カテゴリー: 裸足のアーティストに魅せられて

  • アボリジ二女性画家バーバラ・ウィア初の日本滞在記・愛と涙の2週間(中編)

    これまでにオーストラリア先住民・アボリジ二が日本を訪れたことは何度かあると聞いてはいた。・・・が、アボリジニ画家が来日するのはどうやら初めてのことらしい。早速日本のメディアにいくつか取り上げられ、私にもラジオ出演の依頼が来た。

    何やら番組は人気のJ – WAVEということだが私はラジオをあまり聞かないのでいまひとつピンと来なかった。だが、もちろん快く引き受けることに。しかし多忙の為、スタジオには行けない旨を伝えると、何やら電話インタビューでかまわないという。なんだか面白そうだ。番組の打ち合わせはほとんどなし。「内田さんが感じるアボリジ二ナルアートの魅力を語って下さい。DJはジョン・カビラというプロの話し手ですから彼のリードに任せていればOKですよー。」・・・と、言われるままに本番がやってくる。

    たかだか4分間のおしゃべりに心臓バクバク状態。喉を潤すためにとハチミツレモンを一気飲みした途端、自宅の電話がなった。あ、来た!担当者の言うとおり、相手はしゃべりのプロ。いやあー、早口でベラベラべラリンとこちらの緊張も省みず次々に質問してくる。「内田さんは、何故オーストラリアに行くことになったんですか。ワーキングホリデーですか。」と、まずしょっぱなから大きく私をつまずかせるジョン・カビラ氏。「オーホホホ。ワーキングホリデーっですか?、私ははるかに対象年齢オーバーでしたの。オーホホホホ。」・・・その後しばしの沈黙。

    全国放送ラジオでしゃべりのプロが黙る瞬間。その後、ここぞとばかりに自分のアボリジニ熱を熱く語る私が、シャワー浴びたてで濡れた髪をバスタオルでグルグルとソフトクリーム巻きにしていたことなど誰にも気付かれることもなく全ては無事に終了した。

    さて、肝心のアボリジニ女性画家バーバラは困ったことに見るもの触るものがすぐに欲しくなってしまう悪いクセがあり、姉の靴を平気で履いて帰ってきてしまったり友人宅の応接セットのカバーまでもらってきたりと帰りの彼女のスーツケースは滞在中にみんなからもらったものだらけで溢れかえっていたことは言うまでもない。

    おまけに彼女は日本滞在2週間に備えて財布(らしきもの)を持参しては来たが、中身はスーパーのレシートしか入っていなかった。いいですよ。全て面倒見ますよ。見りゃいいんでしょが・・と、半分やけっぱちにもなりたくなる。滞在中の食事代・ホテル代・電車代・お土産代・毎日オーストラリアの家族にかけた電話代・など総額したらとても恐ろしくて一気に言葉も失う。私は自分のわずかな貯金の残高をながめては、しばし大きなため息ついていた。

    東京は何しろやたらと移動が多い街だ。地下鉄・JRといった具合に目的地まで2つも3つも電車を乗り換える。エスカレーターの前でたじろぐバーバラ。彼女は怖くて乗れないと涙ぐむ。じゃあ、階段で行きましょうか・・・と滞在中いったい私とバーバラは何百段の階段を昇ったことか。おかげ様で体重3キロ減。(ダイエットされてる皆様方。ぜひとも日本にアボリジニを連れて行くことをお勧めします。)

    日本の秋といったらまさに紅葉。東京のコンクリートジャングルに全く興味を示さないバーバラにぜひとも日本の美しい山々・そして温泉を存分に味わってもらおうと、栃木県の湯西川温泉に向かった。想像通りの色とりどりの山々にバーバラは本当に息をのんで瞳を大きく輝かせ、心から楽しそうに笑った。また、山中のまっすぐに生えた木を見ては「これはスピア(槍)を作るのに丁度いい」とかなり本気で言って私たちを笑わせた。

    宿に着いて「さあ、食事の前にまずひと風呂浴びようよ。バーバラ、温泉なんて初めてでしょう。露天風呂もあるし眺めが最高だよ。早く行こう!」と言いうと、私の顔をじっと見て急にモジモジし始める。水着を持って来るのを忘れた・・・と本当に恥ずかしそうに言い出す彼女。見ず知らずの人同志がスッポンポンでお風呂に入るという行為はどうしても信じられず、だから自分は絶対に裸では入らないと言い張る頑固なバーバラ。「何よ、砂漠のアボリジニ村では儀式でみんな裸で踊るじゃないの。私にもそうさせたじゃないの。ここは日本なんだから皆と同じようにしなくちゃ駄目なの。」 と、私も負けずに主張するが本当に嫌なものはイヤだという顔をした彼女はひとりで部屋に付いているお風呂にゆっくり入って大満足の様子だった。初めて着る浴衣・初めて寝る布団・初めて取る囲炉裏での食事に彼女はもうこれ以上楽しいことはないとしきりに言いながら、「今自分が日本で過ごしているこの楽しい時間をオーストラリアの家族に伝えたい」とまた私の携帯電話をカバンからゴソゴソ取り出したことは言うまでもない。

    また、魚を一切食べない彼女の口癖は「私は砂漠の人間だから。」ということ。滞在中注文するのは必ず”MEET”。しかも、もう真っ黒に焦げた肉でないとご機嫌ななめ。私は幾度となくレストランの厨房に「すみません、お手数ですがもうちょっと焼いてもらっていただいても・・・」と頭を下げた。2週間の滞在中に彼女が一番恋しくなった食べ物が”カンガルー”。これは私が旅先で永谷園のお茶漬け海苔が無性に食べたくなるのと同じなんだろうな。というわけでバーバラの好物”カンガルー”、こればかりはどうしても日本のスーパーでは見付からなかった。

    日本滞在中、バーバラは行くところどこでも注目の的であり、スター的存在だった。幼いころ、当時のオーストラリア政策によって無理やり母親から引き離され強制的に白人社会で生活を強いられ、数年前までは自分たちアボリジニはレストランにも入れなかったという経験をもつ彼女が、現在オーストラリアを代表するアボリジニ画家として日本に招かれたこと、そして自分がいま大きく胸を張って「アボリジニ」であることを主張できる時代にようやくなってきたということをしみじみと語る彼女の言葉に、私はまさに「今を生きるアボリジニ」の強さを感じてならなかった。

    オーストラリアからはるばる日本にやって来た先住民アボリジ二に会うためにそれこそ遥か北海道からわざわざいらして下さった15人のアイヌの方々との熱いふれあいを次号でぜひともお知らせしたいと思う。

  • 「アボリジ二女性画家バーバラ・ウィア初の日本滞在記・愛と涙の2週間(前編)」

    4月から始まったアボリジナルアート日本巡回展もいよいよいわき市立美術館での開催で最後となる。美術館からゲストとしてアボリジニの画家をオープニングセレモニーに招きたいとの要請が・・・簡単にリクエストをしてくれるのはよいが、始終そのアボリジニのアテンドをする私の心配はまったくしてくれていない。航空券の手配から出発前の医療・パスポートチェック、日本滞在中のケアなどやることは山ほどある。肝心のパスポートは何やら以前取得したものがあるとのことでひとまず安心。生年月日を見せてもらった。00月00日00年との記載に私は自分の目を一瞬疑ったが、オーストラリアのブッシュで生まれた彼女に誕生日の記録はない。ああ・・・なるほどそうかと、大きく納得。

