投稿者: landofdreams

  • 日本からの便り

    長い長い間、自分が想い描いていたひとつの大きなゴール。それはオーストラリアのアボリジナルアートを自分の手で日本に上陸させること。その夢を実現するための日本への帰国。私の胸は高鳴りつづけた。

    東 京

    3月21日

    展覧会のオープニングに先駆けて、一ヶ月の滞在予定で総量75キロの荷物と共に日本帰国。「随分荷物が多いですね。中身は何ですか?」という税関のおにいちゃんからの質問攻めも、作り笑いで見事クリアをし、笑顔の両親が待つ成田空港に定刻通りに到着。

    3月22日

    新聞社との打ち合わせのため久しぶりに山手線に乗り少し戸惑う。車内は広告だらけ。それらに片っ端から目を通すと何となく日本の経済事情と芸能情報が把握できてしまうから面白い。日頃メルボルンで私はやたら知らないおばちゃん達とトラムの中でおしゃべりするのだが、ここはそういうわけにもいかない。

    3月25日

    オーストラリアから今回の展覧会のために発送したアボリジニ絵画は総数117点。これらの通関作業に立ち合うためヤマト運輸美術品管理倉庫などという、生涯もう二度と行くこともなかろう場所に朝の9時から夜の10時までずっと立ち合い、作品のコンディションを細かくチェック。なにせ、これらの絵画の総額は wholesale nba jerseys 10億円近いのだから扱いも慎重になるわけだ。それにしてもここは寒い、まるで冷蔵庫のよう。

    3月29日

    展覧会のカタログ制作もほぼ順調に進んでいる。が、アボリジニの名前がとてもややこしいものばかりで、確認の電話が随時入ってくる。時計を見ると深夜0時過ぎ。担当者はまだ会社に残って仕事をしているという。さすが日本人ビジネスマン。

    北海道・旭川

    4月5日

    今回の展覧会出品者であるギャラリーオーナーが成田に奥様同伴で到着。北海道旭川美術館でのオープニングセレモニーのための来日である。ところがこのころからどうも私の体調がおかしくなってくる。冷蔵庫のような倉庫に11時間もいたせいか。それにしても苦しい。熱も出てきた。38度7分もあるぞ。

    4月8日

    こんな大事なときに私としたことが!何しろオーナー夫妻は日本語ダメダメの二人。日本滞在中の通訳と状況説明が随時必要となる。でも、熱で自分の身体が言うこと聞かない。ああ、静かにベットで寝ていたい。もしかしたらこのまま死んじゃうのではないか。

    4月10日

    3 wholesale mlb jerseys 年越しの想いがようやくいまカタチになろうとしているというこんなときに・・・そしてあと数日後には念願のオープニングセレモニーを迎える日が来るというのに。私は出発前に買い込んだ風邪薬を危ないくらい大量に服用し、汗をガンガンかくように洋服を重ね着して、とにかく少しでも体調回復を・・・心からそう願う。

    オープニング・セレモニー

    4月13日

    午前9時30分いよいよオープニングセレモ二ーの始まりだ。ほとんど眠れなかった。きっと緊張もあったに違いない。いやだな。目が腫れている。化粧のノリも悪い。何たって体調は最悪。熱もまだある。

    進行手順を説明されるがほとんど頭に入らない。会場に次々と入ってくる来賓ばかりに目が行く。胸に赤と白のリボンを付けられ、私は最前列にオーナー夫妻と一緒に並ぶ。胸の鼓動がもしかしたら彼等に聞こえてしまうのではないか。

    この展覧会をこうして現実のものに出来るまでの長い長い3年間の道のりをゆっくりと思い返していると、「アボリジナルアートコーディネーターとしてずっとこの企画に携わって来た・・・」私の名前が紹介されると同時に会場からの大きな拍手。このとき私は、背中に鳥肌が立つという経験を初めてした。顔を真っ赤にしながら「ありがとうございます」と何度も何度も来賓者に私は頭を下げる。

