カテゴリー: 裸足のアーティストに魅せられて

  • 異なる感覚、異なる価値観

    2008年を迎えてから、オレ様はもうすでに12回程飛行機に乗っている。こうなると、まるで近所のバス停から、ひょいっと乗り合いバスにでも乗る感覚だ。しかしながら、行き先は砂漠への中継地であるアリススプリングスと日本の2ヶ所のみ。そう、今年は日本で開催するアボリジニの女性画家、エミリー展のおかげで、こんなオレ様もあちらこちらから重宝がられて、これまで以上にせっせとアボリジニアートの啓発に努めている、というわけだ。

    現にこの3週間の間にも、アリススプリングスとメルボルンをそれぞれ2往復することに。

    アリススプリングスの街に到着をするやいなや、オレ様まずは、東京での展覧会開会式に来日をしてもらうアボリジニの女性達の出発準備を手伝わなければならない、という使命を豪州政府から仰せ付かっていた。

    今回の来日予定者は3人。すでに候補者は決定していたのだが、何しろそのうちの2人は海外渡航は生まれて初めてで、アリススプリングスの街からもあまり出たことがないという新人ちゃん達だ。したがって、まずは2人のパスポートを申請するところから、この日本行きの準備が始められたのだ。 オレ様は早速、アリススプリングスの郵便局へ行って、パスポート申請用紙をもらってきた。だが、そこに書かれてある申請の為の必要書類があまりにも多くて、オレ様はいきなりどんづまり。

    当然のことながら、出生届けやら現住所が書かれてある銀行の明細書、その他年金をもらっていることを証明するペンションカード、それらをすべて今日中に揃えて申請をしなければ、日本出発までに、パスポートは間に合わないというタイムリミット付きの作業である。

    日本行きに見事ノミネートされたのは、アナ・プライス姫とジェニー・ペチャラ嬢。そしてバーバラ・ウィア女王の3名だったが、バーバラはもうすでに何度も日本行きを経験しているし、パスポートも持っているから何も問題はなし。問題なのは、はるか昔に、砂漠のブッシュの木陰でポンと生まれた新人ちゃん達の出生証明書が、どこにも記録されていないということだ。

    とにかく、オレ様まずは2人と一緒に役所へ足を運び、担当のスタッフにあれこれ相談をしてみた。

    そこはさすがアリススプリングスの役所である。街の人口の大半がアボリジニの人々というだけあって、担当者も随分と作業に手馴れたものだった。2人にゆっくりとわかりやすい英語でいくつか質問を始める。まずは生年月日を判断する質問のようだ。

    オレ様、隣でよくよく聞いてみると、その担当者は、彼女達の親族ですでに出生証明の届け出がある人達の名前を一人一人あげ、「いい? ジェニー。あなたが幼い頃、○○はどれぐらいの背丈だった?」とか「アナ? △△の子供達はあなたの子供より大きい? それとも小さい?」とか、オレ様には今一つ意味不明な問いかけをしているではないか。

    しかしながら、アナもジェニーもそうであれば随分と答えやすいらしく、「自分がこれくらいの背丈だった時、 ○○はあの時計の位置ぐらいだった」と壁にかかっている柱時計を指差す。驚きだ。するとそれからは、自分達のほうから年齢が推定できるような情報をペラペラとその担当者に提供し始めるのだった。スバラシイ!これはもうお見事としか言いようがない。

    結局、ああでもないこうでもないという談義の結果、1時間を程なく過ぎた頃、2人の新人ちゃん達は、無事に出生証明書を確保できたのである。ちなみにそこに書かれてある2人の誕生日は1960年1月1日と1957年1月1日であった。

    「まさか、ホントかよ~~~!?」と、誰もが言いたくなるのは無理はない。2人とも揃って元旦生まれとは大したもんではないか。この際、細かいことをつべこべ言っている暇はない。ああ。めでたい。めでたい。それでいいのだ。

    さて、こうしてパスポート取得に一歩近づいた新人ちゃん達。しかし、あまり感動の様子は見られない。どうやら腹が減って死にそうだと言う。近くのカフェを指差して”何か食わせろ”とオレ様に厳しい視線を投げかけるではないか。

    まだまだ2人の書類を揃える為に、行かねばならない箇所が山ほどあるっていうのにだ。ここで優雅にランチなんてしている場合じゃないってことを、新人ちゃん達に言って聞かせたが、まるで通じていない。とにかく腹が減り過ぎて、もう歩けないとまで言い出す。

    そうなると彼女達は、ところ構わず道端にしゃがみ込んで、動こうとしなくなるに決まっている。こうなったら仕方がない。急いでサンドイッチでも食べて、直ぐに次へ移動しよう。

    2人の大好きなコーラも一緒に注文して、オレ様は日本行きの話をたっぷり言って聞かせたのであった。きっと日本がどこなのか、まるでわかっちゃいないのだろうが、それでも2人は楽しみにしている様子であった。

    さて、ランチのあと、今度は銀行とセンターリンクへそれぞれ向かい、事情を説明してパスポート取得に必要な書類を、すぐに発行してもらった。

    おっと、忘れちゃいけない。写真も撮らなきゃね。パスポート写真を撮るなんてそれこそ新人ちゃん達には初めての体験だ。あまりの興奮に、きゃっきゃ、きゃっきゃっと大騒ぎして、どうしても前歯を「にぃぃぃーーっ」とむき出した写真ばかりが撮影されてしまう。何度も撮り直しをして、直ぐに我々3人は郵便局へと向かった。

    日中のアリススプリングスは、軽く30度を越える。もう汗だくだくである。

    やっとの思いで書類を揃え、閉店時間ぎりぎりに走り込んだアリススプリングスの郵便局。するとなんと入り口の看板に「制度が最近変わりました。パスポート申請者は面接が必要でーす。しかも予約制ですからねー」と大きく書かれているではないか。

    英語をうまく話さない新人ちゃん達が英語で面接を受けるのは、非常に困難なことは百も承知だ。だからオレ様も一緒に、翌日の2人の面接に立ち会うことにして、その日は家路へと向かった。「あした、面接。いいね。大事大事。パスポートないと日本行けない。オッケー?」と、2人にこれでもかというほど念を押したオレ様だが、それでも心配は尽きないものだ。なかなか寝付けないまま朝を迎えることに。

    そして翌朝。 2人を前日に送り届けた場所に、オレ様は再び迎えに行ったが…2人の姿はどこにもなかった。

    一緒に住んでいるだろうと思われる親族に居所を聞いてみたが、誰も2人がどこに行ったのか知らないという。アボリジニの社会では「移動」という概念がハンパじゃなく大きくて、1日に軽く700km先に住んでいる親族を訪ねる、なんてことはよくある話。……ということを、オレ様はなぜもっと早く気付かなかったのだろうか!!!

    当たり前が当たり前として通用しない社会。じゃあ一体、誰を基準にその「当たり前」が誰に対して成立するのだろうか。異なる感覚、異なる価値観で、ずっとこのオーストラリア大陸を生き続けてきた先住民アボリジニの人達こそが、オレ様にいつも「あれもあり。これもあり」と、物事をそのまま真っ直ぐに受け入れることを教えてくれる。

    こうして大事な面接の日に姿を消した新人ちゃん達。残念ながら今回の日本行きは断念することになったが、いつの日か必ず一緒に行けることを、今からしっかりと思い続けよう。

  • 大阪珍道中 その2

    いやはや。はるばる8,000kmの海の向こうから、エミリー・ウングワレ展覧会の特別ゲストとして招かれたアボリジニの女性画家、バーバラ・ウィアとグロリア・ペチャラと共に過ごした日本滞在1週間。

    気温40度の砂漠から、いきなりマイナス1度の大阪へ旅立った我々3人は、窓の外からチラチラ舞う雪を見ながら、熱々のミルクティーを毎日ドンブリで4~5杯飲みながら、実にいろいろなことを語り合った。

    ご存知の通り、白人との混血であるバーバラは、幼少の頃当時の豪州政府の政策によって親元から強制的に引き離され、その後をずっと白人社会での生活を余儀なくされたおかげで英語がとても流暢である。したがってオレ様も通常、彼女とは英語でやりとりができるというメリットがあるわけだが、人生の大半を砂漠のブッシュで、しかも自分の言語(アマチャラ語)だけで育ったもう一人のグロリアは、なかなかそうはいかない。

    それでも、こちらの言う英語は随分理解をしてくれているようだが、彼女から発せられる英語の単語はそうそうあまり数多くないので(しかもとても強いアクセントがある)、その都度、オレ様は「今、彼女が意図していることは、これこれこうなのかもしれない…」と、いつも様々な想像をめぐらしているのである。

    もちろん、それはあくまでもオレ様の想像でしかないゆえに、時折100%間違っていることがあるのは当然だ。…というかほとんどがそうだ。

    それでも本音と建前を上手に使い分ける我々日本人社会とは違って、アボリジニの人々は、嬉しい時には転げまわって大笑いするし、悲しい時には人目もはばからずに大声で泣きじゃくるし、逆に怒っている時には顔をマッカッカにして怒鳴り散らす…という、とても真っ直ぐな人達であるゆえ、彼女達の感情を理解するのは意外と容易であると、オレ様は思っていた。

    おまけに「人間同志のコミュニケーションは、決して言葉だけではない!」と日頃自負しているオレ様である。だってそうでもしないとアボリジニの人々との10年以上にもわたる交流は全く不可能であるからね。

    だから英語を共通語としないグロリアとの会話だって、それほど支障をきたすことはないだろう…と過信すらしていたのだが、やはり日々の普通の会話が思うように成り立たないという現実は、お互いのフラストレーションを増長させる要因でもあるということを、今回随分学習したものだ。

    グロリアは、とにかく腹が減ると途端にご機嫌ななめとなる。その時がたとえ国立美術館の館長との大事なミーティングの真っ最中であろうが、東京の地下鉄銀座線の中であろうが、いかなる状況下においても、まずは自分の腹を今直ぐ満たすということを何よりも優先とする。満たされなければ、すぐにオレ様をギロリとにらんで、「腹減ったから何か食わせろ」攻撃になるのである。

    だからオレ様はいつも彼女の満腹加減をうかがいながら、その日のプランを立てる必要があったのだ。

    著名な画家ゆえ、グロリアはこれまで世界各国を展示会の為にあちこち回っている。ロンドン・パリ・ニューヨーク・インド・スコットランド・アイルランド…国名を挙げたらキリがない程だ。

    そんな中で、今回初めての訪問となった日本。何よりも食うことを重んじる彼女ではあったが、どうも日本の食事が今一つ口に合わないというではないか。…ふむむ…こりゃ、困ったぞ。そこで、雪がチラチラ舞う極寒の中、オレ様は何度コンビニまでダッシュをして、彼女の好きそうな食材を調達しに行ったことだろう。いいですか? ダッシュですよ。ダッシュ!! そんなの高校時代の部活動以来ですよ。ほんとに。

    息をぜーぜー切らしながら、滞在先であるウイークリーマンションに戻って、テーブルいっぱいにのせきれない程の食事を用意したにもかかわらず、「日本のパンは甘すぎて食べられない」とか、「このフライドチキンは鶏肉の味が違う」とか、「オージービーフも子牛は変なにおいがするから食べない…」とか、もうああでもない、こうでもない、と文句を言って、ちっとも手をつけようとしないのだ。

    食べなきゃ、腹が減ってまたご機嫌ななめになる。そうなるとオレ様をまたギロリとにらんで文句を言う。

    こうなったら、これまで全く口にしたことのない食事を体験させてしまおうではないか! と考えたオレ様は、大阪市内で友人の母上様が経営されているという老舗中の老舗である「お好み焼き、ぽん太」に、バーバラ・グロリア、その他大勢をを連れてお邪魔したのであった。

    そこはカウンター10席のみの、まさに家族経営のフレンドリーなお店。とにかく気のいいママさんが、我々の目の前で、その日に仕入れた新鮮な食材をふんだんに使ったオリジナルメニューを、これでもかという程、披露してくれる粋なレストランなのだ。そこへ一度行ったお客様はたちまち常連になってしまうらしい。

    するとどうだろう。これまで「あれがヤダ。これがヤダ」とずっと言い張っていたグロリアが、ママさんの作る手料理のオンパレードに、どれもこれも舌鼓を打ち、とにかくこれでもかという量を平らげたではないか。バーバラも「おいしい。おいしい」と言って、目の前の鉄板から手づかみでジャガイモをほおばる。これにはオレ様も、さすがにおったまげたもんだった。

    チャキチャキ関西人のママさん。そんなグロリアとバーバラの食べっぷりを喜ばないわけがない。…というか、あの嬉しそうな2人の顔を見ただけで、オレ様は「食事こそ我々に言葉はいらない。最高のコミュニケーションだ!!!」と確信できたのであった。ママさんには頭が下がる思いである。

    見知らぬ土地で、見知らぬ人達と、見知らぬ食事を毎日とるということが、どれだけ2人のストレスになっていたことだろうか。考えてみれば、これは普段、オレ様が砂漠のアボリジニ居住区へ赴いて毎日、トカゲだー、アリンコだー、イモムシだー、って彼等のご馳走を食するストレスと全く一緒なんだよね。隠れてこっそり「赤い○つね」「緑のたぬ○」を食べちゃいたい心境になるのと全く同じ。

    人間、食事からホームシックにかかるというのは、まさに本当の話なのである。

    そんなこんなでグロリア、バーバラの日本での食事には手を焼いたオレ様であったが、それでも彼女達が楽しそうに日本を満喫してくれている姿を目にするのは、このうえなく嬉しいものであった。

    それでも、デパートでいきなり消息不明になる2人である。もちろん携帯電話も持っていないゆえ、あの人混みで見失ったらそれこそアウト。はい、さようなら~~~ではないか。

    とてもオレ様一人では手に負えないことから、あっちこっちの友人達にSOSの緊急招集をかけ、それぞれを密着でアテンドしてもらって、無事に買い物を済ませたという、涙ぐましい物語を繰り広げたのである。

    お世話になった皆様方、本当にありがとうございました。

    これに懲りず、5月末に開催するエミリー東京展の開会式にも再び我々来日しますので、ぜひともご一緒させてくださいな。ね、ね、いいでしょう? というわけで、大阪での日本滞在ハプニング報告がまだ全部終わらないうちに、オレ様は次の東京展にいったい誰を来日させるべきか、日々頭を悩ませているのであった。

  • 大阪珍道中 その1

    雪がチラチラ舞う関西空港。そこへオレ様は、アロハシャツのような薄っぺらいシャツだけが20枚入ったアボリジニの女性画家・グロリアのスーツケースをガラガラ引きながら到着。なんたって、シャツしか入ってないんだから、軽い軽いこのケース。分厚いコートを早く見つけなくちゃね。

