カテゴリー: 裸足のアーティストに魅せられて – 特別編

  • 【東日本大震災追悼式 -4】日本滞在はじめて物語 後編

    念のためにセットしていた目覚ましアラームよりも早く目が覚めた私は追悼式当日、会場へ出掛ける前の彼女たちへあることを計画していた。何しろ今日はたくさんの人前で歌や踊りを披露するんだからね。
    前の晩はちゃんと風呂に入って身体をしっかり洗ったからオッケー。

    じゃあ今度はお肌をスベスベにしてもらおうじゃないかと一人ひとりにフェイシャルエステをプレゼント。
    これまた彼女たちにとっては初めての体験だった。
    地元のエステシャン3人にそれぞれ旅館の部屋へわざわざ来ていただき一人20分間のクイックエステを行ってもらったのだがこれが大好評でみなそれはそれは大騒ぎ。
    ああ。やはり同じ女性なんだわーーー美しくなることに喜びを感じているわーーと黒い肌に真っ白なフェイスマスクを覆った彼女たちの不気味な姿を眺めながら普段砂漠でトカゲを丸かじりしている人と、とても同一人物だとは思えないよなーーなんてことを私はふと思い起こしてにやけていた。



    追悼式当日、前から懸念されていた天候はかなり回復はしたもののやはり気温はとても低く特に風が冷たかった。パフォーマンスの披露は津波が襲ったという海岸沿いに設定された。そう、海風ぴゅーぴゅー吹き荒れる寒い場所だ。
    気温40度の砂漠からやってきたアボリジニの女性たちは本来であれば、身体にボディ・ペイントを施し上半身裸で踊りを披露する・・・・
    はずだったのだが。。。。
    このとんでもない寒さではさすがにみな着込んでいたダウンジャケットを脱ごうとはせず、それどころか見知らぬ大観衆の前でもじもじして誰一人声が出ない。
    「ゆうべのリハーサルどおりにやればいいんだよ。ね。ね。」と昨晩あんなに張り切っていた長老の耳元で私はそうささやいたがあまりの緊張で長老は身体が完全に固まってしまっていた。反応まったくなし。
    こりゃ。まずいな。
    うーーん。困ったぞ。
    すると機転を利かせた司会者の方が会場の観衆者へ今回彼女たちが来日したいきさつを話し始めてくださり見事に場をつないでくださったのだ。
    その間、再度長老の耳元で「りらーーっくす。りらーーーっくす。ゆー、うぃるびー、おーけー。ゆー、きゃん、どぅ、いっと。」とささやいて彼女の腰にそうっと手を回したそのとき・・・長老の足が少しずつ動き出した。
    小刻みに両足でステップを踏むしぐさ。アボリジニの伝統的な女性の踊りである。
    それに続いて今度は歌が伴った。あとの4人もややうつむき加減ではあったがみな歌いだしたではないか。
    素晴らしい。いいぞ。やったー!被災地の皆様へこの想いがちゃんと届きますように・・・私は彼女たちの歌を聞きながらそれだけを祈っていた。その歌が終わりかけたころ、さっきまでもじもじしていた長老マリリンが今度は何とマイクを持って観衆へ語りだしたのだ。

    「昨年日本の大惨事を知ったとき、私たちアボリジニはみな涙を流しました。そしてすぐに日本のために祈りました。
    ジャパン、ナイスカントリー。ジャパン、ナイスピープル。ウィ、ライク、ジャパン。サンキュー。」と短い言葉ではあったが彼女の熱い日本への想いは間違いなく観衆へ届いたと鳴り止まない大拍手を聞いて私はそう確信した。

