素のままの自分に戻るとき
どういうわけだかこのオレ様、いつだって誰も行こうとしないところに行くことに深い喜びを覚え、いつの間にか観光地でも何でもないところへ無意識のうちに足を運んでいる。子どもの頃は誰でもこうした冒険心に溢れるものだろうが、大人になってそれを実行するオレ様はどうかしているのであろうか。
前月号でアボリジニの女性の儀礼に参加をしたという話をしたが、この儀式こそ誰もかれもが安易に行ける場所では決してなく、招かれた者にだけ許される神聖なひととき。おまけにその儀式の会場へたどり着くまで、それはそれは気の遠くなるような長距離運転を余儀なくされる。出発地のアリススプリングスから片道ざっと1600km。つまり往復3200kmの道のりなのだ。
おまけに道路はほとんど未舗装ゆえ、時速80kmが最速スピードだ。だから尚更時間がかかる。
ガタガタゴトゴトとランドクルーザーの車上に乗せたスワッグ(キャンバス地でできたキャンプ用の寝具。砂漠での睡眠には絶対欠かせない優れもの)がずり落ちてくるのをサイドミラーで、ちらりちらりと横目で気に掛けながら、とにかくどこまでも続くまっすぐな一本道をただひたすら走り続けるのである。
道中の景色はほとんど変わらない。そんな環境で1日10時間以上も車中で時間を共有する7人のアボリジニ御一行様達とのひとときは何事にも変え難い貴重な体験であると確信する。
まず2時間おきに必ず「モシモシ~! モシモシ~!」(←どういうわけだかアボリジニのおばちゃんたちは私のことをこう呼ぶ)と後部座席から大声で叫ばれる。
「どうした? またなの?」そう彼女たちに尋ねると、みな声を揃えて一斉に「クンプ!クンプ!」と腰をもじもじさせて答えるのだ。「ああ、クンプね。ちょっと待ってて。今すぐ車を止めるから」。
オレ様は道路の脇に車を止めて「さっきもいったようにできるだけ車から離れてしてよね」と一応注意を促すが、そんなの誰も聞いちゃいない。全員車から1m以内の至近距離で、いや、中にはドアサイドですぐに行動を開始する者もいる。
そう。「クンプ」とはオシッコのこと。しかもアボリジニのおばちゃんたちはどういうわけだか皆、立ちションなのだ。オレ様の目の前でスカートをペロンとめくり上げ、中腰になってさっさと用を足す。生まれて初めて女性の立ちションを目の当たりにしたオレ様は、しばし呆然と立ちすくむが、こんなことでいちいち度肝を抜かれていたんじゃ、この先どうなることやら…と平然を装う。そう、旅はまだまだ続くのだから。
5月29日(月)
いよいよ儀式第1日目。すでに早朝5時半起床。数百人は集まっているであろうアボリジニの女性たちの歌声があっちからもこっちからも聞こえ、その声で眠い目をようやく覚ます。オレ様は寝ぼけまなこのまま、ヨロヨロと儀式会場の中央部へ足を運び、そこに装飾をしてある儀式用の様々な祭具を一つひとつ丁寧に触ってくるのが重要な任務。これはオレ様だけではなく、儀式参加者全員が絶対に欠かしてはならない朝のおつとめなのだ。
それにしてもアリススプリングスを出発してから、もうすでに3日目が経過したというのに、まだ一度も顔を洗っていない。歯を磨いてない。髪もとかしてない。それどころかパソコンを一度も触らず、お酒もたしなまず、夜更かしすることも食べすぎ飲みすぎで胃腸薬を飲むことも何もしていないぞ。おお! なんと健康的な生活を送っていることであろうか。
今頃Eメールが一体どれぐらいたまっているかなんて、もうどうでもいいとさえ思えるが、それでも顔だけは洗いたいなあ。しかしただでさえ貴重な飲料水を洗顔に使うだなんて、砂漠にいる限り誰にもそんな発想はない。…が、車のサイドミラーでチラリとのぞいた自分の顔が毛穴ブツブツ真っ黒太郎になっているのを見た途端、やはりこの貴重な水を盗んで叩きのめされてでもいいから、今日は絶対に顔を洗おうと心に決めた。
そうだ。洗うのは周りの人達にバレないように、日が沈んで辺りが暗くなってからがいいな。そしたら誰にも見つかるまい。いや、それにしても真っ暗の中、懐中電灯で自分を照らしながら、どうやって顔を洗おうか? ううーん。至難の業だな。しかし3日ぶりに顔が洗える喜びと興奮を考えたら、そんな知恵はすぐにわくはずだ。