    今回日本初訪問のアボリジニ画家は以前この紙面でも紹介したオーストラリア中央砂漠出身のバーバラ・ウィア。普段から彼女と厚い交友関係を持つ私は美術館からの招待の要請を受けたときに真っ先に彼女に声を掛けた。何たって、彼女はすでに日本のお茶の間に幾度となく登場している人気者。まだ記憶に新しいのが 2月に放映された「世界ウルルン滞在記」バーバラは主演だった。これは視聴率がとても高く、事実私のところにもたくさんの問い合わせがきた。それに何よりも英語を流暢に話す彼女とはコミュニケーションが取りやすい・・・と、自分がかなり安易に考えていたことをあとで大いに反省することに。

    2 つ返事で快くオッケーを出してくれた彼女とは出発日にメルボルンの空港で合流。日本行きは初めての彼女、かなり不安そうな様子。彼女の家族全員が見送りにきていた。ちなみに家族とは子供6人・孫15人・そしてひ孫が1人のビッグファミリー。家族の絆が強いアボリジニらしい光景であった。その家族ひとりひとりに「お母さんをよろしく頼むぞ。」「おばあちゃんをしっかりお世話してね。」と代わるがわる挨拶をされたが、その挨拶の裏にはまるで《もしもオッカアに何かあったらオメェ、ただじゃおかねーぞ》・・・とそんな脅しを受けている気にもなり、私の緊張は一気に高まった。シドニーに着くや、彼女は無事シドニー到着を家族全員に知らせるので携帯電話を貸してくれと私に言う。え?だってついさっきメルボルンでみんなと熱い抱擁交わしてバイバイしてきたばかりじゃないの・・・などと言って彼女の機嫌を損ねたら大変・・・という事で私は彼女に電話を貸した。うーん、これから一体どんなことになるのであろうか。

    成田空港には父親が早朝から迎えに来てくれており、ひとまず私の実家に彼女を連れて行くことに。到着するやいなや、再びオーストラリアの家族全員に無事日本到着の知らせの電話をしたいとのこと。おまけに砂漠に住むおばさんの具合が悪く、心配でたまらないからそこにも電話をしたいという。え?ここから砂漠に電話すんの?あんな手のひらサイズの小さい携帯電話から海を越えたはるか彼方のおばさんと電話が出来るこの現代のテクノロジーを私は呪った。

    到着した晩、私の家族とみんなで夕食。普通の日本人家庭で普通の日本人のご飯を彼女に味わってもらいたかった・・・が、はじめて接するアボリジニの女性に家族はどうも緊張を隠せない。彼女が出演したウルルン滞在記のビデオを見ながら食事をしたのだが、テレビの画面の向こうで大きなトカゲの丸焼きを美味しそうに食べているバーバラが今、自分たちと一緒にコタツに入って鳥のから揚げを手づかみで食べているその現実を小学生の甥っ子たちはなかなか理解できない様子であった。

    翌日我々は東京へ移動。我が家にもすっかり打ち解けたようで帰りに私の姉の靴を当たり前のごとく履いて帰った。「アボリジ二の社会では全てが共有だから。ね、ね、お姉ちゃん。ごめん。後でさ。買って返すからさ。」と私は目配せを何度も姉に送りながらさっさと家を出た。

    そんなことよりも普段、砂漠で暮らす彼女に「東京」とはいったいどのように映るのであろうか。そんなことを考えながら銀座のホテルにチェックイン。1人でホテルの部屋のような密室にいるのは嫌だからと、部屋は私と一緒のツインを希望。ホテルに完備してある歯磨きセットや洗面用具などをひとつひとつ彼女に説明。朝の歯磨きを普段しない彼女に歯磨き粉を見せたらそのままチューブを口に入れたので慌ててストップ。

    そんな彼女と始まった笑いあり・涙ありの(これは私が始終流したもの)日本滞在2週間。後編をどうぞご期待ください。

  • 「ディジュリドゥ」ってご存知ですか?

    アボリジ二の楽器「ディジュリドゥ」ってご存知ですか?・・・と自分で言っておきながら実はわたしもこの楽器については専門的な知識はまるでない。しかし自宅に3本も置いてあるので必ず我が家の来客には「何、これ?」って聞かれるのでよーし、待ってましたとばかりにカッコつけマンの私は演奏してみる。吹いているうちにみるみると顔が真っ赤になってきて、おまけにおでこには血管もくっきりと浮かび上がる。音色の素晴らしさに感動するのかそれとも私のおでこににじみ出た血管に感動するのか来客は、「えー、貸して貸して。わたしにも次やらせてぇー」と鼻の穴を大きく膨らませて私からディジュリドゥを奪い取り、早速試してみるがさっぱりと音は出ず。

    そうなんです。このディジュリドゥをそう簡単に吹かれてしまっては困るのです。なんといってもこの楽器、何万年も前からアボリジニたちが大事な儀礼の時に演奏をしていた歴史上もっとも古い楽器であるのですから。しかも、演奏方法にはそれなりのテクニックを必要とするのですから。

    ディジュリドゥの材質はユーカリの木がほとんどで、シロアリが中をそれはそれは何年もかけてきれいに食べて空洞にしたものを使って作っているのです。決してアボリジニがドリルで穴を開けているわけではありません。ですからこの楽器は人の手がまったく加わっていない自然にできたものなのです。自然のものですから、もちろん「ド・レ・ミ」の音階はなく自分の呼吸法で様々に音色をアレンジ可能。「基本はブルルルル」

    はじめはどうやっても音が出ず、「・・・なんだやっぱりただの木の筒かあ・・」と、いとも簡単にギブアップ。それでもまだちょっと気になってもう一度トライ。何度となく吹いているうちに、拭き口と唇の振動の微妙なバランスが「ああ、こんな感じね」といった具合にわかってきたらもうこっちのものでしょう。

    次は「循環呼吸法というテクニックをお勉強していただかなければなりません。これは、常にずっと音を持続させておくためのテクニックで鼻で息を吸っているときも口からは常に息をブルブルと吐いているという決して理論的には考えてはいけないもので、私はいまだに完熟できず。どうしても不可能だと思い込んでしまっているようです。

    一番の上達方法はとことん練習。そしてこれだ!という自分の一本を持つこと。これに限りますね。 まるでディジュリドゥ販売員にでもなった気分でありますがまったくその通りであります。私のこよなく尊敬するベンディゴ在住のディジュリドゥ製作者、グレッグ・マコーミック氏の選りすぐりをこのたび30本限定大放出!

    彼は演奏の素晴らしさはもちろん、アーティストとしても活躍しているのでデザイン性は抜群です。お部屋に飾っておけばエスニックなインテリアとしても大活躍すること間違いなしです。ギャラリーでは演奏方法をご紹介したビデオも放映中。さあ、ぜひともあなたのお気に入りの一本を見つけておくんなさい!