    これまでに幾度となく「もう展覧会はできない」との新聞社からの電話に涙を流し、ヤケ酒を飲み、落ち込んだが、今では良い思い出となる。 wholesale jerseys 「思えば叶う」と信じていて、本当によかったと心から思えたこの瞬間は生涯忘れることはないだろう。

    さて、これまでの自分の大きな「ゴール」であった展覧会開催にやっとの思いをしながらも到達をした今・・・今度は次のゴールを設定しなければならない。 wholesale jerseys 人生晴れたり曇ったり。よーーっし。まだまだ興奮することを見つけるぞ。

    cheap jerseys

  • アボリジナル・アート 日本上陸

    010401

    「アボリジナルアート展覧会を日本で開催したい のですが」そんな申し出をファックスで受けたのが 1998 年の9 cheap NFL jerseys 月のことであった。いまからかれこれ2 アボリジナル村への訪問wholesale NFL jerseys 半も前のことである。

    申し出をしてきたのは世界一の発行部数を誇ると いう読売新聞社。私は一気に興奮し、鼻の穴を大きく アボリジナル?アート はじめのおはなし 膨らませながらすぐに日本へ電話で読売新聞社文化事業部に問い合わせ詳細を聞いたが、何しろまだまだ知名度は決して高いとはいえないオーストラリアのアボリジナルアートである。彼らは展覧会を開きたい Jay のだがいったい何から手をつけてよいのかわからないという。それもそうなのだ。いまだに「何それ?知ら ない」と言い切る日本人は多い。そのうえ、つい30 wholesale jerseys 年前まではこのオーストラリアで人口統計にさえ入って いなかったアボリジニたちが現在この大陸に実に25 万人近くも住んでいることを知る人だってまだまだ少ないのである。そしてその彼らが、いまや年間200万ドルもの収益をこのオーストラリアにもたらしているということも。それが、"アボリジナルアート"なのだ。

    日本ではこれまでにも過去に"アボリジニ展"は行われている。そう、"アート展"ではなくそれらは彼らアボリジニを民族学的に研究した、いわば学術的な展覧会ばかりであった。それを今回はアボリジニ美術に焦点を置いた「アート展」として開催したいという試みなのだから非常に興味深い。

    「よーし、ここで私の出番だ」と確信した。エネルギ ーが一気にみるみる湧いてきた。私の人生にそれは それはダイナミックに、そしてドラマティックに登場してきたこのアボリジナルアートの展覧会をいつか日本で開催すること・・・これは私にとっての大きなゴールでもあり、また夢でもあった。この歳になって・・・私にもまだ見たいと思える"夢"があっただなんて・・。久しぶりに心臓の奥がチクチクするような、そんなうれしい感覚を覚えたのである。

    一概にアボリジナルアートといっても様々なスタ Player イルがあり、それらはもちろん数百にも異なる言語 集団によって、また大陸のどの地域に住んでいるかによっても描かれる画布や素材、そしてストーリーが変わって来る。 私の専門はオーストラリアの中央砂漠に住むアボリジニ達がプロデュースする「点描画」,いわゆる「ドッ Collecting トペインティング」と呼ばれるものである。私が作品を仕入れるためにはこちらがはるばると砂漠へ足を運ばなければならない。彼らが都市にやってきて自分達で販売をすることはほとんどないからだ。まれにやって来ることはあっても、普段の砂漠での暮ら しとの大きな違いにいつも大きな戸惑いを見せる。私が砂漠に行ってドギマギするのと同じように。

    いつだったであろうか。ある有名アボリジニアーティストが展覧会のオープニングのために中央砂漠 からメルボルンに来たことがあったが、街のストリートの名前が読めない彼は案の定道に迷い、帰り道に困りそのまま姿を消してしまった。そして3 日後、 彼は郊外のパブで泥酔状態になったところを発見されたのである。

    またあるアボリジニ女性アーティストが我が家に遊 びに来た時に、お腹を空かせた5人の子供達を連れて来 た彼女は、我が家の冷蔵庫のものをきれいに食べ尽くして、当たり前のように私の靴を履いて帰って行った。 "アボリジニ達は多くのものを共有する"と、以前本で読んだ事があるのを思い出し、「ああ、なるほど このことか」と思った。それにしたってなにも買ったばかりの、しかも私のお気に入りの靴にしなくてもいいじゃないか。