    同行したバーバラ姫は、これで3度目の来日(でも大阪は初めて)。余裕を見せていきなり自動販売機で温かい缶コーヒーを買いに行く。どうやら前回の日本滞在中、あのうまさにはまったらしい。

    当初は『日本ヘは行きたくない』と言い張ってオレ様を随分困らせたバーバラだったが、いざ到着をしてみると、どうやらまんざらでもないようだ。

    しかし、ケアンズ空港で国際線のチェックインをした時に、実は大変なる事件が起こったのである。

    ご存知のとおり、バーバラのパスポートには生年月日が記載されていない。○○日、○○月、1945年とだけ書かれている。

    まあ、これはブッシュの中で生まれたアボリジニの人達には決して珍しくないことなのだが、その時のチェックイン担当のおねーちゃんがどうやら新人さんだったようで「生年月日がちゃんと書かれていないと、コンピューターに入力ができません。つまり搭乗券が発行できないんです」と主張するではないか。

    すると、バーバラ姫。間髪を入れずに「あんた、私を誰だと思ってんの。有名なアボリジニアーティストなんだよ。私はこのパスポートで世界中、どこにでも行ってんだよ。パリ・ロンドン・ニューヨークにね。

    この間なんて、イギリスのチャールズ皇太子からディナーの招待状だってもらってんだ(あ、これホントの話ね)。その私がチェックインできないとは何事だ!」とそれはそれは大きな声で、そのおねーちゃんをやっつけるではないか。

    さすがのオレ様もたじろいだが、いやはや、とにかくチェックインしてもらわないことには日本へ行けないわけであるから「なんとかしてよね」と怪しく笑って、おねーちゃんに懇願するばかりだった。

    結局、奥からスーパーバイザーのオエライさんとイミグレーションの担当者までがカウンターにやってきて、やんややんやの1時間。おかげさまで無事に搭乗券はもらったものの、バーバラ姫のご機嫌が一気に悪くなったことは言うまでもない。

    「だからあたしゃ、日本へは行きたくないって言ったんだよ。こんなトラブル、もうごめんだね」とヘソを曲げるお姫様。

    アロハシャツ嬢のグロリアは、もうそんなこと、自分には関係ないという顔をしながら、オレ様に口をパクパクする様子を見せて「腹減った。何か食わせろ」とただそれだけ。

    言っておきますが、これはまだ初日の話。それゆえ、この先、一体何が待ち受けているものか、オレ様は日本行きの機内で、あれこれとシュミレーションを試みたほど。

    まあ、しょっぱなからそんなハプニングがあったはものの、日本到着後のバーバラ姫はいたってご機嫌のようなので、ひとまず安心。

    オレ様、これまで何度もアボリジニの人達を日本へ連れてお世話した、という変な自信があったが、それが今回の日本滞在で見事に音を立てて崩れたことは言うまでもない。

    バーバラ姫はともかく、アロハシャツ嬢のグロリアは、かなりのトラディッショナルなアボリジニの女性だということを、オレ様もう少し学習しておくべきだったと深く反省をしたものだ。

    一番困ったのがやはり食事。何を食べさせても駄目。駄目。雪が舞う中、オレ様は何度コンビニまでダッシュして、あれこれと彼女が好きそうな食材を調達したことだろうか。

    それでも駄目、駄目だった。挙げ句の果てには真夜中、腹が痛いとトイレへ駆け込んだグロリア嬢。ここからはもう誌面では申せません。

    オレ様、その夜は一晩中、便所掃除に明け暮れたことは言うまでもない。自分のう○こも結構臭いとは思っていたが、他人様のう○こがこんなにも強烈だったことを初めて学んだ。アボリジニの人達との共同生活は学習することがたくさんだ。

    結局食事は、部屋で調理して食べることにした。スーパーでオージービーフを目にした時の彼女達の満面なる笑みが、オレ様今でも忘れられない。

    それでも一日、一日過ぎるごとに、グロリアもバーバラも次第に慣れてきた様子がうかがえ、オレ様もほっとする。なにしろ2人は、今回のエミリー展開会式に、わざわざオーストラリアのど真ん中から招かれた特別ゲストなんだからね。

    始終ハッピーであってもらいたいと願うオレ様は、もうこの1週間は彼女達の奴隷に徹しようではないかと心に決めた。観光からショッピングから、彼女達が望むことはすべて「ほほほ~い」と2つ返事で叶えてやった。

    しかし、値札も見ずに、ほしいものをじゃんじゃかこれでもかと、勝手にレジに持っていくバーバラ姫。レジの人に「合計27万8000円です」と言われたが、もちろんそんな大金持っているわけはないし、それを通訳するのは、このオレ様の役目。

    その金額が豪ドルでいくらなのかをバーバラに告げると、彼女は「やっぱ、いらない」と早々に店を出て行く。

    「ごめんなさい。ごめんなさい。ほんとにごめんなさい」と頭を下げてオレ様も逃げるように店を出る。それを横で見ながらグロリア嬢は「腹減った。何か食わせろ」と、これまた口をパクパク。

    ああ。今日はほんとに、まだ2日目なのだろうか。このままじゃ、オレ様、血管ぶち切れて明日の朝、目が覚めないかもしれない。そんなことを心配しながら、すぐに携帯で京都在住の友人にSOSを入れたのであった。

    まだまだ続く女王様達の大阪珍道中。次号をぜひともお楽しみに。

  • 一難去って、また一難

    気温42度の灼熱のアリススプリングス。オレ様はそこでクーラーがガンガンに効いたホテルの部屋で、今一人静かに、この原稿執筆に励んでいる…。はずであった。

    今回のこの原稿、リアルタイムで書いているということで、皆様にはぜひともお楽しみいただきたい。なんたって今日このアリススプリングスで起こった実際の出来事を、オレ様はこうしてタイムリーに報告をしているのであるからね。

    前月号でも少し話をさせてもらったように、このたびアボリジニの偉大なる女性画家、エミリー(享年86歳)の展覧会が、今年日本で開催される。会場はまず、 2月に大阪国立国際美術館。それゆえ、その開会式に向けて、はるばる砂漠のど真ん中からアボリジニの画家を2名来日させるようにと、そんな大きな使命をいただいちゃったオレ様。

    この展示会を主催しているオージーの女性学芸員は、これまで何度も繰り返してオレ様にこう言う。「これができるのはもうMAYUMI、あなたしかいないわ。あなたのような日本人がいてくれて、私達はとてもラッキー! だからなにがなんでも、どんなことをしてでもアーティスト達を日本へ連れてきてちょうだいね。チュッチュッチュ!!!」。

    このように彼女は電話ごしでいつも大胆に投げキッスをしてきた。「どんなことをしてでも…」というセリフがやや気になる。おまけに、まだ一度しか面識のない彼女からの投げキッスは、あまり興奮材料にはならないのだが、それでも「ブタもおだてりゃ木に登る」とは、まさにオレ様のことだと確信する。

    おまけにこのオレ様、根っからの“カッコつけマン”とくりゃ、なおさらやばい。ここまでオエライさんにほめちぎられたら、なにがなんでも力を発揮しちゃわなければ、と変な使命感に燃えまくるオレ様であった。

    「できません」とは言えない。いや、絶対に言いたくない。この際「ブタ」にでも何でもなろう。ぶーぶー。

    今回、豪州から日本へ正式に招かれている2人の画家。一人はすでに2度の来日経験があるバーバラ・ウィア。そしてもう一人はグロリア・ぺチャラ。彼女は日本が初めてだ。

    2 人の日本行きが決定してから、私はほぼ毎日といっていい程、バーバラに電話をしている。というのも、彼女達は2人ともアリススプリングスの別々の家でそれぞれ暮らしているのだが、グロリアは携帯電話を持っていない。オレ様の住むメルボルンからでは、彼女の状況が全く把握できないことから、彼女の様子を知るには、まずバーバラに連絡をしなければならないのだ。2人のパスポート取得や日本での滞在スケジュール情報は、常時メルボルンからの遠隔操作が必要なので、細かい打ち合わせは必然的にほぼ毎日のやりとりとなる。

    電話口のバーバラ。どうやら彼女は毎日気分があれこれ変わるようで、ご機嫌ななめのある日は「やっぱり日本へは行かない。誰か別の人を連れて行けば」。ガチャンと電話を突然切るし、上機嫌の時には「日本へは何を着ていこうかしら? 日本は食べ物もおいしいし、みんな親切にしてくれるから、今回も行くのが楽しみだわ。MAYUMI。私のお世話、頼むわね。ララララ…ン」と声を半オクターブ上げて、彼女のほうから私に電話をしてくることもある。

    ああ。オレ様、もうこの時点ですでに意気消沈。さっきのブタは、どうか丸焼きにしてさっさと食っちまってくれ、といった心境である。

    焼きブタのオレ様。それでも気を取り直して、出発予定日よりも2日ほど早くアリススプリングスへ入る。なぜ2日も早くかって? それには、あれこれ深いふかーーい訳があるのさ。

    当たり前(だと我々が思っていること)が、当たり前ではないアボリジニの人達の社会。価値観や優先順位が我々とはまるで違う。時間の概念は特にそうだ。

    だからいざ出発という日に、オレ様がメルボルンからやってきて「さあみんな、これから一緒に日本へ行きましょう」。なぁんて言ったって、彼女達が準備万端で空港へ時間通りに来てくれるとは思えない。

    だからこそオレ様、言い方は悪いが、まずは事前に彼女たちを「とっ捕まえて」、前日、いや前々日から一緒にホテルへ宿泊する、という素晴らしい作戦を立てたのであった。さもなければ、彼女達を延々とあてもなく、どこまでも探す羽目になるのが目に見えている。同じ部屋で3人が寝れば逃げられる心配もまずないだろう。必ず一緒に日本へ行けるはずだ。

    我ながら実に名案が浮かんだと思った。ぶーぶー。しかし自慢じゃないが、ダンナもおらず子供もいない、これまでネコとしか暮らした経験がないというオレ様が、今日から一週間も朝晩始終密着で、アボリジニの女王様達と共同で暮らすなんてことが、果たして可能なのであろうか。

    しかし、今更そんな心配をしても始まらない。オレ様、すでにアリススプリングスに来ているのだから、なんとしてでも、2人の画家をこのホテルの部屋に、今、目の前にあるクイーンサイズのふかふかベッドに寝かせなければならないのである~~~~~!

    ところで、我々は3人だ。でもベットは2つ。あれれ。こりゃ困ったぞ。ただちに受付に頼んでベットをもう一つ余分に入れてもらおう。

    20分後。ベットが到着。どう見ても、昔、お女中様達が使っていたとしか思えないペラッペラの簡易ベット。

    どうせブタはここで寝ることになるんだろう。とほほほほ。ためしに少し横になってみたら、薄っぺらいマットの下の金属部分が背中に当たるこの感触。思わず泣きたくなっちまったぜ。ぶーぶー。

    それにしても、アリススプリングス到着から、ずーーっと電話をしているというのに、バーバラの携帯は常に電源オフ。これはまるで嫌がらせとしか思えない。というか、そんなネガティブなことしか頭に浮かばない程、オレ様のこの豊満な胸は日本出発前の不安で一杯だったのだ。

    再度挑戦。やった! かかった! バーバラだ。しかし開口一番「日本へ行きたくなくなった」だとさ。「グロリアはどこ? バーバラ…」と半べそのオレ様。「さっき街のモールのギャラリーにいた。MAYUMIが迎えに来るのを待ってると言っていた」。「行く。行く。今すぐそこへ迎えに行く。ギャラリーの場所はどこ? 教えてちょうだい」と、すぐにタクシーに飛び乗り、さっきまでグロリアがいたというギャラリーに向かったのだが、そこはもうすでに閉店していた。

    閉まった店の前で、呆然と立ちすくむオレ様。バーバラに再び電話をする。「ギャラリーは閉まってたよ。あなたがグロリアを見かけたのはいつだったの?」と訪ねると、「さっき」とだけ一言。「さっきって、いつのこと?」とオレ様、疲れもあって声を少し荒げる。「さっきって言っているだろう! ランチタイムの前だったよ」といかにも面倒くさそうなバーバラ。

    さて、ここがアボリジニの人達と我々との異なる時間概念なのだということをご理解いただきたい。果たしてランチタイムというのが、彼女にとって一体何時なのか、まずはそれを突き止めなければならないのである。

    朝10時にランチを食べたら、それがランチタイム。もちろん午後3時でも同じ。バーバラのランチタイムは毎日変わるのである。

    そんなこんなのやりとりをしながらも、結局、午後7時半、黒いスーツケースを抱えたグロリアがホテルに現れる。彼女の姿を見つけたオレ様は、あまりの興奮にあたり構わず飛びついて熱い抱擁。

    早速部屋に連れてきてスーツケースの中身を確認。パスポート、オッケー。下着、オッケー。靴下、1足しかないぞ。あれれ。あとの洋服は、みんなアロハシャツもどきのド派手なやつばかりではないか。しかも全部半袖だ。それも、たたんであるわけではなく、ぐじゃぐじゃに丸めて突っ込んでいる感じ。

    ちなみに明後日到着する大阪は、最高気温がたったの7度。最低気温はどうもマイナスらしい。

    あれほどまでに「日本は寒いから、必ず防寒着を用意しておくように…」と何度も口をすっぱくして言ったはずなのに。見てみたらこれだ。全部アロハシャツだ。

    仕方がない。日本では私のジャケットを着てもらおう。サイズがかなり違うが、この際やむを得ない。

    よし。グロリアはこれでオッケーだ。はて、バーバラはどこだ? 今度はバーバラ探しになるのか。

    グロリアがお腹が空いたというので、ホテルの下のレストランへ連れて行った。すると、ウソのような話だが、フロントでバーバラとばったり会った。だが、今晩泊まるはずの彼女はスーツケースを持っていない。なぜだ? 本当に日本行きを取りやめてしまったのか? 万が一そんなことになったら…。

    一瞬、今夜このホテルの天井からぶら下げたロープに、いよいよ手をかけなければならないか…とすら考えたオレ様。バーバラからよくよく事情を聞くと、まだ荷造りが終わっていないから今夜は自宅で寝るとのこと。ただそれだけだった。結局明日の朝、朝食を一緒に取ろうと約束をして、我々は別れた。

    くどいようだが「約束」が「約束」として成立しないのがアボリジニの社会。これからの1週間、果たしてどんなジャパンストーリーを繰り広げるか。ぜひ次号でお楽しみくださいませ。

  • 夢が現実に

    オレ様としたことがここ数ヶ月、原稿執筆を怠ってしまった。しかしながら断っておくが、決してズル休みをしたわけではない。これには、実にふかーいふかーい理由がある。

    その一つに、いつも元気モリモリのオレ様にとっては、かなり珍しい体調不良があげられるのだが、今回ばかりは久し振りに寝込んでしまうほどの病気を患い、もしかしたらこのまま息を引き取ってしまうのかも…、なんて大きな不安にも駆られたものだ。でも、もし明日あの世に逝ってしまったとしても、もう 40年以上も生きているのだから「まぁ、お若いのに。惜しい人を亡くしたわよね」とは言われないことぐらいはわかっちょる。

    それに一人暮らしであるこのオレ様の死体が、いつどこのどなた様に発見されるのかも疑問だ。真夏のメルボルン。外気温は軽く40度以上はあったっけな。きっと新聞かなんかには「邦人女性腐乱死体で発見。殺害か?」とか書かれちゃったりするんだろうに。もしかするとその時って、日本のサスペンスドラマのように、必ず「美女」って入れられたりするのかね。にひひひひ。

    そんな根暗で、しょーもないことを、オレ様は自宅の布団の中でウンウンうなりながら考えていた2007年、年末であった。

    しかし根っからの健康体であるオレ様だ。体力の回復に、時間はそれほどかからなかった。おまけに体力が徐々に回復すると、不思議なことに気持ちまで明るくなってくるもので、散歩しながら道端の草花に「こんにちは。皆さん。ごきげんよう」なんて声をかけたりしたくもなる。オレ様って案外孤独かも。

    ところで新年早々、我が家のポストに一通の手紙が舞い込んだ。ちょっと分厚い封筒…。はて? 誰からだろう?差出人を見てみると、何やらキャンベラのナショナルミュージアムからではないか。そんなオエライところから、なんでこんなオレ様のところへ手紙が?