それにこんなときのためにと、メルボルンから高級洗顔ローションを小瓶に移し変えて持参してきた。ああ、素晴らしい。素晴らしすぎる。今夜は顔を洗えると思っただけで、もう世界は全部自分のものみたいな気分になれるのだから。
夕飯(らしきもの)をさっさと済ませて、オレ様は早く真っ暗にならないかな…とはるか大昔にデートで海辺を散歩したとき、早く薄暗くならないかなあ。そしたらきっと…(ニヤリ) …とそんなことをちらりと願ったあの頃のことを思い出したりした。
それはそうと真っ暗闇の中、自分のカバンから小さいボトルの洗顔フォームを取り出すのはなかなか難しいことに気づいた。それでも懐中電灯をあてながら一生懸命片手をかばんに突っ込んで探した…ら、フタがゆるんでいたせいで、夢にまで見たオレ様の高級洗顔ローションは、かばんの中にすべてこぼれ散っていて、私に悲しく「さようなら」を告げていた。
5月30日(火)
いかなる人間も自分のオリジナル人生の物語を探そうとして、あれこれといろいろな試行錯誤を行うものだが、オレ様ほどこの豪州の中央砂漠に魅惑され、砂漠に命を捧げてもいい(かなり大げさ)ぐらいの勢いを持つ日本人は果たしているであろうか。砂漠にいればいるほど、砂漠こそが世界で最大の迷宮であることが理解されてくる。
この儀式の間、オレ様にとって強烈に印象強いアボリジニの女性の存在があった。名前はマリンガ・マーシャル。年齢は誰も把握していないが、推定で恐らく60歳ぐらいだろうと思われる。
どういうわけだか彼女は始終オレ様のそばを離れたがらず、車中でも助手席にぴったり横にへばり付き、おまけに道中はずっと手を握りっぱなし。夜寝るときにさえ「私の隣で寝なさい」とぎゅうぎゅうのスペースを作ってくれて、異臭たっぷりの毛布を快く提供してくれる。
挙句の果てには「モシモシ、あんたまだ独り者だってね。私の息子と結婚したらどうだね? 3人いるんだが、長男は今、ブリスベンの刑務所に入っているから出所までもうしばらく待っていてくれればよかろう。次男はこの間浮気がばれて、ガールフレンドにナイフで膝を刺されて、今、車椅子で生活をしている。別れるのも時間の問題さ。それから3男はね…」彼女はそう言いかけながら、カンガルーの尻尾を丸かじりした。カッコ良すぎだ!
マリンガからもう一つ「クダイチャ」というお化けの話を聞いた。これは昔からアボリジニの間で大変恐れられている男性のお化けの存在であり、深夜、キャンプをしている女性の集団へ忍び込んでは、次々とお好みのガールを連れ去っていくという。もちろん連れ去られたその女性は、もう二度とみんなの元へは戻って来ない。
なになに。男性に深夜連れ去られるだと?いいじゃない。素敵じゃない。遠慮なくオレ様を連れ去ってちょうだい。もうガールじゃないから対象外かもしれないけど、深夜で暗けりゃよくわからないから、きっと大丈夫だわ。
そんな話を聞きながら、私は今夜もあっという間に深い眠りに就く。
5月31日(水)
それにしても、ここで働くアボリジニ以外の白人ボランティア達よ、あなた達は何という働き者なのであろうか。自分達への見返りなど何一つ求めず、自分が提供できる最大限のLOVEをここでアボリジニたちに捧げている姿には、まさしく最敬礼。
それに引きかえ、普段のオレ様の生活といったら、何とエゴイストなのであろうか。いつも自分のことばかり考え、自分中心の生活。仮面をかぶってカッコをつけてばかりじゃないか。だからこそオレ様には、こういった環境にどっぷりと身を任せる必要があるのだ。
10日間も不毛の大地で、水一滴も浴びることなく砂と汗とホコリまみれになるこの時間。カッコなんてつけてる場合じゃない。素のまま。ありのまま。これが大事なのである。
「こんな過酷な儀式への参加は、今年限りでもう終わり」。そう毎回思いながらも、きっと来年も同じように、この素敵な仲間たちと一緒に大地の声を聴くのであろう。そして次回こそは化粧ボトルのフタをきっちり閉めて、この儀式にのぞむのだ。