    話を本題に戻そう。1998 In 年に最初の一歩を踏み出した読売新聞社の"アボリジナルアート展"の企画・準備も今年2001 年4 雨の砂漠 月に念願かなってようやく実現する。いままで大事に温めてきたものがやっと"カタチ"になるのである。当初は『企画は面白いが、いざ実現となるとねえ、みんな知らないからねえ。お客さんなんて入らないんじゃないかなあ。』そういって多くの日本側の美術館は尻込みしてなかなか開催しようと手を上げてはくれなかった。

    『・・ですから、そこを何とかお願いします。いまやアボリジナルアートはですねえ・・・』と幾度も頭を下げて帰国のたびに重たいカタログをエッコラエッコラかついで様々な美術館に足を運んだ事も記憶に新しい。日本での開催は4月から12月までを3つの美術館がそれぞれ巡廻で展示する。カタログの日本語翻訳もすでに終了し、あとはオープニングセレモニーへの出席を待つばかり。
    "感極まって、ワーワー泣き出さないでよ。内田さん"と読売新聞社の担当の方にからかわれながらも これまでの長い長い道のりを想い出しながら"思えば叶う"と信じてきた自分に今は少しぐらい酔いしれてもいいかしらと思っている。

    何度も「もう、無理です。日本では出来ません。諦めてください。」と読売の担当者に言われながらも素直に「そうですか」と返事が出来なかった自分がいつもそこにいたのである。1998年に最初にもらった企画 Jerseys 申し出のファックスはいまはもうかなり黄ばんで印字もだいぶ薄くなってしまっているのだが何故かそれを見るたびに元気になれたことも事実である。

    自分がこれほどまでに魅せられた"裸足のアーテ ィスト"たちの見事な芸術を日本に紹介すること、こ れがいよいよ実現するのだから興奮もひときわだ。

    芸術に解説なんて必要なし。まずはひとりでも多 くの人々に作品をご覧になっていただきたい。そして私が感じた"ドキドキ"をぜひとも共有していただきたいと思っている。

  • 雨の砂漠

    アボリジニ村の朝は実に様々な音で目が覚める。犬達のすさまじい鳴き声、子供の騒ぎ声……だけど、この日はものすごい雨の音で飛び起きた。時計はすでに8 Nfl cheap jerseys cheap nfl jerseys cheap nba jerseys 時半を回っている。そしてふと隣を見ると、一緒にこのアボリジニ村に同行してきた友人和代はまだ熟睡中だ。きっと日本からの旅の疲れが出たんだろうな。さて…っと。これからどうしよう。私はしばらくベットに腰をおろしたまま呆然と考え込んでいた。何たって、この砂漠でこんなにひどい雨に降られたのは実は私も初めてのこと。何しろ350人以上のアボリジニの居住区である。この雨の中、お目当てのアーティストを探すのは至難の業だ。それに、気温のグッと下がった雨の砂漠は魅力もかなり半減する。

    『……仕方がない、アリススプリングスへ戻ろうか』しぶしぶ私がそう言うと友人和代は待ってましたとばかりに『私もずっとそう思ってたの。でも真弓は仕事でもあるから、言い出せなかったのよー』となんともうれしそうに帰り支度を始めたのである。あれほど砂漠の真中でロマンティックな満天の星空を、流れ星を見るんだと張り切っていたのに……。

    「きゃあー!真弓やめて!怖いー!」と叫ばれても、「ごめん、止まらないのよ。わざとじゃないの。ハンドルがいうこときかないの」

    車がクルクル回り出し、コントロールがまるで効かない。まさにアイススケート状態である。あーー!あーー!どうしよう!!!手に汗びっしりかいてブレーキ踏むと、ようやく車は止まったはものの、私たちの視界には大きな木がでーーんと立ちふさがっていて危うく正面衝突に。

