カテゴリー: 裸足のアーティストに魅せられて

  • やりたいことが「私の仕事」

    さて、今回は「私の仕事」について少しお話をしてみようと思うのだが、いかがであろうか。

    というのも最近とても頻繁に人様から同じことを尋ねられる機会があって、それが決まってどれも同じ内容であるからこちらもややビックリ…。つい先日も会ってまだ2~3度目の女性からこう問われた。「あのー。私いつも不思議に思ってるんですけど、内田さんって一体何をやって食べてっているんですか。年がら年中メルボルンを留守にして砂漠のアボリジニ村に行っているようだし、そうかと思えば家から一歩も出ないで居留守使って何かやってるみたいだし。《←アンタが何でそんなこと知ってんねん!?》 内田さんってなんかーー、自由人っていうかただの怪しい人っていうかーー、よく分からない人であることは確かですよねーー」と。

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    よくもまあ、まだそんなに知らない私のことを”怪しいヤツ”だなんて、このオンナは大胆に言えたもんだと感心すら覚えたが、私がどうやって日々の収入を得ているのかそんなに気にしてくださるのであれば、遠慮せずにお手当てとかくれちゃっていいのよーーと真剣に訴えてみたい。

    そもそも幼少時代、貧乏な家で育った私は「早く自立して自分でお金を稼げるようになりたい」と子供心にずっとそう思って暮らしてきた。

    大学を卒業してすぐに日本の企業に入り、たくさんの給料をもらいながらも物理的な忙しさとは別に、どこかで死ぬほど退屈をしている自分がいるのに気づき始めたのが26歳。自分をうまくだましだまし目をそらせてはみたけれど、それがだんだんにごまかしにくくなって会社を辞めたどころか、日本まで脱出したくなって瞬く間に自分にGOサインを出し、海外へと旅立った。外国での生活にマニュアルなんてあるわけないから、毎日が新しいことの連続でおしっこちびる体験なんてしょっちゅうだった。 余談であるが、私の友人はおしっこでなくてウ○コをもらしたという話も聴いた。小学生じゃあるまいし、いい年した大人が外国で何でウ○コをもらすのか不思議だったので無理矢理その理由を聞いたところ、何やら初めて招かれた外国人のホームパーティーで、あまりの緊張のせいか急にお腹がギュルギュル鳴り出し「エックス、キューーーーズミィーー」といってトイレへ駆け込んだが間に合わず(…というかなかなか英語で「トイレ貸して」と言い出せなくて大分我慢をしていたらしい)、便器の上に腰を下ろさないうちに盛大なるオナラの音とともに「ブボベビバーーーーー!!!!」と肛門が決壊してしまったらしい。そのときは悲しい運命だったともはや諦めるしかなかったようだが、彼は(おっ!ここでその友人が男性だとバレてしまったぞ)その後もまだ元気にたくましくメルボルンで暮らしている。

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    私の仕事に話を戻そう。

    私は自称「アボリジニアートコーディネーター」とのたまいながらも実は「自由業」で、つまりは何でも屋であるということをこの際告白しようではありませんか。しかしこれがたまらなく自分にピッタリ合っていて「一生このままでホントにいいのか」と時に不安にはなりながらも、明日には砂漠へ飛んでいって才能あるアボリジニ画家を発掘し作品を買い付け、来月はそれを販売するための企画展を練り画家を来日させ、半年後はどこかの大学で学生たちにアボリジニの講義を行って……なんて直接すぐゼニにはつながらないことを根気強く行う日々。そう、いつかは必ず芽が出るだろうという願いを信じて、ひたすら種まき作業の毎日なのだ。もちろん楽しみながらね。

    そうはいっても種ばかりまいていると当然腰も痛くなる。指圧にだって通うし最近少し曲がってきてやしないかと心配して背伸びもしてみる。毎月決まった給料をもらっていた頃からは想像もつかない生活だ。しかし、それらはすべて「自分のやりたいこと」であるということが大きなポイントなのだ。そして紛れもなく「自分の選択」であることもね。やりたいことがわからなかったときは「やりたくないこと」も一応やってみた。……が、やっぱりやりたくないから「自分には向かない」と勝手な理由をつけては日々悶々としていた。

    当時、迷いに迷って占い師にまで「私の天職って何でしょう?」なんてみてもらいに行ったが、自分自身やりたいことがわからないくせに他人様にそれがわかるわけがないと、やはりまた悩む。

    そんなとき、アボリジニアートが私の人生に登場したときに「これだ!」と直感的に心が叫んだ“あの感覚”は、説明しろと言われても困ってしまうが、それこそ「やってみたい」と素直に思えたことに感謝したい。そしてその気持ちが10年経った今でも、ちっとも変わっていないという奇跡にも。

    「やりたいこと」が今一つまだはっきりしない方々。私自身がそうだったように、少しだけ視点を変えて「自分の得意なこと」を考えてみてはいかがだろうか。もちろん「得意なこと」が「やりたいこと」には直接つながらないかもしれないが、求めているものがもしかしたらそこにあるのかもしれませんぞ。

    私のようにあっちこっちと遠回りをしながらも、今の危険な自由業を自分自分の責任でやってみちゃうのだって、なかなかダイナミックで楽しいモンだということが開業5年目にしてやっと分かってきた感じ。家のローンだって払えているし、飼い猫たちへのキャットフードも買えているんだから、何だかんだいってちゃんと食べていっているのである。もちろん長い人生の途上では、今後もおしっこちびりながらまだまだ学んでいくことはたくさんあるのは間違いないのだが。

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    あ。ところで前述のウ○コ君。便器の上のモノは結局どうなったのか、皆様気になってはいませんか。何やらその家の便器には高級そうなふわふわの毛のついたカバーがかかっていて、ティッシュペーパーで一生懸命拭き取ってもまだシミが残ったために、最後の手段としてカバーを取り外して黙って持って帰るという「変態行為」をしたそうだ。

  • ユニークなゲストたち

    “千客万来”とは何とも嬉しい悲鳴であるが、ここ最近次から次へと我が家へ訪れてくるちょっと…いや大分ユニークなゲストたちを今回改めてご紹介したいと思う。

    辺境地帯からやってきたその特別ゲストたちは肌の色が黒い、英語がよく通じない、自分の年齢をあまり把握していない、お風呂に入らない、カンガルーは生肉が最高! と確信し、おまけに牛の脳みそがあればもっと最高!!! と絶賛する楽しい人たち。

    その辺境地帯とは豪州中央砂漠のど真ん中。一番近い街まで車でざっと450kmはある。そこにある小さな居住区に住む先住民アボリジニたちの描く絵画が、今や巷では大きな注目を集めているのをご存知だろうか。

    それに伴ってシドニーやメルボルンなどの都市で頻繁にアボリジニアートの個展が開かれたりしているのだ。先日も、とあるメルボルンのアートギャラリーで行われた展覧会に招かれたアボリジニの画家たちが、それぞれ居住区の家族にしばしの別れを告げ遠方からはるばるやってきたのである。

    4人のそれはそれはゴージャスな女王様たちのメルボルンでの滞在先は、これまたどういうわけだか我が家であった。展覧会を主催したギャラリーのオーナーは取りあえず長期滞在用のアパートを彼女たちのために用意してあったようだが、女王様たちは誰もそこに泊まりたがらず(今まで一度もそんなところへは滞在したことがないので恐ろしすぎると断固拒否!)、当然のようにみな我が家へそれぞれ自分のカバンをエッコラエッコラ抱えて到着。

    有無もいわさず我が家へやってきてくれたという彼女たちからの厚い信頼は、大いに喜ばしいことだ。それにこれまでにも幾度かアボリジニの友人を我が家に泊めた経験はあるから問題もないだろう。4人の大所帯だってへっちゃらへっちゃら。こうなりゃどっからでもかかってこーい!

    我が家は一応3つのベットルームがあるのだが、一つは自分の寝室でもう一つはゲスト用の小さな寝室。あとはアボリジニの絵画があっちこっちに散らばっている私の勉強部屋。←勉強しないけどそう呼んでいる怪しい部屋。ベッドは置いていない。誰がどこに寝るかはあとで決めよう。というか当然早い者勝ちになることは絶対に間違いない。

    そんなこんなで家主の私を含めて計5人の共同生活が瞬く間にスタートしたものの、普段気ままな一人暮らしを存分に謳歌しているこの私に、いきなり砂漠の辺境地帯からやってきた4人の女王様たちのホストママになるという任務は、とてつもなく大きいということが、彼女たちの到着2時間以内にすでに判明。

    家に置いてあるすべてのものにまずは興味深々。電気ドライヤーをブンブンならして熱風を顔や髪に充てて騒ぎまくる女王様たち。あっという間にヒューズが飛んでそのドライヤーはあの世へ逝った。

    そして私の怪しい勉強部屋へ行っては素早くパソコンを見つけ、インターネット電話に瞬く間に釘付け。たまたま日本からかけてきた友人とネット上の電話で楽しくおしゃべり。もちろん言語はアボリジニ語だ。「パリャ? ユーア? ウイーヤ。ウイーヤ」。電話の向こうで慌てふためく友人が「ねえ、ねえ、ちょっと。そっちで一体何が起こってんのよ。大丈夫なの?」と心配する。

    友人よ、すまぬがどうかしばらく放って置いて欲しい。

    女王様たち、珍しいもので遊びつかれたら、今度は腹が減ったと家の中をあっちへウロウロこっちへウロウロ。飼っている2匹の猫たちに彼女たちの目が一瞬でもいった時にはさすがにドキリ。食べられる前に外へ放してやった。

    そろそろ夜も更けてきて寝る時間になったが、みんなテレビに夢中でかじりついていて誰一人リビングルームから動こうとはしなかった。ホストママは一日目にしてさすがに疲労困憊したのでサッサと自分の寝室へもぐり込み、いつものように大の字になって一人深い眠りに就いた。この際家中の電気が付けっぱなしであろうが、水道が出しっぱなしで水浸しになっていようが、猫が食べられていようが、もうそんなことはどうでもいいと思えるほど完全に疲れきっていた。…おやすみなさい…。

    ところが、真夜中…。ものすごいにおいといびきでハッ!! と目を覚ます。一度寝たら絶対に起きることのないこの私が目を覚ましたのだ。一体何が起こったのか。

    確かに一人で寝たはずの私のベットに、大きな身体の色の黒い物体がぎゅうぎゅうになって2人も寄り添っているではないか。いびきもすごいが彼女たちの体臭もすごい。どことなく昔嗅いだ鉄棒のにおいに似ていた。私は身体を硬直させそのまま朝を迎えることに。だって身動きが全くできなかったんだもの。

    そして翌朝、一緒に寝ていた女王様たちに理由(わけ)を聞くと「ゆー、ろんりー。ゆー、ろんりー」とカタコトの英語でそればかり。直訳すれば「ちょいとオマエさん。一人で寝るのはあまりにも寂しいじゃないの。かわいそうだからあたいたちが一緒に寝てやったのさ」とまあ、こういうことになるようだ。

    そう。そうなのだ。アボリジニ社会では女性は特に決して一人では行動しないし、一軒の家に単独で暮らすことなんてまず考えられないという。ましてや、たった一人で毎晩眠るとはいったい何事だと女王様たちは私に説教までしてきた。

    そりゃあ私だって何も好き好んでこの歳まで嫁にも行かず、一人フラフラしているわけじゃないのよね。まして独りでいることが”孤独”だという概念が自分にちっともないからしょーもないんだろうけど。

    でもこうやってそんな自分のことを心配してくれて、さみしいんじゃないかと一緒に寝てくれる優しい女王様たちは、やはり私のかけがえのない大事な仲間。一緒に居て最高に心地が良いと感じることのできる大切な友人。

    人生も40年近く生きていると何を『豊か』といい、何を『貧しい』と判断するのか。それは時代によって、自分の心によって、変わっていくものなのだろうと確信している。が、今後も自分にとっての豊かな人生とは何なのかをアボリジニの女王様たちと関わりながらじっくり考えていきたいと思っている。毎日の忙しい日常の中に、ほんの少しでも穏やかな時間を生み出す努力をしていきたい。

  • 初心に戻って…

    新しい年を迎えるとこんなオレ様でも何となく気分もキリリとなり正座をしながらあれこれと抱負などを考えてみたくなったりするものだ。

    “初心に戻って”という言葉を最近よく思い起こす。初めて何かをたくらむ?ときのあのわくわくドキドキ感というか心の緊張感というのはたまらない興奮だ。

    そこで今回は2005年のスタートとして”あの頃”のあまりにもフレッシュだった自分のハートにもう一度耳を傾けてみたくなった。それゆえアボリジニの話題からは少しかけ離れてしまうが今回に限ってそのへんはどうかお許しいただきたい。