    大役を無事に終えた砂漠の女王様5人組。
    その後は東京へ移動して念願の「東京ディズニーランド」で一日遊んだ。

    私の任務もそろそろ終了だわーーとふと気を許したそのとき・・・
    大食いキャロルをディズニーランドで見失ってしまったのだ。大変だ。大変だ。彼女はどこに行っちまったんだ。もちろん携帯なんて持っておらず探しようがない。途方に暮れていた私に最年少デニースが「もしかしたらあそこにいるかもよ」と指差した場所は美味しそうなハンバーガーの看板があるレストラン。
    半信半疑で中をのぞいた私の視界に入ってきたのはカウンターで特大ハンバーガーセットとオレンジジュースを自分で注文していた大食いキャロルの姿だった。何やらポケットに残金2000円があったらしい。
    獲物を探し追い求める能力はさすがアボリジニだ。
    彼女こそ地球上で最後まで生き残れる強い女性だと確信した瞬間だった。

    こうして5人のアボリジニの女性たちの初来日生まれて初めて体験物語は様々なドラマを展開させながらも涙あり、笑いありの素晴らしい6日間であったことはいうまでもない。

    来日に際してご尽力下さった関係者のすべての皆様にこの場をお借りして心より御礼を申し上げたいと思います。
    本当にありがとうございました。

    (DengonNet8月号寄稿)
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    【東日本大震災追悼式 – 1 】アボリジニ御一行様来日 前編
    【東日本大震災追悼式 – 2】アボリジニ御一行様来日 後編
    【東日本大震災追悼式 – 3】日本滞在はじめて物語 前編
    【動画】アボリジニがやって来た~いわき市 東日本大震災3.11追悼集会のために~

  • 【東日本大震災追悼式 – 3】日本滞在はじめて物語 前編

    私は、アボリジニの人たちに会いに行くためだけにメルボルンの自宅から遥か2000キロ以上離れているオーストラリア大陸のど真ん中の小さな小さな居住区へせっせと通い続ける少し変わった日本人。
    たとえ気温45度の炎天下で干し上がろうが、カンガルーの半生肉を食べて腹を壊そうが、ひどい結膜炎で目がつぶれかけようが、それでもめげずにせっせせっせと通う珍しい日本人。
    『変わり者』と言われ続けてもうじき15年になるだろうか。

    私にとって重要なのは『どうしても会いたい人たちに会いに行きたい』というそのときの自分の強い想いと『実際に行く』という具体的な行為そのものであって決して結果ではないということ。自分が正しいと思えることを信じる勇気こそが『変わり者・内田真弓』への大きな力となっていることは間違いない。

    さて・・・その『会いたい人たち』がな、なんと!今度は私の生まれた国、ニッポンへやってくるというこのうえない機会に恵まれた。しかもそれは去る2012年3月11日・東日本大震災の追悼式という震災後一年目のわが国で開催される最も重要なセレモニーに正式に招かれたのだから感激もひとしおだ。心の底から名誉なことだと思えた。
    私は彼らの初来日に際して全体のコーディネートを任された。事前のパスポートの手配から滞在中のお世話係まで、とにかく出来ることは何でもやった。

    生まれて初めてパスポートを手にして海を越えてやってきた5人のアボリジニの女性たち。訪問先は福島県いわき市であった。昨年の地震津波でこの土地でも数百人の命を失っている。渡航距離はおよそ8000キロだ。。
    来日するまでの詳しい経緯は先月号で詳しくお話をさせていただいたので今回はそんな彼女たちの「ニッポン滞在はじめてだらけの物語」を皆様へご披露したいと思う。

    ところで、自分が未知なる国へいざ出掛けることになったときあなたならまず何を思うだろうか。
    恐らくすぐにインターネットであれこれと知りたいことを次から次へと検索していく?
    もしくは自分のブログやFACEBOOKでその渡航先の情報を友人・知人から入手する?
    何はともあれ今のこの時代、あらゆる手段を使って情報収集が容易にできる環境であることは間違いないだろう。

