お、終わった。とうとう終わってしまった。2001年4月から開催した、私の最も大きなゴールであった日本での初めてのアボリジナルアート展覧会。北海道旭川・栃木県宇都宮・福島県いわき・そして山口県下関と、この一年に日本を巡回し、私に日本とメルボルンを実に8往復もさせてくれた念願のアボリジナルアート展覧会。2002年6月、下関美術館での最後の撤去作業を終えながら私は会場で実に大きな興奮を覚えていたのであった。

想いおこせば4年前、日本からの一枚のファックスがこの展覧会を開催するきっかけとなった。

「アボリジナルアートを日本で展覧会することは可能ですか?」と、その送信者は世界一の発行部数を誇ると言われる読売新聞社。考えてみればここから私のアボリジナルアート日本展実現に向けての血と涙の奮闘が始まったのである。そう、4年前のこのときから。私はまだ32歳であった。

何しろ当時、美術展開催については私は全くの無知識。一体何からどう始めてよいのかさっぱりわからないのだから途方にも暮れることばかり。作品の選択は?カタログは?輸送費?保険?後援・協賛?そして何より開催してくれる会場は?

当時の日本でのアボリジニ知名度はそれほど高いものではなかった。また、ただでさえ予算の削減を強いられた公立の美術館が自分たちがほとんど“知らない” 美術展をまずやりたがるわけがない。そう、それなら“知らない”人たちへは“知らせる”という手段を私は選んだ。日本全国の美術館リストを早速入手して片っ端からファックスをメルボルンから送った。内容は、もちろんアボリジニについて。私が知る限りのアボリジニに関するあらゆる資料・写真を夜な夜な自宅で来る日も来る日も美術館宛に作成した。夜中に仕事をすると、当然寝るのが午前2時・3時となる。そうなるとおなかが空く。夜食を食べる。体重増加。顔にもブツブツ吹き出物。こりゃいかん。

そんなことまでしても何とか開催を希望する美術館を獲得しようと意気込んだが結果はむなしく“ゼロ”であった。そう、“0”皆無・何にもなし。アボリジナルアート展をやりたいという美術館は日本にはどこにもなかったのである。顔にブツブツを作ってまでしたあの努力は報われなかったのか??

よし、書面でダメなら直に会って話をしよう。私は早速、勝手に日本出張を決行した。

知人を介して「・・・あそこの美術館の館長なら知っている」と言われたところへは全て足を運んだ。重たいカタログをエッコラエッコラと担ぎながら、毎回自分の名刺をまるで手裏剣のように配って。「思えば叶う・・・思えば叶う・・・」とこれまた呪文のように唱えながら。

そして、2000年に行われたシドニーオリンピックが全世界を沸かせたころ「アボリジニ」というオーストラリアの先住民が大きな舞台に登場したのである。

そして夢にまでみた4つの美術館がアボリジナルアート開催に手を上げてくれたのであった。“やったぁ~!”私は宙に舞うような気持ちであった。長い長い間、自分が思い描いていたものがいまようやく「カタチ」になろうとしている喜びは想像以上に大きなものだった。・・・が、開催会場が決定してから今度は準備で連日てんてこ舞いとなった。

まずはカタログの翻訳。すでに英語で記されているカタログを日本語訳にするのであるが、何しろアボリジニの画家の名はチャンパチンパとか、チャパルラなどと実にふざけたような発音のものばかりなのだから訳すほうもこれまた一苦労だった。それに、一日中自宅に閉じこもって毎日コンピューターのキーボードを叩くばかりの日々にもさすがに閉口した。何しろこんなおしゃべりな私が一日誰とも口をきかずにいられるわけがない。気分転換にとジャージ姿で外へ出てみてはゴミ拾いのおじちゃんを捕まえてかなり一方的に話をしたことも記憶に新しい。

展覧会開催に当たっては“コーディネーター”というタイトルをいただいた。しかし、“コーディネーター”とは実に都合の良い名称で現実には「なんでも屋」であった。

8 回の日本往復へは毎回必ずオーストラリアからのスタッフを同行し総勢6名の添乗員となった。時には運転手・荷物もち・通訳と毎回これでもかというほどこき使われまくったが皆それぞれ初めてのニッポン!である。やはりいつものおせっかいばばあはここぞとばかりに張り切った。

この展覧会が開催したことで、新聞・ラジオ・雑誌と様々なメディアで紹介をしていただく機会にも恵まれた。そしてそれぞれに素晴らしい方々との出逢いも多くそれが私にとっての大きな大きな力となっていることもあらためて申し上げたい。

“ゼロ”からスタートしたこのアボリジナルアート展はまさに手作りの展覧会。入場者数よりも作品を観た人々がどれだけ満足をしていかれたかが私には何よりも大きな意味を持つ。

今それが無事に終了を向かえ、私は静かな興奮をひとり味わいながら、さて今度は一体何を自分の新しいゴールにしようかとたくらみはじめてもいる。