    思い切って日本を脱出してからはや12年。“外国で暮らしてみたい”と心の片隅にそんな想いを抱いて、メルボルン空港へスーツケース2つ抱えて降り立った。

    「自分の可能性を信じて」なんていうと聞こえはいいが、とにかく「行けば何とかなる」というまったく大胆な発想しかなかった当時26歳のオレ様は、案の定見知らぬ街メルボルンではおしっこちびりそうになった体験をいくつもすることになるが、それでも何とかこの土地に、このオーストラリアに溶け込もうと日々奮闘した。

    「憧れの外国で好きな仕事を思いっきりやってアンタは幸せだわよね~」と時折友人たちから羨ましそうにつぶやかれるが、このオレ様だってオーストラリアに来た当初は文化的背景の異なる人たちと一緒に仕事をすることに困惑を覚え、言葉がわからないことから相手にしてもらえずに半分ノイローゼ気味に陥り、さみしいということを理由に悪い男にも騙されたことだってこの際白状しちゃうもんね。おまけにそのときの持ち金がわずか$900しかなかったことまで銀行口座を初めて開いたときの明細書がしっかりと証明してくれている。そして“やっぱり何とかなったじゃん”とどこか得意気になってみたりする。

    オレ様とアボリジニアートとのまさに“運命的な出会い”は、ある夕暮れ時の雨宿りだった。あれが運命だったとか宿命だったとか、オレ様にはいまだによくわからないのだが、とにかく予期せぬ出来事がたった一回の雨宿りで自分の人生に舞い込んできたという話をここで少しさせていただこう。

    1993年、当時ボランティアの日本語教師として人口800人の小さな田舎町で暮らしていたオレ様は、ビザが切れるという理由もあり、日本帰国を間近に控えていた。日本を出発するとき、成田空港で家族や友人たちに「しっかり外国で頑張ってくんのよー!」とバンザイ三唱をされ、おまけに餞別までいただいちゃったりしてるもんだから、このまま手ぶらで帰るわけにはいかないと思い、お土産を探しに、初めてメルボルンへ行くことになったのであった。

    久しぶりに見上げる高層ビル、人混み、美味しそうな日本食レストランがたくさんある。さすが大都会だ。毎日ホームステイで真っ黒に焼かれたわらじのようなステーキしか食べていなかったオレ様は、真剣に真っ白いピカピカ光るお米を日々夢見たものだった。ランチにはお寿司と天麩羅そばのセット。久しぶりのお醤油味に涙が出そうになる。そして夕飯もここで食べようと、すでにメニューまで決めていた。

    閑話休題。

    そうそう。雨の多いメルボルンで、ふと雨宿りのつもりで飛び込んだアボリジニアートギャラリーで、オレ様はとんでもなく衝撃的なアボリジニアートとの出逢いを体験したのだ。というよりも、ギャラリーオーナーのハンク・エビス氏にあのとき声を掛けてもらっていなければ、今のオレ様は間違いなくオーストラリアにはいない。

    閉店間際に、しかも雨宿りで画廊へ飛び込んで入ったずぶ濡れの日本人を、いったい誰が「絵を買うお客」として接客をしてくれようか。店のスタッフからは完全に無視をされ、それでもずうずうしいオレ様は初めて目にした点々模様の不思議なアボリジニの絵に瞬く間に魅了され、店を出ようとはしなかった。初めて観るアボリジニアート。しかしちっとも初めての気がしなかったとても懐かしい温かい気持ちに包まれたオレ様は、ただただ時間を忘れて店内をぐるぐると挙動不審者のように廻っていた。さすがに怪しいと思われたのか、突然背後から男の人の声が。それがハンク・エビス氏だった。

    「君は日本人かね?」

    「はい。そうです。」

    「メルボルンへは観光で来ているのかね?」

    「いいえ、田舎町で立派にストリッパーとして働いています。稼いだお金は日本の家族へ毎月仕送りしています。」

    と答えたかどうかは内緒の話。

    他愛も無い会話をしながら彼がこのでっかい画廊のオーナーだということが判明した。そしてアボリジニアートについてどう思うかなんてことを質問されたが、オレ様には返答できる知識も情報もまるでなかったので、そのことを正直に話した。すると彼は、絵を買うはずもないこの怪しいオレ様に延々と勝手にアボリジニのレクチャーを始めたのである。

    よっぽどお客さんがいなくてヒマだったか、もしくはオレ様をあとで食事にでも誘ってその後2階の別室で… なんて孤独なオンナ特有の妄想がぐるぐる頭をかけ巡った。

    しかし、ハンクのしてくれたアボリジニの話がとても面白かったので、もっと別の作品が観てみたいと結構ずうずうしいことを平気で言った記憶がある。すると「それじゃあ私の個人コレクションを特別に見せてやろう。2階へおいで。」と閉店時間をとっくに過ぎ、店のスタッフも全員帰って誰もいない画廊の2階で自分のプライベートコレクションをどこのウマのホネともわからぬこのオレ様に見せてくれるというのだ。怪しい! 絶対に怪しい!!

    案内された2階の部屋には鍵がかかっていた。うう…ん。ますます怪しい!

    最初に話しかけられてからかれこれ4時間が経っていた。彼の話を聴きながら、なぜこんなにもオレ様に時間を費やしてくれるんだろうと、不思議に、そして怪しく思いながらも、心地良く流れる空気に身を任せていると、

    「君は日本に帰ったら何をするんだね?」と再びハンクがオレ様に問い掛ける。

    「それは日本へ帰ってから良く考えます。仕事をまた探さなければなりませんし」

    「ここで働きながら、アボリジニアートを日本へ紹介してみる気はないか?」

    「????????????」

    はじめは何のことをいわれているのか良く理解ができなかった。雨宿りの日本人客に一体何をしろというのか。しかももうすでに帰りの準備が整っているオレ様にこのままオーストラリアへ残らないかだなんて、絶対に頭がどうかしている。慌てて今度は自分の頭の中を整理しようと試みたが、余りにも突然のこの申し出にさすがのオレ様も動じずにはいられなかった。

    結局あれからこうして12年もの間、アボリジニにずっと携わっているのであるから、その後オレ様がどうハンクに返事をしたのかは皆様もうご承知であろうが、もしもあの時雨宿りでラーメン屋に飛び込んでいたら今ごろオレ様は立派なラーメン職人となっていたのだろうか。人生、いつどこで何が起こるかわからない。だから面白い。

    2005年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

  • 敏腕コーデュネ-ター その2

    瞬く間に訪れてきてしまった2004年12月。ああ、これでまた今年もあっという間に終わっちゃうのよねえ…。これといった特に大きな達成感もなく毎日ドタバタするばかりで、今年はそれこそただ何とな~く忙しいだけで過ごしてしまったという反省が、この豊満な胸を痛める。

    今年は日本への一時帰国がざっと3回。その間、私の職場でもある豪州大陸中央砂漠・アボリジニ村居住区へせっせと赴くこと4回。もちろん行けばその現地にしばらく滞在をするわけだから、よく考えてみればあまりメルボルンでは落ち着いて生活していないということになる。常にあっちこっちと飛び回っているこんな生活じゃあ、素敵なトノガタとゆっくり愛を育む時間なんてまるでないのは当然さ。

    そもそもこんなに毎日慌しく動き回らなければならぬようになったのも、5年前に独立をしてフリーランスとなってからだ。まあ、組織を離れてからは誰にも拘束をされることなく自分の時間が大いに自由になったものの“明日食うカネ、自分で作れ”という厳しい現実は、時折なんともいえない焦燥感に駆られることもしばしば。何たって会社勤めをしていたころは“給料っつーものは銀行に毎月自動的に振り込まれるもの”と、そう信じて疑わなかったのだから。

    それが会社を辞めた途端、いくら首を長くして待っていてもオレ様の銀行口座に大金をじゃんじゃか振り込んでくれる人間は一人もいないではないか。それゆえ朝から晩までパソコンにらめながら“仕事につながりそうなもの”をリサーチし、せっせと企画書作ってあっちこっちにEメールで投げかけて自分を売り込む…。

    そんなオレ様をまるでどこかから見ていたかのように、ある日アボリジニのドキュメンタリー映像を制作するにあたって、そのコーディネーターをやっておくれという指令がシドニーから舞い込んできた。うおぉぉーー。仕事だぁぁぁ~~~! もちろん二つ返事で承諾したことはいうまでもない。

    撮影の主旨は前号でも少し紹介をした記憶があるが、京都大学のある名誉教授がアボリジニの現在の生活習慣病に着目をされ、その原因と健康改善について長年に渡ってご研究されているというドキュメンタリー番組を学会用に制作するものであった。

    ドキュメンタリー映像というのはあくまでも「事実」を伝えるもの。しかも撮影期間が15日間と限定されている。それに一概に“アボリジニ”を撮影するといったって、都市で暮らす西洋化した人々と、未だ砂漠の辺境地帯で狩りを行って暮らしている人たちなど、かなり多様化しているということを果たして撮影隊の皆様はどこまでご存知なのだろうか。

    さあ、そこでこの敏腕インチキコーディネーターのオレ様が、ここぞとばかりにあれこれと得意のウンチクを披露して彼らを一気にアボリジニワールドへと引っ張り込んだのである。

    「砂漠ですかぁ。面白そうですね。一体どんなところなのかなあ。何といってもドキュメンタリーは「事実」を伝えなくてはなりませんからねぇ…。つまり現場へ直接足を踏み入れて、実際にそこで何が行われているのかをキャッチするんですよ。内田さん!」と、鼻の穴を大きく広げてそう主張するシニアディレクターS氏。

    「現場って、実際にアボリジニ村へこれから行くって事ですか? Sさん、そこがこのメルボルンからどれほど遠いところなのかをあなたはご存知なんですか。行くにあたっては政府からの滞在許可だって必要ですし、それにこれからすぐに航空券やレンタカーを手配するのはかなり難しいですよ。そういったリクエストはもっと事前におっしゃっていただかないと…」と、さすがの敏腕インチキコーディネーターであるオレ様も相当困った顔をして見せた。

    そして、今すぐ自分が魔法使いになりたいと心からそう願ったものだった。魔法を使えば、誰のどんな願いだってちゃんと叶えてあげられるのに。

    『魔法使い』と辞書で引こうとしたら、間違って『魔女』と引いてしまった。そしたらそこには「悪魔のように性悪な女・また不思議な力を持った女」と解説されていた。どちらの解説も微妙にこのオレ様に合っているではないか。よし、こうなったら快く魔女となってみんなをハッピーにしてやろう。

    そうやって魔女となったオレ様は、あたかも本当に魔法を使ったかのようにテキパキと迅速な手配をさっさと済ませ、砂漠のアボリジニ村への出発を見事に実現させた。

    ホテルなんてまるでないアボリジニ村では友人グラニス宅へ無理を承知で泊めてもらった。泊めてもらってこう言うのも何だが、彼女の家は決して綺麗とは言えず浴室の床はいつもぬるぬる、天井には蜘蛛の巣が張り、冷蔵庫の中には葉っぱがもうヨレヨレになったレタスや緑色のチーズなどがいっぱい詰まっていたりする。

    そういえば一度彼女の家でこんな体験もした。真夜中にのどが渇いて一人そうっと台所へ行って冷蔵庫の中の牛乳を飲もうとしたとき…! 電気をつけなかったので何も見えず、コップもどこにあるのかよくわからなかったオレ様は、暗闇の中で牛乳のボトルを振ってみたら丁度一杯分ぐらいの量だと確信。じゃあいいや、面倒くさいからこのまま飲んじゃえ。そう思ってボトルから一気飲みを試み、まずは唇を直接ボトルにくっつけ、空いたもう片方の手はどういうわけか腰に回し、足は肩幅程度に開いて一気にボトルの角度を変えたその瞬間、渇ききった喉ごしに今にも冷たい牛乳が流れ落ちることを想像したオレ様の揺れに揺らいだ心を、まるでまっぷたつに切り裂くかのように流れ落ちてきたのは、まぎれもなくまったりとした濃いヨーグルト状の液体だった。そして鼻に直撃したその悪臭と突然の異常事態に気づいた触覚・味覚・嗅覚・聴覚がフル回転してオレ様に慌てて警笛を鳴らしたようだがもう手遅れ。

    ここで腐った牛乳は酸っぱいだけだと思われている読者の皆様へ一言。実はほのかな苦味もあるってこともお知らせしておこうではないか。そして冷蔵庫へはいつも新鮮なものだけを貯蔵しましょうという忠告も。

    砂漠での撮影は3日間。当然ながら狩りは絶対にはずせぬアボリジニのライフスタイルなので一緒に付いて行く。生まれて初めて見るというイモムシや炎天下でのカンガルーしっぽ丸焼きは撮影隊を大いに興奮させたようだった。

    「やっぱ、これが現場なんっすよ! 最高っすよ! さすが内田さん。内田さんがいなかったらここまでボクら、来れなかったですからね」。そんなおだてにめっぽう弱い魔女のオレ様はまた調子に乗って次の魔法をあれこれ考えたものだった。

    こうして無事にアボリジニ村での撮影を終えた我々だが、再びメルボルンへ戻ってからはオレ様の魔法が追いつかないほど超ハードなスケジュールの毎日で、15日間での走行距離はざっと3000キロなり。もちろん運転手はずっとこのオレ様さ。

    しかしこの撮影期間中に出逢った様々な人たちとのあったかいふれあいは、魔法なんてちっとも必要ないほどごく自然にみんなを笑顔にした。

    なんだかんだと文句言いながら、今年もどっぷりと“アボリジニ漬け”であったこの一年。何を“しあわせ”だと定義づけるのかは自分のこころ次第。来年も堂々と“あるがままの自分”でいようではないか!

