小豆島物語・バーバラとの日本滞在記《後編》"バーバラとのケンカ"
他人と「ケンカ」をほとんどしたことがないこの私が「ケンカ」をした。その相手はアボリジニの女性画家、バーバラであった。場所は白亜のリゾート地・小豆島。2002年8月のことである。オーストラリア・エアーズロックとの姉妹リゾート都市友好のキャンペーンのためにバーバラと私は政府観光局より20日間の小豆島滞在を依頼されていた。
バーバラ・ウィア。〔推定年齢59歳。誕生日の記録なし〕彼女はオーストラリア中央砂漠にあるアボリジニ居住区UTOPIAで生まれ、アマチャラ語を話す著名なアボリジニ女性画家である。以前オーストラリア政府が行った政策の対象となった(“STOLEN GENERATION-盗まれた世代―”)のひとりでもある。
彼女と私の出会いはもうかれこれ7年前。NHKテレビの取材コーディネーターをした際にバーバラが通訳となってくれたことがきっかけであった。なにしろ彼女は幼いころに無理やり親元から引き離され、その後白人家庭で20年近くも”白人化教育”を受けたゆえに英語とアマチャラ語を流暢に使いわけることのできるとても貴重な存在であった。
すっかり意気投合をしたバーバラと私は取材後も頻繁に連絡を取り合うようになり、昨年は彼女を初めて日本へ連れて行くなど〔勝手に〕信頼を深めていった。・・・と思った。
もともと体調の優れないご機嫌斜めの彼女をどうにかこうにか小豆島へ連れてきた私はそれなりに大きな責任を感じていた。それゆえ彼女に始終ご機嫌であって欲しいと願うあまり、ついつい奴隷のように彼女の言いなりとなる私であった。バーバラが「水!」と一声上げれば「はい、ただちに」とすかさず(ひざまづいて)水を差し出し、腰が痛いと訴えれば彼女を横にして何時間でもマッサージ。そういえば、どさくさに紛れてすっぱいにおいのした足の裏ももんだ記憶がある。
小豆島では滞在したホテルのロビーにスペースを確保し、そこで午前と午後に2時間ずつ彼女が絵画制作のデモンストレーションをすることに。地元の新聞記者たちも取材にやってきた。少しずつ、バーバラの緊張が和らいでいくのを感じた。何たって彼女は周りから注目をされるのが大好き。「私はスターよ、見て見て。」といった具合に記者たちのインタビューにも始終にこやかに応じていた。そして、その翌日から次々と紙面に載る自分の記事を見て喜ぶバーバラ。その喜ぶ彼女の姿を見てなお喜ぶ私。・・・もう大丈夫だろう。彼女のご機嫌は元に戻っただろう・・・そう胸を撫で下ろしたのもほんの束の間であった。
その晩、彼女は「血を吐いた! 今すぐ病院に連れて行け。」と私の部屋のドアを叩いた。時計を見ると午前一時半。一体何事が起きたものかと慌ててドアを開けるとハンカチで口を覆ったバーバラがパジャマ姿で立っているではないか。慌てて彼女を部屋に入れて事情を聞いたが、どうも「血を吐いた」形跡はない。「血を吐いたと思った」とさっきまでパニック状態であったバーバラが私の目の前で「お腹が空いた」と青ノリせんべいをボリボリ食べ始め、「今夜はオマエの部屋で寝る」とさっさと私の隣りのベットに横たわり、まるでゴジラの大襲撃のようないびきをかいて眠った。
翌朝、私はしばらく寝たフリをして彼女の様子をうかがった。・・というか極度の睡眠不足で起きられなかったというのが正しいのであるが、それでもあくびをかみ殺しながら一緒に朝食を取る。彼女のご機嫌はいつも以上に悪かった。理由はわからない。ただ、私が何を聞いても返事がない。朝・昼・晩と始終ふたりっきりで食事を取るのに私たちの間に会話がまるでない。沈黙が何よりも苦手な私だが、もう笑顔を作って彼女に話し掛ける気力はどこにもなかった。
「オーストラリアに帰りたい、もうここには居たくない。一日も早くこの場所を抜け出したい」
「どうして?理由を話して、バーバラ」
「理由なんてない。ただ帰りたいだけ。帰らせろコノヤロー。でないと、今後一切オマエを砂漠に行かせるものか。」と、声を高らげるバーバラ。
「なんですってー! じゃあ何で最初にこの日本行きを承諾したのよ。これ以上私にどうしろっていうのよーーー!!!」私の身体と心は弱りきっていた。睡眠不足の日が続き、疲労が極限に達していた。これまでの憤りがまさかここで爆発するとは。無意識に大きな声を出していた。周りのテーブルの人たちがこちらを見て驚く。そんなの眼中なし。バーバラが怒って席を立つ。一人テーブルに残された私は声を殺して静かに泣く。「ケンカ」の出来ない私が「ケンカ」をしてしまった。仲直りって、いったいどうすればいいんだろう・・・と私は彼女とケンカをしている最中にそんなことを考えていた。
「ごめん、バーバラ。さっきは言い過ぎた。許してちょうだい。お願いだからご機嫌を直して。」・・・そう言って彼女に大きなHUGをした。
彼女はホームシックにかかったのだと素直に私に話してきた。自分の体調が優れないゆえ、尚更家族のもとに居たいのだという。ひとり海を越えて来てしまったことにずっと大きな不安を抱いていたらしい。
“家族”とのつながりを何よりも大切にするアボリジニ社会。その家族からひとり離れて言葉も通じない異国へやってくることがどれだけ彼女にとってストレスであったのかを私がもっと理解をするべきであった。
「ごめん、バーバラ。そんなに帰りたいんだったら何とかしてみよう。今から航空券の変更がどこまでできるかやってみるよ。」なんて強気で言ってしまった自分だが、これを関係者の皆様にいったいどうやって説明しようか・・・とあれこれ頭を悩ませていると「このようなイベントにはハプニングはつきものですよ。気にしないで下さい。」・・と主催者の方の涙の出るような優しいお言葉。
「本当に申し訳ありません。そしてご理解有難うございます。」と何度も何度も何度も何度も頭を下げ、バーバラと私は白亜の高級リゾートホテルをあとにしたのであった。
思い返せば小豆島滞在7日間。和食を全く食べないバーバラとの食事は毎度毎度カロリーたっぷりの高級フレンチ。〔食事は3食ホテル内〕おかげさまで体重増。
また、出発前にスーツケースにそうっとしのばせてきた例のハワイで買った私のビキニは、結局入れてきたビニール袋から一度も取り出されることなくそのまま再びメルボルンへと持ち帰ることに。ちょっと悔しかったので試着だけはしてみたが。