    しかしながら砂漠で暮らす、私が普段たくさんの時間を共有するアボリジニの人々はインターネットの存在をほとんど知らない。
    テレビすらあまり観ることはなく、いま世の中で何がどんな風に起こっているのかなど気に留める様子もない。
    彼らが最も大事にしていることは自分たちの家族と広大な大地とのコミュニケーション。
    何よりもそれらへのケアが一番重要だと信じる人々だ。
    だからそんな彼らに「日本」の存在を聞いても答えはみな同じ。「ジャッキーチェーンが住んでる国」と口々にそう言い放つ。彼らにとっては香港も日本ももはやみんな一緒のようだ。そうだ。そうだ。同じアジアだ。世界はひとつ、人類はみな兄弟だ。ジャッキーチェーン、ニッポン万歳だ!!!!
    インチキコーディネーター、テンション上がりまくりで彼女たちを日本で出迎えることに。

    さて、アボリジニの女性たちが来日後に初めて訪れたのは福島県いわき市で有名なリゾート施設「スパリゾート・ハワイアンズ」だった。ここも昨年の大惨事で大きな被害を受け、やっと営業が再開したのは我々が訪ねるほんの少し前だとうかがった。そのスパリゾートでは美しい日本人女性たちによる見事なフラダンスショーが間近で鑑賞でき、おまけに宿泊客は館内でみなアロハシャツを着てのんびりくつろいでいる。館内の温度もハワイらしくと30度に設定されていたため、アボリジニの女性たちはみな額に汗をかいていた。気分はもはやすっかりハワイアンムードだ。
    ・・・といっても彼女たちにとってはハワイがどこにあるのか何なのか、さっぱりわかっていない。当然である。
    だから後日、自分たちの村へ戻って「日本でハワイに行って来た」と子供たちにそう聞かせていた。村の子供たちも「うん、うん。ハワイは日本か。」と楽しそうに写真を眺めながらそううなずいていた。。。。

    ハワイアンムードにたっぷり浸った翌朝、目が覚めると外には真っ白な雪が舞っていた。
    今度は「ハワイで雪を見てきた」と言いかねない彼女たちだがもうそんなことはどうでもいい。きゃっきゃ、きゃっきゃと騒ぎながら私のデジカメを勝手にカバンの中から取り出して写真撮影する最年少のデニース、次から次へと不思議な真っ白い物体が舞い降りるのをずっと黙って見上げている長老のマリリン。私は彼女たちのそんな様子を見ているだけでとても幸せな気分になれたのだから。

    今回の来日にあたって私はアボリジニの人たちにこれでもかというほどたくさんの話をしてきた。昨年、東日本を襲った大惨事でどれだけ多くの人々が命を奪われ心に傷を負い、またそれに立ち向かうべく努力をしているか。そして全世界からの絶大なるサポートを受けたことへの感謝の気持ちなど出来るだけ簡単な英語と私の下手くそなルリチャ語を駆使して「だからこそあなたたちが日本へ招かれたんだ」
    とその価値と意義を一生懸命説明した。

    いよいよ追悼式まであと1日。アボリジニの女性たちが被災者の方々へ「大地の祈り」を披露する日がやってくる。
    見知らぬ大観衆の前で果たしてうまく踊れるだろうか。歌は間違えないで歌えるだろうか。
    ハラハラドキドキの私は前夜、みんなを集めて部屋でリハーサルを行う提案した。
    「眠いからやりたくない。それより腹減った。何か食べさせて」と大食いのキャロルがあくびをしながらそう言う。彼女は朝起きた瞬間から何を食べようかと考えている女性。食事が一日3回だなんて一体誰が決めたんだと怒る女性。そんな彼女に長老マリリンがぴしゃりと一言。「何を言っているんだ。我々はジャパンのために遠くからやってきたんだ。
    さあ、やるよ。練習やるよ。」と全員を奮起づけたではないか。
    きゃー!マリリン。さすが長老。カッコいいーーーー!!!!