    よくよく読んでみれば、そこには2月に大阪国立国際美術館で開催されるアボリジニの女性画家、エミリーの展覧会のオープニングセレモニーに、砂漠から女性画家を2名特別ゲストとして来日させたいゆえ、あんたが一緒に連れて来てちょうだいね、といった依頼文の内容であった。

    そう。このエミリー展に関しては、オレ様、実に感慨深いものがあるということをここで少しお話しておきたい。

    だって大袈裟でもなんでもなく、日本で、もしもこのエミリー展が実現したら、オレ様のゴールはすでに達成したも同然。さっさと仕事を引退して、かわいい花嫁さんになってやるんだと、15年前からタンスの奥にしまってある花柄模様のひらひらエプロンを取り出しては、一人夢見てにやける日々だったのだから。

    その“エミリー”という女性を、すでにご存知の方々も多いとは思うが、オーストラリアを代表するアボリジニの画家。1996年9月に惜しくも他界をしたが、彼女の作品は、国内はもとより世界各地から高く評価を得ている、まさに「アボリジニが生んだ天才画家」なのである。

    その彼女が生まれ育ったところは、紛れもない、西洋美術とは全く無関係なオーストラリアの砂漠のど真ん中。赤土に水1滴ない乾燥地帯だ。…にもかかわらず、彼女の作品は極めてモダンで美しく、それでいて自由で革新的。鑑賞した誰もがうっとり見とれてしまう、高貴な現代アートなのである。

    しかもエミリーが初めて絵筆を握ったのが、70代の後半(もちろん推定年齢だが)というのだからなおさら驚きだ。他界する86歳までには、100を超える展覧会にも出展され、世界各地のメジャーな美術館にはそれぞれコレクションもされている。

    そんな偉大な画家の120点にも及ぶ主要作品が、このたび日本で初めて本格的に紹介されるというのだから、オレ様、もうこの時点でおしっこちびっててもおかしくはなかろう。たまらなく大きな興奮だ。

    エミリー・カーメ・ウングワレー。オレ様、実は彼女に一度だけ会ったことがある。忘れもしない1996年3月、彼女が他界する半年前のことだった。日本の NHK「日曜美術館」より、アボリジナルアートを日本で初めて番組にしたいので、協力をしてちょうだいねという依頼で、オレ様ふたつ返事で引き受けて、取材陣とともにエミリーの元へと向かったのであった。

    最初にオレ様が、彼女と交わした言葉は「はろー」だった。あまりの興奮に他に言葉が出ない。すると彼女は、グローブのような大きな手で私の手をしっかりと握り、「しゅろいうでうんくしゅぐろすむをるは?」とアボリジニ語で容赦なく話しかけてきた。ツバがペッペッと顔にかかったが、そんなことは気にならない。

    彼女の言葉がわからないオレ様がキョトンとしていると、すぐ隣にいた通訳者が「ダンナはいるのか? と聞いています」といきなりの先制攻撃。オレ様当時31歳。ピチピチの独身だった(でも今も独身)。「いいえ。いません。独り者です」と答えると、今度は「孫は何人いるのですか? とも聞いています」と、これまた通訳者。うっそー!ほんとにエミリーがそんなこと聞いてんのー! と怪しげな目で彼女をにらんでやったが、どうやら本当のことらしい。

    これは後になってから学習して理解したことなのだが、何よりも誰よりも、家族の存在を大切にするアボリジニの社会にとって、こういった質問は全く当然のことであったという。

    そんなエミリーとオレ様のやりとりを、すぐ傍で見ていたNHKテレビのディレクター。すかさず自己紹介をし始める。言っちゃなんだが、アボリジニは無文字社会。読んだり書いたりという文字を持たない民族だ。

    ということは、当然エミリーも読み書きはしないのに、そのディレクター様ったら「あのー。はじめまして。ボク、ディレクターの○○と申します」と、いきなり自分の名刺を彼女に差し出したではないか。すると今度はすかさず、背後から「ぼくはカメラマンの△△です」と、これまた2枚目の名刺が目の前に飛び交う。自己紹介時の日本人の名刺交換、しきたりとは怖いもんだ。

    ところが、生まれて初めてもらう名刺にエミリーは大喜び。これ、冗談のように聞こえるだろうが、彼女が笑顔で眺めていた彼等の名刺は、もちろん逆さまであったことをここにお伝えしておきたい。

    さてさて。前述したナショナルギャラリーから届いた手紙には、来日させたい女性画家の名前が2名ほどすでに記されていた。グロリア・ペチャラとバーバラ・ウィア??? え? バ、バーバラ??だって!

    神様ったら、新年早々どこまで意地悪なのであろうか。あんなにたくさんいるアボリジニの女性画家の中から、よりによってあのバーバラ姫をご指名されるとは。

    彼女は過去2度に渡って、オレ様と一緒に日本へ行った経験がある。そして、そのたびごとにこの温厚なオレ様を幾度となく涙させた手ごわい相手だ。その彼女をエスコートして、また日本へ行けというのかい。

    とほほほほ。41歳にして特大お年玉をもらった心境である。

    しかし、天下のナショナルギャラリー様からの直々のお願いとあっちゃ、オレ様、断るわけにはいくまい。よし。行こう。バーバラ姫を連れて、再び日本へ行こうではないか。3度目の来日。3度目の正直。2度あることは3度ある。モノは言いようだ。

    そんなこんなで、2月に開催される大阪でのエミリー展オープニングセレモニーに、我等は遠路はるばる招かれることになり、これからその来日準備をスタートさせる。

    まずは大事なパスポート。以前、チラリと見たバーバラ姫のパスポートには、生年月日が確か00日00月1945年と記されていた記憶アリ。さすがバーバラ姫。誕生日がなくったって、オーストラリアのパスポートを手にできるすご者だ。

    皆様、エミリー展をぜひお見逃しなくお願いしますよ。そうすれば芸術に、いや人類には「境界線」なんてないってことがきっとわかりますからね。

  • アートの真髄

    先日、長い長い日本出張から帰ってきた。まぁ、「出張」といえば聞こえがいいかもしれないが今回は雑用も含めて実に忙しい毎日を過ごした。まずはアボリジニアート展を2箇所で開催、それを無事終えると今度は来年の展覧会の会場下見やら関係者との打ち合わせやらで日本国中をあっちへこっちへと駆け回りその間に田舎の両親に顔を見せ地元の同級生たちとも再会をする。

    昔、小学校で一緒に机を並べていた彼女たちもみな早いうちに結婚をして苗字が変わり今はそろそろ子育てにも一段落したころだろうか。今度は自分の人生を再度見直して何かやりたいんだとそれぞれが口にしていた。

    「その点、真弓ちゃんはひとり者だからいいわよねーー。気楽でしょう?好きなこと何でも自由に出来て。しかもオーストラリアで暮らしててさ。私も外国に住んで好きなことやってみたーーーーーい。」とオレ様がまるで毎日お気楽人生をエンジョイしているに違いなかろう・・といった口ぶりではないか。

    そこでオレ様、ちょっと声を大きくして主張する。

    「自由でいるということは大変なる責任なんだ!」と。

    しかし、誰もそんなこと聞いちゃぁいない。皆、カロリー高そうなケーキパクパク食べて芸能情報のニュースで大盛り上がりだったからね。まあ、それはそれでよい。

    人間それぞれ自分の人生は自分自身が「選択」して好きなシナリオ作成しているんだから。

    そのオレ様が「選択」したのはまぎれもなくオーストラリア先住民、アボリジニたちの描く深遠でユニークな芸術“アボリジニアート”。今はこれらにどっぷりと漬かっているオレ様の人生。

    今回はこのアートについて少し真面目にお話をさせていただこう。

    ここでまずお断りしておきたいのはオレ様は決して民族学者でも美術評論家でも何でもないということだ。たまたまご縁を頂戴して砂漠で暮らす豪州先住民たちと長くお付き合いをすることになった一人の日本人であるというだけ。だからこそ皆様と同じ目線でアボリジニたちと接することが出来るのだ。そう、みんな同じ仲間なのだ。

    オレ様が瞬く間に惹かれたのが彼らのアート。だってそれらは我々が日常認識をしている美術とはまさに対極的なものだったということを知ったからなのだ。

    そもそも、オレ様がこれまで理解をしていた美術というのはまず目で見て美しいモノとして心を動かされるもの→だからそれらが不特定多数の人たちに公開される(美術館がまさにそうでしょ?)→そしてその美術はたくさんの人たちにその意味を説明されておまけに批評までされたりする→今度はそれがカタログとなって印刷をされ「モノ」として販売される→→→つまり出来るだけ多くの人たちに「観てもらう」ことに価値を置いた美術であったのだ。

    それに対してアボリジニたちが描く絵というのは正反対。それらは部族間での通過儀礼を通じてその内容を正しく理解するための資格を持った人間だけが「観る」ことを許される「秘密の情報」だったのである。しかもそれが主に男性のみにだけ明かされていたというところが大変興味深い。そこらのオンナ・子供にゃー、簡単には見せらんねーーってことだったらしいではないか。オレ様、自称半分オトコであるからもしかしたら半分だけ観せてもらうことは可能だったかもしれない。

    いやはや・・・万が一、その掟破りのオンナ子供がいたらそれこそ「死」を持って罰せられていたというからふざけている場合じゃないっぺ。

    それほどアボリジニの絵の中には知るべき者にのみ公開される重要な秘密ごとだらけだったのだ。しかも実際に描かれていたのが大地の砂の上と自分たちの身体だったゆえ永久的に残すものでもなかったというところがこれまたおもしろいではないか。

    そこへ1971年、砂漠で暮らすアボリジニたちに新たな画布が紹介された。それがキャンバス地とアクリルの絵の具だったのである。ここから現在におけるアボリジニアートの流通市場がスタートした。

    しかしながらそれまで見せてはいけなかった絵を突然多くの人たちに公開することを余儀なくされた彼らに当然のことながら混乱と戸惑いが生じた。うっかり大事な暗号をキャンバス地に描いてしまったために長老から非難を受けて罰せられた男性もいたという。

    アボリジニアート、一大事だ!

    そこで幾多もの協議の結果、現在我々が目にすることの出来る作品にはアウトサイダーである人間にも公表が許されるギリギリのラインで描かれているという。

    それでも1971年代当時はアボリジニアートをとても“美術”として「観る」人々などおらず、むしろ完全なる研究対象として人類学者たちのみを中心としたかなり限られた人たちにしか関心の対象にならなかった。

    それが1980年代後半に海外で展覧会を開催したところこれが予想外の反響で数々のメディアに記事として大きく取り上げられたのだ。

    「アボリジニアートは人類最古から継承されている素晴らしい現代アートである」と。

    さぁ。そんな大きな注目を何と海外が先に向けちゃったもんだから本国オーストラリアは実にたまげたらしい。何しろこれまで自分たちがアボリジニの芸術を美術としての価値付けをするどころか未開の野蛮人たちが描く何だかよくわからないアートとして評価していたんだからね。展示する場所ももっぱら美術館ではなく博物館だったし。

    それが今やオーストラリア政府はアボリジニの住む各居住区(コミュニティ)にそれぞれ公立のアートセンターを設置してそこへ数人のアートコーディネーターたちを雇用し海外のメジャーな美術館や画商などとの渉外を主にさせている。もちろんそれ以外にもコーディネーターたちの仕事は山ほどあり居住区で暮らすアボリジニたちがいつでも自由に作品を描ける環境をつくりその作品が本物であるという保証書を作成し、若手の画家の作品を地方都市で企画展をしながらプロモーションするなどまさに寝る暇もないほど日々忙しい生活を送っているのだ。

    オレ様もアボリジニ村へ行くときには大抵このアートセンターに入り浸って画家たちの描く作品に見入っているのだがそこはいつ訪れても人だらけ。何しろ居住区ではアートセンターだけが唯一クーラーが効いているゆえ画家以外の子供や大人、おまけに犬までもがそこで一日中何をするわけでもない時間を費やす。たまに作品がまだ乾かないうちに犬がキャンバス地の上をテクテク歩き見事に足跡を残していくことも。あぁ。。。これがニューヨークやパリのメジャーな美術館に購入されるのかと思っただけでため息が出ちまうオレ様だった。

    彼らがキャンバスに描く模様は決してでたらめに描かれているわけではない。それは遥か太古に自分たちの祖先が旅をしながら見つけていった水場のありかを示す地図であったり記録であったり。彼らは絵を描くことでその記憶を蘇らせ思い起こすのである。彼らが絵を描くことは決して作品をつくるのが目的ではなくそのプロセスが何よりも大事だということをご理解いただきたい。だから絵を描く際にあるアボリジニの画家は儀式の際に歌われる歌を歌うし踊りを披露してくれるときもある。見事としか言いようがない。