  • 栃木県立美術館 アボリジナルアート展 入場者数10,000人

    ##9月1日

    今年に入ってすでに4度目となった日本帰国。今回は7月から開催されていた栃木県立美術館でのアボリジナルアート展覧会終了作業に立ち会うための帰国である。 2日前に成田に到着、ホッとする間もなくすぐに会場での撤去作業の打ち合わせの電話を読売新聞社へ入れる。そして今日午後、メルボルンからギャラリーのオーナーとスタッフが成田へ到着。私は出迎えのために再び成田空港へと車を走らせた。

    ##9月2日

    午前6時半。目覚まし時計のすさまじい音で目が覚める。音が大きいことだけの理由で購入したこの時計は、穏やかな眠りの中かからの私を一気に現実へと引き戻した。「ひえ~、もう朝なの・・・。参ったなあ。昨夜はあんまり寝てないのにぃ・・」と、孤独なオンナはついつい目覚し時計にも話しかけてしまう。・・・が、今日は展覧会の最終日であること、つまり宇都宮まで移動をしなければならないことをすぐに思い出してすぐさまベッドから飛び起きた。「今日はきっと忙しい一日となるだろう」と。

    滞在したホテルでギャラリーのスタッフ達と一緒に朝食を取る。たっぷりとエネルギーを補給しなければとビュッフェ形式のレストランでご飯山盛り・味噌汁2杯・シシャモに納豆、・・・と満弁の笑みを浮かべて私がそれらを平らげていると「こんなものをブレックファーストで日本人は食べるのか。キミ達が同じ人間とは思えなくなった。」・・と横目でしかも本当に嫌そうに私のシシャモをにらむスタッフは今回日本が初めて。そうブツブツ言いながら彼は自分のコーンフレークにたくさんのミルクをかけていた。

    宇都宮までの移動はレンタカー。もちろん私の運転である。実家茨城の鹿嶋から宇都宮までは3時間から4時間はかかると言われたところを2時間半で到着。私もやれば出来るもんだ。途中、何度か道にも迷ったが日本語の標識がまるで読めないスタッフたちをだましだまし「ユウー、アー、ワンダフル」とまで言わせて無事栃木県立美術館に正午到着。最終日、最後だからと駆け込んで観に来る人が多く、この日も入り口に列が出来るほどの混雑ぶりだった。我々は会場をひと回りぐるっとした。

    どの展示場もかなりの賑わいである。美術館担当者からも「この展覧会は想像以上の盛況ぶりでした。今回は僕達も十分楽しませてもらいましたよ。本当にありがとうございます。」と深ぶかと頭を下げられ私も一気に舞い上がる。すると、どこからか「ああーー、内田さんやっぱりいた! 来ると思ってたー!!!」3オクターブほど高い声がしてくるではないか。振り返ると、私もビックリ。なんとメルボルンでギャラリー在職時代にお目にかかった旅行者の女性二人であった。今日ははるばる名古屋から来られたという。わざわざ遠路足を運んで来てくださった熱い思いに心から感謝。

    7月から延べ50日間にわたって開催された栃木県立美術館でのアボリジナルアート展覧会、来館者の総数はおよそ10,000人を記録。最終日には閉館時間を延長するまでに。美術館側も、久しぶりの好評な企画展だったととても満足をされていた。

    ##9月7日

    今回の展覧会の後援であるオーストラリア大使館も、この盛況ぶりに大きな喜びを示してくださった。この日は、日本着任されてまだ2ヶ月というオーストラリア駐日大使、John McCarthy氏より昼食のお招きを受け、我々3人は東京三田の大使公邸へうかがうことに。

    公邸は想像以上の豪華さで思わずため息。ただの興味本位で拝借したトイレは私の自宅のベットルームより広かった。大使は始終にこやかに、今回の展覧会の成功を誉めてくださり今後に引き続く我々の日本においてのアボリジナルアート展に大きな激励をしてくださった。

    第2会場での展覧会を無事に終了し、多くの方々が観て下さったという喜びは確かに大きなものではあるが、私には観に来られた方に、どの位満足していただけたのかが大切だということ、日本人にとってこの斬新で、かつ非常にユニークなオーストラリア先住民の芸術がいったいどのように受け止められたのかを今後も注目していきたいという想いを懸命に大使にお伝えして、公邸をあとにした。

    こうして今回も私の日本滞在過密スケジュールが無事終了し、再びメルボルンへと帰る日を待つわけだがこうも頻繁に日本とメルボルンを行ったり来たりしていると何だかいったいどっちが自分の生活なのかわからなくなってくるのも事実である。まあ、それも『今の自分』としてしっかり受け止めるつもりではあるが。

    アボリジナルアート、日本進出。まずは好調なスタートであったことをここにご報告しよう。

  • 独立起業宣言その後

    2000年10月に一大決心の独立。気持ち新たに胸はずませながら自宅にオフィスを構え、名刺を作り、銀行口座まで開設した。これでいつでもどれだけの大金が振り込まれてもオッケー!なのだ。共同経営者はナシ。よって私が代表取締役となる。社員もひとりもいない。孤独だ。気分転換にと近所へ散歩に出掛けるが、寒くて10分で帰ってきてしまう。そんな感じだった独立起業直後。

    今年4月からは日本で行われているアボリジナルアート展覧会開催のために日本とメルボルンを往復する生活が続いている。日本での滞在はオープニングでの通訳から展示作品のチェックから展覧会全般のコーディネートからあれもこれもとそれは忙しく、毎日たくさんの新しい人々に出会う。そしてまるで手裏剣のように名刺を配りまくり、声を2トーンほど上げてのビジネストークで起業設立の宣言をしている。

    その甲斐あって「あの画廊の人の紹介でこの人に会って、この人にあっちへ行けと言われたから本日こちらに参りました・・・」なんてことを東京滞在中ずっとしていて「明日、銀座のホテルで画廊主催のパーティーがあるんだけどキミも良かったら来る?」なんてお声も掛かったりする。”画廊主催のパーティなんてどんな人達が来るんだろう?”そんな期待に胸を膨らませ当日は名刺入れに入りきれないほどの名刺を用意し、いつもの馬鹿笑いだけは絶対にしまいと決意しながら、パーティーに着ていく洋服を慎重に選んだ。化粧も念入りにし、滞在しているホテルの部屋の姿見の前でシンプルなネイビーブルーのノースリーブのドレスに身を包み、ぐるりとひと回りまでしてみる。「よっしゃあ!」と、確認なのか気合いなのかわからない掛け声とともに部屋を飛び出して会場へと向かった。ご存知の通り、今年の日本の夏は異常なほど暑くただでさえすぐに汗をかく。これじゃあせっかくセットした髪もすぐふにゃふにゃになると思いながら、タクシーから東京の雑踏をボーっと見つめていた。

    午後6時45分。予定よりも少し早く到着した私は、受付でもらったパンフレットを見ているふりをしながら、会場に来ている人々を横目でチェックする。パーティー会場は大きなシャンデリアがいくつもぶら下がっており、テーブルにはワイン・ウィスキー・オレンジジュースなどがきれいに並べてあった。白い上着を着た、まさに『給仕』という感じの人たちが銀のトレイに飲み物を満載しながら、こちらに向かってくる。「あ、その赤ワインください。」落ち着こう。取りあえず気付けにワインを飲みながら、あらためてまわりを見回してみる。・・・が、もちろん知っている人など誰もいない。私はこういったパーティーというものは実はあまり得意ではなく、いつもひとり自分が浮いているような気がしてならない。今夜、このパーティに招待をしてくれた人を探しに少し会場内をウロウロ歩いてみたが見つからない。

    そんな中、私に声を掛けてくれたトノガタがいた。髪はやや長髪で作務衣に下駄という見るからに芸術家の風貌であった。しかし、そのトノガタ、タダモノではない。彼の紹介で『岡本太郎美術館』の館長、青山スパイラルガーデン(ここのギャラリーは立派)のマーケティング部長、美術ジャーナリスト、・・・と、次々にいろいろな方へ名刺を差し上げることができた。皆様名刺を見るやいなや、『アボリジナルアートコーディネーター』という私のタイトルにはじめは「ふん?」といった表情を見せるが、わりと真剣に話を聴いてくださる。反応は決して悪くなかった。・・・と思う。