    皆様、2004年もお世話になりありがとうございました。この紙面をお借りして心より御礼を申し上げます。

  • 敏腕コーデュネ-ター その1

    つい先日まで同居していた我が家の怪獣居候様にはとっとと出て行っていただいた。その理由は富士山より高い山ほどある。まずは私の留守を見計らって彼女がジャンジャンかけまくった電話代の多額請求から始まり(今月の請求書を見て愕然としたことは言うまでもない。大粒の涙を流し、この温厚なオレ様が逆ギレせずにはいられなかったのだ!)、また、自分の”家族”だからと連日連夜我が家に次々とゲストを勝手に招いてドンチャン騒ぎ。極めつけは息子が病気だから治療費を貸して欲しいとそのお金を要求。はて、その病気で苦しんでいるはずの息子とは2日前に街でばったり出会っているではないか。しかも彼がそのときゲームセンターで女の子とイチャついていたのもちゃんと目撃しているぞ。このうそつき野郎め~どこが病気なんだ。

    … そんな居候様が出て行かれたあと(訂正:追い出したあと)、再び平穏無事な生活に戻ったオレ様にホッとする間もなく、仕事の依頼が入る。何やら日本でアボリジニの健康問題について長年研究をされている大学教授のドキュメンタリー映像を創るにあたって、その現地撮影コーディネーターをして欲しいというものであった。本来オレ様の本業はアボリジニアートコーディネーターであるが実際のところ、美術以外にもアボリジニに関わることであれば、多くを喜んで承諾する。特にこうしたメディア関連のコーディネーターは、取材を介して実に様々な方々との出会いがあるのが、たまらなく嬉しかったりするものだ。どさくさに紛れて撮影中に未来の旦那なんてのも見つかっちゃったりしたら尚更嬉しい。

    ふむふむ。撮影コーディネーターね。いいじゃない。いいじゃない。興味深そうな仕事じゃない。それに怪獣居候様を長い間世話したために、我が家の家計はまっかっかの大赤字となったゆえ、少しでも稼がねばならなかったオレ様は二つ返事でこの依頼を引き受けることに。契約期間は15日間。これだけの日数があれば恋の花も十分咲かせることができるだろう。にひひひひ。ディレクターはどんなトノガタかしらん。リチャードギアのような甘いマスクの男性だったらどうしよう。私の瞳をじいいっと見つめながらあれこれと指示をしてくるに違いないわね。

    万が一ホテルの部屋へのお誘いを受けてもいくら相手がリチャード・ギア似のディレクターだろうとオレ様は「仕事中ですから」ときっぱり断ろう。

    孤独なオンナは妄想上手。テレビにだってたまに話しかけたりする。取り合えずカレンダーの撮影予定日に大きなハナマル印を付けてニヤニヤと更なる妄想を広げた。

    私の人生に豪州先住民アボリジニが登場してきて早11年。彼らの深遠な文化と歴史、そして目を見張るユニークな芸術に瞬く間に魅せられて現在に至るのであるが、海の向こうのニッポンで分野が違うとはいえ、同じアボリジニの研究をしている日本人に出会うことは非常に稀有である。

    その日本人というのが今回のドキュメンタリー映像の主役である京都大学の名誉教授Y氏で、今や日本中で話題の『カスピ海ヨーグルト』を最初に紹介をされた方としても名が知られている。ちなみに、カスピ海ヨーグルトとは家庭でも簡単に作れて健康にも良いといわれているもの。もともとは中央アジアの黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス地方にある国、グルジアで食べられているものらしい。

    そのグルジアには世界屈指の長寿村があり、その長寿の秘密は現地で食べられているそのヨーグルトにあるのではないかとY教授が分析のためにグルジアから持ち帰ったのが最初だというのだ(オレ様、意外と博識じゃないか)。

    ではそのY教授が一体なぜ豪州先住民アボリジニの健康問題に注目をし長年の研究を重ねていらっしゃるのか。

    Y教授曰く”これまで長い年月の間、狩猟と漁労の社会で生きてきた彼らの生活から、いきなりこの現代社会に飛び込んできたアボリジニにとって現代の食生活は全く適合しない”という。これには私も全く同感である。狩猟民であった彼らは狩りをするときに長距離を歩きながら(かなりの運動量となる)、常時飢餓に耐え忍ぶ身体を持ち合わせており、その身体の脂肪は獲物があったとき飢餓に耐えられる様に十分蓄えておく必要があったという。

    ところが今や飽食の時代となり、彼らはいつでも好きなだけ砂糖、塩、油を過剰に摂取するようになってしまっている。私がいつも足を運んでいる砂漠の辺境地帯に住むアボリジニたちでさえも自分たちの村にスーパーマーケットができたおかげで、もはや狩りへ行く機会がめっきり減少。おまけに大人も子供も朝食の代わりに、コーラの大瓶を朝からがぶがぶ飲み干しているのが現状なのだから。

    なんという恐ろしい現実だろうか。世界中で今や一番生活習慣病で苦しんでいるのは、間違いなくこのアボリジニたちなのではないだろうか。極度の肥満からくる糖尿病・腎臓病・そして高血圧で苦しむこのアボリジニたちを何とかしてあげたいというY教授の思いからこのたびの研究が始まったという。

    自称敏腕インチキコーディネーターのオレ様、そんな真摯なご研究をなさるY教授のお手伝いをぜひともさせていただこうと俄然やる気満々、早速腕まくり開始。さっきまで妄想で頭がパンパンに膨らんでいたディレクターとの夢のロマンスはこの際もういいやとさえ思えた。

    ビクトリア州に暮らすアボリジニ数百人を対象としたこの研究、まずは検査の対象者を募るところから苦労がスタート。場所はメルボルン市内にあるビクトリアン・アボリジニヘルスセンターと称する公的機関。そこはアボリジニが無料で様々な医療を受けられるというところ。遠方からも子供連れで来ている人の姿が多く目に付いた。

    さて、いくら都会で暮らしているとはいえ”時間”を最重要視しないアボリジニの彼らに『○月X日に身体検査をしますからね。何時にどこどこへ集まってちょうだいね。来てくれた人には、もれなく日本のギフトをあげちゃうよー』と事前に告知。本当に日本からダンボール箱一杯のミニプレゼントをアボリジニたちのためにはるばる用意されてきた医療スタッフのご努力もむなしく、対象者は待てど暮らせどなかなか現れず。

    おまけに今回の検査のためにと日本から持ち込んだ大型体脂肪計(60キロもある大物)が空港の税関で規定外のブツだと怪しまれて通関ストップ。うわぁぁぁ。これがなくちゃあ肝心の検査ができないではないかとみんな大慌て。もひとつおまけにアボリジニヘルスセンターで事前にY教授と細かい打ち合わせをしていた担当女性が、この大事な検査のときに突然休暇取得。うっひゃー。いきなり居なくなるだなんてあんた、担当者でしょーが。ハレホレハレ・・・。

    そんな波乱万丈のスタートを敏腕インチキコーディネーターがどう切り抜けたであろうか。それは来月号のお楽しみでありまする。おほほほほ。

  • 腹いっぱいメシが食える家

    過日、我が家に突然迷い込んできたとんだ居候ちゃん、アボリジニの画家・ガブリエラとの共同生活もかれこれ2週間となる。好奇心旺盛なオレ様は、当初彼女が我が家でやること成すことすべてが(例えば水道出しっぱなしだったり、冷蔵庫を開けっ放しだったり)腹を立てながらも興味深くてたまらなかった。…… が、早くも限界が近づいてきた。

    ホストママの心優しいオレ様としては彼女にできる限り心地良く滞在をしてもらおうと、始終あれこれと気を遣う。彼女のために一部屋用意してベッドも整えたのに「1人で個室に寝るのは怖い。この家の悪霊に取り付かれる」と毎夜リビングでソファーに寝るガブリエラ。なんだと。我が家に悪霊がいるというのか。失礼なヤツめ。悪霊ぐらい、いつだってこのオレ様が退治してやる。

    リビングで寝る彼女を起こさないようにと私は毎朝まるで泥棒のように抜き足、差し足、忍び足でそうぅぅぅっと足音を立てないでキッチンへ行き、自分のコーヒーを入れる。とほほ。ここはオレ様の家なのになぁ。

    そしてお昼近くまでゴジラのような大いびきをかいて寝ている彼女の寝顔を見ながら「そろそろ出てけー。早く出てけー」と何度も耳元で呪文を唱えるのであった。

    ガブリエラの言う悪霊とは間違いなく私のことであろう。

    前号でもお知らせをした通り彼女の食欲には目を見張る。一日5食。プロレスラー並みの見事な食べっぷりだ。田舎育ちのオレ様ゆえ、幼い頃から両親に「訪ねてきたお客さんには腹いっぱいメシを食わせろ。腹を空かせたまま客を帰らせるほどみっともないことはない」と言われ続けてきたもんだから、毎日ありったけの食材を惜しみなくガブリエラに提供した。

    また「クンガ(←何故か彼女は私をこう呼ぶ。アボリジニのルリチャ語族では”オンナ”という意味)の手料理は世界一」なんていうウソ丸出しの彼女のセリフについつい調子に乗せられるオレ様は、普段ひとりでいればインスタントラーメンで簡単に済ませちゃうお昼ご飯も『腹をいつも限りなく空かせたお客さん』のためにせっせせっせと特製カレーなんて作っちゃったりするのである。

    「クンガは料理上手なんだってね」……ある晩そう言ってガブリエラの叔母さんにあたるという風船のように身体の丸いハービーと、従兄弟だと名乗るちょっと色男のデイビットが突然我が家へやってきた。もちろん夕飯を食べにだ。

    私自身、彼らを招いた記憶は一切ないので、恐らくガブリエラが「この家では腹いっぱいメシが食える」と吹聴したに違いない。とほほ。明日はいったい何人がやってくるのだろうか。そういえば私が以前アボリジニ村へ訪問をしたときに、仲良くなってもらいたいからと、初日村の子供たち2~3人にスーパーでアイスクリームやポテトチップスを買ってあげたことがあったのだが、翌日にはその子供たちの数が7~8人に増え、またその翌日に今度はおばさんやおじさんまでが一緒に並んで私を待っていたという経験があったのを想い出した。どうやら最初に買ってあげた子供たちが「あのジャパニーズは何でも買ってくれる」と村の仲間たちに言い回ったらしい。なるほど。納得。

    そんなわけで3人のアボリジニ達と1人の日本人とで予期せぬ晩餐会となったその晩、私は彼女たちのリクエストに答えてチキンの唐揚げをこれでもかというほど作った。こんなこともあろうかと先日マーケットでチキンを1キロ買っておいてよかったと胸を撫で下ろしていたところ「ライスとサラダもお願いね」とビールをラッパ飲みしながらガブリエラが言う。おめー! 調子に乗るなよな。と、すかさずおっかない顔をしてみたが、ちょっと色男のデイビットがチラリとこちらを見たので無理やりすぐ前歯をニィィィィっと見せて、そのまま上手に笑顔に変えた。

    お酒の勢いもあってか色男デイビットが自分の身の上話を初対面の私にポツリ、ポツリとし始めた。それはとても興味深い話であった。彼は今年で44歳になるらしいのだが(砂漠の奥地に出産のための穴を掘ったその中で生まれたので、自分の正確な生年月日を把握していないという。ちなみに現在アボリジニの出産はほとんどが街の病院で行われるので、それぞれ出生届が出されている)。7歳のときに自分の母親のもとから無理やり引き離され、そのまま白人社会で育ったという。そう、彼はまさしくこのオーストラリア政府がつい30年前まで打ち出していた同化政策の対象者の1人であったのである。 