    現在、オーストラリア全土で「アーティスト」として活躍しているアボリジニはおよそ1000人ぐらいいるといわれているがじゃあ、誰がアーティストで誰がそうじゃないのか?なんてことを考えるとまたわけわからなくなるのでやめておこう。我々、みんな歌が歌えるけどその中には音痴な人もいれば歌手になれる逸材もいるというように考えればいいのではないかな。なーーんてオレ様が勝手にそう理解しているだけだがいかがであろうか。

    オレ様の人生にアボリジニアートが登場してきてもはや15年。その間には随分と様々な変化が見られたのを今更ながらに実感する。

    未開の美術からいきなりメジャーデビューを果たした彼らの美術。でも描かれているストーリーは何一つ変わっちゃいない。変わったのは市場で販売される価格だけだ。

    去る7月にはサザビーのオークションでアボリジニアートが過去最高落札価格を記録して大きな話題になった。

    その落札価格は何と2億4千万円。作者は数年前に他界している。ちなみに余談であるがオレ様、この作者から生前にプロポーズを受けている。一度「今度二人っきりで狩に行こう」と耳元でささやかれたことがあった。もし、あのときあの申し出を受けていたら今頃オレ様は・・・・・

    アボリジニアートの今後の行方に大きく注目をしたい。そして今度有名画家からプロポーズを受けたときには迷わずお受けしたいと思っている。

  • 4度目の出場

    幼少の頃から「少し変わっている」と言われ続けたオレ様だった。小学生時代はカーディガンを後ろ前に着て登校して先生に注意されていたし、休み時間も校庭でみんなと遊ぶより、ひとりでじーっと裏庭で飼っていたにわとりの観察をしているほうが楽しかった。

    とにかく、人と同じことをするのがあまり好きではない子供だったのである。

    そんな性格は大人になっても変わることなく、会社へ入ってからも「内田さんはおかしな人」と先輩・同僚・後輩達から言われ続けた。おかしいとは、決して頭がおかしいというわけではなく、きっと「ユニークな人」という意味なんだろうと、勝手に解釈していたのだが、果たしてどうだったのだろうか。

    そんなオレ様。組織のなかでの自分がどうもうまく表現できず、入社後6年で退職。「会社の名前ではなく“内田真弓”という自分の名前で何かしたい」なあんて生意気なことを考え出した当時が26歳。そして日本脱出計画を念入りにスタートさせた。

    現在41歳。あれやこれやと自分の人生ドラマをダイナミックに繰り広げながら、今はオーストラリアのメルボルン在住のオレ様。気付いてみると先住民アボリジニの人達と多くの時間を共有し、それこそたくさんのことを学習させてもらっている。

    「自分が自分でいられる」心地良い場所を常に模索しながらも、時折、世間が当たり前とするリズムにうまく乗り切れなくなると、オレ様は中央砂漠のアボリジニ村へと足を運ぶ。断っておくがこれは決して「逃避」ではなく「自己探求の旅」のようなもの。

    今年もそんな時期がやってきた。1年に1度だけ行われるアボリジニ女性の儀式への参加である。日本人代表、今年で堂々4度目の出場だ。

    これまで10年以上も通い続けているアボリジニの居住区であるが、「オマエも儀式に参加をしてみないか?」と、初めて彼らからお誘いを受けたのが4年前。それまでは1度も声をかけられなかったし、自分からも「行きたい」とお願いすることはなかった。それほど、アボリジニの人達にとって、この儀式の重要性が大きいことをオレ様なりに理解していたからだ。

    儀式の会場は毎年変わるのだが、今年は往路・復路ともそれぞれ200km未満ということで精神的にはかなり楽ちん。なんたって初めて参加した4年前は、片道1,500kmの運転を余儀なくされたんだもんね。行けども行けども景色が変わらぬ、このオーストラリアのバカでかい大陸を、心からうらめしく思ったものだった。

    儀式の間は1週間以上も野宿するわけだから、運転で体力を早々に消耗させられたんじゃ、たまったもんじゃないのである。

    これまでの人生の中でオレ様、「野宿」の経験まったくなかったわけではない。しかしそれは、川辺で魚釣りをしながらバーベキューを行い、大酒をかっくらって酔っ払って寝ちまいました、しかもテントの中でスヤスヤと…という「ナンチャッテ野宿」のみ。

    もちろん今回は、それとは比較になるわけもない「真剣勝負そのもの野宿」。これは乾燥した灼熱の大地のど真ん中で、数百人のアボリジニ女性達と繰り広げられる、まさに自然との共生そのものなのである。

    電気も水道もトイレもカラオケも何もない砂漠のど真ん中で、1日最低2回はシャワーを浴びるヘナチョコ文明人のオレ様が、1週間以上もどうやって暮らせるというのか?

    今でこそ儀式が行われている間の食料と水は、ノーザンテリトリー政府がたくさんの人員を動員して供給してくれるが、こういった政府からのサポートが受けられるようになったのは、せいぜい10年前からだという。最寄の街から何百kmも離れている砂漠のど真ん中に、1週間以上もスタッフを常駐させ、莫大な量の食料・水を定期的にデリバリーしてくれる労力は、想像を絶するものであることをぜひご理解いただきたい。

    食事は何も、政府から供給されたものだけを食べるわけではない。ご存知のとおり、アボリジニの人達はみな名ハンターなのである。早朝からすぐにトカゲ狩りに出掛ける女性達。とほほ…。そうなると朝食は、有無を言わさずトカゲですかい。おまけに午後はすかさずイモムシを捕まえに、オレ様の運転で砂漠の奥地へと向かう。うへーっ。カンニンしておくれよな。午後のおやつは、何もイモムシじゃなくてもよかろうが。

    しかし狩りに同行しながら、オレ様はふと思った。

    こうしてアボリジニの人達は遥か太古から狩りだけをして、採れたての動物や植物を採れたての瞬間、採れたてのまま口にしていたんだ、とても栄養価の高い健康的な食生活を営んでいたんだなーと。

    それを考えると、今や加工品ばかりを食べている我々文明人は、実に不健康ではないか。

    オレ様、最近はめっきり食べなくなったが、幼少の頃はインスタントラーメン好きで、朝から母親に「ラーメン作って」とせがんでいたことを、今でも鮮明に覚えている。しかも「メンマ、いっぱいね」なーんて注文までして。

    -深く反省。

    アボリジニの人達にとって狩りは、何も空腹を満たすだけの行為ではない。大地の表情をその都度確認しながら、きちんと対話しているのである。そして自分達との関わりを再度問い掛け、感謝する。これは、24時間コンビニエンスストアで、不自由なくサンドイッチが買える環境で暮らす我々にとって、理解するのは、ややむずしいかもしれない。しかし、白人によって入植・開拓される以前から、このオーストラリア大陸の大地というものを、「自分達が生き延びるためのすべてを生み出してくれている、とても重要な存在だ」と確信してきたアボリジニの人達にとっては、当然の行いなのであろう。

    そしてオレ様が今、自分の目の前でそれを確認できることに、大きな大きな喜びを覚える。日本人代表、野宿ぐらいでヘこたれてる場合じゃねーぞ。

    儀式についての具体的な内容は、残念ながらここで話すことはできないが、オレ様が今、断言できることは「アボリジニの文化はまだ確実に生きている」ということ。

    大都市で暮らし、失業と貧困・アルコール中毒で苦しんでいるアボリジニ達だけが、何もオーストラリアのアボリジニではない。大学を卒業して弁護士になる人、スポーツで有名になって金メダルを獲得する人、儀式で大地と自分との関わりを確認しながら一晩中歌い続ける人、これらの人々すべてが今、我々と一緒に21 世紀を暮らすアボリジニ達なのである。

    実に多種多様だということをご理解いただきたい。

    1週間以上も続いた砂漠のど真ん中での女性の儀式。風呂に入れなくて死んだ人間がいるとは聞いたことがないし、頭がかゆいのも、もうどうでもいいやと思えるほど、疲労困憊していたオレ様ではあったが、さすがに最終日のフィナーレは緊張感いっぱいであった。髪・顔・肩・胸元・上半身すべてを赤茶色のオーカー(天然の岩絵の具)で彩られ、無事に儀式を終えたことを、参加者全員で大地にお礼をする。

    そしてまっかっかのオーカー色の顔のまま、再び車に飛び乗って、クラクションをビービー鳴らしながら「また来年逢おう」と別れを告げて、それぞれが家路へと向かう。

    今年は帰路200km。なんてことはない。すぐに居住区へ戻って、大好きなシャワーを存分に浴びた。しかし昨年は遠路だったために、道中オレ様は全身まっかっかのまま、小さなモーテルへチェックインしなければならなかった。

    驚いてオレ様を見上げるフロントのおばちゃんに、まっかっかになっている理由を告げると、おばちゃん、ゲラゲラ笑いながら「アンタも変わってるねえ…」とひとこと。

    オレ様、ここでも「変わり者」呼ばわりか。まあ、それもよかろう、我が人生。

  • 願うことは行うこと 最終回

    “腹が減っては戦ができぬ”とはよく言ったものだ。

    今年の5月、オレ様は豪州先住民アボリジニの女性画家2人を来日させ、「愛と涙の日本滞在記」を1週間ほど繰り広げたわけだが、彼女達のまぁ、食いっぷりのいいことには実にたまげたものであった。

    とにかく朝から晩まで食いっぱなし。いつも腹ペコな状態なのである。まずは朝食からコンビーフ(大)の缶詰を開けて、丸かじり。その後ランチまでの間に、甘くてぬるーい紅茶をドラム缶のようなカップでゴクゴク飲み干す。そしてランチはパスタにカレー大盛り。カレーの中の肉が少ないと怒られるオレ様。

    一度連れて行ったファミリーレストランでは、そこが大変気に入ったらしく、毎日同じところへ行きたいとダダをこねる2人。「何が食べたい?」とファミレス特有の写真つきメニューを見せると、間髪入れずに特大ジャンボステーキを同時に指差す彼女達。メニューにはおいしそうな鉄火丼やら長崎ちゃんぽんラーメンなど多々あるのに、彼女達の目はもはやジャンボステーキに釘付けなのだ。

    そりゃそうである。アボリジニの人達にとって、鉄火丼もちゃんぽんラーメンも、これまでの人生の中で一度も見たことのない怪しい食べ物なのであるから。いやはや。きっとそれらは食べ物とは認められていないかもしれない。したがってどんな味がするのかさえ彼女達には想像がつかないのは当然であろう。

    考えてみれば、オレ様が初めて砂漠のアボリジニ村で、白くプクプク太ったイモムシ様を目の前に出されたとき(しかもそいつはゆっくりと動いていた。おまけにオレ様とばっちり目があったりもした)。「これ…って。絶対に食べ物であるはずがない!」と脳が自動的にNOサインを出していたのとまったく一緒のことである。

    脳がNOを…あぁ、久しぶりにくだらないダジャレまでが飛び出てしまった。最近のオレ様の疲れはどうやら半端じゃないようだ。

    さて、彼女達が喜んで指差した特大ジャンボステーキは、なんと¥2,980もするではないか。こんなのを2人に毎日食われたら、たまったもんじゃないだろが。そこでオレ様は何食わぬ顔で、メニューの次のページをさっさとめくり、色とカタチがビジュアル的にもかなり似ている¥980のハンバーグ定食を勧めたところ、意外にも簡単に2人は納得。

    やれやれ、これでひと安心…する間もなく、ランチが終わると、今度はすぐに夕食を考えなければならないのである。寿司・天ぷらは絶対だめだめ。「せっかく日本に来たんだからおいしい和食でもご馳走させて欲しい」と周りの友人、知人たちから心温まるオファーを受けるのだが、アボリジニの人達には、残念ながらあまり喜ばれないのである。彼女達にとっては、たとえそこが日本であってもイタリアであっても、毎日自分達が口にしているものと同じ味付けのものでないと安心をしないのだ。したがって日本滞在中も、我々は連日ケンタッキーフライドチキンやらマクドナルドへ幾度と通い、彼女達ができる限りホームシックにかからないようにと配慮したものだった。

    “人間は食生活からホームシックになるものだ…”と以前読んだ本に書かれていたことを、ふと思い出す。実にそのとおりだと納得するオレ様。なんたって実際に自分がそれを体験したことがあるからなおさらなのである。

    初めてオーストラリアへ来たとき、オレ様はボランティアの日本語教師で、それはそれは小さな田舎町に、たったひとりの日本人として1年間派遣された。滞在中はホームステイが原則だったゆえ、食事はすべてホストママさんが用意してくれる。来る日も来る日も、わらじのようなでっかいステーキが食卓に並べられた。ただでかいだけならまだいいが、それはいつも真っ黒焦げに焦げていて、いくらナイフとフォークを上手に使っても、なかなか引き裂けないほどニクタラシイ肉のかたまりであった。オレ様は毎日、ステーキよりも大きなため息をつきながら、その肉と格闘したものだった。

    「今日はあまりお腹が空いていませんから、夕飯は結構です」とウソをついたこともあった。そんな晩、オレ様は自分の部屋に入り、日本から持ってきたたくあんの漬物を、隠しておいた机の引き出しをそぉーーっとあけて、切るのが面倒だからと長いままポリポリかじっていた。そのとき鏡に映った自分の姿を見て、うっとりしたものだ。たくあんを無心でむさぼる日本人女性の姿は、誰よりも美しい。そう確信した。

    これで真っ白いピカピカ光るご飯があったらオレ様、もう死んでもいいとさえ思った。

    そのとき背後から「MAYUMI! 何やってんの!」との声。オレ様、長いたくあんを口にくわえたまま振り返ると、そこには一番下のクソガキが、まるでゾンビでも見てしまったかのように、驚いて立ちすくんでいたではないか。

    しまった…! 見られてしまった…!!!