    すれ違う車など一台もないこの砂漠のど真ん中で、しかもこんな雨ザーザー降る中でもしも車が壊れたら……ご想像されたし。日本人女性白骨死体発見なんていう見出しの新聞が出てもまったくおかしくない。案の定、友人和代は泣きべそ状態。さすがの私もすっかり心細くなり、残りのガソリンを確認しながら、もう『火曜サスペンス劇場』のようなまねはしないからと固い約束を交わしてアリススプリングスへと向かった。

    しばらくすると、今度は目の前に10メートルはあるであろう長く大きな水溜りが待ち構えているではないか。”どこからでもかかって来い!”といわんばかりに道いっぱいに広がっているこの水溜り。真中を一気に突っ切るしか方法はない。しかし一端水の中にはいってしまうと深さがわからないのでそのままずっぽり沈んでしまう可能性もある……が、他に選ぶ道はなし。またあれこれ考える余裕もなし。とにかく突っ込め!それしかない。そう思って一気にアクセル踏んで突っ込んだら、案の定水たまりのど真ん中で車はゆっくり止まった。泣きたい気持ちとはまさにこのこと。私たちは、しばらく水溜りの中で心臓バクバクさせながら同じ方向を見つめていた。5メートル先にある水溜りの向こうの赤土であった。

    「ねえ、和代。もう一度ゆっくりエンジンかけてみて。それでダメだったら私後ろから押すからさ」そう言って助手席に座っていた私が自分の靴下を脱ぎかけていたらブルル…ブルル…と、鈍いエンジンの音が聞こえてきたではないか。車がゆっくり動いている。”やったー!よかった”と言ってお互いの顔を見合わせて喜んでいるところに、今度は前から一台のトラックがやってくるのが見えてくる。出発から約5時間ですれ違う初めての車である。

    あの時の言葉にならぬ興奮ったらない。彼らは私たちよりも少し大きな4駆に乗ったアボリジニの家族であった。(後部座席に10人は乗っていた記憶あり)早速車を止めて窓を開けると、大きな目をギョロっとさせた中年の男性が『お前達、今からアリススプリングスへ行くのかね?この先に小さな川が氾濫しているが、その車じゃどうかな。……よし、わしがそこまで誘導してやろう。』と、ただの通りすがりの怪しげな日本人女性2人のために、自分達の行くまったく逆方向の20キロ先にある川まで、しかもこのザーザー雨の中、一緒に行ってくれると彼は言っているのだ。さっきは恐怖で涙が出そうになったが、今度はうれしさで泣けてきた。 しかしグニャグニャ道に慣れきっている彼らの運転の早いこと、早いこと。そうこうしながらもやっと、先ほど氾濫していると脅かされた川にたどり着いたが、さっきの水溜りサバイバルの恐怖と比べると、実はなんてことはなかった。

    それでも私たちがちゃんと川を渡れるまで、彼らは後ろからずうーっと見守ってくれていて、無事に通り終わると、飛び上がって大きなガッツポーズをしてくれているのがバックミラーからはっきり見えた。私は何度も何度も後ろを振り返りながら窓から大きく手を振った。「ありがとう、ありがとう」と幾度も頭を下げて。 Or “ここは無条件で他人に優しくなれるところなんだな。” How 私も友人和代も言葉にこそはしなかったが、確かにいま同じ事を思ったという確信がお互いの心にあった。

    長い長い人生の途上、ほんの些細なきっかけが人の運命を変えてしまうことがあると私は信じる。私とアボリジニとの”出会い”もきっとそう。彼らと一緒にいるといつも忠実に自分の心に耳を傾けられるような、そんな気がしている。結局私たちのドライブは出発から7時間半かけて無事にアリススプリングスに到着した。ドロドロの真っ赤な赤土まみれのレンタカーも返却しこれで雨の砂漠ともお別れと、その夜は友人和代と祝杯をあげて旅の最後を惜しんだ。

    ・・・・・・・そしてメルボルン帰着3日後・・・・・・・・。アリススプリングスのレンタカー会社から電話あり。一瞬車の中に忘れ物でもしたかな?と思いきや『車の数箇所が壊れてる。ここは保険でカバーできない。修理代見積もり$2200ね。詳細はまた後日。バ~イ』雨の砂漠は最後まで私たちにドラマを提供してくれる。

    wholesale jerseys cheap jerseys Touchdown wholesale nba jerseys wholesale jerseys Wholesale Elite Jerseys