    それは「盗まれた世代―ストールンジェネレーション」として、今現在においてもアボリジニ達が政府に謝罪を求めているのだが、デイビットは「もうそんなことはどうでもいいんだよ」と言ってまっすぐに笑う。当時7歳の子供がいきなり誰も知らない社会へ連れて行かれ、英語がまったくわからず、白人の食べるこれまで自分が見たこともない食事が口に合わず(そのとき生まれて初めて牛乳を飲んだという)、毎日母親のもとに帰りたいと泣き叫んでいたその彼が「もうあんなことは二度とあってはならない。これからはお互いが学びあって一緒に暮らしていけばいい。そのほうがずっといい」そういって笑っているのである。

    しかしライフルを構える当時の白人の格好を真似しながら「やつらは犬でも撃つかのように、俺たちの家族をたくさん撃ち殺していったことは決して忘れないけどね」と鋭い目でそうつぶやいたデイビットの言葉は、今でも私の耳を離れない。

    世界で最も水の乏しいオーストラリア大陸の砂漠地帯、荒涼としたブッシュへ今でも時々デイビットは自ら足を運ぶという。我が家の地図を指差しながら彼は「ここが僕の生まれた土地。生命(いのち)あふれる豊饒な大地なんだ」と自慢気に教えてくれた。

    あの広大な土地をくまなく熟知し、今でも神話界をリアルに生きるデイビットにとって、そこは紛れもなく豊かな大地なのだろうということが、私は心から納得できた。

    ……こうして突然我が家で開催された予期せぬ晩餐会は明け方まで延々と続けられ、私は翌朝ひどい二日酔いと山のように積み重なった汚れた食器の数々を見て、再び寝込んだことは言うまでもない。

  • とんだ居候

    茨城で生まれ育った私は18歳でその地を離れ、その後日本を離れ、気が付くとオーストラリアで先住民アボリジニの人々と暮らす体験を得ていた。真夏は50 度以上も気温が上がる砂漠で干し上がり、雨季の時期には豪雨で道をふさがれ車が立ち往生した。行き交う人もいない中で路頭に迷い本気で遺書を書こうと思ったことだってある。それでも私は数々の狩りや儀式に参加をする中で、アボリジニ文化の深遠さを自分なりにたくさん、たくさん学んできた。

    まず『アボリジニは現代人である』という当たり前の定義からお話をしていこう。これは友人・知人たちから私が常に言われることなのだが「あなたは”本物のアボリジニ”を知っているんでしょう? すごいわあ。彼らはどんな人たちなの?」という問い掛けに私は非常に大きな戸惑いを覚えるのである。”本物のアボリジニ”とは一体誰だ? ”ニセモノのアボリジニ”はじゃあどこにいる?

    オーストラリアのアウトバックを旅していて辺境地帯のブッシュで暮らすアボリジニに出会うということは決して『原始人』に出会うことではないのはご存知であろう。当然のことながら原始人は原始の時代にしか生きていないのだから。そう、だから彼らは21世紀を我々とともに共有している紛れもない『現代人』なのである。

    現代人アボリジニは実に多様性のある暮らし方をているのだ。大学を卒業してビジネスを始めるアボリジニ、失業やアルコール中毒に苦しむアボリジニ、先住民族の権利回復運動にとても熱心なアボリジニ、4WDとライフルを駆使してカンガルーを狩猟するアボリジニ、先日私が参加をしたような伝統的な儀式の中で夜明けまでひたすら歌い踊り続けるアボリジニ、そして現代美術としてもはや世界中から注目を浴びるアボリジニアートを制作するアボリジニ、彼らはすべてオーストラリア各地で今現在を生きているそれぞれのアボリジニの姿であり、これが現代人アボリジニの多様性なのである。

    今回はその中の1人、私の10年来の友人でもあるアボリジニ画家・ガブリエラポッサムをご紹介させていただこう。彼女は今やとても著名な画家となりこれまでにも海外の展覧会に幾度も招待され、ニューヨーク・ロンドン・シンガポール・香港と世界をまたに掛けて活躍するアボリジニアーティストである。

    そんな彼女が現在我が家に居候中。どうしてこうなっちゃったのかが実は私も今一つはっきりしないのだが、気が付くと彼女は我が家に当然のように滞在をしていた。こちらが「出て行ってちょうだい」と言わない限りこのままあと2~3年は居そうな様子だ。

    ことの始まりは1本の彼女の電話からだった。深夜、私がすでにベットに入って読書をしていたところ泣きながら(←私にはそう聞こえた)ガブリエラが電話をしてきた。こちらが驚いて理由を聞くとなにやら旦那とけんかをして家を追い出されたというではないか。行くところがどこもないという。う~む…。ホントの話かな…。申し訳ないがそんな猜疑心が一瞬でも私を襲う。

    それもそうだ。一体これで何度目だろう。これまで彼女からの同じようなSOS を安易に受け入れ、こちらも本気で助けようと身体を張った矢先にいきなり失踪しちゃう我が友人ガブリエラ。おまけについ数日前にも街で彼女と私は待ち合わせをしたのだが、待ち合わせの時間を彼女から”ランチタイムね”と指定されたので私も”うん、わかった。じゃあランチタイムね”と確認の返事をしてその当日、私なりに理解する”ランチタイム”に約束の場所へ出掛けていったのだが、アボリジニの彼女が考える”ランチタイム”が私の把握していた”ランチタイム “ではなかったらしく、結局2時間ずっと待ったが彼女は姿を現さなかった。彼女のその日の”ランチタイム”はいったい何時だったのかいまだ解明できておらず。まあ、そんなやりとりは過去10年間数え切れないほどあったのだし、その間3年ぐらい彼女は失踪して誰も行方がわからなかったこともあったのであまり深く考えないことにしたい。

    そんな彼女が我が家に電話をして再び助けを求めてきた。よし、よかろう。来るなら来い。ドーンとこのオレ様の胸にまた飛び込んで来るがいい…と、ガブリエラに英語でこれを何と言ったかあまり記憶にないが、彼女は私が承諾したことをとても喜んで自分の洋服がぐちゃぐちゃに詰まった大きなバックを一つ抱えて、我が家へやって来ることに。

    かれこれ彼女との共同生活もすでに今日で5日目を迎えるが、とても家を追い出されて悲しみに明け暮れている女性には見えないほどガブリエラは毎日食欲旺盛だ。一日5食。見事な食べっぷりだ。トイレにも日に10 回は行く。我が家のトイレットペーパーが一日に2ロールずつ見事になくなっていくのだ。一人暮らしの私にはまるで考え難い現状だがひとまず文句は言わず黙ってそこら中に散らばったトイレの芯を拾い集める。

    心優しいオレ様は気晴らしにドライブにでも行こうかと誘ってみるがあまり乗り気ではないようだ。じゃあ彼女は一日中我が家でいったい何をしているかというとオーストラリア中にいる自分の家族に(アボリジニの親族制度はとても複雑。あっちにもこっちにもそこにもここにも家族がいっぱい)片っ端から電話をして自分の居場所や心情を訴える。もちろんオレ様の家の電話を使ってだ(大粒の涙)。

    水道出しっぱなし、冷蔵庫開けっ放し、それをいちいち注意しながら真夜中にステーキをジュウ、ジュウっと彼女のために音を立てて焼く私の身も案じていただきたい(砂漠のオンナは魚は食べない。肉、肉、とにかく肉さえあれば彼女はHAPPY)。

    自分の家でありながら私はすでに疲労困憊、ヘトヘトである。彼女の後を追っかけまわしては随時最終確認。夜は夜でゴジラの襲撃のようないびきのせいで私は睡眠を妨害される。目覚める時間は彼女の”ランチタイム”だ。時には朝の7時だったり、時にはお昼の1時過ぎだったり。とほほほほほ。

    本来狩猟採集民である流浪の民・アボリジニは一定の場所に長期間いることはないと言われていたが彼女はどうだろう。

    ガブリエラは私と同じ歳ですでに5人の子持ち。ほらはたまに吹くが苦労人である。熟女同志、人生について語ることはたくさんあるゆえ、しばらく彼女との共同生活を楽しんでみようと好奇心旺盛な私は今日もトイレットペーパーをこれでもかというほど買い占めて分厚いステーキを冷凍保存し”来るなら来い!”の体制でのぞんでいる。

  • 儀式への参加 -日本代表-

    普段文明都市メルボルンで暮らす私は、朝起きたらまずは熱いシャワーを浴び、夕方外出なんてするときには更にまたシャワーを浴びる、こんな”水大好きオシャレ人間”が実質8日間もシャワーどころか歯を磨くことすら断念した。

    それほど限られたわずかな水のみで暮らしたアボリジニとのブッシュキャンプは、まさに自分をヘナチョコ文明人と認知せざるを得ない、そんな過酷で厳しいものであった。

    野宿生活では髪なんて当然洗えるわけがないので、頭皮がはじめの数日ばかりはかゆかったのだが、そのあとは何も感じなくなったし、毎日毎日朝から晩までこき使われて疲労困憊していたので、頭のかゆさなんてのは、もはやどうでもよくなっていった。

    アボリジニ社会における”儀式”の重要性は、私自身これまでにもたくさんの関連書物で学んでいたので、最近通い慣れてずい分親しくなった砂漠のアボリジニ居住区でも、私のほうから”儀式に参加をしたいんだけど…”と安易に申し出ることはなかなかできなかった。 知識より実践を重んじ、ましてやフィールド調査を主とする私のアボリジニアート研究での”儀式”への参加は、それゆえとても大きな意味をもたらすものであることは確かだった。

    そんなとき毎年1年に1度だけ行なわれるというアボリジニの女性の集会”Women’s Meeting”へ今回一緒に参加をしないかと声をかけられ、「え…っ。こんな部外者の私が…。いいの? ほんとにいいの? それならもちろん喜んで行っちゃうわよ」と二つ返事でOKサインを出した有頂天のん気野郎の私であったが、実は今回誘われたそのMeetingといわれるものが、一体どれだけ重要で大規模な儀式なのか、なんていう予備知識がその時点ではほとんどなかったといってよい。しかし、かえってそれが新鮮で、「あるがままを自然体で受け止める、それが大事」といういつもの行き当たりバッタリ出たとこ勝負! である自分の信念にはピッタリだなと、安易に旅の準備を始めることに。

    アボリジニにとってのMeetingとは大抵”儀式”のことを指すのだが、その儀式も用途や地域によって、期間も様式も実に様々なものがあることは、事前勉強で心得ていた。許された者だけが、許された場所で世界存立の神秘の一部を知ることができるという、そんな神聖な儀式へ日本代表として参加を果たしたこのオレ様だったが、実はたった2日目にしてもう半死状態。

    まずは儀式の会場まで片道1400㎞という気絶しそうなほどの長距離ドライブで、すでに呼吸困難に陥ったことはいうまでもない。おまけに当然といえば当然なのだが、その会場となった場所はアボリジニの聖地といわれるところ。電気も電話もシャワーもトイレも三面鏡もドライヤーも電子レンジも何もない、まさにブッシュのど真ん中。普段大抵のことでは滅多に驚かないこのオレ様も、さすがに目を疑いたくなるような光景を初日からいくつも目に焼き付けることに。

    まず、1年に1度のこの大集会を心待ちにして、このたび豪州全土からはるばる集まった800~1000人はいたであろうアボリジニのおばちゃんたちが、みんなオレ様の目の前で中腰にかかんでおしっこをあっちでもこっちでもする光景には、慣れるまでそれなりに時間を要した。まあ、ここにはトイレがないわけだし、これは人間のとても自然な行為だと割り切ればよい、と自分に言い聞かせてはみたものの、このオレ様にとって用を足すのはプライバシー厳守のこと。駅で友人と一緒にトイレに入って隣同士だったりした際に、お互いの”音”を聞かれるのでさえ、ものすごく恥ずかしいっていうのに。それを至近距離1m以内で堂々とお尻をめくって”なさる”アボリジニの皆様の姿は勇敢だった。

    それでも恥じらいを感じてか、皆様ウ○コは木陰までわざわざ足を運んで、人目をはばかりながら御用を足されていらしたのだが、そのうちの何人かが、草むらで用足しの最中にお尻をヘビにかまれて大慌てとなり(←これ、ホントの話)、緊急時のためにと用意されていた飛行機に乗せられ、儀式そっちのけで最寄りの病院まで運ばれて行っちゃったことだって、慣れてしまえばぜ~~んぜん何てこと……ないわけがない。

    もしも日本人代表のオレ様が、同じようにお尻をヘビにガブリとかまれて病院送りされただなんてことになったらそれこそ笑い者だ。出発前に激励してくれた仲間たちから『ヘビにお尻かまれたんだって?』なんてニヤニヤされながら聞かれるのは、このうえなくみっともない。ましてやそのヘビが毒ヘビだったらそのまま息を引き取ってしまうかもしれないではないか。
    そんな心配をしていたせいか滞在中、実に7日間もの間私は便秘で苦しむことになった。ブッシュキャンプというあまりの逆境のせいからか、ウ○コ様がちっとも顔を出そうとしてくれなかったのだ。

