ご心配をいただいている 大切な皆様へ
日本で大変なことが起こってしまいました。
震災5日目。毎日毎日各地での死亡・行方不明者の増え続ける数が報道されるのを耳にするたびに言葉にならない悲しみでいっぱいです。
皆様にはたくさんのご心配メールや、お見舞いのお電話を頂戴し心から御礼を申し上げます。すぐにご返事を差し上げたかったのですが茨城の我が家も被災したため昨日まで停電しており電源の確保がままならなりませんでした。
しかし何とか電気が通ってくれたおかげでこうしてメールができる環境になりました。有難いことです。
現在、水道はまだ通っておりません。
それでも家族全員の無事を確認できたこと、そして全壊は何とかまぬがれた
我が家で何とか生活ができることに感謝せずにはいられません。
3月11日。その日わたしは金沢から仕事を終えて、丁度東京駅に到着をしたその直後の地震でした。そのまま実家のある茨城へ高速バスで帰るつもりでしたので都内に宿は取っておらず、少し時間があるからと駅に直結している大丸デパートの大好きな食器売り場をふらちとのぞいていたそのとき。。。
足元が少しぐらぐらしている・・・・・あ、地震だ。でもすぐにおさまるだろう。
と、まったく緊張感のないまま食器売り場をうろうろしていたところ突然立っていられないほど大きな揺れに思わずその場にしゃがみ込んでしまいました。
同時に、食器棚から次々にガチャン、ガチャンという音を立ててお皿やグラスが落ちていく光景はまさに「恐怖感」でいっぱいでした。
おまけにそこは大丸の8階。揺れは一段と大きなものでした。
その後係員の迅速で的確な指示のもと、非常階段で全員店外へ非難。
8階から1階まで降りるのには混雑もあったせいか10分ぐらいかかった記憶があります。
その10分間、実に様々なことが頭の中をよぎりましたが意外と冷静沈着だったような気もします。
でも、大変なドラマが展開されたのはそこからでした。
突然大都会を襲った大地震直後。当然ながら交通は全面ストップ。あの東京が瞬時にして凍結しました。
すぐに家族に携帯から電話を試みるも、それがなかなか・・・・というかほとんど通じない。
みんな、イライラしながらも公衆電話を懸命に探しそこまで我先にと猛ダッシュ。
瞬く間に何百メートルもの長蛇の列が公衆電話にできました。
皆様。これだけ携帯電話が当たり前になった今の世の中・・・・
街のどこに公衆電話があるかご存知でしょうか。
ダッシュするなんて高校時代のバレー部以来。ということで、私は公衆電話には走らず(というか、走れず)近くのコンビニでポータブルの充電器と乾電池1パックを購入し何とか電源を一時的にも確保。最後に残っていたひとつを掴み取りました。
いったいこれからどうなるんだろう・・・
そんな不安を抱えながらもとにかくどこへも動けない状況でしばし呆然と立ち往生していました。これは私だけではなく東京駅周辺にいた何千人という人たちがみな同じであったことはいうまでもありません。
外はだんだんと暗くなって気温も一気に下がりました。
家族にやっと電話が通じたのはそれから何時間も経ってからのことでした。
が、まずは全員無事であるという確認に心の底からの安堵感を覚えたものです。
しかし、茨城県もまさか今回の震源地のひとつとなっていたとは。
近くにテレビもなかったため情報の入手が不可能でした。
電話による父親からの話では自宅の塀が見事に崩れ落ち、台所は割れた食器でめちゃめちゃ。玄関の大きな水槽ふたつも倒れ熱帯魚がみんな溢れかえったというではありませんか。
「早く家に帰りたい」
そう思っても何しろ交通手段がひとつもありません。
おまけに今晩泊まるところもありません。あの日は東京中のホテルすべてが
瞬く間に満室になったようです。
砂漠の熟女。野宿は慣れっこ・・・・
しかしそれはオーストラリアの中央砂漠での話です。
まさか大都会東京のど真ん中で野宿を体験するとは夢にも思っておりませんでした(笑)
でも、ほかに選択の余地はまったくなし。
おまけに、路上で途方に暮れている日本語のわからないたくさんの外国人たちが私の目の前でみなオロオロしているではありませんか。中にはあまりの恐怖で号泣している女性もいました。
もちろん、声をかけました。そして現在の状況を精一杯説明しました。そしてそれぞれのお国の家族へまずは無事だという知らせを入れるよう・・・かろうじで通話が可能だった私の携帯を貸して安心をしてもらいました。
来月の電話請求書が怖いこわい。
そんなこんなでやっとの思いで茨城の実家に帰れたのは地震発生の2日後。
現在は家族とともに暮らしています。
こんなときこそ前向きに気持ちを明るく持って・・と自分に言い聞かせてはいますがさすがに少しくたびれてきました。
地震によって起こった原発もいまや深刻な状況です。周りの知人たちにはすでに西へ避難している人たちがいます。
我が家はいまのところこのまま家に残ろうという方向でいますが今後どうなるかは正直言ってまだ頭がうまく動いてくれません。
まずは落ち着かなくちゃ・・・
しかしながら現実的に、身障者の兄やほとんど寝たきりの母を連れていったいどこまで避難できるのだろう・・・・・そんなことが頭をよぎっています。
大丈夫。大丈夫。
なるようになるだろう・・・なんて言ってる場合ではありませんが何とかしましょう。今日もこれから家族会議です。
新しいモノづくりに追われている今のニッポン。
しかしこうなってみると何て脆弱な文明に私たちは翻弄させられているんだろうと実感しました。
多少不便でも・・・・人間らしく生きていく必要があるはずだと、いま私たちはとても大きな学習を強いられているような気がします。
アボリジニの人たちの「地球が怒っている」という言葉を思い起こしました
どうか皆様、これからもわたしとこころをつなげていてください。
お願いします。
皆様とつながっていられると思えることが私はとてもうれしい。
長くなりましたがまずは無事のご報告まで。
ご自愛下さいませ。
2011年 3月17日
内田真弓 茨城自宅にて