    ということでそれからおよそ1時間、翌日の本番に備えて我々はパジャマ姿で祈りの歌と踊りを真剣に練習した。
    その後、一汗かいたからと旅館の大浴場へ皆様をご案内。もちろん砂漠の女王様たちにとっては生まれて初めての温泉体験だ。長い間、水の乏しい土地で生きてきたアボリジニの人たちにとって水は生き延びるために飲む大切なものであるがゆえ、身体を洗ったりするなんていう発想はまるでない。だから目の前の大きな熱い湯たっぷりの浴槽を眺めながら人一倍怖がりなクラリスおばちゃんは「これって足はちゃんと底に着くのか?」と恐る恐る私に尋ねてきた。
    「なぁーに大丈夫!着く。着く。ちゃんと着く。ほおぉ~らね。ジャッポーン!」と一番に飛び込んでみせた変わり者コーディネーター。中のお湯があまりにも熱くて危うく死にそうになったことはいまだ誰にも言っていない(涙)

    (DengonNet8月号寄稿)
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    【東日本大震災追悼式 – 1 】アボリジニ御一行様来日 前編
    【東日本大震災追悼式 – 2】アボリジニ御一行様来日 後編
    【東日本大震災追悼式 -4】日本滞在はじめて物語 後編
    【動画】アボリジニがやって来た~いわき市 東日本大震災3.11追悼集会のために~

  • 【東日本大震災追悼式 – 2】アボリジニ御一行様来日 後編

    3月9日。追悼式の2日前が彼らの来日となった。カンタス便を乗り継ぎながら初めてパスポートを握り締めて成田空港へやってくる砂漠のご一行様。渡航日数はまるまる2日間かかった。彼らにとっては実に長い長い道のりだった。

    到着が早朝6時というとんでもなく早い時刻だったため、私は当日空港で彼らを出迎えるために前の晩から成田空港周辺のホテルへ泊まってスタンバイした。朝4時に目覚ましのアラームをセットしたがもう脳みそが思いっきり興奮しちゃっているせいでとても眠れたもんじゃない。そこで布団からむっくり起き出した私は事前に購入しておいた、たたみ1畳分ぐらいの大きさはある日本とオーストラリアの特大国旗をそれぞれひとつの棒に合わせてくくりつける作業を突然始め、明日はこのでっかい旗を大きくバサバサ振って空港出口で彼らを出迎えてあげよう。。。彼らの笑顔を想像するだけで幸せな気持ちになれる自分がいた。

    ところが翌朝、その特大国旗を堂々と掲げて出口で彼らの到着を待ち構えていた私を呼び止めたのは制服を着た若いあんちゃん。。。空港警備員だった。
    「この旗はどうされたんですか。何に使われるんですか。サイズが大きすぎやしませんか。誰が来られるんですか。」
    と、いきなりあんちゃんからの質問攻めに合うではないか。

    だめよ。だめだめ。私にはあなたと今ここでおしゃべりしている時間はないの。ほら、こんなことしている間に、彼らが出口から出てくる瞬間を見逃してしまうかもしれないじゃない。お願い、あっちへ行って。私にもう話しかけないで。

    なんちゃってコーディネーターは時には女優にも変身する。気分はすっかりオスカー賞受賞主演女優、メリル・ストリープだった。25年前に他界した田舎の婆ちゃんのことを無理やり思い出してうっすら涙ぐんでもみせた。そして「オーストラリアから、もうすぐとても大切な方たちが到着されるんです。」そうあんちゃんに涙目で訴えながらも、もはや目線はあっちへこっちへと飛んじゃっていて出口の方ばかりが気になった。

    一歩間違えば、挙動不審者扱いで空港刑務所にぶち込まれていたかもしれない。いや、それならそれでもいいと思った。彼らに昨晩夜なべをしてこしらえた特大両国親睦国旗《←今、考えた》を一目見てもらえるのなら、空港で一夜を明かしてもよかろうと。