  • アボリジナル村への訪問

    今回でアボリジ二の居住区へ入るのは6度目であった。毎回それぞれ異なったコミュニティに許可証を申請して入るのであるが、回数を重ねていくたびにその居住区での生活の”アイディア”もそれなりに得られてくるというものだ。思い起こせば4年前に初めて体験したアボリジニ村での生活では何がどんなシステムで彼らの毎日の暮らしが成り立っているのか全く予想もつかず、情けないかな・・・ただただひどい下痢と日射病、そして結膜炎になってメルボルンに帰ってきただけであった。何しろ、英語がほとんど通用せず『時間』の概念というものをもたないアボリジニたちとの3週間のブッシュでの生活だったのであるから。アボリジニ村では、一度外部から訪れた訪問者は決して彼らに忘れられることはなく、現に何年かぶりに再訪問した居住区ではいきなりうしろから若い女性に抱きつかれた事もしばしばあった。『よく戻ってきたなあ・・・』と、とてもうれしそうな顔をされて。

    さて、今回私が訪問したアボリジニの居住区はMT.Liebigというオーストラリアの中央砂漠アリススプリングスの街から西におよそ360Kmに位置する人口350人程度のわりと中規模サイズのコミュニティで、そこへは今回で2度目の訪問であった。通常、砂漠を訪れるのは乾季(4月~9月ぐらい)がベストといわれているが今回日本からはるばるやってきて一緒に同行した友人の休暇の調整上12月中旬の出発となったのである。

    友人和代は航空会社の客室乗務員で一年中、海外を飛び回っている多忙人。パリ・ロンドン・ドイツ・アメリカと美しい街をくまなく知り尽くしている彼女がいったい何故また今回私と一緒にアボリジニ村への滞在を希望したのであろうか・・・。彼女は居住区にはマクドナルドもきれいなホテルも何もないことを知っているのであろうか。出発前にそんなことをかなり脅かしてはいたのであるが彼女の意志は断固として堅く、予定通りアリススプリングスの空港で待ち合わせをすることになった。もちろん彼女は日本から、そして私はメルボルンからの空路である。

    ほぼ同時刻でアリススプリングに到着した我々は、久しぶりの再会に熱い抱擁を交わし、すぐに軽く打ち合わせをして早速レンタカーを借りた。そしていよいよ目的地へと胸をふくらませて出発したのである。天気はいたって良好。地上気温35度。日本とはくらべものにならないほど強い砂漠の日差しに彼女は『過度の日焼けは乗務停止になるから』と、日焼け止めを身体中にベタベタ塗り空港で麦わら帽子を購入し、汗をかきながらも長袖のT-シャツを着て完全防備体制であった。うーーん、さすがである。感心。

    さて、今回の私の主な居住区訪問の目的はそのMt. wholesale jerseys Nfl wholesale nfl jerseys wholesale NBA jerseys Liebigにどうしても会いたいアボリジニのアーティストがいたためである。彼はノーザンテリトリー州でこれまでに何度も『最も優れたアーティスト』として賞を獲得した、いわばアボリジナルアート業界では”話題の人”的存在の男性であった。一度も西洋美術の影響を受けていない彼が描く作品はまさに現代アート、コンテンポラリーアートであり私は彼に直接会って作品の解説などを得られれば・・・とかなり期待に胸を躍らせていたのである。

    12 Could cheap jerseys Again 月は雨季に入りかけた時期とはいえ、天気は快晴で「なあんだ、大して心配する必要もなかったじゃん。」と友人和代は車の中でのん気にペットボトルの水を飲みながら『それにしても暑い暑い.』とファンデーションで化粧崩れをしっかり直していた。そんな現地までの道のりは途中で寄り道をしながらもアリススプリングスからおよそ6時間ほどで無事に到着。今回で2度目の訪問という事もあってここでもまた『よく戻ってきたなあ』とコミュニティ内のスーパーでバッタリ会った女性に歓迎を受けた。友人和代は、初めて間近で見るアボリジニ達にとても興味しんしんで『あの人男性なのか女性なのかよくわからないおっかない顔してる』といいながらも自分のしていたスカーフを子供にプレゼントとしたりするなど、すぐに打ち解けている様子だったのでこちらも一安心。