    思いがけないアクシデントに、オレ様、言い訳もままならず、「これはね。日本の薬なんですぅぅぅぅぅ」と声を半オクターブほど裏返して、そのクソガキに説明し、おまけにそのたくあんのにおいまでかがせてみせた。

    「くっせー!!! なんじゃそりゃーーー???ママー! ママー!! MAYUMIが変な臭いのするものを部屋で食べてるよーー」と走って、台所にいるホストママにわざわざ報告をしに行ったではないか。クソガキめ。明日のおめーーの弁当箱に、このたくあん1本丸ごと入れてやるでーーー。 …と、食事からくるストレスのせいで、オレ様いつになく荒々しい口調になっていた。懐かしい14年前の話である。

    ところで、日本滞在中アボリジニの女性画家達は、決して毎日食ってばかりいたわけではない。今回は友人ご夫妻が、新しくオープンしたアボリジニアートカフェ「チャンガラカフェ」のオープニングイベントに招かれたことが一番の理由であるゆえ、彼女達は連日キャンバスと絵の具を前に、たちまちアーティストに変身した。一点一点、自分達の魂を入念に込めてキャンバスへと表現する姿は、オレ様のたくあん丸かじりと匹敵するぐらい美しい。

    周りで観ていた観衆も、思わず息を飲む。ひとり一人真剣な眼差しで、彼女達の制作風景を見入っている様子であった。はるか8,000kmも離れた海の向こうの砂漠のど真ん中から、はるばるやってきたリネットとオードリーの心に“日本”はいったいどのように映ったのであろうか。自分自身がアボリジニとして大きなプライドを持ち、5万年にも渡って継承されてきた太古からの大地のメッセージを今、彼女達はここに表す。

    オレ様を含め、自分達の人生のなかには、生活に直面する様々な問題が山積みだ。それが知らず知らずストレスとなり、いつの間にか心と身体のバランスをくずしてしまいがちとなる。そんな“やっかいごと”だらけの人生だが、それに対する自分の心の構え方ひとつで、もしかすると随分楽になれるのかもしれないな。口で言うほど簡単なことではないだろうが、オレ様、これからの人生なにごとにもデーーーーーン!と構えていられるよう、オーストラリア大陸のようなでっかい心を養って行きたい……リネットとオードリーの絵を観ていたら、そんなことを感じたものだった。

    あっという間の日本滞在7日間ではあったが、たくさんの抱えきれないほどのお土産と重い出を持ち帰った2人は、これまでにない幸せそうな表情を見せて成田空港をあとにした。

    ぜひまた、いらっしゃいな。

  • 願うことは行うこと その2

    生まれて初めての海外旅行。確かオレ様が22歳のときだったと記憶する。当時はそれでもうぶでピチピチの航空関係者であったゆえ、飛行機に乗り慣れていたはものの、英語がおもしろいほどできなかったためにインターナショナルにはまるっきり飛ばしてもらえず、ずーーっとずーーーっと国内線勤務で、パスポートなど必要なくて、持っていなかった。

    いやはや、それゆえに海を越えてどこか違う国へ飛び立つなんて、当時のオレ様にとってはとんでもない一大事だったとご理解いただきたい。

    そもそも国際線を希望していたオレ様だったのに、なぜ会社から国内線に勤務を命じられたのか。それには大いなる理由があった。

    その理由を、実は、数年前の伝言ネット紙面で、すでに暴露した記憶があるのだが、ここでまた、自分の恥部をさらけ出しちゃいましょうというオレ様の勇気と決意を、ぜひとも称えていただきたい。

    思い起こせば20年前。それは短大を卒業予定であったオレ様が、航空会社に就職をしようと決め、まぁ人並みに就職活動なぞに精を出していた若かりし頃のことであった。

    ご存知のとおり、航空会社の客室乗務員採用には、何回もの試験にパスをしなければならず、オレ様のときにも、ざっと5次試験まであったことはいうまでもない。合格までは当然のことながら、長い長い道のりだ。

    それでも面接試験を次々に通過して、緊張も高まっている真っ只中、オレ様が受験した航空会社は何と、英会話のテストを、しかも抜き打ちで、2次試験に突然、行ったのである。

    当時、英文科を専攻していたオレ様ではあったが、英語なんて日常使うものではなかったし、自分から積極的に英会話教室に行っていたわけでもなかったので、会話能力は“ゼロ”に等しいレベルであった。時折、家の近所の商店街の路上で、怪しい宝石を売っている外国人のあんちゃんたちに声をかけられて“はろー、はーわーゆー?”程度を繰り返して満足していたぐらい。

    そんなオレ様に、自分の希望している会社に採用されるかどうかの重要な試験が抜き打ちで、しかも英語で行われるだなんて、こりゃ、気合も十分に入るというものである。最初は1分間だけ自己紹介をさせられた。たどたどしい英語ではあったが、オレ様、一生懸命前歯をむき出して笑顔をつくり、イメージアップにつとめた。だが、話した内容があまりにも低レベルだったのであろうか。

    担当試験官のかっこいい金髪のトノガタは、大変申し訳なさそうな顔をして、オレ様への次の質問に「あなたの好きな食べ物は何ですか?」などという、完全に人を馬鹿にしたレベルの問いかけをしてきたではないか。天下の航空会社の試験ですよ。

    おまけに、いくらなんでも、当時は英文科専攻のオレ様です。好きな食べ物ぐらい、英語で答えられなくてどうしますか。

    といっても正直、心臓はバクバクドキドキ唸っている。だって、これでスチュワーデスの採用が決まるかどうか、まさに人生の分かれ道のような心境であったからね。

    普通であれば自分の好きな食べ物は「アイ、ライク、アップル」とか「アイ、ライク、フィッシュ」とか答えるのが原則であろう。しかしながら緊張のド真ん中に陥っていたオレ様は、何を血迷ったものか、笑顔をいっぱいに浮かべて「アイ、アム、ヌードル!」と堂々と答えていたのであった。もちろん自分ではちっとも気付かずに。

    一瞬のうちに試験会場が沈黙状態になった。そして、さっきのカッコいい金髪試験官が抱腹絶倒。本当に椅子から転げ落ちる寸前まで、身体を右に左によじって、笑い転げていたもんだ。よくわからないまま、オレ様もつられて大笑い。しかし、あとで自分がいったい何をしでかしたのかに気付いたとき、自分自身が天ぷらそばにでもなった気分だったのは間違いない。

    お蔭様で、客室乗務員試験には無事合格したものの、こうして、オレ様が生涯国内線勤務であった理由が、あの抜き打ちテストにあったのが明らかだったことは言うまでもない。

    あれから20年。今でこそ海外へ出かけることに、いちいち興奮することはなくなったオレ様だが、やはり初めて訪れたアメリカが、とんでもなく強烈で刺激的だった記憶は、まだ新しい。

    さて、ここで、つい数ヶ月前に豪州の砂漠のド真ん中から、先住民アボリジニの女性画家と、その付き添いで遠路はるばる来日をした友人マークの「愛と涙の日本滞在物語」を引き続き、ご紹介させていただきたい。彼らにとっては、それこそ、生まれて初めて体験する海の向こうの異国である。

    とくに今年36歳を迎える自称・砂漠の王様、マークの初来日は、アボリジニのおばちゃんたち以上に衝撃的だったようである。彼は生まれてこのかた、一歩もオーストラリアから出たことがない。これまで機会もなければ、興味もなかったゆえ、人生の3分の2をアボリジニ居住区で暮らしてる男性なのである。

    マークはとにかく砂漠で暮らすことが好きでたまらず、あの広大な大自然とともに育ってきた、まさに正真正銘のブッシュマン。

    オレ様は、これまで何度も砂漠でのエスコート役を依頼しているが、マークはアボリジニ達以上に大地を熟知し、道なき道を、まるで自分の家の庭で遊ぶかのように、颯爽と車を走らせる。途中、パンクしようが、野生のラクダを引いてしまおうが、そんなの屁とも思わず、ひたすら走り続ける恐ろしい男でもある。

    ビールとタバコが3度のメシより好きだという彼は、日本のビールが大変気に入ったらしく、とにかく、どこへ行っても「ビール、ビール」とリクエスト。

    「酒飲みに悪い奴はいないはず」と、言葉も通じない日本で、次々と飲み仲間を増やしていくその見事な技には、さすがに脱帽したものだ。

    普段、自分が暮らすアボリジニ居住区から出かけるといえば、せいぜいアリススプリングスぐらいである。距離にして360km。そんな男が、このたび、生まれて初めてパスポートを持って、7,000kmも離れた日本へやってきたことはまさに一大事件。

    JR の電車に乗せると「パスポートはどこで見せればいいんだ?」と真面目な顔での質問。いいね、いいね、やってくれるじゃん。いつも砂漠では、オレ様のことを「腰抜けジャパニーズめ」とからかうくせに、日本じゃ、完全にクロコダイルダンディー並みの挙動不審者。右に左に、始終キョロキョロ。

    駅の自動販売機で缶コーヒーを飲ませたら、「馬のションベンよりまずい飲み物だ」と豪語。あんた、馬のオシッコ飲んだことあるのかね?

    浅草では、巡回中の警察官に、突然、話しかけるマーク。「その制服カッコいいね。どこへ行ったら買えるんだい? オレが持ってきたオージーのフットボールシャツと交換しないか。おい、マユミ。これ、通訳しろ」と、オレ様のほうを見る。じょ、冗談でしょ。勤務中のおまわりさんに、そんなこと言えるかっつーの!

    また、連日和食ばかりだったので、そろそろ肉が恋しくなったころだろうと、滞在3日目ぐらいに友人夫妻が焼肉屋に連れていってくれたのだが、あんなに薄くスライスした牛肉を、これまで目にしたことがなかったらしく、「これはベーコンだろ? とても肉とは思えない」の連発。

    人間視覚から入る食事のイメージは、意外なほど大きいものだと妙に納得。

    そう。そして自分を取り巻く環境で、人間の価値観も大きく変わるということも、オレ様自身の体験で、深く、深く、うなずける。

    あのまま、ずっと英語に触れずに国内線勤務で空を飛んでいたら、オレ様が今、感じているような、満たされた人生を果たして味わえたであろうか。

    英語という自分の言語以外の言葉を学んだことで、異なった文化を持つ人達と、こうして集うことができる喜びは、ひときわ大きい。

    天ぷらそばでもいいではないか。それならば、特大大盛りの人生にしてみせようではないか。

    よくよく考えれば、あの抜き打ち英語試験で、自分が天ぷらそばになれたおかげで、オレ様自身の海外志向が一層強くなったと断言できる。

    自分の人生、良しも、悪しも、全部、自分の受け止め方次第。これは断言できますぞ。

    マークは6日間の日本滞在をあとに、今は、また砂漠で王様となっていることであろう。後日電話をしたところ、「ジャパンは素晴らしかった。でも俺はまた砂漠に惚れ直した」と言う。いいことだ。

    「日本ではたくさんの飲み仲間がマークの再来日を、すでに心待ちしているよ」。電話でそういうと、砂漠の王様、マジで、声が少し涙声になっていた。

    次回は、ぜひともビール会社にスポンサーをお願いしようではないか。

  • 願うことは行うこと その1

    “願うことは行うこと”というのが、私の日常のモットーである。

    日本でアボリジニアートを啓発し、自分自身が魅了された深遠なる5万年ものアボリジニ文化や歴史、そして彼らのユニークな芸術を一人でも多くの方々にご紹介したい…。そんなことをずーーっと思い続けて、いやはやもうどれぐらいになるのだろうか。

    この飽きっぽいオレ様が、これまで実に13年間もの時間をかけて、せっせせっせと日本市場に種まき作業をしてきているわけであるが、その活動の一環としてアボリジニの画家を来日させる、いわばプロモーション作業も大事な仕事の一つであると確信している。

    このたび、日本の友人夫妻が新しくアボリジニアートギャラリーとカフェを併設した「チャンガラ・カフェ」を5月にオープンした。そのめでたいオープニングイベントに、ぜひともアボリジニのアーティストを連れて来てもらいたい、との声がかかったのが昨年の話。

    普段、砂漠の奥地で暮らすアボリジニをはるばる来日させることは、事前準備が何よりも重要であることゆえ、まずは日本がどんなところなのかを、本人はもとより家族全員に細かく写真を見せながら説明。

    承諾を得てから、今度はすかさずパスポートを申請(なかには出生届が出されていない、つまり生年月日が定かではないアボリジニだっておりますのよ)。そのほか彼らの不安事項を取り除く作業が、これまたいっぱいなのである。

    そういいながらもあの手この手のインチキ大作戦をいつも開始するのは、なかなか楽しかったりする。

    これまでにも、アボリジニの画家を幾度か来日させた経験はあるが、毎度毎度それはそれは違うドラマが展開されるわけで、感動の涙・涙で幕を閉じることもあれば、仮病を使われて途中で逃げられたことだってある。

    今回、日本行きへのご指名があったのは、リネットとオードリー。若手で今人気上昇中の女性画家達だ。まだご記憶に新しい読者の方がいるかもしれないが、リネットは2003年に一度すでに来日をしている。

    そのときの滞在があまりにも楽しかったらしく、彼女はそれ以来、オレ様の顔を見るたびに「ジャパン。ジャパン。アゲイン。アゲイン。(日本、日本、もう一度、もう一度)」とひたすらアプローチ。一度、オオトカゲの差し入れをしてもらったことだってある。ワイロに弱いオレ様は即座にOKしたものだ。

    もう一人は普段おとなしめのオードリー。もちろん彼女にとっては生まれて初めてのニッポンである。出発直前まで不安気な様子を見せてはいたが…。

    さて。この二人の日本滞在記。今回はどんなドラマを展開したか、以下日記式にご紹介したいと思う。

    5月1日

    成田空港。午後8時到着予定。どうか税関で捕まっていませんようにと、一足先に日本にいたオレ様は出口でドキドキハラハラ(以前その経験あり。2時間延々と別室で取り調べ)。ゴールデンウイークで子どもの日ということもあり、鯉のぼりの旗でお出迎え。ようこそニッポンへ!!!

