い、「貸しギャラリー」としてそのスペースを一定期間借りて展示会を行なうといったものだ。
「企画展」では主催するギャラリーが、展示作業から案内状の作成、オープニングパーティー、各メディアへの広告宣伝、展示会中の集客等、全てをケアしてくれて、最後にあらかじめ決めておいた販売が成立した時の手数料(コミッション料)を支払うわけだが、もう一方の「貸しギャラリー」となると、それらの作業を全て自分達で行なわなければならない。当然だが、頭の痛くなることばかりである。

企業に所属していた時には、「所詮、人様のお金」として遠慮なく使わせてもらっていた経費も、今やコピー用紙1枚を裏と表、必ず両方使うケチケチ野朗のオレ様は、日本の展覧会を開催する度に「どうか赤字だけにはなりませんように」と、毎朝両手を合わせるのである。

『ギャラリー北野坂』は貸しギャラリーだった為、事前の準備にたくさんの時間を費やした。日本での強力助っ人、佐久子様のお力を借りながら、「まずは宣伝、集客だ」と関西方面の各メディアに片っ端から手紙を出したが…反応はゼロ。ほとんど回答なく、無視された。
それなら、あとは出たとこ勝負だ! とやる気満々で迎えた展示会の初日…。外は台風で大雨だった。お客様、ほとんどなし。

それでも「積極的な意志が自分の人生を左右するはずだ!」と、毎日笑顔でギャラリーへ通ったオレ様と佐久子様だった。
本来は、スペースだけを提供してくれる「貸しギャラリー」であるはずの、ギャラリー北野坂の女性オーナーは、毎日気合だけは十分というそんな我々を見るに見兼ねたのであろうか。「がんばりましょうね」と、娘さんと一緒に毎日おいしい手作りおにぎりを差し入れしてくれたり、細やかなアドバイスをしてくれたりと、まさに至れり尽くせりだったのだ。
「本当に優しい人って、きっとこういう方達を言うんだろうな」と感謝せずにはいられず、温かさが心にしみ込んだ6日間であった。

こうして、今や自分の名前で、ようやく仕事ができるようになったものの、まだまだ浮いたり沈んだり、忙しい毎日のオレ様だ。
組織の中での安定も確かに魅力的ではあるが、オレ様はこれからも自分のエサを自ら探しに行く「野生のチーター」でありたいと願っているのは、決して強がりではないということを信じていただきたい。

でも、展示会中に会場へ来られた、年収10億円は軽く越えるだろうと思われた初老のトノガタと話をしていて、「この人、こんなにお金持ちなら、それだけで一生どころか5回ぐらい人生をやり直せるだろうにな。うらやましいかも」なんてことは

オレ様、絶対思ってないからね!