    お腹は張るわ、髪はボサボサだわ、顔はホコリで真っ黒だわと、真剣に嫁入りはもう500%ぐらい諦めようと明るく決心した。歯も磨かないこんなオレ様とは、誰もチュウなんてしてくれっこないもんね。

    日の入りが毎日午後5時半ぐらいだったので、それ以降はどこを見渡しても真っ暗闇。懐中電灯をおでこにタオルで縛り付け、キャンプファイヤーで火傷をしながらの夕食作りとなる。何故か食事当番は連日このオレ様だった。来る日も来る日も全く切れない包丁で、野菜をこれでもかというほど大量に刻んだ。普段、料理は我ながら得意だと自負するオレ様だが、それはちゃんと自分の好みの調味料が揃ったキッチンで、オーブンやコンロを使いこなしての話。それがアチチチチ……とぶ厚い軍手をはめた手で鍋の取っ手を持ち替えながら、キャンプの焚き火での調理は勝手がいま一つ……というか全然わからない。炭だらけ灰だらけとなって、アボリジニのおばちゃんたちから叱られながら、おまけに使える調味料が唯一「塩」だけだったため味付けまでさっぱり?!?! と始終途方に暮れる始末だった。

    当初”ここからもう逃げ出したい”と本気でそう思っていたアボリジニのおばちゃんたちとのブッシュキャンプも、3日目・4日目・5日目になってくると、何となく元来の自分の『野生の勘』のようなものがみるみる冴えてきて不思議と楽しく感じられてきたのには驚きだった。

    時間に追われることのない毎日というのは、なんという「解放感」だろうか。着ている洋服を一向に気にせずに思いっきり汚せるということが、こんなにも楽しいと思えたひととき。はるか昔の幼少の頃にいつの間にか戻ったような、そんな懐かしい感覚。普段”人の目”ばかりを気にして暮らす日々。それがとてもつまらないものに思えてくるだなんて。こんな非日常的な体験をするとき、多少戸惑いながらも、人はあれこれとまっすぐ自分のこころに向かって語りたくなるものだ。

    儀式中は一切撮影禁止。ノートを取ることさえ許されず、儀式の内容を公に発表をすることもだめ。それゆえ私もここであれこれと儀式の全容を綴ることはお許しいただきたい。その代わりその儀式に少しでも関与できた日本代表の「心の変化」のようなものを今後お話していけたらと思う。

    往復2800キロの大陸縦断ドライブで、実はメルボルンに戻った現在でも、今だ身体中があちこち痛いのだが、その痛みを感じる度に、またあのダイナミックな体験を確実に思い起こせる、そんな喜びもかみしめている。

    人生、一生勉強ですな。

  • 砂漠への招待状

    私は昔から身体がデカかった。態度はそれほどデカくないと自負はしているが、声も普通の女性よりかなり低いので、あんまり女っぽく(←おしとやかにという意味だ)できないのが何を隠そう小さな悩みでもあった。しかし私はこれまで一度だけうっかり男子トイレに入ってしまったことを除けば、病院の受付などで男の人に間違えられたことはないし、ヌードショーの呼び込みに手招きされたこともないし、胸だって人並み(以上)にあると勝手に誤解しているので、自分では正真正銘「オンナまっしぐら!」だと確信していたのである。

    ところがどっこい、先日親しくしているアボリジニの女性に「オマエは男だ」と断言された。それは全く不可解な理由からだった。彼女たちが私を男だと思ったわけ→それは私の乳がヘソまで垂れ下がってないからだというのだ。なんてことだ。乳の大小で彼女たちから性別判断をされたとは。この認識をしっかり調査して来年のオーストラリア学会で発表しなければならないぞ。とにかくアボリジニの女性たちの中では、間違いなくおっぱいの大きさが女性としての認知度の高さと比例しているということがわかった。

    今更ジタバタしてもこれから私の胸が突然ヘソまで伸びるとはとても考えられない。こうなったら正々堂々とオレ様も男らしく正面から立ち向かおうではないか…。と意気込んだ矢先に名案が思い付いた。「そうだ。こうなったら私はまだ成熟しきっていない子供に成りすますのはどうだろう。胸はこれからみるみる大きくなるんだぞーーーー」。と覚えたてのアボリジニ語(ルリチャ語)でしっかりと意思表示をしてみようと思うがいかがだろう。

    さて、ところでどうして今回こんなに『胸』にこだわった内容を書くかと申しますとね、実はとんでもなくスペシャルなアボリジニの儀式にこのオレ様が招待をされたからなのである。儀式では参加者全員が上半身スッポンポンとなり幾日も幾日も踊り唄い明かすことになるという。おまけにその儀式は一年に一度だけ行なわれるという特別なもので参加者は女性のみ。そう、だから『男』(だと思われている)オレ様は本来参加が認められないのであるが!!!…これから成長する子供であればなんとかなるだろうと安易にただそう思ったわけなのだ。

    儀式のタイトルは「WOMEN’S MEETING」といって、豪州全土から総勢1500人余りのアボリジニの女性たちが一同にある一定の場所に集合をする。どんな人々が、何の目的で、何をするために集まるのかは私にはまだ明かされてはいない。

    ただこの儀式に参加ができるのは部族の歌をきちんと歌いこなせ、伝統的な踊りを見事に披露出来る年輩者のアボリジニ女性に限られるという。今のご時世、若手はなかなか伝統を受け継ごうとしないと年輩者は口を揃えてぼやいていた。そこにこんな若輩の《何たって子供ですから。にひひひひ》オレ様が、しかもアボリジニ以外の人間としてこんな大それた儀式に参加ができるというこの興奮を一体どのように伝えたらよいものか。到底言葉や文字では表現しきれないということをどうかご理解いただきたい。

    出発日は何と私の誕生日である。よりによって38回目の”めでたい”バースデーに砂漠入りをするとはこれも何かの”御縁”だと思わぬわけがない。38年も歳を重ねていながら子供になりすますこの図々しさも感心ものだと思っているが、それより何より何とイカしたバースデープレゼントではなかろうか。なかなかもらえないもんね。こういったプレゼントは。

    そうだ…プレゼントといえば一つ忘れ難いものがあるのを思い出した。もう随分前のことであるが友人から(もちろんトノガタ)”誕生日に何が欲しい?”と聞かれたことがあり、根っから謙虚である私は”うーーん。そうねぇ…。大きな花束なんてもらってみたいわあ。あ、ううん…でも気にしないでね。別におねだりしているわけじゃないんだからーーん。うふっ”と慣れない女言葉でくねくね身体をねじ曲げてみたことがあったが、その友人は私の誕生日の当日にこれでもかというほどたくさんの”花のタネ”を贈ってくれたことがあった。ぶったまげた。

    過日、儀式への参加前にアボリジナルアート展示会のためにアボリジニ村から年輩者が4人メルボルン入りしたので彼女たちに初めて参加をする儀式のことについてあれこれ尋ねてみたところ、持参するものは黒のロングスカートのみとのこと。へっ??? それだけ??? ほんと?

    何やら上半身は皆ヘソまで垂れ下がる豊満な胸にペイントをするのでそれが洋服代わりとなり、あとはロングスカートを身に着けて(パンツは履いてはならないらしい)ひたすら唄って踊っているとのこと。

    メルボルン入りした彼女たちから儀式用のダンスを少し習ったが、私の踊りを見てみな歯をむき出して抱腹絶倒。まいったな…。しかし「不安がることはないよ。あるがままに、そのままを受け止めればそれでいいのじゃ…」とそう言ってニヤリと笑うコリーンばあちゃんをとことん信じよう。

    とにかく私は今、儀式への出発前の興奮でちっとも落ち着かない。これほど想像の全くできない未知なる体験にどきどきわくわくすることなんて(しつこいようだが)、38年間も生きた中ではあまり味わったことがなかったような気がする。

    電気も電話もシャワーもまるでないブッシュの中でのアボリジニ達との儀式、遥か彼方の銀河を眺めながら大地に抱かれて眠る心地良さを思う存分味わって来ようと思う。

  • 再会への長い長い道のり2

    レンタカーを見事にぶっ壊しながらも、何とかして砂漠の女王様との再会を果たすためやっとの思いでたどり着いたアボリジニ村。そこはアリススプリングスから延々4時間半のドライブが必然である、まさに砂漠のど真ん中。再会までの長い長い道のりであった。

    途中、予期せぬ事故のために予定よりも大幅に遅れて到着した我々3人は、取りあえず自分たちの車でそのままアボリジニ居住区内をゆっくりと一周してみることにした。一周といってもそこはものの15分ほどであっという間に周れてしまう規模の小さな居住区だ。さすがにあたりはもう夕暮れで薄暗くなってきていたので、肌の色が黒いアボリジニたちが私にはみんな同じ顔のように見えてしまいそうだった。トプシーとリネットはどこだろう? 村のアボリジニたちにとって外からの訪問者はいつだって興味津々……見慣れないレンタカーに乗った我々の周りにすぐさま駆け寄って来る。私にとってこれで一体何度目となったであろうアボリジニ村への訪問は、さすがに顔見知りになったアボリジニの友人・知人が村の中にたくさんおり、私の姿を見てみな遠くから大きく手を振ってくれるではないか。中にはピョンピョン飛び跳ねて歓迎のダンスまでしてくれる少女の姿もあった。これってたまらなく嬉しい。

    そんな中不意に車の窓からひょいっと顔を覗き込んできてニンヤリ笑うオヤジさんもいる。どさくさに紛れて私の手まで握ってくる。でも男性に手を握られるのなんて久しぶりなのでちょっと嬉しい。

    そういえばこのおっちゃん……よく見かける顔であるが誰だったかな。どうも名前が思い出せない。チャーリーだったっけ? いやデイビット? 鼻毛が見えるほど顔を近づけられて戸惑う私。私の毛穴も彼に見られているのだろうか。そしてこのおっちゃんには前歯がない。結構迫力ある表情だ。彼は私の手ばかりではなく腕までもむんずとつかみ、その手がそのままエスカレートして今度は私の豊満な胸に伸びてきて……なんて話はあまりにも作りすぎ。彼はそんなハレンチではない。ただ馴れ馴れしいだけだった。「おー! ナカマラ。(これは私のアボリジニスキンネーム。このアボリジニの親族システムを説明するのは少々ややこしいのでそれはまた今度)オマエ、またやって来たのか。オレのこと覚えとるか? オレはオマエの旦那だ。チャパチャリだ。今度は誰を一緒に連れてきた? トプシーとリネットが今日お前らが来るのをそれはそれは楽しみにしていたぞ。チャポン(JAPAN)はとんでもなくすごいところだったらしいじゃないか。オレ様をいつ連れて行ってくれるんだ。ところでナカマラ! 40ドル持ってないか。あったら今すぐオレにくれ!」とかなり一方的に語りかけてくるこの歯なし男、しかも私の旦那と名乗る男だ。私としたことがいつの間に結婚をしていたのだろうか。自分のことであるのにまるで記憶がない。もしかして前回酔っ払ったあのとき……? いや、前々回のあの儀礼で……?? いやそれとも白昼の車の中か……???