    5月2日

    到着後の翌日に早速東京見物を。日本に来たらやはり神社仏閣だろうと浅草浅草寺へレッツゴー。だが、彼女達は寺の建造物にはまったく興味なし。それよりも仲見世通りにたくさん並んでいる小物に鋭く目を光らせていた。でもね。頼むから値札も見ずに手当たり次第レジに持っていくのはやめておくれよ(涙)。

    浅草寺のあと隅田川クルーズを楽しみながら、今度は「しながわ水族館」へ。ご存知のとおり、彼女達は普段魚とはまったく無縁。なんてったって豪州中央砂漠のど真ん中での暮らしである。雨すら何ヶ月間も降らない、とにかくカラッカラに乾燥した大地なのだ。

    そんな彼女達の頭上を優雅に泳ぐ全長1mもあるマンタやウミガメに、リネットもオードリーも興奮を隠しきれない。そこはなんと水中トンネルだったのだ。

    「日本人は魚をたくさん食べるんだよ」と、オレ様が水中の魚達を指差して言っても、「このオンナ、何を馬鹿なこと言ってんだ?」といった不思議な表情をするオードリー。彼女にとって、どうやら魚が食べ物だという概念は少しもないらしい。

    夕食は無難なところでチャイニーズへ。ここでは割り箸の初体験で最初は楽しそうに試していたが、そのうち面倒臭くなったようであとは全部手づかみになった。個室だったのでやりたい放題、ちっとも問題なかったわい。

    5月3日

    「チャンガラ・カフェ」はアボリジニアートギャラリー。リネットとオードリーはそこで絵画制作のデモンストレーションを行い、観客を大いに沸かせた。

    長年アボリジニアートに関わっているオレ様であっても、こうしたナマでの制作現場は居住区へ行かない限り、滅多にご披露いただくことはないゆえ、彼女達はまるで芸能人の記者会見のように、あっちからもこっちからもカメラのフラッシュが飛びかうほどの人気であった。

    しかしながら滞在3日目にして、やはり出発前から不安そうだったオードリーのほうが少しホームシック気味になる。「どうしたの?大丈夫?」とオレ様が様子をうかがうと、「村に残してきた子どもが心配。声が聞きたいから、今電話をさせろ」と横目でジロリと見るではないか。

    アボリジニ村にはたった1台の公衆電話があるだけだ。もちろん携帯なんて通じる場所ではないから、誰も持っているわけはない。

    つまりオレ様の日本の携帯電話から、その公衆電話にまず電話をして、そこをたまたま通りかかった通行人Aがたまたま受話器を取り、「ぱりゃ?」だとか「ゆーあ?」だとか自分達の言語でまずは応じるわけだ。

    が、そこでたとえばオードリーが自分の子どもと話がしたいと言った場合、その通行人Aは「よし。今お前んちに行って子どもを呼んでくるからな」とその受話器を公衆電話機の上に置いたまま、ゆっくり歩いてオードリーの家まで向かい「お母ちゃんから電話だよ」という旨、普通は伝えるのが当然であるのだが、通行人A ときたら、その間にふらりとスーパーへ行ってアイスクリームを買ったり、途中で誰かと立ち話をしたりする場合があるので、いったいいつになったら子どもが公衆電話のところまで来れるのかさっぱりわかりゃしない。

    冗談のような話だがこれは実話というところがこれまたオモシロイ。…なあんて楽しんでいる場合ではない。

    なんたってオレ様の携帯電話から、7000Kmも離れた海のあっちへ電話しているんだからね。アボリジニ村へかけるときはいつも「どうか話中でありますように」と、一人小声で小さくつぶやくオレ様のいじらしさを、少しはご理解いただきたいがいかがだろう。

    結局、子どもが不在だったため話ができなかったが、何やら自分の親族の一人がたまたまそのときの通行人Aだったらしく、オードリーはとてもシアワセな顔でしばらくおしゃべりに花を咲かせていた。

    今度はオレ様が時計を気にしながら、横目でジロリとにらんでみたが、彼女はそれにも気づかないほど夢中で楽しそうに話をしていたっけ。

    夕食後は、リネットの白髪染め実施。まずは一緒に薬局へ行き、好きな色を選ばせたら、いきなり棚から「金髪色」を取り出したので、「いくらなんでもこりゃすごすぎないかい?」と彼女をなだめて穏やかなダークブラウンに取り替えた。敏腕コーディネーター、あれこれとアレンジに余念がない。

    そんなこんなでまだまだ続く、リネットとオードリーの日本滞在秘話、次号も盛りだくさんでお届けします。どうぞお楽しみに。

  • 親友バーバラ

    日頃、他人様とケンカなどほとんどしたことがないこの超温厚なオレ様だが、過去に一度だけ、それこそ生涯忘れられない大ゲンカをしたことがあった。今でも思い出すと背中がビクッとするんだから相当なもんだな。

    その相手はアボリジニの女性画家、バーバラ・ウィア。2002年のオレ様の伝言ネットの記事をすでにご一読いただいたみなさまは、それがどれだけ派手なものだったかおわかりであろう。

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    ケンカが実行されたのは彼女の2度目の来日のとき。しかも場所は白亜のリゾート地である小豆島であった。本来であれば、美しい真っ白い砂浜とビーチで楽しい思い出いっぱいのはずの“日本滞在物語”が、そのケンカを機に一気に“ドロ沼どん底・涙ぐじゃぐじゃ物語”になったことはいうまでもない。

    まあ、もともと体調が万全でなかったバーバラに無理をいって日本へ来てもらったゆえ、オレ様これでもかというほど気を遣い、ときには腐ったスルメイカのようなすっぱいにおいのする足を揉んであげたりしながら、何とか途中で彼女が「帰る」なんて言い出さないよう、始終ご機嫌とりに努めたもんだった。しかしながら、その苦労もむなしく彼女は爆発。負けずにオレ様も大噴火。理由はほんの些細なことからだった。

    まさか取っ組み合いのケンカにはならなかったものの、ホテルの朝食時に周りのお客様達の目も眼中になく、我々は大声で怒鳴り合い、「こんなところにはもういらんねーー。オーストラリアに帰る! さっさと送っていけ!!」とバーバラが英語とアマチャラ語の混ざった言葉を吐きながら立ち上がれば、「帰れるもんなら一人で帰ってみろー。誰がおめーなんかを送っていくものかーーー!!!」とオレ様も食べていた鮭の皮を口にしたまま牙を向き出す。
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    結局怒り狂った彼女は、当初の滞在予定より1週間も早くオーストラリアへ帰ってしまったという苦い思い出のまま、それ以来日本の話を口にすることはない。あ、でもちゃんとオレ様ね、送って行きましたよ。小豆島から成田空港までね。お互い無言でしたけど。

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    それから月日が経つこと早5年。もちろんその間何度もバーバラとは顔を合わす機会はあり、言葉もいくつも交わしているが、やはりお互い腹の底ではあの“涙ぐじゃぐじゃ物語”が尾を引いている。それは何ともいえない我々を取り巻く空気でうすうす感じるものだ。

    そんな彼女と、実は先週ずっと一緒にアリススプリングスで過ごすことになった。理由はあれこれあるのだが、私の仕事上どうしてもこのたびバーバラに、アボリジニ村への案内役をお願いしなければならなかったことが一番にあげられる。以前のしこりを何も感じていないかのように、彼女はそのお願いを快諾してくれた。

    ところで、アボリジニ画家の巨匠に「エマリー」という女性がいるのをご存知であろうか。

    エマリーはアリススプリングスから250km北東にあるユトーピアというアマチャラ語を話すアボリジニ居住区で生前暮らしていた。そう、彼女は1996年9月2日に悲しくも他界されたのである。当時86歳(もちろん推定年齢)であった。亡くなった翌日の朝刊トップページ一面に彼女の死が知らされ、豪州国民みんなが偉大なアボリジニ画家を失ったことを悲しんだ。

    彼女の死からもうすぐ11年。回顧展としてすでに「エマリー展」は豪州国内では盛大に開催されているが、海外ではまだ行われたことがない。そこで一番に手を上げたのがわが国ニッポンであった。

    そう、来年2008年に何と大阪の国立国際美術館と東京の国立新美術館で「エマリー展」が開催されることが見事決定したのである。アボリジニの女性画家の個展を日本の国立美術館が手がける意義は非常に大きい。ああ、もうだめ。考えただけでもオレ様血圧上がりそう。あまりにもうれしすぎて。

    そこで、展覧会関係者ご一行様がこのたびエマリーの故郷であるユトーピア居住区を事前に訪問するというので、そのエスコート役としてオレ様にお声がかかったというわけだ。なんとも名誉なことではないか。

    しかしながら同じアボリジニ居住区でもユトーピアは、普段オレ様があまり足を踏み入れない居住区だ。ということは居住区へ入るための許可証もなかなか入手しにくくなる。そうなると、5年前に涙ぐじゃぐじゃ物語で小豆島ベストフレンド大賞を獲得した我が友バーバラ様に、訪問に際してのおうかがいを立てなければならなくなったというわけだ。

    おまけにエマリーはバーバラの育ての親でもあるからしてバーバラ自身、エマリーとは一番近しい存在であった。個人的な秘話もきっとたくさんあるに違いない。案内役はもうバーバラしかいない。バーバラ。バーバラ。おお。バーバラよ。小豆島の件は許しておくれ。オレ様が悪かった。もしかするとあのときオレ様は、少し早い更年期だったのかもしれない。睡眠不足でもあった。もう一度仲良くしておくれよ~~~。 

    そんな思いを込めながら今回の案内役をお願いしたところ、バーバラ開口一番に「また、日本へ連れて行ってくれるか?」と。即答するまでに3秒ほどの時間を要したオレ様。そして声を1オクターブ裏返しながら答える。「も、も、もちろんだよ。エマリー展のオープニングセレモニーには間違いなく招待されるから。また一緒に日本へ行こうよ。レッツゴー!」。

    ああ……。オレ様、自分の調子の良さに今さらながらため息が出る。…が案内役を引き受けてもらうためにはいたしかたない。

    そんなこんなで、このたびバーバラの案内のもと、日本からのご一行様は無事エマリーの故郷を訪れることができたのであった。ご多忙スケジュールのご一行様は、アリススプリングスからチャーター機でユトーピアへ。所要時間はたったの45分。上空から砂漠の大地を見渡す感動を大いに味わったことだろう。

    ところが、オレ様とベストフレンドのバーバラ様は車でユトーピアへ。所要時間は3時間。現地でみんなが移動するための車が必要だったからである。とほほ。何でこうなるのかねえ。しかしながら、道中ありあまる時間の中で、バーバラはこれまであまり人には話したことがないという自分の生い立ちを、ポツリ、ポツリとオレ様に話し始めた。オレ様、何も言わず静かに聞き入った。

    アイルランド人の父親を持つバーバラは混血児としてユトーピアで育つが、当時のオーストラリア政府の政策により7歳にして母親から無理やり引き離され、それ以降ずっと白人家庭をたらい回しにされて育てられたそうだ。見知らぬ土地で、見知らぬ人達と、聞きなれないおかしな言語の中で(当時バーバラは英語を話せなかった)、飲んだことのない牛乳を学校で飲まされ、一気にゲロを吐いてしまったという。

    母親に会いたい一心で毎日毎日泣き明かしていた幼い彼女も、やがて成長期を過ぎ英語も理解し始め、白人社会でうまく適応する力を備えるようになる。引き離されてからすでに20年の歳月が経っていた。母親はとうの昔に亡くなってしまったと聞かされていた。

    その彼女が何と、20年後に実の母親と劇的な再会を果たすのである。あーー。オレ様、これ書いているだけでもう鳥肌もの。幼少の面影を抱いたバーバラを覚えていた人間が「母親は生きている。お前の帰りをずっと待っている」と彼女に伝えたという。自分がユトーピア出身であることすら記憶にない当時のバーバラ。しかし、実の母親が自分を待っているとわかると、もういたたまれなくなってすぐに会いに行く計画を立てたそうだ。

    20年ぶりの親子の対面。しかし、お互い言語が通じない。アマチャラ語をすっかり忘れたバーバラ。英語を理解しない母親。あまりの戸惑いに抱擁すらできなかったというではないか。

    そのとき、バーバラの右腕を背後からすくっと持ち上げ、ぎゅうっと抱きしめてくれたのが、エマリーだった。「よく帰ってきた。ずっと心配していた。みんな待っていた」と。たとえエマリーの言語が通じなくとも、その腕の中のぬくもりと背中に当てられた大きな手が、すべてを語ったのではないだろうか。

    それ以来、バーバラは何と再びユトーピアで暮らす決意をし、アマチャラ語を一から学び直したのである。20年以上も白人社会で暮らしていた人間が、そうそう簡単にできることではないことは、誰もが承知だ。だからこそ、バーバラのたゆまぬ努力を称えたい。さすがオレ様のベストフレンドだ。

    アボリジニ社会に再び戻ったバーバラは、誰にも負けない狩りの名人となったという。そんな話を聞いていたとき運転していたバーバラが急ブレーキをかけて車を止める。「どうしたの? 急に止まったら危ないじゃないの!」と文句を言うと「しっ! 静かに。今、大きなトカゲがいたんだ。捕まえてくるからここで待ってて。」とバーバラ。

    砂漠のど真ん中の一本道を、時速120km全開で突っ走っていながら、道端のトカゲを見逃さない彼女の視力は、間違いなく5.0はあるはずだ。車を止めて10分後。名ハンターは、見事にまるまると太ったトカゲを、あっという間に仕留めて戻ってきた。

    「実は、今夜の夕飯はトカゲが食べたいと思っていたんだ。そしたら見つけた。ラッキーだ」と、本当にうれしそうに言いながら後部座席に積んでいたクーラーボックスの中に、口から血を流しているトカゲを放り込んだ。ちなみに、クーラーボックスには、チャーター便でやってくるご一行様用のランチが入っている。これを開けたときのみなの驚くお顔がああ、早く見たい。

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    我が友、バーバラよ。アボリジニ社会と白人社会を、立派に橋渡ししているあなたの絶大なる努力にオレ様、心から敬意を払います。これからもどうか元気で、名ハンターとしてご活躍くださいませ。

  • ジンクス

    突然ですが、みなさまは「ジンクス」というものを信じますかね?

