夢の東京滞在記
6月下旬の東京は、すでに梅雨入りをしていた。どんよりとした雲の間から、しとしとしとしと…と、雨が静かに都会のコンクリートを濡らしていく。
朝、ドライヤーで髪をバッチリセットしたはずのオレ様だったが、すでにこの湿気たっぷりの雨降りで、クセ毛の前髪があっちこっちへと気が狂ったように踊り出している。最悪。
オレ様が今回、一緒に連れて歩いているのは、普段乾燥したオーストラリアの中央砂漠で暮らすアボリジニの女性画家達。バーバラとトリーザ親子だ。国立新美術館で開催されるエミリー・ウングワレー展の晴れの開会式へ、日本に招かれた特別ゲストの2人だ。
そんな彼女達が、最後に砂漠で雨を見たのは何と、1年半前だというではないか。なるほど……わかったよ……だからなのね……。
ワンタッチ傘を「珍しいから」と言って、地下鉄のホームでパチパチやる娘のトリーザ。きゃっきゃっきゃっきゃっと大騒ぎで手が付けられない彼女は、もうじき46歳になる。
「電車の中では絶対やるなよ」と、オレ様がおっかない顔で注意しても、まるで聞いちゃいない様子だ。
「ショッピング! ショッピング!」と、二言目にはオレ様の腕をぐいっと引っ張って、「どこか連れて行け」とだだをこねる。くどいようだが46歳。
すると、間髪入れずに母親のバーバラも、「日本には珍しいおもしろいものがたくさんあるから、ショッピングに行きたい。ショッピング! ショッピング!」と言って、さっさと先に歩き出して勝手にタクシーを止めてしまう。ちなみに彼女は67歳。
贅沢は敵だ…。42歳のオレ様は、そう自分にいつも言い聞かせる。「タクシーなんてもったいない。歩け歩け。地下鉄に乗るぞ」。そういって止まったタクシーに、「ごめんなさい」と頭を下げてそのまま行ってもらい、2人を地下鉄の駅まで歩かせる。
これまでオレ様は、何度もアボリジニの人達を日本に連れて来て、ショッピングにお供したことはあるが、まずスムーズに、事が済んだためしがない。ある者は値段を見ずにレジに品物を持って行き、「合計27万円です」と言われて恐怖におののいたり、ある者は試着したまま店の外に出て来てしまい、店番のオヤジさんに大声で呼び止められたり…。思い出したら…ああ、キリがない。
しかしながら、今回オレ様がご一緒しているのは、街で暮らした経験もあるトリーザとバーバラだ。まずはそれほど大きな問題はなかろう…と安心しきったオレ様が、やっぱりオオバカ野郎であった。
人間にとっての「物欲」というのは、自分の目の前にそれだけのチョイスがたくさん存在する時に発生する心の欲求で、だからこそあれもこれも手に入れたいと願ってしまうのだ。
普段、最寄りの街から何百キロも離れて暮らす娘のトリーザは、スーパーマーケット一つないアボリジニの居住区で、実に快適に暮らしているというではないか。「不自由に感じることはないの?」そうオレ様が尋ねても、「初めから手に入らないとわかっているから、そこで“欲しい”なんてまず考えないわよ」と、ケラケラッと笑いながら、2袋目のポテトチップを開け始めた。
ところがどうだろう。2人をショッピング天国のアメ横に連れて行った途端、顔つきが一変したのである!!!
ビニール傘は買い物に邪魔だ、とオレ様に無理やり押し付け、まず2人は眼鏡屋に飛び込んだ。砂漠は直射日光がやたら強いからと、UVカット入りのサングラスを次々に試着。あっちがいい、こっちの色もかっこいいと店内でわーわー騒ぎながら、オレ様に耳元で「値切れ」と命令。どこまでも強気の2人だ。
1時間後、それぞれ3ペアずつ購入し、大満足で店を出た。店との値段交渉で疲れ果てたオレ様は、口数少なく、とぼとぼ2人の後ろを歩く。いっそのこと、このまま2人をまいて逃げてやろうか…。そんなことまで考えたものだ。
そのとき2人が同時に指を差した店。今度は靴屋だった。
後ろにいるオレ様を振り向くわけでもなく、彼女達はまるで掃除機にでも吸い込まれるように靴屋へと消えていった。
少し遅れて店に入ったオレ様の視界には、端から端まですべての靴を試着して店内いっぱいに脱ぎ散らかしているトリーザとバーバラがいた。2人合わせて113歳だ。あんまり関係ないが、オレ様の思考能力はもうギリギリのところまで来ていた。
2時間後。聞いて驚くなかれ。2人はその靴屋でそれぞれ6ペアずつ購入し、荷物がこんなにたくさんになってしまったからと、新たに新しいスーツケースを2つ購入。
ここでオレ様、すでに死んだフリ。完全に動けなくなってしまった。
気がつくと、雨はすでにやんでいた。…瞬時にいや~な予感がしたが、それが見事に命中。さっきまで差していたビニール傘を、オレ様の予想通り、2人ともどこかに置き忘れたからと、それをこれから探しに行くことに。
その途中でトリーザが「糖尿病の注射を打つ時間が来た。トイレに行きたい」と突然のたまう。「この注射を打たないと死んでしまう」とまで言い出す。オレ様、急いでビルの中に入り、トイレ探しに奔走した時、バーバラが「腹が減った。何か食わせろ。空腹で目が回ってきた」とやや不機嫌な顔をする。
ああああああああ~~~~~~~!!!!!! いい加減にしてくれ~~~~!!!!!!
オレ様は、この時生まれて初めて、殺意というものを抱いたような気がする。
さもなければ2人を大型の段ボール箱に詰めて、近くの郵便局からアリススプリングスまで送ってしまえ……と、真剣に思ったのも事実である。
贅沢は敵……のはずだったが、今の敵は間違いなくこいつら2人だと確信したオレ様は、誰よりも早くタクシーを拾ってさっさと家路についたのさ。
翌日、無事に開会式に出席をした2人は、会場へ来ていた来賓の人達に「ジャパン、最高。ショッピング、サイコー!」と楽しそうにそう言っていたっけ。
まだまだ日本では無名であるエミリー・ウングワレー展。しかし、もはやすでに10万人近い入場者数を記録しているというこの現実に、関係者はみな驚きを隠せない。
「無」から生まれ出た生命力溢れる86歳のエミリーの絵画は、文明にどっぷりと漬かったオレ様達に圧倒的なエネルギーで様々なことを訴えてくる。
日本でのエミリー展開催の実現に、心から感謝を述べたい。