    するとそのとき!出口付近から「ナッカマラー。ナッカマラー!」(←私がいつもアボリジニの人たちに呼ばれているスキンネーム)とアボリジニの長老、マリリンの声が!!!!ニコニコ笑って大きく両手を私に振っている。そして次々に来日豪華メンバーが私の視界に入ってきた途端、あまりの感激で思わず鼻の奥がつーーんと痛くなった。と同時に、気温8度の日本にノースリーブでぞろぞろやってきた彼らの服装を見て大笑いした。そうだよね。砂漠は気温40度以上あったんだもんね。「ウエルカム、ジャパン!本当に良く来てくれたね。」そう言って一人ひとりと強く抱擁している間にさっきの制服来た若いあんちゃんの姿は消えていなくなっていた。運よく投獄を免れた熟女の異常なほどの舞い上がり。怖いものは何もなかった。

    人間、異なる環境に自分の身を置くことで価値観が大きく変わるものだと確信する私。今回、初来日をした5人の砂漠の女王様たちは自分たちが何故日本に招かれたのか・・・日本へやってきた意義をどう捉えているのか・・・津波が襲った被災地の現場を見て彼女たちはいったい何を思うのか。そして私が生まれた国、ニッポンが彼女たちにいかように映るのか。

    期待と不安を抱きながら一緒に過ごした日本滞在6日間はまさに笑いあり、涙あり、失踪事件ありのドラマが繰り広げられた毎日だった。

    生まれて初めて手にしたパスポート、生まれて初めて入った温泉、生まれて初めて買い物した100円ショップ、生まれて初めて食べたラーメンの味、生まれて初めて体験したエステ、生まれて初めて乗った地下鉄、生まれて初めて訪れた東京ディズニーランド・などなど。
    たった6日間の間に、実にたくさんの“生まれて初めて”を日本で体験したアボリジニ女性たちのどきどきジャパンステイを次号でもう少しだけ詳しくお話させていただきたいと思う。
    お楽しみに。

    DengonNet7月号寄稿
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    【東日本大震災追悼式 – 1 】アボリジニ御一行様来日 前編
    【東日本大震災追悼式 – 3】日本滞在はじめて物語 前編
    【東日本大震災追悼式 -4】日本滞在はじめて物語 後編
    【動画】アボリジニがやって来た~いわき市 東日本大震災3.11追悼集会のために~

  • 【東日本大震災追悼式 – 1 】アボリジニ御一行様来日 前編

    早いもので、「あの」出来事からもはやすでに3ヶ月が経とうとしている。
    そう、今回久々に誌面に登場させていただいたのは、私自身「あの」出来事を皆様に切にご報告したかったとともに自分のこれからまだまだ続く(と何の根拠も無く願っている)長い長い人生の途上においても決して忘れることのない大切な記録として残しておきたかった・・・というのが本音だろう。

    いまだに「あの」出来事を思い起こすたびに正直言ってまだまだ感傷的になる自分が存在するがそれをあえてここで皆様にお話させていただきたい。

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    「内田さん。お願いがあるんですが。今年3月11日に行われる東日本大震災追悼式のイベントにオーストラリア先住民のアボリジニの方たちを日本へ、福島県いわき市へ招きたいんですが何とかご協力していただけませんか。」

    こんなメールが私の受信トレイにぽーんと飛び込んできたのは1月もほぼ終わりに近づいていた頃だった。
    最初は「・・・へ???何のこっちゃ???」と意味が良くわからずすぐにメール差出人の方へ、つまりメルボルンに居る私は日本へ国際電話をかけてまずは事情を詳しくうかがった。

    主催者の方曰く、「昨年、日本を襲ったあの大惨事。近年、我われ日本国はどうしても新しいモノづくりに何かと目を奪われてしまっています。そこで遥か太古から『大地』とともに根強く生きているオーストラリア先住民アボリジニの方々から被災地の人たちへぜひ『大地からの祈り』を捧げて欲しいのです。」

    気がつけば私たちはかれこれ2時間ほど話をしただろうか。電話の向こうの声はとても力強く、そして真剣だった。その結果いつものカッコつけマンのなんちゃってコーディネーターは二つ返事で「はい。わかりました。何とかお力になろうではありませんか!私にできることは何でもやりましょう。ところで何人ぐらいのアボリジニの来日をご希望なんですか?」といつもより3オクターブ高い声を出してうかがうと「そうですねえ。多ければ多いほど有難いんですが、大丈夫でしょうか。」あっさりそう言い返してきた主催者のYさんだった。

    ちょ、ちょ、ちょいと待っておくんなさいな!