    それにしてもなぜ私の旦那と名乗るこの歯なし男が欲しがる金額は、いつも40ドルなのだろう。妻である以上そこのところをはっきりしておかねばならない。彼には必ず毎度お金をせびられるのであるがそれが50ドルでも100ドルでもなく決まっていつも40ドル。今度いつか2人きりになって夫婦の会話でこの謎を探ってみようと思うがいかがだろう。

    さて、さっきの私の旦那と名乗る歯なし男が言ったように、昨年10月にこのアボリジニ村からトプシーとリネットが日本へ行ったことは、もはや村中の大ニュースになっていた。この村にははっきりいってプライバシーというものは存在しない。従っていつ、誰が、誰と、何を、どんな風に、ああやって、こうやって、こんなことまでしちゃった……ということがたちまち村中のすべての人間に分かってしまうというわけだから、アボリジニ村訪問をいつか予定されている読者の皆様、十分ご注意あそばされたし。メルボルンでは独り暮らしを楽しみ、隣に住む住人の顔さえ知らない私の生活からはまるで想像がつかない生活だが、何だかこんなふうに“みんなで一緒に暮らしている”といった大家族的な暮らしも案外いいものなのかもしれない。

    念願の再会を心待ちにしていたトプシー・リネットは我々が村に到着をしたことを聞きつけすぐさま会いに来てくれた。熱い抱擁を交わし再会の涙を流している真っ只中に、耳元でトプシーから「シャンプー、帰りに置いていけ」との冷静な指示あり。物質社会ではなく精神社会であったアボリジニたちも時代の流れによって暮らしぶりは大きく変化した。シャンプーちゃんと置いてくからもうちょっと泣かして……とつぶやく私であった。

    来日中はトプシーとリネットに、できる限り日本を満喫してもらうべく場所へあちこち案内をした私たちが、今度は彼等のホームグラウンド・砂漠のブッシュで彼等から歓待の案内を受ける番となった。もちろん“狩り”以外のなにものでもない。あのだだっ広いブッシュの中の大地をひたすら何時間も何時間も歩くことは、自然と自分が一体になることだと彼女たちは口を揃えて我々に言う。大地を理解するということは、まず自分の足でその大地を踏みしめて感じることなのだ。おまけに狩りはイモムシ・蜜アリ・カンガルー・トカゲとチョイスは様々だと自慢気に砂漠の女王たちは言うではないか。今回は取りあえず日本からのゲストを連れてきているので、まずは“初心者コース”でお願いしますと頭を下げた。

    これまで何度か蜜アリ狩りの経験のある私は興奮に胸を躍らせた。しかし初心者2人は「ええぇぇーーっ!!!アリなんて食べんのー?信じらんなーい」と意気地のないセリフを吐きながらもしぶしぶ同行。トプシー・リネット・ナープラの3人を乗せた我々は、蜜アリ狩りのために道なき道をブッシュの中へと消えていった。それにしても本当に道のないところを彼女たちの案内で目的地へ迷うことなくちゃんと到着できるのは、まったく見事であった。これは東京都内の地下鉄を私がグイグイ乗りこなせるのと一緒なのかな。

    焼きたてカンガルーのしっぽを丸かじりした。特に気温40度近い砂漠のど真ん中でいただく味は、まさに格別でとてもワイルドな気分になる。インスタントラーメンを鍋ごと「アチチチ」なんて言いながら食べるときのあの野性味溢れた感覚に、どこか似ていると思えるのは私だけではないはずだ。美味しそうに脂ぎったしっぽをガブリとかじるトプシー・リネットは誰よりも凛々しく見えた。

    日本での浴衣姿の彼女たちも確かに美しかったが、夕陽に照らされた真っ赤な大地の上に腰を下ろしてひたすら土の中を掘り続けるトプシー・リネットの姿はその何倍も美しかった。

  • 再会への長い長い道のり

    ほぼ半年振りのアボリジニ村訪問。毎度のことながら胸躍らせる瞬間である。

    昨年来日をしたアボリジニの女性画家・トプシーとリネット、そしてコーディネーターのグラニスとの再会が今回私が訪問をする一番の目的であった。何しろ生まれて初めて海を越えた日本での滞在2週間が、彼女達にとっては未だに夢物語のようだということをその後何度となく電話で聞かされており、それが理由で絵画の制作にもまったく集中ができない困った状態なんだと、グラニスは苦笑いをしながら私にそう話していたのであった。そんな彼女たちが自分たちの日本滞在物語を村のみんなに、家族に、いったいどのように語っているのだろうか、私はそっちのほうが何よりも興味深々であった。

    グラニスの話によると、何やらリネットは日本から村へ帰るなりご主人に顔面パンチをくらってしばし入院したというではないか。理由を聞くと「2週間も旦那のオレを放ったらかしておいてお前は一体どこで何をしていたんだ。きっとよそにオトコができて遊んでいたに違いない」と突然逆切れしたという。

    おお、かわいそうなリネットよ。私が今回村でご主人に会ってきちんと説明をしてやろうではないか。それでもわかってもらえないようであれば、今度はお返しに私が彼に顔面パンチをくらわせよう。こうみえても以前極真空手を3年ほど習っていたこともあったんだ。始めた動機はまったく不純であったがまだまだ上段回し蹴りぐらいは朝飯前だ。

    メルボルンから砂漠へ空路3時間。アリススプリングス空港から西へおよそ370キロひたすら内陸部を走ったところがトプシー、リネットたちが住む人口350人ほどのアボリジニ居住区である。速度制限のない、景色の一向に変わらない広大な大地を何時間も何時間もただただ走り続けて目的地へ向かっている、そのひとときこそ自分自身、そして自然との対話をゆっくり楽しみたくなるものだ。おまけに道の両脇にうっそうと生い茂るブッシュの木々がまさに「さあ、どっからでもかかって来い!オンドリャ~」とでも自分に問い掛けているようなそんな感覚にさえ陥る。

    今回は遠路日本からはるばる友人夫妻が同行し私以上にアボリジニの女王様たちとの熱い再会を待ち望んでいた。

    「ねえ、ねえ。それにしてもちょっとこの日差し、ハンパじゃなく強いんじゃない? 昨夜私たちが日本を出てくるときは雪が散らついてたんだけど」と友人のトモちゃん。アリススプリングス空港に到着するなりギラギラと肌に突き刺さるような日差しにすっかり閉口気味であった。彼女はつるんとした真っ白な美しい肌の持ち主ゆえ、日焼け対策は万全にしてくるようにと、私は事前に口をすっぱく忠告をしておいた。だが気温40度近い炎天下のもと、彼女はとにかく「アツイ、アツイ」の連発だった。

    空港からレンタカー、4WDを借りてすぐさま我々3人は出発。もちろん敏腕コーディネーターであるオレ様の運転である。「運転免許を取得してからもう15年以上(ほんとはもっと)過ぎようとしているんだから、オフロードのドライブだって全然へっちゃらなのよ。それに今日これから向かうアボリジニ村へは今まで何度も行ってるから道もよく知ってるしね。日本からの長旅であなたたちはさぞ疲れているでしょう? ゆっくり昼寝でもしてたらいいよ。目が覚めたらそこはもうアボリジニ村だってば。ははは……」

    そんな余裕満々なことをいつものように適当に調子よく言いながら快調なスタートを切り、車内でお気に入りのCDをガンガンかけて道中のおしゃべりに花を咲かせていた我々であった。すると……!

    アリススプリングスからすでに200 キロほど離れた未舗装のジャリ道へさしかかったころ「あっ!」と声を出したのと、道の両脇のブッシュにガクンと車両が突然乗り上げたのがほぼ同時であったそのとき……。

    我々の乗った4WDはさっき「どこからでもかかって来い! オンドリャ~!」と問い掛けていたブッシュの木々に本当に立ち向かっていくことになった。”うっそー!”と驚く間もなく、次々とぶっ倒した。それはまるで私が素手でボブ・サップにかかって行くようなものだった。この瞬間我々3人は同時に多分みな同じことを考えたであろう。

    「車が横転する」と本気でそう思った。こんなとき普通は「きゃあー」とか「こわい!」とか「神様助けて~!」と、きっと高い声で叫んじゃったりするんだろうなーと、私の頭の中でのイメージは結構バッチリだったのだが、もともと地声が低いので私にはこのセリフは難しい。せめて初めの音の高さだけでも合わせてみようか……なんてバカなことを考えていたが、今自分の目の前で非常事態が起こっていると認識したことで慌てて咄嗟に出た台詞は「何だこらぁ~!? どーした。どーした」であった。

    どうしたもこうしたも、本当の意味でどうかしているのはこの私である。車両は真ん中の道を横切って反対側のブッシュに再び突っ込む瞬間に、にぶい音をブルルルと出しながらようやく停まった。

    「うっそー。何これ。信じらんない。大丈夫? 2人とも怪我はない?」と同乗者にまず安否の確認。二人は無言。顔面蒼白。そりゃそうだ。私だって泣きたいさ。よりによってあなたたち二人を乗せているときに何でこんな事故を起こしちゃったんだろう。ジャリにタイヤがスリップしたのか?それより何より私もこれまで長いことこの砂漠のど真ん中を走り続けているけど、こんな事故は初めてだ。そうよ、ここはご存知砂漠のど真ん中。ガソリンスタンドなんて何処探してもないし、携帯電話だってつながらない。助けを求めるにも通りすぎる車なんてまず一台もない。

    「ごめんね。こんなことになっちゃって」と今度は本当に涙声になって、私は二人に謝った。普段低い声がより一層低くなった。

    「車がこんなメチャメチャになっちゃって、このまま街まで引き返せるかな」。内心そう案じながら私は恐る恐るもう一度エンジンをかけてみると、何とかかろうじてかかったではないか。「おー。でぃすいず、あんびりーばぶる!!!」と日本人しかいないのに何故か私は英語をしゃべっていた。「でもさ、今の激突もしもオレがビデオ回してたら絶対テレビ局に売れるよなー。惜しかったよなー。」と自称インチキカメラマンのご主人賢ちゃんはこんな事態に余裕の発言。

    その後、前方メチャメチャになった4WDで再び200キロの道のりをエッコラエッコラとアリススプリングスへ引き返したことは言うまでもない。

    警察へ行って事故証明を発行し、レンタカー会社へ頭を下げて代替車を用意してもらい、私は再び男らしく運転手として任務遂行。延々4時間半のドライブののち、その晩念願のアボリジニ村へようやく到着をした。再会までの長い長い道のりであった。極度の心労と長時間の運転で私の目はもう半分以上白目になっていたが、砂漠でのアボリジニの女王様たちとの熱い再会に私は「きゃあ~!」と、かなり高い声を上げて彼女たちに抱きついていた。イメージ通りの声だった。

    ……つづく

  • 愛と涙の東京物語(最終回)

    根は怠惰なくせに好奇心旺盛の私はとにかく思いついたことは即、行動に移さないと気が済まない人生をこれまで送ってきた。スチュワーデスをパッと辞め、日本をさっさと脱出し、アメリカ・オーストラリアを転々と放浪しながら現在に至る。ここに「結婚」という思いつきがもっと早く私の人生に訪れていたら、もしかしたら今ごろはプロ野球選手の妻ぐらいにはなっていたかもしれない。そんな勝手な妄想ばかりが頭をよぎるメルボルンの秋。

    アボリジニ居住区へ行ってみたい……そんな思いつきのような願いがあれよあれよという間に叶ってからもう随分と長い時間が経つ。そしてそこに住む”裸足のアーティスト”を日本へ連れて行きたい……その想いも昨年10月の展覧会で見事に叶った。”想っている事は叶うんだ”と信じる私は今日もあれこれと自分に都合のいいことをたくさん想うのであった。にひひひひ。

    展覧会の初日には主催ギャラリーがオープニングパーティーを企画してくれた。砂漠からの特別ゲストであるトプシー・リネット・そしてグラニスは見事にドレスアップをし、とても日頃ホコリまみれのアボリジニ村で暮らす3人には見えないぐらいイカしていた。私のお気に入りのスカーフをファッションのアクセントにと思いトプシーとリネットにそれぞれ貸してあげた……のだがトプシーはそのスカーフで口に付いたケチャップを思いっきり拭いていた。とほほほほ……。

    会場にはそれはそれはたくさんの人が駆けつけてくれ砂漠からのゲストたちはたちまち注目の的となった。私も会場に来ていた友人や知人たちに自分が日本へ招いたゲストたちを自慢気に紹介したものだった。そこへ私の視界に突然入ってきたある男性の姿。あれ?どこかでお会いしたことがあったけど……。どなただろう……??? 今日は一応パーティーだというのに仕事帰りという理由でジャージのような格好でいらしたあなたはいったい誰? 誰なのよ!!!