    私は現在フリーランスとしてアボリジナルアート日本進出に向けて展示会場を探している旨を熱く語り、今年は即売会も企画していること、11月にはアボリジニ女性アーティストも一緒に来日することを訴えた。きっと何か出来るにちがいない。

    2杯目の赤ワインを飲み終えるころ、パーティーも終わりに近づき、私はあのタダモノではないトノガタに(結局最後まで彼がナニモノかは不明であった)丁重に挨拶をして会場をあとにした。

    いただいた数々の名刺をもう一度ながめながら、『明日食うカネ、自分で作らにゃあ』と独立起業のキビシサ・ムズカシサをかみしめて自己奮起を新たにした東京での一夜であった。人生、常に『チャレンジ』である。だから面白い。

  • アボリジナルアートQ&A

    今回は、頂いたお便りやよく聞かれる質問にお答えいたします。皆さんもアボリジナルアートに関してお知りになりたいことがあれば [email protected] まで、お気軽にご質問ください。

    ##1. アボリジナルアートは一つ仕上げるのにどれぐらいの時間がかかっているのですか?

    うーーん、これは非常に難しい質問ですね。・・・というのもこれは作者の手法によって大きく異なりますから。砂漠の砂絵のイメージから来る点描(ドット)をたくさん用いる作者は、サイズ90センチ×60センチのキャンバスをおよそ一週間から10日ほどかけて制作します。

    それに比べてライン(線)を主体とする作者は早い人で30分ほどで仕上げます。・・・・が、これらは本当に大まかな目安でしかありません。

    お忘れになってはいけないのが彼等の絵画の制作はアトリエやスタジオではないということです。砂漠の大地の上で、そして青空のもとでの作業になりますから、天候にも大きく左右されますし、作品が売れるとその場で彼等は現金をもらいます。自分の家族がお腹をすかせている時にはさっさと作品を仕上げて、さっさとお金をもらうというサイクルにもなっていますから、絵画のクオリティも大きく差異することになるわけです。

    ##2. アボリジナルアートに宗教的意味はありますか?

    読む・書くといった「文字」を持たないアボリジニにとっての絵画は次の世代に砂漠で暮らす為の様々な知恵を伝達する大事な教育の意味があります。

    また、彼等が独自に持っている世界観も同時に絵画によって表現されますから、もちろんそこには宗教的、哲学的要素は大きく含まれます。一見抽象的に見えるアボリジナルアートですが、そこにはそれぞれストーリーがあるのでそれを解読する面白さも一緒に楽しんで見てください。

    ##3. アボリジニの方々は売れた作品の収入をどのように使っているのですか?

    これは実に多くいただく質問のひとつです。まず、「お金」という概念が私たちと全く違っているということをご理解いただきたいですね。もちろん「貯蓄」をするという考えもありませんから、絵画によって得た収入は瞬く間に消えてしまうことがしばしばあります。有名な画家になるとかなりの現金収入を得るのですが(一日数千ドル)私有財産を持つという概念が無い彼等は、その収入を居住区で自分の家族(アボリジに特有の親族制度があります)に毎回均等に配当をしたりします。現在はアボリジニ居住区の中にもスーパーマーケットがありますからそこで食料品を購入し、また街へ出掛けて映画を観たりショッピングを楽しんだりもします。

    ##4. 今後の展望は?

    私の人生にアボリジナルアートが登場してきてまだわずか8年です。これまでいろいろなものに興味を持ってきた自分ですが、その中でもなぜこんなにもアボリジニに魅せられるのだろうと考えることはあるのですが、まだ明確な解答は得られていません。

    日本での「アボリジナルアート展覧会」は私の大きなゴールのひとつでした。現在、その日本での巡回展が実現したことをこのうえない喜びだと思っています。これまで自分が長い間思い描いてたものがようやく「カタチ」になったという、大きな自信にもつながりました。

    今後はこれをスタートに日本のアート業界へ新しいユニークな芸術として、アボリジナルアートをもっともっとご紹介していきたいですね。

    11月にはアボリジニの画家を日本に連れて行く予定です。それにあわせて小さな個展も考えています。アボリジナルアートに出会って私のハートが素直にときめいたように、ひとりでも多くの方々にこの絵画の持つ温かさとパワフルさを感じていただけたらと思っています。

    私のアボリジナルアート熱はまだまだ当分冷めそうもありません。

  • アボリジナルアートの本当の姿

    昨年のシドニーオリンピックで一気に知名度を増したオーストラリアの先住民アボリジニ。しかし、いざ、彼らのアートとなるとなかなかイメージできる人は少ないのでは?そもそも、読む・書くといった「文字」を持たずに、何万年もの間この広いオーストラリア大陸を狩猟と採集のみで自由自在に駆け巡り、その大地とかかわる様々な「生きていくための知恵」を確実に次の世代に「文字」以外で伝承をしていった先住民。その伝達手段は「絵画」であったり「歌」や「踊り」であったりする。

    それゆえ、アボリジニにとっての「絵画」とは我々の一般的な「絵画」の概念とは大きく異なるもので、単純に「これがアボリジニの絵画だよ」と言ってしまって「ふーーん」と妙に簡単に納得をしていただくわけにはいかなかったりするのである。

    そもそも、砂漠で暮らすアボリジニ達が現在使用しているアクリル絵の具に出会ったのはわずか30年ばかリ前のこと。それまでは砂の上と自分達の身体の上に岩絵の具を用いて模様を描き、もちろんそれらは「保存」されることなく描かれてはすぐに消されていたために、我々がこれまで目にする機会などはまるでなかったのは当然である。

    彼らが描く模様、一見ただの抽象的な記号のようにも見えるのであるが、それらは「文字」の代わりとなるビジュアルな地図であったり記録であったり、または法則であったりする。つまり、絵画の中の構図や形象は世代ごとに確実に伝承をされているもので、純粋な意味での彼らの創作ではないのである。これがアボリジナルアートのユニークさでもあるのだ。そう、彼らは自分のイマジネーションで絵画を描くわけではない。

    また、そこに描かれている内容は彼ら以外の者には決して明かされることのないインサイド・ストーリーがほとんどで、我々に語られるのはそのほんの一部にすぎないのも事実だ。

    彼らの繊細なその表現はもちろん「絵画」としての魅力を十分に備えているのであるが、果たしてこの記号だらけの、地図や文学にも近い作品達を「アート」と言ってよいものなのだろうか、と私はふと考える事もあるのだが、たとえアウトサイドストーリーしか我々が知り得なくても純粋に作品が放つ魅力に何度も心を打たれたことは間違いない。

    そう、アボリジナルアートは確実に美術としての力を有している。

    まずは、素直に直感を持って作品に向かい合っていただきたい。

  • アーティストの素顔

    今回は、今活躍中のアボリジニ女性画家、そして私の大事な友人であるひとりをご紹介しましょう。

    彼女の名前はバーバラ・ウィラー。初めて知り合ってからもうかれこれ5年の月日が流れる。1996年にNHKテレビの取材で、ある画家を4日間砂漠のど真ん中で撮影をしたのだが、そのとき我々の通訳となり世話役となり大活躍をしてくれたのが、彼女だったのである。そのとき「初めて逢ったにもかかわらず、・・・・・・あれ?以前から知り合いだったっけ?」と、そんな印象を強く受けた記憶あり。