    多ければ多いほどいいって・・・彼らのパスポート取得って申請これからやるんでしょ?
    追悼式は3月。いま、もう間もなく2月でしょうに。それ、誰がやんの?
    しかも私がいつも通っている砂漠のど真ん中に住むアボリジニの人々は若い世代でも木陰に穴掘って出産してたりするんだからね。間違いなく出生記録がない人たち、まだいるんだからね。そんな彼らのパスポートいつ取れるかさっぱりわかんないんですけど~~~(大汗)
    不安材料は数えりゃトラック300台分ぐらいはざっとある。しかしながらここでジタバタしている時間はもったいない。急げ!準備だ!!こうなったら何が何でも彼らを日本へ招くのだあぁぁぁあ~~!!!自分のこめかみに紫色の血管がくっきり浮き出ているのを感じながらも、もはやあのときの私の興奮を止められる者は誰もいなかった。

    ご存知の通りオーストラリア史におけるアボリジニの歴史はとても悲惨で悲しく、1788年のイギリス人による入植以来彼らは何かにつけ「野蛮人」として差別的な扱いを受け続けてきたことは否定できない。白人によるまさにゲリラ的行為でアボリジニ人口が激減し、権利を剥奪されてきたことはあまりにも有名な話である。

    そんな歴史を担う彼らがいまやオーストラリアにおける社会的位置を大きく変化させ、多くの注目を集め、今回のように世界にごまんと存在する先住民たちの中から日本のこの一大イベントに公的に招かれるために選ばれたという、その名誉なことに私はとてつもない大きな価値を覚え、こりゃ何としてでも彼らを日本へ連れて行かねばという勝手な使命感を抱いちゃった・・・・というのがそもそもこのドラマの始まりだったのであった。

    彼らの来日に際してなんちゃってコーディネーターは、ここぞとばかりに腕まくりをしてあの手この手の魔法をたくさん使った。気が付けば街の電信柱にも頭を下げているほど、それはそれは毎日たくさんの方々に頭を下げて取れるかどうか最後の最後までわからなかったアボリジニの人たちのパスポート取得に奮闘した。もちろん現地にアボリジニの人たちとともに暮らす強力助っ人、グラニスおばちゃんの力も大いに借りてのことだ。

    そして!!!ついに!!!!!
    アボリジニ村の長老を含む5人のアボリジニの女性たち、グラニスおばちゃんともう一人のアテンドの女性合計7名が3月11日、福島県いわき市小名浜で行われた追悼式への出席のための来日が見事に決まったのである。ちなみに最後のパスポート取得が確認できたのが日本への出発4日前。・・・・4日前ですよ!4日前!!!
    一足先に、準備のために日本入りをしていた私は毎日「パスポートまだかーー。取れたかーーー。大丈夫かーー。」の電話を入れ続け、グラニスおばちゃんへ再三確認をしていた。しかしながらそこはオーストラリアの砂漠のど真ん中にある小さな小さなアボリジニ居住区。電話は3回に1回つながれば万々歳。とほほ・・・私は日に日に増える白髪をせっせと染めながらも頭の中ではすでに彼らの日本滞在をどんな風に演出しようか・・・そんなイメージをを密かに抱きながらひとりでにやけていた、ただのアブナイ人になっていた。

    DengonNet7月号寄稿

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    【東日本大震災追悼式 – 2】アボリジニ御一行様来日 後編
    【東日本大震災追悼式 – 3】日本滞在はじめて物語 前編
    【東日本大震災追悼式 -4】日本滞在はじめて物語 後編
    【動画】アボリジニがやって来た~いわき市 東日本大震災3.11追悼集会のために~