    オレ様、普段の生活で宗教心はまったくない人間なのだが、この「ジンクス」となるものを結構信じちゃうタイプではある。

    たとえば、洗車をしたら必ず雨が降る・・・なんてことはもー、日常茶飯事。つい先日だって、愛車カローラ様を1ヶ月ぶりに洗ったら、その翌日、見事豪雨に見舞われたという記憶は新しい。この渇水で水不足のメルボルン、そんなことが起こったゆえ、このジンクスはやはりホンモノだと痛感した次第。

    私は仕事柄、1年の3分の1は豪州中央砂漠のアボリジニ村を訪れるのであるが、そこへ向かうときは絶対に地元「鹿島神宮」の交通安全お守りを持参する。

    何しろ片道400キロもの未舗装道路を、時速110キロでぶっ飛ばして行くのだからね。きっと精神的なものなのだろうが、お守りは欠かせない。一人で運転するならまだしも、最近は同乗者がいるからなおさらの話である。

    「みんな、あの世に行くときは一緒だからねー」と半分冗談、半分本気でオレ様は砂漠の大地を奔走する。

    そんな矢先、一度だけうっかりお守りを忘れてしまって行ったことがあった。

    まるでウソのような話に聞こえるだろうが、そのときオレ様は初めて砂漠で事故を起こしたのである。おまけに友人を二人乗せていただけに、そのときの罪悪感といったらなかったね。ハンドルを急に取られ、気が付くと車は3回転ぐるぐるし、挙句の果てには、周りにうっそうと生えていた木々を4本見事に切り倒した。

    ここまでくるともう映画の世界。同乗者たちは半べそ状態だった。もちろん普段は男オンナの勇ましいオレ様も、予期せぬアクシデントにはさすがに動揺を隠せず、足がガクガク震えたものだった。

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    それ以来、砂漠へ出かけるときには「鹿嶋神宮」のお守りを肌身離さず持っている。

    実はこのお守り、これこそは毎年元旦に我が父親が自ら「鹿嶋神宮」へ足を運んで、海外で暮らすオレ様のために購入して送ってくれる意味ありのものだ。

    通常新年が明けて3日目ぐらいにメルボルンの自宅ポストに送られてくるものなのだが、今年に限ってはどういうわけだか、封筒がいつもよりも少し分厚かったので「はて? 交通安全のお守り以外に何が入っているんだろうか? まさかこの歳にして今さらお年玉というわけではあるまいな」と開けてみると、何とそこには赤い「縁結び」のお守りが丁寧に、しかもちり紙に包まれて入っていた。

    お父ちゃん。彼は本気だ。

    未だに嫁入りのご縁をちょうだいしないオレ様のことを心底哀れんでいるようだ。

    「お父ちゃん。オレ様、まだ嫁入り諦めたわけではないからな。今はただ、嫁に行くことよりももっと熱くなれるモノに出会ってしまって、それに夢中になってるだけなんだ。心配すんなよ。大丈夫だ!」。そんなことを砂漠を走る車中で、ハンドルにぶら下げたゆらゆら揺れるお守りを眺めながら思う。

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    オレ様の人生にこのアボリジニアートが登場し、豪州先住民との密なる付き合いが始まってもう、かれこれ14年の月日が経つのであるが、我が父親、未だ私がメルボルンで何をやっているのかよくわかっていないようなところがある。

    その父親、18世紀の生まれです。もちろん嘘です。余談であるが歳のわりには料理が得意で、味噌汁なんて作らせたら天下逸品である。

    メルボルンにはまだ一度しか来たことがない我が両親。根っからの田舎暮らしのため、海外旅行なんぞはもうそれこそ宇宙に行く気分。大変な騒ぎである。

    そんな我が両親にオレ様のメルボルンでの暮らしぶりが、何と日本のお茶の間で紹介されることになった。4月上旬の放映、新番組でしかも全国放送だというではないか。

    オレ様、これまでも何度か日本のメディアには登場させていただく機会には恵まれたが、その度に我が両親、親戚近所、小学校中学校の担任の先生、同級生一同に「家の娘がテレビに出っからね。観てくださいよー」と片っ端から電話を入れるらしい。

    そして実際にお茶の間でオンエアされた映像。オレ様が大口あんぐり開けて採れたてのイモムシをアボリジニたちと共に食べるシーンに両親は「おお、我が娘よ。お前があのままスチュワーデスを続けていたら、今頃はプロ野球選手の嫁さんになってニューヨーク暮らしも夢じゃなかったかもしれないのに。

    その娘がなぜ、オーストラリアの砂漠のど真ん中でイモムシをこんなにうまそうに食っているのか、ワシらは不思議でたまらない」と、涙ぐむらしい。まあ、これも我が人生。よいではないか。

    というわけで、突然決定した今回のこのテレビ出演。

    この原稿を書き終えた3日後に、オレ様は砂漠へと再び旅立つ。撮影期間はたったの2日間。テレビ撮影隊のみなさま、オーストラリアってーところはね、バカでかいんですよ。日本と距離がはるかに違うってーことをご存知なんですか。オレ様は鼻の穴を大きく開いてそう言いたいね。

    このたった2日間という殺人的なスケジュールを考えただけでも、オレ様半分死人状態である。

    おまけに「時間」という概念のまったくないアボリジニの女王様達と、やれいつ何時に狩に行くーだの、こうしてああしてといったリクエストが思う通りに利かない、ということは十分理解していただきたいと担当のディレクターには事前に電話でお話しておいた。

    それより何より、数日前からアリススプリングスが集中豪雨に見舞われて川が氾濫し、街中水浸しになっているという情報をゲット。

    ますます気分は死人状態。水はけが悪い道路400キロを走る自信はさすがのオレ様もあまりない。今度こそ本当にみんな「あの世行き」かもしれないぞ。

    「鹿嶋神宮」のお守り、決して忘れてはなるまい。

    そして赤い「縁結び」のお守りもそうーーとポケットに忍ばせて行こう。もしかすると砂漠のど真ん中で満点の星空を眺めながら“何か”が起こるかもしれないからね。

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    そんなオレ様の恋の予感、これまで一度も当たった試しはない。したがって来年も父親から今度は違う色の「縁結び」お守りが贈られてくることはすでに確証済みだ。

  • アボリジニの絵画の真髄を学ぶために

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    1997年、オレ様が初めてオーストラリア先住民アボリジニが住む中央砂漠のコミュニティを訪れた年である。早いものであれからもう10年だ。

    今でこそ家族同様に付き合うアボリジニたちであるが、そこまでの熱い絆を結ぶまでに、それはそれは様々なドラマが繰り広げられたものだった。

    当時、メルボルン市内のアボリジニ絵画を専門に取り扱うギャラリーで仕事をしていたオレ様だが、毎日毎日「明日こそは辞表を出そう。オレ様もうだめ。ああ、ギブアップ」。そんな情けないことばかりを考えていた。

    当然のことながら画廊の仕事は絵画を販売すること。しかしオレ様だけがちっとも絵が売れない。どうやってもダメ。周りのベテランスタッフが、じゃんじゃかセールスしているのを横目でうらめしく眺めながら「絵が売れないのであればオレ様はこのギャラリーでは用なし人間。

    いつお前はクビだとボスから宣告されるのだろうか」。毎日そんなくらーーーーいことばかりだけが頭をよぎる。そんなストレスで食欲に拍車がかかり、体重が一気に3kg増。オレ様、ますます暗くなる。

    “アボリジニの絵画の真髄を学ぶことは彼らの深遠なる文化を真剣に学ぶこと”

    自称努力家のオレ様が、毎日これでもかと読みあさっていたアボリジニについての専門書にそう書かれてあったのを目にしたときに、まさしく「おお。これだ!!!」と確信し、鏡に向かって意味のないガッツポーズをしてみる。意外とキマルもんである。

    そう、絵が売れないのはオレ様自身がアボリジニについて、まだ何もわかっちゃいなかったから。なぜもっとそれに早く気づかなかったのだろう。こんなインチキセールスマンからお客様が絵画を買うわけがないではないか。

    そこでオレ様、両手をあごにあてて15分ぐらい考える。

    アボリジニの文化を学ぶには、自分が現地へ直接出掛ければよい。そしてアボリジニ達と一緒に生活をして、彼らから実際に文化を学べばいいんだ!!

    久しぶりの名案に身体が震えた。・・・・が、その現地っていうのはいったいどこだっぺ? オレ様、戸惑うときは必ず茨城弁が登場する。・・・そんなことはまあ、どうでもいいっぺ。

    オレ様が勤務をしていたギャラリーが専門に販売をしていたのは、オーストラリア中央砂漠のドットペインティング。ということは砂漠地帯に何らかの手段を使って、さっさともぐり込めば何とかなるのではないかと思ったが、じゃあいったいその手段とはいかように? どうやってそこへもぐり込む? そこがまるでどんなところなのか知識も情報も何もないこのオレ様が、果たして現場にたどり着けるものなのか?

    答えはもちろん「NO」。いきなりしょっぱなから大きくつまずいたオレ様は、さっきのガッツポーズも一時取り消すことに。途端にふにゃふにゃヘナチョコ野郎になっちまったもんだった。

    さて、今回はそんなオレ様のこれまでの体験を交えながら、読者のみなさんへ「アボリジニ村を訪れるには」の手引きを少しご紹介させていただきたいと思う。

    というのもオレ様、あちこちで常にアボリジニの話をしているのだが、意外にも「私もアボリジニ村へ行きたい。ぜひ連れてって」という人がたくさんいるのに驚いているからなのだ。「あれまぁ。そうなの? へーー。どうして?」と顔はにこやかなオレ様だが、時には眉間にシワを寄せてキビシイご指摘もさせていただく。

    まず、「あなたはどうしてアボリジニの村に行きたいのでしょう?」とお尋ねする。大抵の人たちは「そこへ行けば何か面白い出逢いがありそうで。狩りとかにも行けるんでしょう?」という明らかに好奇心のみの回答をされる。

    まあ、それはそれでいいでしょうが、オレ様そういった人達は、まず一緒にお連れすることはないでしょうな。

    ここでまずお話しておきたいのは、アボリジニの村は「観光地」でも何でもないのだから、オレ様が自らそこへ「観光客」を連れて行くわけにはいかないということ。つまりアボリジニから『何か』を学びたいとか、アボリジニの『世界観』のようなものを短期間で体験したいなんていう興味本位の理由で、アボリジニ村へ入るなんていう行為は、彼らにとって大変失礼なことなので、やめてちょうだいね…ということなのである。

    しかしながら10年前、初めてアボリジニ村へ足を運ぼうとしていた当事のオレ様こそが、まさにこの「大変失礼なヤツ」だったのであった。

    まず、アボリジニ村へ入るにはアボリジニの土地権を管理している政府機関に申請書を提出して、そこから許可が下りるのを待つのが原則だ。その申請書にはオレ様がいったいどこのだれ兵衛で、その村にどのような理由で入りたいのか、またそこに知り合いがいるのか? 滞在期間はどれぐらい?そこまではどのルートで(つまりどのような道のりでという意味)行き、運転する車種は何なのかまでの細かい記入を求められる。

    おまけに時折、その政府機関はアボリジニ村からの正式な招待状まで要求してくる場合だってあるのだから、ますます厄介だ。

    当然といえば当然なのだが、アボリジニ村はよほどのことがない限り、いきなり見ず知らずのよそ者に招待状なんて書くわけないから、早くももうここでどんづまり。

    やっぱりやーめた! ってことになってもちっともおかしくはないのである。

    しかしアボリジニの絵画が売れるようになるためには、どうしてもアボリジニ村へ入って文化を学ばなければならないと勝手な理想を抱いていたオレ様。一生懸命申請書を書いて、あっちこっちの未踏のアボリジニ居住区へ片っ端から出してみるが、返事は一通も来ない。はっきりと断られるのならまだしも、完全に無視をされてしまった。

    しかし、よくよく考えてみると、オレ様にとってアボリジニ村へ入るという行為は確かに面白そうでたくさんの有益情報が得られるかもしれないが、アボリジニたちにとって怪しいアジア人のオレ様を受け入れることのメリットって、いったい何だろう?

    おまけにアボリジニと暮らした『証拠写真』を撮って友人知人に見せびらかそうとカメラのフィルム(当時は今のようなデジカメなんてなかったのじゃ。時代を感じるのぉ・・・)までたくさん用意をしていたオレ様の非礼行為は、太ももを長老にヤリでブスリと刺されても、決しておかしくはなかったはずだ。

    結局アボリジニ村へ入る手段がまるでなくなったオレ様。ほぼ諦めかけたときに、ひょんなことから一人の日本人歴史学者に出会う。彼はアボリジニの歴史を専門に研究している若い男性だった。

    同じ日本人でアボリジニに携わっている人間には、そうそうオーストラリアで会うことはない。我々は一気に意気投合してすぐに友達になった。聞くところによるとその男性、数ヶ月前から定期的にアボリジニ村にリサーチのため、滞在をしているというではないか。

    ああ。ああ。あああああ~~~~~。『思えば叶う』とはまさにこのことだ。

    オレ様の心境を話してみたところ、なんと彼が次にアボリジニ村へ入るときに一緒に連れていってもらえることになったのである。ひゃっほ~~~~~い♪ ガッツポーズ復活! おまけに3段跳び蹴りまでやってみせちゃいます。

    そこで何よりも家族を大事にするアボリジニの社会へ飛び込んでいくゆえ、オレ様はトノガタの実妹として、村のみんなに紹介されたことは記憶にまだ新しい。

    5歳も年上であるオレ様が妹だなんて、あまりにもずーーずーーしーーーとは思ったが、それもまあよかろうよかろう。いっそのこと『姉さん女房』なんていかがかしらん・・・とトノガタに嫁入り前の自分を精一杯アピールしてみたが、返事もしてもらえなかったっけ。

    ということで、こうしてめでたくオレ様の『初・アボリジニ村訪問』がその若いトノガタのおかげで無事実現し、決して『観光客』としてではなく、今後もずっと付き合って行きたいと心からそう思える仲間と出会えたことに感謝したい。

    あれから10年。今は単独で彼らの村を定期的に訪れるようになり、狩りをすればアボリジニたちよりも大きな獲物を次々とゲット。そして儀式で踊ればほかの誰よりも見事なダンサーとして拍手喝采。

    ああ、まだまだオレ様のアボリジニ熱はおさまらない。

  • 愛と涙の大阪物語 最終回

    いよいよ今回でアボリジニ女性画家・モリーンとノーマとともに繰り広げた『愛と涙の大阪物語』が最終回となるわけだが、もちろんこの紙面ではとても書ききれないドラマがあれこれ展開したということはいうまでもない。

    大阪で彼女たちを出迎える数日前に、オレ様は東京ビックサイトで開催された『癒しフェア』というイベントで、2日間アボリジニアートを展示する機会に恵まれた。

     

    この『癒しフェア』は開場前から、入り口に長蛇の列をなすほどの超人気ぶり。何しろたった2日間のこのイベントに、およそ4万人の人々が癒しグッズを求めて全国あっちこっちから押し寄せてくるという、東京ビックサイトオープン以来の大イベントだというではないか。

    だだっ広い会場には数百ものブースが立ち並び、「あなたのオーラの色、撮影します。1回3000円」とか「この魔法の石を肌身離さず持っていれば、あなたは必ずシアワセになれます。1個40万円から」とか、なかには結構うさん臭いものもいくつかあったが、そんな店舗に限って人気が高かったようだ。

    オレ様はその会場の一角にスペースをご提供いただき、およそ20点のアボリジニアートを展示して来場者へ常時作品の説明に明け暮れていた。するとその中にたった一人、“キラリ”と光る男性の存在が!!!!!!!!!!!

    しかもその男性は目に大粒の涙をためて、1枚1枚の絵を食い入るように見つめているではないか。

    ああ。もうオレ様ダメ…。こういうのに非常に弱い。すぐに駆け寄って行って後ろからぎゅうっと抱きしめてあげたい心境に駆られる。何しろこの人混みだ。どさくさに紛れてやっちゃえば誰にもわかんないはず…。

    そう思って、そぉーーーとその男性に近づいていき、満面なる笑みで「これまでアボリジニアートはご覧になったことはありますか?」とさり気なく尋ねる。もちろん声を2オクターブほど上げて。

    するとその男性は大きな瞳でまっすぐにオレ様を見つめながら「いいえ、初めてです」とだけ静かに答えた。結構シャイな方のようだ。

    うーーん。困ったぞ。オレ様、次は何と言ってアプローチするべきか。『アボリジニアートをお買い上げになると、もれなく私もお嫁さんとして付いてくるのはご存知ですか?』。いきなりこれでは初対面の男性には危険すぎるかもしれない。

    オレ様がそんな妄想に酔っているとき「うちの子、絵がすごく好きなんですよ。でもこんなに一生懸命観ているのなんて初めてですね。アボリジニアートって、とても自然でいい絵ですね」と彼の母親と思われる女性が、私に話しかけてきたではないか。

    おっ! なんだ。なんだ。ここで突然お姑さんの登場かい?