    そんな彼女が去る2月11日にTBSテレビで人気番組である「ウルルン滞在記」に堂々主役で出演。番組終了後の反響はかなりのもので想像以上であった。私のところにも彼女に関する情報が欲しいというメールが殺到した。映像の力はやはり大きい。

    そこで先日彼女とメルボルンのレストランで友人を交えながら一緒に食事をして、撮影の裏話をちょいと聞いたらそれがオモシロイの何のって。何しろ撮影時期が砂漠の一番暑い時期、1月だったのがまず信じられない。これまで私も何度もアボリジニ村には滞在したが、あの暑さったらハンパじゃあない。日中軽く45 度にはなる。何をしてても、暑い。どこにいても暑い。冷たい飲み物・・・・手に入らず。

    番組に起用された女優さんも途中でダウン。もちろん暑さでやられたらしい。食事は毎日トカゲ・カンガルー・トカゲ・イモムシの繰り返しだったという。普通カメラの廻ってないところでは撮影クルーが用意した食事をとる・・・・とお思いでしょう?・・・・・・が、この「ウルルン滞在記」の番組ディレクターは"それじゃあリアル感が出ないっしょ!ダメダメ。シャワーもダメダメ。あくまでも現実に近くね。耐えてね。頑張ってね。"と全く鬼のようだったとバーバラは言う。撮影は早朝4時ごろからスタート。そして深夜1時に終了。番組協力とはいえ、普段スケジュールなんかで動いているはずのないアボリジニのバーバラにとってはもうフラフラで倒れる寸前。しまいにはディレクターとケンカをしたらしい。だから撮影のギャラをいっぱいもらってやったと彼女は誇らしげに笑っていた。さすがである。

    そんな彼女を私は近い将来、日本に連れて行きたいと切願する。いつも彼女の「カントリー」に魅せられっぱなしの自分である。だから今度は私が自分の「カントリー」を彼女に知ってもらう番だ。

    以下、彼女の経歴をご紹介。作品をご覧になりたい方はぜひご一報ください。


    BARBARA WEIR(バーバラ ウィラー)

    言語集団: アマチャラ(ANMATYERRE)
    出身: ユトーピア
    1945年ごろアリススプリングズの北東、ユトーピアに生まれた女性

    アボリジニの母とアイルランド人の父を持つ彼女は両文化の特徴が上手く調和されたユニークな性格の持ち主。

    1950 年代にオーストラリア政府が行った政策により、9歳のときに無理やり両親のもとから引き離され、アリススプリングズ・ダーウィン・ブリズベンなど次々と違う白人家庭のもとへと引き取られていくうちに、自分の言語もだんだんと忘れていき、いつのまにか白人社会へと染まっていった。

    だが、心の片隅にはいつも“自分の故郷ユトーピアヘ帰りたい"という気持ちが強くあったため、1970年代はじめに自分の意志で再び戻って行った。しかし、アマチャラ語をほとんど覚えていなかった彼女は、故郷へ帰っても誰ともコミュニケーションが取れずにいたのだが、その彼女の幼い頃を鮮明に覚えていたのが現在オーストラリアで最も偉大なアーティストであるエマリーであったのだった。

    それからというもの、彼女は再びアマチャラ語を学び直し、ユトーピアにもたびたび訪れるようになったのである。エマリーとの日常の強い接触、また彼女の画家としての才能に大きな影響を受け自分自身も画家として活動し始めたのが1990年ごろであった。

    現在、アボリジニ社会と白人社会との狭間に立った彼女の描く独創的なスタイルには大きな注目が集められ、オーストラリア国内はもとより海外でもその評価も高い。そして現在彼女の作品が日本の美術館でで展示されていることを私は大きな誇りに思っている。

  • 日本からの便り

    長い長い間、自分が想い描いていたひとつの大きなゴール。それはオーストラリアのアボリジナルアートを自分の手で日本に上陸させること。その夢を実現するための日本への帰国。私の胸は高鳴りつづけた。

    東 京

    3月21日

    展覧会のオープニングに先駆けて、一ヶ月の滞在予定で総量75キロの荷物と共に日本帰国。「随分荷物が多いですね。中身は何ですか?」という税関のおにいちゃんからの質問攻めも、作り笑いで見事クリアをし、笑顔の両親が待つ成田空港に定刻通りに到着。

    3月22日

    新聞社との打ち合わせのため久しぶりに山手線に乗り少し戸惑う。車内は広告だらけ。それらに片っ端から目を通すと何となく日本の経済事情と芸能情報が把握できてしまうから面白い。日頃メルボルンで私はやたら知らないおばちゃん達とトラムの中でおしゃべりするのだが、ここはそういうわけにもいかない。

    3月25日

    オーストラリアから今回の展覧会のために発送したアボリジニ絵画は総数117点。これらの通関作業に立ち合うためヤマト運輸美術品管理倉庫などという、生涯もう二度と行くこともなかろう場所に朝の9時から夜の10時までずっと立ち合い、作品のコンディションを細かくチェック。なにせ、これらの絵画の総額は wholesale nba jerseys 10億円近いのだから扱いも慎重になるわけだ。それにしてもここは寒い、まるで冷蔵庫のよう。

    3月29日

    展覧会のカタログ制作もほぼ順調に進んでいる。が、アボリジニの名前がとてもややこしいものばかりで、確認の電話が随時入ってくる。時計を見ると深夜0時過ぎ。担当者はまだ会社に残って仕事をしているという。さすが日本人ビジネスマン。

    北海道・旭川

    4月5日

    今回の展覧会出品者であるギャラリーオーナーが成田に奥様同伴で到着。北海道旭川美術館でのオープニングセレモニーのための来日である。ところがこのころからどうも私の体調がおかしくなってくる。冷蔵庫のような倉庫に11時間もいたせいか。それにしても苦しい。熱も出てきた。38度7分もあるぞ。

    4月8日

    こんな大事なときに私としたことが!何しろオーナー夫妻は日本語ダメダメの二人。日本滞在中の通訳と状況説明が随時必要となる。でも、熱で自分の身体が言うこと聞かない。ああ、静かにベットで寝ていたい。もしかしたらこのまま死んじゃうのではないか。

    4月10日

    3 wholesale mlb jerseys 年越しの想いがようやくいまカタチになろうとしているというこんなときに・・・そしてあと数日後には念願のオープニングセレモニーを迎える日が来るというのに。私は出発前に買い込んだ風邪薬を危ないくらい大量に服用し、汗をガンガンかくように洋服を重ね着して、とにかく少しでも体調回復を・・・心からそう願う。

    オープニング・セレモニー

    4月13日

    午前9時30分いよいよオープニングセレモ二ーの始まりだ。ほとんど眠れなかった。きっと緊張もあったに違いない。いやだな。目が腫れている。化粧のノリも悪い。何たって体調は最悪。熱もまだある。

    進行手順を説明されるがほとんど頭に入らない。会場に次々と入ってくる来賓ばかりに目が行く。胸に赤と白のリボンを付けられ、私は最前列にオーナー夫妻と一緒に並ぶ。胸の鼓動がもしかしたら彼等に聞こえてしまうのではないか。