    「内田さん、お久しぶりです。今日はおめでとうございます」と私に向かって挨拶をしてくださり、頭をぺコッと下げるそのジャージ姿のトノガタは現在某テレビ局でディレクターをしている高校時代の友人だった。当時彼はクラスの中でもあまり目立つ存在ではなく、まさか華やかなテレビ業界で仕事をする人になるとは誰も想像をしていなかったであろう。

    「内田さん、すごいじゃない。オーストラリアからこんな人たち連れてきちゃって。お金かかったでしょ? 内田さんが全部出したの?」と、さっきのジャージ姿の彼がさらりと聞いてくるではないか。おい!そこのジャージ男。今日はよりによって展覧会の初日で、しかもオープニングパーティーでこんなにたくさんの人たちに囲まれて私もひたすら歯をむき出してずっと笑っていなけりゃならないっつーこんなときに、何でアンタはそんなお金のこと聞くのかね! とややムっとした表情をしてみせたら「ねえ、今回東京にいる間にテレビ出てみない?ギャラは出せないけどさ。メディア使ったら展覧会の良い宣伝になると思うけど」とジャージくん。

    顔はちょっと左門豊作くんのようだが(『巨人の星』の登場人物の一人)業界での力はそこそこにあると見た。さっきの立腹は引き出しにしまっておこう。来日早々こんなに急にテレビ出演の話が舞い込んで来るとはラッキーな我々だ。

    トプシーとリネットは生まれてから一度も美容院へ行ったことがなかった。アボリジニ村では自分たちで互いに髪を切り合う。暮らす環境が違ったって我々は同じオンナ同士じゃないか。そう、やっぱりテレビ出演となりゃ綺麗に映りたい願いは皆いっしょ。

    日本へ来てから体験した彼女たちにとってのたくさんの不思議な出来事。トプシー・リネットは美容院でも大きな注目を浴びた。シャンプー台に案内されていきなり電動イスで背中が倒れたとき、トプシーは絶叫し店内にいる他のお客様が一斉にこちらを見た。どうせならエステもやってしまおう…。リネットはマッサージの間、あまりの気持ちよさにイビキをかいて寝てしまったというウソのようなホントの話もある。およそ2時間後、砂漠の女王様たちは全くの別人となった。本当に美しく変身した2人を見た私は思わず”ぎゅうっ”と抱きしめて「きれいだよ。とっても」とつぶやいた。どさくさに紛れて私のことも誰かそう言って抱きしめてくれないかしらと周りを見渡したが、どこにも私と視線を合わせるトノガタは見あたらなかった。

    テレビ収録は約1時間。スタジオらしきところへ案内され、ブラウン管の向こうで見慣れた女性アナウンサーにドキドキし『サインもらっちゃおーかなー。写真撮っちゃおーかなー』なんてミーハ-根性を丸出しするわけがない私は視点が定まらず、ただキョロキョロするばかりであった。収録も無事に終わり我々は新宿のネオン街をてくてく歩いて帰った。テレビ撮影だろうが何だろうがそんなことはどうでもいいといった様子のトプシーとリネットはお腹が空いてたまらなかったらしく私の腕を引っ張って「フード・フード」とチカチカ光るレストラン街を指差した。

    今回”愛と涙の東京物語・最終回”を迎えるにあたって私も毎月の原稿を仕上げるたびにトプシー・リネット・グラニスと過ごした2週間の日本滞在をいま一度思い起こし、想い出のアルバムに貼った写真300枚を1枚1枚全部に目を通す。

    人は時々「私は○○と出逢って人生観が大きく変わったわ」と言う。自分の人生観を変えてしまうような、そんな出来事なんて本当にあるのであろうか。「いや、それがあるんだよね……」と私は断言する。

    オーストラリア先住民、アボリジニと出会ってから私は「あるがままに」物事を自然体に受け止められるだけのハートのでっかさが、ほんの少し養われたのではないかと思っている。これまでのように変に肩肘張って意固地になることなく、「あれもOK」「これもOK」「だからみんなOK」のようなある意味での寛大さとでもいおうか。「認める」ことで自分がものすごく楽になっていくそんな不思議な感覚。これからもずっと大切にしていきたい。

  • 愛と涙の東京物語(4)

    「日本へ行けば、ジャッキーチェンに会える」そんなでまかせを私はアボリジニのおばちゃんたちに言った。2003年11月に開催した東京でのアボリジニアート展覧会に際しての来日のためである。日本へ来てもらえるならウソもつこう…と。
    なんと言ってもアボリジニの人々の間でジャッキーチェンは絶大なる人気を誇るスーパースターNO.1なのだから。

    来日したトプシーとリネットは大きな興奮とともに日本へやってきた。生まれて初めての大冒険、2週間の日本滞在である。

    成田空港へ出迎えに行った私は彼女たちと熱い抱擁で再会を喜び、さあ!いざ車に乗り込もうとしたらトプシーがいきなり私の袖をひっぱる。「なに?」と彼女の口元に耳を傾けるとコソコソ内緒話のように「ジャッキーチェンはどこだ」と早速問い掛けてくるではないか。
    成田空港には当り前だが日本人がうじゃうじゃいる。こんなにたくさんのアジア系の人間を見たことがないトプシーはあたり構わず指差しをしながら「あれがジャッキーか?それともこっちがジャッキーか?」と、まるで焦点が定まっていない様子。彼女は空港にいる日本人がすべてジャッキーチェンに見えてしまったようなのだ。

    「…まいったな」。私は内心ドキリとし、どうやってこの2週間のあいだにジャッキーチェンのそっくりさんを探そうか・・・いっそのこと報酬付きで一般公募してみようかなんてことが頭をよぎる。

    そこへ友人のトモ子ちゃんが「いーのがいるのよ。ジャッキーはまさにあいつしかいない。本人もジャッキーチェンの大ファンだからさ。ファンへの手の振り方とか直筆サインとかものすごく上手に真似できるんだよ。私、やつに頼んでみるからさ」

    持つべきものはうそつき仲間の友人である。私はすがる思いで彼女に「じゃあお願いしちゃってもいいかな。トモ子ちゃん。助かるよ」。そう言ってジャッキーチェンに扮してくれる男性の快い返答を待つことにした。

    オーストラリア中央砂漠のど真ん中から今回はるばる日本へやってきたアボリジニのゲストたち。もしかしたらこの来日は彼女たちにとってはそれこそ一生に一度の思い出になるのかもしれない。

    そう思うと2週間の日本滞在は決して長いわけではない…が、私のお財布も笑っちゃうぐらい空っぽになったのでやっぱり2週間でよかったのかも。

    こうなったら2週間の滞在中はあそこもここもと寝る間を惜しんで私は彼女たちを連れまわすことにした。初めて見るもの、初めて味わうもの、初めて感じること…何から何まで初めてづくしの体験に多少の戸惑いを見せながらもトプシー・リネットは始終満ベンなる笑みを浮かべていた。

    それでもやはりホームシックにはかかるものである。普段いつも一緒に暮らす家族がたまらなく恋しくなる。そこで敏腕コーディネーターのオレ様は3日に一度は砂漠の家族に電話をかけて声を聞かせるなどの涙ぐましい配慮をする。もちろん、オレ様の携帯電話からだ。念のためにお知らせをしておくがトプシーには5人、リネットには8 人の孫がいる。彼等ひとりひとりに「私は日本で元気に楽しく暮らしているから心配するな」と一部始終日本での様々な体験を語る2人。そう、オレ様の携帯電話からひとりひとりに(涙。大粒)。

    次回から私はプリペイド式の携帯にしようと固く決意した。そう、残高がなくなればあっという間に切れちゃうあの便利なやつ。

    深夜のパチンコが彼女たちはお気に入りだった。帰りに飛び込みで入った焼肉屋では箸を使わずすべて自分たちの手でじかに肉を焼いていた。また、デートスポットである東京お台場の夜景を見せてあげようと観覧車に乗せたらそれこそ絶叫もの。自分の身体が地面から離れて上空へ舞い上がるあの感覚はまさに私がスペースシャトルで宇宙へ飛ばされるようなそんな奇妙な思いだったらしく、トプシーもリネットも恐怖で顔をずっと伏せっぱなし。窓から見える宝石箱のような美しい夜景をとうとう一度も見ようとはしなかった。

    さて、前述のジャッキーチェンであるが何と依頼した男性からは快諾の返事があったとトモ子ちゃんから弾むような声で連絡があった。そこである晩我々はキャンプ場を貸切ってバーベキューを催し、そこへ突然ジャッキーチェンが現れるというまったく意味不明なシチュエーションをたくらんだ。普段砂漠でも狩猟で射止めたトカゲやイモムシをそのまま火にくべて食するスタイルはまるでバーベキューと同様だ。日本滞在中は少しでも彼女たちの日頃の生活習慣に近づけてやりたいとここでも敏腕コーディネーターの熱い配慮がうかがえる。予想通りトプシーもリネットも大満足の様子でこれでもかというほど肉を口一杯にほうばっていた。友人知人を招き総勢30人が砂漠からの特別ゲストへ大きな関心を示し代わるがわる彼女たちを囲んだ。

    そこへ!!!!

    ついにやってきたではないか、ジャッキーチェン。私のリクエスト通りシャツの胸元を少しはだけて顔がバレないように前髪ちゃんと垂らして絶対照明の真下には立たないようにと暗めの木陰から堂々登場。……したのだが、すでに彼がウソモノジャッキーだと知っている30人の友人知人の中には彼が当日ジャッキーチェンに扮することを知らない者もおり、何食わぬ顔で「あれー?まことちゃん。遅かったねー。仕事だったのー?今日はやけに派手な格好してんね」とのたまうばか者もいるではないか。まずい、まずいぞ。こうなりゃ、オレ様の出番だ。世界のスーパースター、ジャッキーチェンがこんなしがないキャンプ場に忙しいスケジュールをぬって来てくれたのだから絶大なる興奮と感激をファンは示さなければトプシー・リネットにすぐニセモノだとばれてしまうではないか。

    よし、やろう。ここでその緊迫感を見事に演じられるのはもうオレ様しかいない。思い起こせば中学生のときに劇団若草に応募したことだってあったではないか。

    少しお酒でほろ酔いだったこともあり私は夢にまで見たスーパースタージャッキーに会えたというとてつもない興奮のあまりに半狂乱になったオンナを見事に演じることを試みた。

    「じゃっきぃぃぃぃぃ~~~!ぎゃあ~~~!!!じゃっきぃぃぃぃ~~~!!!」セリフはそれだけだ。駆け寄って彼のシャツにしがみつき、声を裏返してひたすら叫び続ける。「じゃっきぃぃぃぃ~~~!じゃっきぃぃぃぃぃ~~~」いいのだ。半狂乱なのだから自分の世界にどっぷり漬かれば、ただそれだけでよかったのだ。

    この迫力ある私の演技に冷たい視線を流す30人の友人知人は放っておこう。トプシーとリネットさえ信じて喜んでくれたらそれだけでいい。

    彼女たちは500%、彼がジャッキーチェンだと信じ込んだ。近寄っていって握手を交わしあれこれおしゃべりに花を咲かせている様子。あとでニセモノジャッキーに聞いた話だがトプシーは何やらそうっと彼の耳元で「今晩、あとで私の部屋に来ないか」なんてお誘いもしたらしい。やるときゃ、やるな。トプシーめ。

    私は幼い頃本当にサンタクロースが存在する人物だと信じていた。今思えばまったく素晴らしい夢だったと、そんなピュアな心を持っていた自分が妙にうれしかったりする。そう、あの夢をいつまでもずっと抱き続けていられたら…と未だに夢見る夢子の私である。

  • 愛と涙の東京物語(3)

    連載40回目の記念すべき2004年2月号。よくもまあネタも尽きずにここまで続いたもんだとあらためて感激。それもこれもこれまで私に尽きることないネタを提供し続けてくれたアボリジニの皆様、そして「ああ、いつも読んでますよ。”裸のアーティスト”を、ドラゴンネットで」と応援してくださる読者の皆様のおかげゆえ今月も引き続き「愛と涙の東京物語 その3」がお送りできるわけである。深謝!

    しかし・・そろそろ覚えてもらってもいいもんだわよね。「裸の・・」じゃなくて「裸足の・・」であるということを。それから「デンゴンネット」ってちゃんと言わないと鬼の編集長に叩きのめされるってこともね。

    オーストラリア中央砂漠は世界でも最も水が少ないと言われる乾燥地域。普段そんな中で暮らすアボリジニはただでさえ貴重な水で”身体を隅から隅までピカピカに洗う”なんて発想は当然ながらあるわけない。そんな彼等も現在は居住区内で政府が提供している住宅で生活を営んでおりそこにはもちろんシャワーやトイレがきちんと設備されているのだが果たして彼等がそれらを毎日使用しているのかどうかは、はてさて?大きな疑問である。

    アボリジニ村に滞在している間、私は頻繁に彼等の家に遊びに訪れるのであるがいきなりジロジロ他人様の家の中を見るのも失礼であるからにして遠慮しーしー奥ゆかしく体育の座り方をしてまずはじいいいっとしばらく様子をうかがうようにしている。ドアを開けた一番最初の8畳ぐらいの空間にはボロボロに破けたソファーがひっくり返っていることが多く、さっきまで確かに生きていたであろう牛の頭だけが部屋の隅にオブジェのように置かれている空間はなかなか見応えがあって興味深い。冷蔵庫にはたまに靴が入っていることもある。

    「トイレ、貸して」と尋ねると一人の子供が私の手を引っ張って”バスルーム”らしきところへ案内をしてくれたことがあった。突然、床のぬめりですっころんだ。お尻は痛いし、周りは臭いしほんとにその場でおしっこちびりそうになったがとても目の前にあるベタベタの便器にしゃがむ勇気のない根性無しの私はそのままぐっと我慢した。おしっこも結構がまんが効くものである。そう、下っ腹に上手に力を入れて笑わないようにしてればいい、ただそれだけだ。

    アボリジニ村で毎日シャワーを浴びる人々がいったいどれぐらいの確率でいるものなのか私の持つ乏しい情報では定かではないのであるが今回日本へはるばるやってきたトプシーとリネットは間違いなく”あまり浴びてない”人たちだったような気がする。