    「うちの子、今15歳なんですけどね。これから絵を習わせようかと思ってまして。でもアボリジニアートを習えるところなんて日本にはないですよね」。

    そう。最初に言い忘れたが、その“キラリ”と会場でとびきり光っていた男性というのは15歳のジェントルマン。そして名前が何と「大地」クン。

    「アボリジニアートはすべて先住民アボリジニたちが、広大なオーストラリアの『大地』と自分自身のつながりの喜びを描いている絵画なんですよ。そうですか、大地クンていうお名前なんですね。きっとアボリジニとどこかでつながっているんでしょうね」。

    そんな話を機にオレ様はもうほかのお客様そっちのけで、その素敵な15歳のジェントルマン「大地」クンにつきっきりでアボリジニアートの講義を行うことに。

    癒しフェアを終えた2日後に、オレ様は大阪へ飛んで砂漠からの女性画家二人を出迎えて、今度はテレビのイベント企画に携わることになっていた。それを大地クン親子にお話したところ「ぜひ! アボリジニの人達に会いに行きたいです」とこれまた大地クン、目をうるうるさせて訴えてくるではないか。

    よっしゃ。そこはカッコつけマンのオレ様だ。来日するアボリジニの画家たちと大地クンが何とか一緒に絵が描ける作戦を立てることにした。

    それにしてもわざわざ東京から大阪までアボリジニの女王様たちに会いに来てくれるとは、何と奇特な親子だろう。オレ様、胸の奥がじんわ~~り潤うのを感じたほどだ。だってすごくうれしいじゃないか…。

    さて。大阪入り2日後、無事にアボリジニの女王様二人も日本へ到着し、毎日過密なテレビスケジュールをキャーキャー言いながらこなしていたそのとき、早朝、私の携帯に電話が鳴った。「あのー。大地です。今、大阪に着きました。お父さんの運転で昨日の夜中に東京を出てきました。家族6人みんなで来てます。僕たちどこへ行ったらいいですか?」

    人間の深く強い「想い」というものは実に様々なことを可能にさせてくれる。

    東京から深夜、車を吹っ飛ばして約7時間。遠路はるばるよくもまあ、来てくださったこと。大地クンファミリーは、それぞれモリーンとノーマにたくさんの日本のお土産を持ってきてくださり、始終なごやかなひとときにつつまれたものだった。

    来日早々、慣れない日本の環境にやや緊張気味であったモリーンとノーマ。しかし温かい大地クンファミリーとのふれ合いで彼女たちの表情も次第に和らいでいく。アボリジニ社会は、何よりも家族同士の絆を大事にしているからなおさらなのであろう。

    大地クン達には我々が宿泊しているホテルの部屋まで来ていただき、早速共同作業での大作を1枚仕上げることに。

    家族全員が筆を持ち、モリーン、ノーマともどもそれぞれの想いを熱心にキャンバスへと表現した。

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    人と人とのご縁ほど、オレ様にとって宝物だと思えるものはない。まったくひょんな出会いから、こうして大地クン念願のアボリジニアートレッスンが実現し、やはり『思えば叶う』を信じてよかったと心からそう思えるこの出来事。

    最後は完成した絵画と一緒にみんなで記念撮影を行い、大地クンファミリーはそのまま帰路、東京へと向かった。胸にしまいきれないたくさんの素敵な思い出とともに。

     

    そしてあの絵画は、大地クンファミリーの家のどこへ飾られるのかな…そんなことも後日電話で聞いてみよう。

    大忙しのイベントがすべて終了し、あと2日後には海の向こうのオーストラリアへ帰る日が迫ってきたとき、敏腕インチキコーディネーターのオレ様は砂漠の女王様達に、ぜひとも日本の神社仏閣を観てもらおうと京都一日観光を計画した。

    何しろモリーンもノーマも生まれて初めての電車乗車体験。自動改札にたじろぎ、制服を着た車掌さんと写真を撮りたがり、車内でも疲れていて眠いはずなのに車窓から目が離せない様子。

    こんな日本での様々な体験を彼女達は故郷アボリジニの村へ帰って自分の家族達にいったい何て話すんだろうか。

    いっちゃなんだが、その日の京都は気温37度。おまけにあのすさまじい湿気でしょ。こっちは日本が誇る世界遺産の金閣寺に、これから案内しようと汗だくだくになってるっつーのに、モリーンもノーマも暑いからもう歩くのいやだとだだをこねる。やれ腹が減っただのアイスクリームを買って来いだの好き勝手、言いたい放題だ。

    滞在もうあと残り2日であるのをいいことに温厚なオレ様、ここでとうとうぶち切れて「てめーら。それでも砂漠の民か! こんな暑さがなんだ。わがまま言うのもいい加減にせーよ!」と空手チョップのまねごとをしてみせるが効果なし。彼女達はゲラゲラ笑うだけだった。

    結局、金閣寺まではクーラーガンガンにきいたタクシーで行くことに。すると「おねえちゃん。どうせならワシ、あっちこっちこのまま回ってやるでー。今日はとくに暑いことやしなー。そのほうがええん、ちゃう?」とタクシーのおっちゃんからのオファー。

    さすが。関西人様だ。ありとあらゆる状況下でもすぐにビジネスに結びつける商い人。オレ様、泣く泣く財布から2万円を出したり引っ込めたりしながら、おっちゃんに渡す。

    こうして京都で世界遺産を砂漠の女王様たちにご覧いただいたのを最後に、我々の『愛と涙の大阪物語』に無事、幕を閉じたのであった。

    モリーン・ノーマ、豪州の辺境地帯、砂漠のど真ん中から本当によく日本へ来てくれたね。異国の地でさぞ不安だらけの日々だっただろうにね。トイレを流さないとか、1リットルのシャンプーを一人で全部1回で使っちゃったこととか、ホテル朝食のビュッフェを手づかみで取ったこととか、お祭りの金魚すくいの金魚を食べようとしたこととか、オレ様絶対に誰にも言わないからね。

    だからまた日本に来てね。今度は愛する家族を全員連れて。

  • 愛と涙の大阪物語 その 2

    不覚にも先月号を休んでしまった。伝言ネット“鬼の編集長様”のおっかない顔を頭にチラチラ浮かべながら締め切りギリギリまで何とかふんばって「絶対に書き上げるぞ!」と意気込みだけは十分だったはずなのだが、どうも肉体的疲労と物理的時間の配分がものの見事に調和せず、結局は「ごめんなさい、堪忍してください」と謝罪をしてしまうことに。

    …ということでまずは皆様にもこの紙面をお借りしてお詫びを申し上げたい。

    「ちょっと…つわりがひどかったもんで。休んじゃってほんと、すんません」。以前このガセネタで日本からのある原稿依頼を断った記憶があるのだが、そのときの担当者に「内田さん。その吐き気ってどうせただの二日酔いか想像妊娠なんでしょ」と間髪入れずに突っ込まれたことがあった。何とも失礼な野郎である。

    いやー。それにしても2006年があと1ヶ月で終わろうとしている中、今年の『日豪交流年』という特別なイベント年に際して、このオレ様も実にあっちへこっちへと飛び回らせていただく機会に恵まれた。

    日本でのアボリジニアート展覧会がここぞとばかりに全国で開催が実現し、確実に豪州先住民アボリジニの深遠なる芸術の啓発に努められたという自負すら覚える。

    その日豪交流年のイベントの一つとして大阪読売テレビ主催の“夏休み家族向け企画”にアボリジニアート展が盛り込まれることになり、コーディネーターのオレ様はオーストラリア中央砂漠の辺境地帯に住むアボリジニの画家を二人はるばる来日させるという大役を仰せつかったのであった。

    8月のとんでもなく暑い1週間、『愛と涙の大阪物語』がスタートした。

    日本とオーストラリアの位置関係すらまったく想像がつかないどころか「ニッポン」というのが一体なんなのか、またそこではどんな食べ物が口にできるのかなどという情報を一つも持たないまま二人の女性画家・モリーンとノーマは日本へやってきた。

    二人は関西空港へ到着するなり自分たちの周りがアジア人だらけであることにしばし驚きを隠せない様子ではあったが、それでも私の袖をグイっと引っ張って「あそこにいるのはジャッキー・チェンの弟か?」と見知らぬ男性を指差したり「ジャッキー・チェンは今、どこで何をしている? 私たちはいつ会えるんだ?」ときゃっきゃ、きゃっきゃ興奮してみたりと、いきなり異国へ来たという不安気なそぶりはあまり見せなかったのでこちらも安心した。

    それにしても読売テレビさん。オレ様、つい言っちゃったんだよね。『日本に来てくれればジャッキー・チェンに会えるんだ』ってさ。何たってアボリジニ社会ではジャッキー・チェン様は超スーパースター以外のナニモノでもないのだから。

    事前に頼んでおいた『ジャッキー・チェンのそっくりさん募集』は、ちゃんとやっておいてくれただろうか。

    ちょっと背格好が似ているそこらのあんちゃんに「アチョー! ! ! 」とか言って足でも上げてもらえれば、それで十分なんだけどなあ。

    さて、初日の晩はさすがに長旅の疲れがあったせいか、砂漠からの女王様たちはホテルの部屋に入るなり、すぐにバタンキュー。

    小腹が空いたときのためにとあらかじめ用意しておいたサンドイッチを少しだけつまんだ彼女たちはすぐにゴジラのような大イビキをかいて爆睡した。もちろん風呂には入らない。

    8月2日(水)

    我々が滞在した大阪天保山のホテルはまさにオーシャンビュー。部屋の窓を開けると目の前にはどこまでも続く海・海・海。そして大阪港に寄港するたくさんの船・船・船。これにはさすがに砂漠の女王様たちは絶叫した。

    何しろいつもは豪州のアウトバックで暮らしている二人である。普段目にするのは乾燥した真っ赤な大地にうっそうと生える木々だけだ。

    「カピ~! カピ~! 」とそれはそれはうれしそうに大声上げて、朝起きてからずうーーっと窓の外を眺める二人であった(注:カピとはアボリジニのルリチャ語で“水”という意味)。

    アボリジニの人々は朝目覚めるとすぐに、必ず大きなカップでぬるくて甘いミルクティーをがぶがぶと飲む習慣があるのだが、このホテルにはそんなマグカップなどは用意されていない。日本茶用の小さな湯飲み茶碗が部屋の冷蔵庫の上にあるだけだった。

    敏腕インチキコーディネーターのオレ様、ちゃんと紅茶と牛乳は買っておいたのだが、ついうっかりしてしまい肝心の大きなカップを用意するのを忘れてしまった。

    「ごめん。ごめん。それじゃあ朝食も兼ねて1階のレストランへみんなで行こうよ。紅茶はそこで飲めるはずだから」。そう言って彼女たちを着替えさせて(歯磨きなし)朝食のビュッフェ初体験に挑戦した。

    ホテルの朝食会場には、たくさんの夏休み親子連れ客がみな楽しそうに食事をしている。そこへ砂漠の女王様たちの登場となると、途端にあちらこちらから熱い視線が注がれてモリーンもノーマも最初はやや尻込みをしていた。

    が、何しろ腹はグーグー減ってるし、紅茶はがぶがぶ飲みたいし、おいしそうなソーセージやパンがたくさん目の前のテーブルにのっていりゃ、もうそんな注目なんて気にすることなく、即座に名ハンター狩人サマに変身さ。

    まるで砂漠のど真ん中で獲物を獲るかのようにあれもこれも、これでもかというほどお皿に食べ物を盛り付ける二人だった。それも手づかみで。

    これにはさすがにたまげた様子で、係りのお姉ちゃんが吹っ飛んできて彼女たちに注意した…が、二人とも『へっ? 何で駄目なの?』ってな顔をしていたのが、何とも印象的であった。

    午後にはテレビ取材も兼ねて念願の「ユニバーサルスタジオ・ジャパン」がスケジュールとして組まれていた。どこへ行くにも後ろからテレビカメラに付いてこられ、それだけでも通行人たちの注目を浴びる二人は、まるで芸能人並みの扱いだ。

    中にはサインを求めて駆け寄ってくるオンナの子もいたが、文字を持たないアボリジニの二人は「私たち、字が書けないの」と笑ってそう言いながら、ぎゅうっとそのオンナの子に握手をした。

    そんなムービースターのような彼女たちが、実はつい数日前まで砂漠のアボリジニ居住区でダニだらけの犬たちに囲まれ、カンガルーの丸焼き尻尾をかじっていただなんて一体誰が想像したことか。

    特にモリーンは、日本出発前に親族の一人が他界したため髪を短く切り(アボリジニ社会では自分の家族・親族が亡くなると髪を短く切るという習慣《…というよりも掟に近いもの》がある)、それが恥ずかしいからと、暑い8月の大阪へ毛糸の帽子をかぶってやってきた。

    彼女はロングヘアにいつも憧れていたから、なおさらだったのであろう。

    誰が見ても男らしくたくましい中性のオレ様は、ロングとまではいかずとも一応セミロングぐらいの髪の長さなのであるが、モリーン曰く、オレ様と同じシャンプーを使えば瞬く間に自分の髪も同じように伸びてくると信じて疑わず、薬局の前を通るたびに「シャンプー、シャンプー」とオレ様におねだりしてきた。

    「これがいいよ」と1本レジに持って行こうとすると「髪を切った家族全員に」とモリーンは8本のシャンプーをオレ様に買わせたツワモノだ。このやろ。調子に乗るなよ!

    人間、誰しも自分を取り巻く『環境』によって価値観が変わるものだとこのオレ様は確信するのだが、この1週間の大阪滞在でモリーンとノーマは「日本」をいったいどのように捉え、感じたのだろうか。そんな彼女たちの声を次回お知らせしたいと思っている。

    オレ様の2006年、今年もまたすっかり“アボリジニ漬け”の1年になったが、それも今の自分としてしっかり受け止めて行くつもりだ。

    そして今年お世話になったたくさんの皆様ひとり一人に心から御礼を申し上げたい。

    どうぞよいお年をお迎えください。