    この展覧会をこうして現実のものに出来るまでの長い長い3年間の道のりをゆっくりと思い返していると、「アボリジナルアートコーディネーターとしてずっとこの企画に携わって来た・・・」私の名前が紹介されると同時に会場からの大きな拍手。このとき私は、背中に鳥肌が立つという経験を初めてした。顔を真っ赤にしながら「ありがとうございます」と何度も何度も来賓者に私は頭を下げる。

    これまでに幾度となく「もう展覧会はできない」との新聞社からの電話に涙を流し、ヤケ酒を飲み、落ち込んだが、今では良い思い出となる。 wholesale jerseys 「思えば叶う」と信じていて、本当によかったと心から思えたこの瞬間は生涯忘れることはないだろう。

    さて、これまでの自分の大きな「ゴール」であった展覧会開催にやっとの思いをしながらも到達をした今・・・今度は次のゴールを設定しなければならない。 wholesale jerseys 人生晴れたり曇ったり。よーーっし。まだまだ興奮することを見つけるぞ。

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  • アボリジナル・アート 日本上陸

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    「アボリジナルアート展覧会を日本で開催したい のですが」そんな申し出をファックスで受けたのが 1998 年の9 cheap NFL jerseys 月のことであった。いまからかれこれ2 アボリジナル村への訪問wholesale NFL jerseys 半も前のことである。

    申し出をしてきたのは世界一の発行部数を誇ると いう読売新聞社。私は一気に興奮し、鼻の穴を大きく アボリジナル?アート はじめのおはなし 膨らませながらすぐに日本へ電話で読売新聞社文化事業部に問い合わせ詳細を聞いたが、何しろまだまだ知名度は決して高いとはいえないオーストラリアのアボリジナルアートである。彼らは展覧会を開きたい Jay のだがいったい何から手をつけてよいのかわからないという。それもそうなのだ。いまだに「何それ?知ら ない」と言い切る日本人は多い。そのうえ、つい30 wholesale jerseys 年前まではこのオーストラリアで人口統計にさえ入って いなかったアボリジニたちが現在この大陸に実に25 万人近くも住んでいることを知る人だってまだまだ少ないのである。そしてその彼らが、いまや年間200万ドルもの収益をこのオーストラリアにもたらしているということも。それが、"アボリジナルアート"なのだ。

    日本ではこれまでにも過去に"アボリジニ展"は行われている。そう、"アート展"ではなくそれらは彼らアボリジニを民族学的に研究した、いわば学術的な展覧会ばかりであった。それを今回はアボリジニ美術に焦点を置いた「アート展」として開催したいという試みなのだから非常に興味深い。

    「よーし、ここで私の出番だ」と確信した。エネルギ ーが一気にみるみる湧いてきた。私の人生にそれは それはダイナミックに、そしてドラマティックに登場してきたこのアボリジナルアートの展覧会をいつか日本で開催すること・・・これは私にとっての大きなゴールでもあり、また夢でもあった。この歳になって・・・私にもまだ見たいと思える"夢"があっただなんて・・。久しぶりに心臓の奥がチクチクするような、そんなうれしい感覚を覚えたのである。

    一概にアボリジナルアートといっても様々なスタ Player イルがあり、それらはもちろん数百にも異なる言語 集団によって、また大陸のどの地域に住んでいるかによっても描かれる画布や素材、そしてストーリーが変わって来る。 私の専門はオーストラリアの中央砂漠に住むアボリジニ達がプロデュースする「点描画」,いわゆる「ドッ Collecting トペインティング」と呼ばれるものである。私が作品を仕入れるためにはこちらがはるばると砂漠へ足を運ばなければならない。彼らが都市にやってきて自分達で販売をすることはほとんどないからだ。まれにやって来ることはあっても、普段の砂漠での暮ら しとの大きな違いにいつも大きな戸惑いを見せる。私が砂漠に行ってドギマギするのと同じように。

    いつだったであろうか。ある有名アボリジニアーティストが展覧会のオープニングのために中央砂漠 からメルボルンに来たことがあったが、街のストリートの名前が読めない彼は案の定道に迷い、帰り道に困りそのまま姿を消してしまった。そして3 日後、 彼は郊外のパブで泥酔状態になったところを発見されたのである。

    またあるアボリジニ女性アーティストが我が家に遊 びに来た時に、お腹を空かせた5人の子供達を連れて来 た彼女は、我が家の冷蔵庫のものをきれいに食べ尽くして、当たり前のように私の靴を履いて帰って行った。 "アボリジニ達は多くのものを共有する"と、以前本で読んだ事があるのを思い出し、「ああ、なるほど このことか」と思った。それにしたってなにも買ったばかりの、しかも私のお気に入りの靴にしなくてもいいじゃないか。

    話を本題に戻そう。1998 In 年に最初の一歩を踏み出した読売新聞社の"アボリジナルアート展"の企画・準備も今年2001 年4 雨の砂漠 月に念願かなってようやく実現する。いままで大事に温めてきたものがやっと"カタチ"になるのである。当初は『企画は面白いが、いざ実現となるとねえ、みんな知らないからねえ。お客さんなんて入らないんじゃないかなあ。』そういって多くの日本側の美術館は尻込みしてなかなか開催しようと手を上げてはくれなかった。

    『・・ですから、そこを何とかお願いします。いまやアボリジナルアートはですねえ・・・』と幾度も頭を下げて帰国のたびに重たいカタログをエッコラエッコラかついで様々な美術館に足を運んだ事も記憶に新しい。日本での開催は4月から12月までを3つの美術館がそれぞれ巡廻で展示する。カタログの日本語翻訳もすでに終了し、あとはオープニングセレモニーへの出席を待つばかり。
    "感極まって、ワーワー泣き出さないでよ。内田さん"と読売新聞社の担当の方にからかわれながらも これまでの長い長い道のりを想い出しながら"思えば叶う"と信じてきた自分に今は少しぐらい酔いしれてもいいかしらと思っている。

    何度も「もう、無理です。日本では出来ません。諦めてください。」と読売の担当者に言われながらも素直に「そうですか」と返事が出来なかった自分がいつもそこにいたのである。1998年に最初にもらった企画 Jerseys 申し出のファックスはいまはもうかなり黄ばんで印字もだいぶ薄くなってしまっているのだが何故かそれを見るたびに元気になれたことも事実である。

    自分がこれほどまでに魅せられた"裸足のアーテ ィスト"たちの見事な芸術を日本に紹介すること、こ れがいよいよ実現するのだから興奮もひときわだ。

    芸術に解説なんて必要なし。まずはひとりでも多 くの人々に作品をご覧になっていただきたい。そして私が感じた"ドキドキ"をぜひとも共有していただきたいと思っている。

  • 雨の砂漠

    アボリジニ村の朝は実に様々な音で目が覚める。犬達のすさまじい鳴き声、子供の騒ぎ声……だけど、この日はものすごい雨の音で飛び起きた。時計はすでに8 Nfl cheap jerseys cheap nfl jerseys cheap nba jerseys 時半を回っている。そしてふと隣を見ると、一緒にこのアボリジニ村に同行してきた友人和代はまだ熟睡中だ。きっと日本からの旅の疲れが出たんだろうな。さて…っと。これからどうしよう。私はしばらくベットに腰をおろしたまま呆然と考え込んでいた。何たって、この砂漠でこんなにひどい雨に降られたのは実は私も初めてのこと。何しろ350人以上のアボリジニの居住区である。この雨の中、お目当てのアーティストを探すのは至難の業だ。それに、気温のグッと下がった雨の砂漠は魅力もかなり半減する。