    滞在した東京のウイークリーマンションでそんな彼女たちは毎日シャワーを浴びた。いや、浴びさせた。何といっても今回彼女達は展覧会の主役でありましてやテレビ出演まで果たす注目のスターになるのであるからにして身だしなみには細心の注意を払わなきゃ。まずは2人をお風呂場へ連れて行き指差し確認をしながら「赤い印の蛇口はお湯。青いほうは水。レッドはホット。ブルーはコールド。おーけー?」ってな感じで楽しく学習。

    どういうわけだかいつも必ず水浸しになる洗面所を私は毎回大きなバスタオルでピカピカに拭いたものだった。心境はまるでお寺の廊下磨きをせっせと行う”一休さん”。

    海外に長く住む日本人が帰国をする楽しみのひとつとして「温泉に入ってゆっくりのんびり」という声を聞くはずだが私も紛れも無くそのうちの1人である。ましてや今回砂漠のブッシュからやってきた特別ゲスト3人を何が何でも温泉に連れて行きたいと懇願していた私は友人に依頼して温泉調査をしてもらい、いよいよその願いが現実になる日が近づいた。目的地までの移動は新幹線。もちろんこちらもアボリジニご一行様にとっては初体験だ。予約を事前にしておかなかった私は緑の窓口で「普通車満席」との通告に一瞬ひるむ。・・・が、すぐに立ち直ってたちまちいつものカッコつけマンとなり「グ、グリーン車4枚お願いします」とクレジットカードを突き出した右手が震えていたのは絶対に気のせいだ。グリーン車なんて普段オレ様だって乗らないよ。すごいよ、まるで動く応接間だよ。一時間余りで現地に着いちゃうのなんてもったいないね、と貧乏性丸出し平民の私であった。そこで驚く無かれ、社内販売もタダだと思ったグラニス(同行したアートコーディネーター、オージー)はあれこもこれもと販売員のお姉ちゃんに指差しして抱えきれないほどの食べ物つかんで大笑い。「だって飛行機の中の食べ物はみんなタダだったじゃない」と真剣に私に訴えるかわいいおばちゃんももちろん日本の「温泉」は初体験。

    温泉には心優しい友人夫妻、そしてこの滞在中ずっと同行取材をしてくれている友人カメラマンのタカさん、その仲間の中本くんがご一緒下さり総勢8名・1泊2日の忘れられない想い出の旅となった。

    ファミリービジネスだろうと思われるアットホームな温泉宿のご主人たちは玄関先で快く我々を出迎えてくれたが身体のとても大きな色の黒い、しかもいきなり靴を履いたまま館内に入っていったトプシーとリネットを見て動揺を隠せない様子であったのを私は見逃さなかった。食事は特別に”肉をいっぱいで。肉なら何でも食べますから”と事前にリクエストを入れておき、おまけにお風呂も完全貸切家族風呂予約で我ながら万全の体制を取った・・・・(と思った。)

    部屋割りは女性5人、男性3人。男らしい中性の私はどちらで寝ようか一瞬迷ったが取り合えず今日は広く快適な女性部屋へ。まずはじめに彼女たちの興味深々である浴衣を着せてはみたが2人の大きなお腹に帯の長さがとても足りないので適当にごまかし「びゅーてぃふる、わんだふる」を連発しほんとに見とれちゃうほど色っぽくなった3人としばらく大騒ぎしながらの大撮影会。そしてさあ温泉に来たらまずはお風呂でしょう、お風呂!と事前に彼女たちに日本のお風呂についてあれこれ説明を試みたがまるでわかってない様子。もちろん砂漠の民にとっては生まれて初めての「お風呂」体験である。一体何をどうすればいいのかさっぱり見当のつかない様子のトプシー・リネット。

    よし、まずは私がどんな風にして入るのかをデモンストレーション。・・・したけど全然ダメ。2人ともモジモジしていてちっとも衣服を脱ごうとしない。困った私は「さあ。お脱ぎ。いい子ちゃんたち。何なら私が脱がしてあげようか。にひひひひ」と近づいたら「除雌gのr上スルン愚をでゅろもうええが覚えてろろろ」とまたしても彼女たちの言語・ルリチャ語で何か言われてしまったのだがそれがどうしても「おめー。おいらたちにこんな思いを味あわせやがって。砂漠に来たら覚えてろよな。」と私には聞こえてならなかった。

    「何だい。いつも自分たちは砂漠の儀式でおっばいブルン、ブルン振り出して踊ってるくせにぃぃぃ」と私も負けずに抗議。結局彼女たちはバスタオルで身体中をぐるぐる巻いて湯船につかることまでは何とか出来たのだがお湯が熱すぎるとか何とか言ってわーわー狂ったように叫び、腰元までしゃがむのがもう精一杯。生まれて初めての温泉体験は何やらいまひとつだったようだ。

    それじゃあ今度は食事はどうだといわんばかりに彼女たちを旅館の大広間に案内したところお膳一杯に並んでいる色とりどりのおかずに一体これらが食べ物なのかと不安気な表情でお互いの顔を見合わせているではないか。砂漠の民は魚をほとんど食べないのをご存知であろうか。そんな彼女たちのお膳にはあゆの塩焼きがギョロッと目玉をこちらに向けてのっかっていた。食べる真似だけ見せるリネットは「お腹が一杯」だと言って箸をつけない。私がアボリジニ村でよく使う手だ。採りたてのイモムシを目の前に出されたときに「お腹いっぱい」と必ず言っちゃったりなんかする。

    東京のウイークリーマンションからエッコラ温泉まで担いできた彼女たちの大きなバックにはこんな事態のためにと予めパン・コーンフレーク・コンビーフ缶などの非常食を入れてきた。結局お膳の食事をほとんど残し部屋に帰ってそれはそれはうれしそうにコンビーフ缶を丸かじりするトプシーとリネットを私はとてもいとおしいと感じた。

    来日以来、あんまり新しいことばかりの毎日にさすがに疲れも出たのであろう。夜は2人ともゴジラのようないびきをかいてさっさと就寝、いい夢見てね。グットナイト。

  • 愛と涙の東京物語(2)

    思い起こせばメルボルンのアボリジナルアートギャラリーに初めての日本人スタッフとして採用されたのが1994年だった。…ということは今年2004年で私の人生にアボリジナルアートが登場して丸10年ということになる。何だかめでたいというか感動というかこの誰よりも飽きっぽい自分がよくもまあ10年間もずっとアボリジ二漬けになっていられたもんだという変な驚きのような感覚。

    ギャラリー勤務当初はかかってきた電話ひとつ満足に取れず、来店したお客様と何とか目を合わせないように店内を逃げ回り、自分の存在感をまったくアピールできないまま取り合えずギャラリーに通ったそんな毎日。当時はなんと言っても私自身「アボリジナルアート」がよくわかっていなかったのだからましてやそれをお客様になんて到底説明できっこなかった。アボリジニの絵画を学ぶことは彼等の文化を一緒に学ぶこと…そんなことが書かれてあった人類学者の本を読んでから私のアボリジニ村への“住み込み調査”決行まで時間はかからなかった。

    誕生日をもう30回以上も迎えた歳になってからまさか「生まれて初めての体験」をこんなにも多く味わうことになろうとは。文明に毎日どっぷり漬かって暮らしている私がオーストラリアのど真ん中の砂漠で“狩り”だの“儀礼”だのに参加して一晩中スッポンポンに近い状態で踊らされるようなそんな体験。それらはまさに“いったい何が起こっているのだ!”と驚愕する以外のなにものでもなかった。それはこれまで自分が勝手に抱いていたものごとに対する先入観を見事に打ち砕かれたという大きなショックに近いもの。砂漠のアボリジニ村での様々な体験は私にとってすべてが新鮮であったのだ。しかし、私は日頃テレビやラジオ…それに今はインターネットというまさに文明の武器を使ってあらゆる情報を入手できるそんな環境に身を置く現代人。砂漠に暮らすアボリジニたちにはそんな通信手段は全くといっていいほどない。それゆえ自分たちの暮らす村の外ではいったいどんなことが起こっているのかなんて全く想像できるはずがないのは当然のことであろう。

    ここからは先月号からの続きとなるのだがそのアボリジニ村から何と私はブッシュのおばちゃんたちを2人日本へ招く機会をつくった。…というか「いつか必ず私のカントリーを紹介するから」と以前交わした約束をどうしても果たしたかったという熱い自分の想い。まあ、自己満足ってやつに近いものでもある。そんな想いから2003年11月、東京でアボリジニナルアート展を企画・開催し、実現に至ったのである。来日したのは近年注目されているアボリジニ女性画家のトプシーとリネット。そして白人アートコーディネーターとして私の友人でもあるグラニスおばちゃん。そんな3人が成田空港到着時から早速税関でまんまとひっかかり別室に一時間以上も閉じ込められての取り調べから、この「愛と涙の東京物語」は始まった。

    世界でも最も乾燥したオーストラリアの中央砂漠は1年間の降水量がたったの250ミリである。我々の滞在中に東京が豪雨にみまわれ1時間に何と57ミリの雨をもたらしたのがよりによって展覧会オープニングの当日。「ちょっと~~~。なんでこんな大事な日に雨なんて降んのよー!」と眉間に大きなしわを寄せて今夜着るはずのちょっとイカしたドレスを見つめて大きなため息…をついたのはもちろんこの私。ところが隣で「ひゃっほう~!!具利子不ネオウノリコスrんそりmぶのしrのほほー。あめ。あめ。」と砂漠からやってきた3人組はアボリジニ語でとにかく大騒ぎをしていた。彼女たちにとって今年初めての雨だったという。外出をするためにホテルで借りたワンタッチ傘が妙に気に入った砂漠の3人組は家の中でも地下鉄の中でもところかまわずパチパチ開いては閉じて私に何度も注意された。

    前述した「生まれて初めての体験」を私がアボリジニ村で味わったようにトプシー・リネットにもこの東京物語で存分に味わってもらいたい…私の願いはただそれだけだった。大げさに言えば「彼女たちにとっての一生に一度の想い出作り」のためだったら私はどんなことでもしようじゃないか!というそんな意気込みがあった。

    …が、滞在先のウィークリーマンションではトイレは流さないわ、シャワーは熱湯で浴びるわ、「わたしの使っていいよ」と与えたシャンプーを1回でボトル全部使い切るとか「初めての体験」を味わったのは実は他の誰でもないこの私であった。日本に来たからには神社仏閣へもご案内。早速浅草寺に連れて行ったら、境内中にハトがエサをもらうために人々にたわむれているのを見るやいなや「このハトを日本人は食べるのか」と真剣な表情で尋ねてくるトプシー。そうか、狩猟民にとって砂漠で目にする動物たちはすべて自分たちの口に入るものという当たり前の概念に“なるほど”とうなずく私。「ハトは平和のシンボル、食べない。食べない。」とトプシーに言い聞かせ次の目的地へと彼女の手を引いた。

    その目的地とはデパートの地下。あそこはいつ行っても私でさえはしゃいでしまう楽しい場所。見事に美しくディスプレイをされたケーキや野菜・果物は見ているだけで惚れ惚れしちゃう。そしてあの食品サンプルの試食に砂漠の3人組は目を丸くし「今日のランチはここで済まそう」とグラニスの一言に我々はデパート内を3周ぐらいぐるぐる回り瞬く間にお腹一杯にしたものだった。「あんた、日本人のくせによくそんな恥ずかしいこと出来たよね。」とあとでその話をした友人に嫌味のように言われたが私も豪州滞在10年目。もう身体も頭脳も細胞はオージーとアボリジニになってっからへーき、へーきと豪快に笑い飛ばしてやったもんね。

    一番心配をしていた彼女たちの日本滞在中の食事は思っていたよりも困難ではなかった。どちらかというとリネットのほうがチャレンジャーであり新しいものを取り合えず口に入れてみようという、まるで赤ちゃんのように目の前の食べ物を片っ端から試みた。もうお腹一杯で食べられないと言いながらも次々と手を出し、しまいには半分もどしながらも食べ続けた恐るべき根性の持ち主。そう、狩猟民の彼女は食べ物が今、目の前あるときにすべて平らげるという狩人の魂をしっかり持った女性であったのだ。敬服。

    それに引き換えちょっと消極的なトプシーはファミリーレストラン“ロイヤルホスト”が大のお気に入りであそこの写真つきの大きなメニューをお土産だといってそうっとカバンに忍ばせてきてしまったことはここだけの話にしていただきたい。

    ここで一言申し上げておきますが、私にとっても久しぶりの日本です。そうなりゃ、食べたいものがたくさんあるでしょうが。寿司・刺身・ラーメン・餃子。しかし砂漠の3人組は何しろ“魚”にご縁がないしそんなものは見たことがない。見たことがないものは“食べ物”として認めない。したがって2週間の東京物語のあいだロイヤルホストへ10回以上も足を運んだ事実もここにご報告しておこう。こうしてまだまだ続く「愛と涙の東京物語」、次号もどうぞお楽しみに。