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ときには深夜までかけて、クローズした画廊の中で画廊のディレクター、アシスタント、それからお手伝いをしてくれている数人の仲間達による展示作業が延々と行われる。もちろん作品の出展者である私もそこに加わる。

通常、女性のスタッフが多いので、展示作業の間はもっぱらおしゃべりに大いに花が咲き、たいていは彼氏の話や化粧品の話でやんやと盛り上がる。彼氏がおらず、化粧品にもほとんど興味のないオレ様は、ただただ静かにみんなの話をじぃーっと聞いている…わけがないじゃろが。たとえ本題は熱く語れなくともおしゃべりにはじゃんじゃか割り込んでやるもんね。

スタッフの中に少し化粧の濃い女性がいた。目鼻立ちも整っているのに、何もそこまでファンデーションを塗りたくらなくても十分美人なのに…とその会場にいた誰もがきっとそう思っていたはずだ。

そういう私も初めて化粧を覚えたとき、この大きな口をできるだけ小さく見せたいがために唇をファンデーションで白く塗りつぶし、口紅をおちょぼ口に描いていたことがあったっけ。まるで品のないへんてこりんな舞子さんみたいだった。

一度この化粧の濃い彼女を温泉にでも誘ってみようか。夜、クレンジングクリームで化粧を剥がした素顔をお互い見せ合いながら、風呂上りに冷たいビールを一緒に飲んだりしたら、もう気分は「戦士の休息」といった感じで、なかなかよかろうに。「そうよね。わたしたち同じオンナだもんね。ね。ね」などという同志愛さえ芽生えるかもしれない。

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話を元に戻そう。画廊の床には展示予定の作品があっちこっちに置かれていて、ああでもない、こうでもないと試行錯誤の中で最終的な作品の位置がみんなの意見と共に決められていく。そして作品の位置が決まると、今度は作品リストの制作にかかるわけだが、通常、このリストには作者名、タイトル、サイズ、制作年などが書かれている。アボリジニアートに関しては、さらにストーリーとよばれるアボリジニ独自の物語が加わることが多い。

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さて、ここでいつも疑問に思っていることを一つ述べたいと思う。

現代美術を取り扱う画廊のほとんどは、展示された作品の横に必ずキャプション(通常作品の右下あたりに付けられている白いプレート状のものこと)が取り付けられているのであるのが、私個人の見解としては、そういったキャプションは本来必要のないものだと思うのだが、いかがだろうか。 大体、そんなキャプションを読んでしまうと、人々はまず作品に対する先入観を持ってしまうではないか。特に現代美術などの、ぱっと見、チンプンカンプンな作品を前にすると、我々は急に不安になり早急に何か”手がかり”を探そうとして、まずタイトルを見てしまうのである(お見合いで相手の履歴書を最初に確認する、あれと一緒か?)。

私も全くそうなのであるが人間とは因果なもので、例えば、黒くどろどろしたものが描かれた作品のタイトルが「悪魔の叫び声」だとしたら、私たちは間違いなく「悪魔の叫び声」という色眼鏡で見ることになり、もしもそれが「熊の手の煮付け」であれば、もちろんそのように見るだろうし、もしも「朝飯前」であれば、半ば強制的に「朝飯前」という色眼鏡となるわけである。

こういった「先入観」をもたらすものは何も作品のタイトルだけではない。キャプションに描かれている作品のプライスもだ。

私のように業の深い人間は、いやだいやだと思いながらもその価格をた途端に「げ げっ! これが100万円!!」という色眼鏡を通して作品を見ている自分に気づかされる。

美術作品の値段はあってないようなものだという人がいるが、確かに一般の工業製品のようなコストから割り出す価格というものではないゆえに、悪徳美術商《← オレ様みたいに温厚で正直者ではない奴ら》にまんまとだまされて、大金をがっぽり持って行かれるんじゃないかとさぞご心配されることだろう。しかしそこには美術の世界独特の規則性があり、実は常識的な価格設定がきちんとなされているので、ぜひともご安心くだされ。

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2006年は日豪交流年ということもあり、私も日本でじゃんじゃかアボリジニアート展覧会を催す予定だ。すでに3月に茨城県古河市、5月に名古屋市、9月には東京代々木上原での開催が決定している。

開催が決まると、そこへ展示する作品を念入りに選出する作業に入り、その後は例のリスト作成をするわけだが…。うーーん。キャプションをいったいどのようにつけるべきか大いに頭を悩まそうではないか。