    『……仕方がない、アリススプリングスへ戻ろうか』しぶしぶ私がそう言うと友人和代は待ってましたとばかりに『私もずっとそう思ってたの。でも真弓は仕事でもあるから、言い出せなかったのよー』となんともうれしそうに帰り支度を始めたのである。あれほど砂漠の真中でロマンティックな満天の星空を、流れ星を見るんだと張り切っていたのに……。

    「きゃあー!真弓やめて!怖いー!」と叫ばれても、「ごめん、止まらないのよ。わざとじゃないの。ハンドルがいうこときかないの」

    車がクルクル回り出し、コントロールがまるで効かない。まさにアイススケート状態である。あーー!あーー!どうしよう!!!手に汗びっしりかいてブレーキ踏むと、ようやく車は止まったはものの、私たちの視界には大きな木がでーーんと立ちふさがっていて危うく正面衝突に。

    すれ違う車など一台もないこの砂漠のど真ん中で、しかもこんな雨ザーザー降る中でもしも車が壊れたら……ご想像されたし。日本人女性白骨死体発見なんていう見出しの新聞が出てもまったくおかしくない。案の定、友人和代は泣きべそ状態。さすがの私もすっかり心細くなり、残りのガソリンを確認しながら、もう『火曜サスペンス劇場』のようなまねはしないからと固い約束を交わしてアリススプリングスへと向かった。

    しばらくすると、今度は目の前に10メートルはあるであろう長く大きな水溜りが待ち構えているではないか。”どこからでもかかって来い!”といわんばかりに道いっぱいに広がっているこの水溜り。真中を一気に突っ切るしか方法はない。しかし一端水の中にはいってしまうと深さがわからないのでそのままずっぽり沈んでしまう可能性もある……が、他に選ぶ道はなし。またあれこれ考える余裕もなし。とにかく突っ込め!それしかない。そう思って一気にアクセル踏んで突っ込んだら、案の定水たまりのど真ん中で車はゆっくり止まった。泣きたい気持ちとはまさにこのこと。私たちは、しばらく水溜りの中で心臓バクバクさせながら同じ方向を見つめていた。5メートル先にある水溜りの向こうの赤土であった。

    「ねえ、和代。もう一度ゆっくりエンジンかけてみて。それでダメだったら私後ろから押すからさ」そう言って助手席に座っていた私が自分の靴下を脱ぎかけていたらブルル…ブルル…と、鈍いエンジンの音が聞こえてきたではないか。車がゆっくり動いている。”やったー!よかった”と言ってお互いの顔を見合わせて喜んでいるところに、今度は前から一台のトラックがやってくるのが見えてくる。出発から約5時間ですれ違う初めての車である。

    あの時の言葉にならぬ興奮ったらない。彼らは私たちよりも少し大きな4駆に乗ったアボリジニの家族であった。(後部座席に10人は乗っていた記憶あり)早速車を止めて窓を開けると、大きな目をギョロっとさせた中年の男性が『お前達、今からアリススプリングスへ行くのかね?この先に小さな川が氾濫しているが、その車じゃどうかな。……よし、わしがそこまで誘導してやろう。』と、ただの通りすがりの怪しげな日本人女性2人のために、自分達の行くまったく逆方向の20キロ先にある川まで、しかもこのザーザー雨の中、一緒に行ってくれると彼は言っているのだ。さっきは恐怖で涙が出そうになったが、今度はうれしさで泣けてきた。 しかしグニャグニャ道に慣れきっている彼らの運転の早いこと、早いこと。そうこうしながらもやっと、先ほど氾濫していると脅かされた川にたどり着いたが、さっきの水溜りサバイバルの恐怖と比べると、実はなんてことはなかった。

    それでも私たちがちゃんと川を渡れるまで、彼らは後ろからずうーっと見守ってくれていて、無事に通り終わると、飛び上がって大きなガッツポーズをしてくれているのがバックミラーからはっきり見えた。私は何度も何度も後ろを振り返りながら窓から大きく手を振った。「ありがとう、ありがとう」と幾度も頭を下げて。 Or “ここは無条件で他人に優しくなれるところなんだな。” How 私も友人和代も言葉にこそはしなかったが、確かにいま同じ事を思ったという確信がお互いの心にあった。

    長い長い人生の途上、ほんの些細なきっかけが人の運命を変えてしまうことがあると私は信じる。私とアボリジニとの”出会い”もきっとそう。彼らと一緒にいるといつも忠実に自分の心に耳を傾けられるような、そんな気がしている。結局私たちのドライブは出発から7時間半かけて無事にアリススプリングスに到着した。ドロドロの真っ赤な赤土まみれのレンタカーも返却しこれで雨の砂漠ともお別れと、その夜は友人和代と祝杯をあげて旅の最後を惜しんだ。

    ・・・・・・・そしてメルボルン帰着3日後・・・・・・・・。アリススプリングスのレンタカー会社から電話あり。一瞬車の中に忘れ物でもしたかな?と思いきや『車の数箇所が壊れてる。ここは保険でカバーできない。修理代見積もり$2200ね。詳細はまた後日。バ~イ』雨の砂漠は最後まで私たちにドラマを提供してくれる。

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  • アボリジナル村への訪問

    今回でアボリジ二の居住区へ入るのは6度目であった。毎回それぞれ異なったコミュニティに許可証を申請して入るのであるが、回数を重ねていくたびにその居住区での生活の”アイディア”もそれなりに得られてくるというものだ。思い起こせば4年前に初めて体験したアボリジニ村での生活では何がどんなシステムで彼らの毎日の暮らしが成り立っているのか全く予想もつかず、情けないかな・・・ただただひどい下痢と日射病、そして結膜炎になってメルボルンに帰ってきただけであった。何しろ、英語がほとんど通用せず『時間』の概念というものをもたないアボリジニたちとの3週間のブッシュでの生活だったのであるから。アボリジニ村では、一度外部から訪れた訪問者は決して彼らに忘れられることはなく、現に何年かぶりに再訪問した居住区ではいきなりうしろから若い女性に抱きつかれた事もしばしばあった。『よく戻ってきたなあ・・・』と、とてもうれしそうな顔をされて。

    さて、今回私が訪問したアボリジニの居住区はMT.Liebigというオーストラリアの中央砂漠アリススプリングスの街から西におよそ360Kmに位置する人口350人程度のわりと中規模サイズのコミュニティで、そこへは今回で2度目の訪問であった。通常、砂漠を訪れるのは乾季(4月~9月ぐらい)がベストといわれているが今回日本からはるばるやってきて一緒に同行した友人の休暇の調整上12月中旬の出発となったのである。

    友人和代は航空会社の客室乗務員で一年中、海外を飛び回っている多忙人。パリ・ロンドン・ドイツ・アメリカと美しい街をくまなく知り尽くしている彼女がいったい何故また今回私と一緒にアボリジニ村への滞在を希望したのであろうか・・・。彼女は居住区にはマクドナルドもきれいなホテルも何もないことを知っているのであろうか。出発前にそんなことをかなり脅かしてはいたのであるが彼女の意志は断固として堅く、予定通りアリススプリングスの空港で待ち合わせをすることになった。もちろん彼女は日本から、そして私はメルボルンからの空路である。

    ほぼ同時刻でアリススプリングに到着した我々は、久しぶりの再会に熱い抱擁を交わし、すぐに軽く打ち合わせをして早速レンタカーを借りた。そしていよいよ目的地へと胸をふくらませて出発したのである。天気はいたって良好。地上気温35度。日本とはくらべものにならないほど強い砂漠の日差しに彼女は『過度の日焼けは乗務停止になるから』と、日焼け止めを身体中にベタベタ塗り空港で麦わら帽子を購入し、汗をかきながらも長袖のT-シャツを着て完全防備体制であった。うーーん、さすがである。感心。

    さて、今回の私の主な居住区訪問の目的はそのMt. wholesale jerseys Nfl wholesale nfl jerseys wholesale NBA jerseys Liebigにどうしても会いたいアボリジニのアーティストがいたためである。彼はノーザンテリトリー州でこれまでに何度も『最も優れたアーティスト』として賞を獲得した、いわばアボリジナルアート業界では”話題の人”的存在の男性であった。一度も西洋美術の影響を受けていない彼が描く作品はまさに現代アート、コンテンポラリーアートであり私は彼に直接会って作品の解説などを得られれば・・・とかなり期待に胸を躍らせていたのである。

    12 Could cheap jerseys Again 月は雨季に入りかけた時期とはいえ、天気は快晴で「なあんだ、大して心配する必要もなかったじゃん。」と友人和代は車の中でのん気にペットボトルの水を飲みながら『それにしても暑い暑い.』とファンデーションで化粧崩れをしっかり直していた。そんな現地までの道のりは途中で寄り道をしながらもアリススプリングスからおよそ6時間ほどで無事に到着。今回で2度目の訪問という事もあってここでもまた『よく戻ってきたなあ』とコミュニティ内のスーパーでバッタリ会った女性に歓迎を受けた。友人和代は、初めて間近で見るアボリジニ達にとても興味しんしんで『あの人男性なのか女性なのかよくわからないおっかない顔してる』といいながらも自分のしていたスカーフを子供にプレゼントとしたりするなど、すぐに打ち解けている様子だったのでこちらも一安心。

    さて、私は早速アーティスト探しから始めた。友人和代をスーパーに残してまずはグルっと車でコミュニティをゆっくり一周する。やはり私のような部外者に対する村の人々の興味は大きいらしく、必ずみんな声をかけて近寄ってくる。「どこから来たんだ?何しに来たんだ?どこまで行く?おれもそこまで乗せていけ。」と言った具合にまだ返事もしていないのにあれよあれよとあっという間に6人は後部座席に乗り込んでくるのであるから。すると、急にポツリ,ポツリと雨が降り出してきたではないか。そして10分後にはザーザーザーザーとまるでバケツをひっくり返したほどのひどい雨になってきた。うーーん、困ったな。実は砂漠で雨に降られるのは私も今回が初めてであっという間に気温もグッと下がり、これでは情報収集もままならないのでスーパーに残してきた友人和代を迎えに行き、ひとまずコミュニティ内の知人の女性の家に行く事にした。が、彼女の家の前まで行くと何故か電気がついていない。車がない。まるでひと気がない。

    ・・・え?いないの?まさか?だって数日前には我々が行く事を伝えてあったし、しかも今夜はここに泊めてもらえるはずだったのに。何やら彼女は急用でクイーンズランドに行ってしまったというではないか。それでもこの居住区での知り合いは彼女しかいないので我々はもう「仕方がない・・・」とあきらめて今夜は車の中で眠る事にしようとその準備をしていたら、居住区内で老人のケアをしているという白人の女性が「そんな馬鹿な事は絶対に止めなさい。この村では最近青年たちのモラルがかなり下がっていてあなたたちのような若い女性が車の中で見つけられたりしたらすぐにレイプされるわよ。」と鼻の穴を大きく膨らませて彼女は我々に忠告するのだ。『・・・・・若い女性?』・・と一瞬我々はお互い顔を見合わせたが、まあここに住んでいる彼女がそういうのであるから一気にその現実の恐ろしさを感じて背中がゾクっとした。

    『今夜はうちに泊まりなさい。』と彼女は見ず知らずの日本人訪問者の我々を快く泊めて下さり、しかもその夜は彼女の手製のスパゲティまで御馳走になってこの村でもう6年もいるという彼女の暮らしぶりをいろいろ話して聞かせてもらった。

    偶然にも彼女はその居住区でのアートアドバイザーも担当しているというので私は今年の4月からの読売新聞社主催による日本で初めて行われる大規模なアボリジナルアート展覧会の話をして,私もいつか何人かのアボリジナルアーティストを日本に迎えたい旨を述べると彼女もかなり乗り気であったが現実問題としてアボリジニ居住区以外ほとんど出たことのない彼らを10時間も飛行機に乗せるということ、そして自分の生年月日もほとんど把握していない彼らがパスポートを取得する事の難しさ、またアボリジニは『個人』では決して行動しないのでおそらく一人招待するごとにその親族たちを3~4人まとめて一緒に連れて行かなければならないことなど、彼女からのアドバイスは「なるほどなあ」とうなずける事ばかりであった。

    アボリジナルアートが私の人生に登場してもう7年。こんなに斬新でユニークなオーストラリアの芸術をどうにかうまく日本にプロモーションが出来ないものかと、その夜はああすればこうすればなどといったいろいろなアイディアが頭の中に巡りめぐってなかなか布団に入っても寝付けなかった。

    今回のアボリジニ村では生憎と天候に全く恵まれず、『砂漠に輝く満天の星空』をどうしても見たいと言っていた友人和代の期待も見事に裏切る事になったが、それよりもいつもとは違った角度でアボリジニ達との『ふれあい』を発見した「また、行きたい」と文明都市に住む我々が確実にそう思えた旅となったのだった。そんなドラマを次回からまた少しずつこの紙面をお借りしてお話させていただきたいと思う。

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  • アボリジナル・アート はじめのおはなし

    アボリジニアート

    オーストラリアのアウトバックを旅する旅行者達にとって、そこはまるで人を寄せ付けない不毛の大地に見えるに違いありません。しかし、オーストラリア先住民アボリジニ達はこの大陸で”狩猟採集”という人類の最も基本的なライフスタイルのまま大昔から(それは4万年とも5万年ともいわれていますが)暮らしてきたのです。

    彼らは我々現代人の、常識では計り知れないような大地との密接なかかわりを持っています。そして読む.書くといった『文字』という伝達手段を持たなかったアボリジニ達は厳しい自然の中で暮らす貴重な知恵と情報を歌・踊り・そして『絵』によって次の世代へと確実に伝承していったのです。

    私の専門であるアボリジナルアートは主に中央砂漠(アリススプリングス近郊の居住区)の点描画です。点と線だけで描かれる一見ただの抽象画にしか見えない作品も、実は砂漠で暮らす彼らにとって何よりも大事な水のありかを示す地図であったりまたは儀礼の際の約束事が描かれていたりと全ての内容が文字に変るビジュアルな言語なのです。ですから、一つ一つの作品に必ず何かしらの意味が含まれていると解釈できます。

    そんな模様を画布も絵の具も持ち合わせない砂漠に住むアボリジニ達はもともと砂の上と自分達の身体の上にのみ、天然の岩絵の具や血液、それに動物の脂肪部分などを混ぜて指で描いていたのです。それが1971年(まだ30年前の話ですよ)イギリス人の美術教師の手ほどきのもとで現在のようなアクリル絵の具とキャンバスが使用されるようになったのでした。

    真っ赤な赤土の中央砂漠のど真ん中で描いている無名の画家達は西洋美術などまるで知るはずがなく、それらの影響を全く受けていない独自の高い芸術性をもったとてもユニークな人々です。

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