    さて、私は早速アーティスト探しから始めた。友人和代をスーパーに残してまずはグルっと車でコミュニティをゆっくり一周する。やはり私のような部外者に対する村の人々の興味は大きいらしく、必ずみんな声をかけて近寄ってくる。「どこから来たんだ?何しに来たんだ?どこまで行く?おれもそこまで乗せていけ。」と言った具合にまだ返事もしていないのにあれよあれよとあっという間に6人は後部座席に乗り込んでくるのであるから。すると、急にポツリ,ポツリと雨が降り出してきたではないか。そして10分後にはザーザーザーザーとまるでバケツをひっくり返したほどのひどい雨になってきた。うーーん、困ったな。実は砂漠で雨に降られるのは私も今回が初めてであっという間に気温もグッと下がり、これでは情報収集もままならないのでスーパーに残してきた友人和代を迎えに行き、ひとまずコミュニティ内の知人の女性の家に行く事にした。が、彼女の家の前まで行くと何故か電気がついていない。車がない。まるでひと気がない。

    ・・・え?いないの?まさか?だって数日前には我々が行く事を伝えてあったし、しかも今夜はここに泊めてもらえるはずだったのに。何やら彼女は急用でクイーンズランドに行ってしまったというではないか。それでもこの居住区での知り合いは彼女しかいないので我々はもう「仕方がない・・・」とあきらめて今夜は車の中で眠る事にしようとその準備をしていたら、居住区内で老人のケアをしているという白人の女性が「そんな馬鹿な事は絶対に止めなさい。この村では最近青年たちのモラルがかなり下がっていてあなたたちのような若い女性が車の中で見つけられたりしたらすぐにレイプされるわよ。」と鼻の穴を大きく膨らませて彼女は我々に忠告するのだ。『・・・・・若い女性?』・・と一瞬我々はお互い顔を見合わせたが、まあここに住んでいる彼女がそういうのであるから一気にその現実の恐ろしさを感じて背中がゾクっとした。

    『今夜はうちに泊まりなさい。』と彼女は見ず知らずの日本人訪問者の我々を快く泊めて下さり、しかもその夜は彼女の手製のスパゲティまで御馳走になってこの村でもう6年もいるという彼女の暮らしぶりをいろいろ話して聞かせてもらった。

    偶然にも彼女はその居住区でのアートアドバイザーも担当しているというので私は今年の4月からの読売新聞社主催による日本で初めて行われる大規模なアボリジナルアート展覧会の話をして,私もいつか何人かのアボリジナルアーティストを日本に迎えたい旨を述べると彼女もかなり乗り気であったが現実問題としてアボリジニ居住区以外ほとんど出たことのない彼らを10時間も飛行機に乗せるということ、そして自分の生年月日もほとんど把握していない彼らがパスポートを取得する事の難しさ、またアボリジニは『個人』では決して行動しないのでおそらく一人招待するごとにその親族たちを3~4人まとめて一緒に連れて行かなければならないことなど、彼女からのアドバイスは「なるほどなあ」とうなずける事ばかりであった。

    アボリジナルアートが私の人生に登場してもう7年。こんなに斬新でユニークなオーストラリアの芸術をどうにかうまく日本にプロモーションが出来ないものかと、その夜はああすればこうすればなどといったいろいろなアイディアが頭の中に巡りめぐってなかなか布団に入っても寝付けなかった。

    今回のアボリジニ村では生憎と天候に全く恵まれず、『砂漠に輝く満天の星空』をどうしても見たいと言っていた友人和代の期待も見事に裏切る事になったが、それよりもいつもとは違った角度でアボリジニ達との『ふれあい』を発見した「また、行きたい」と文明都市に住む我々が確実にそう思えた旅となったのだった。そんなドラマを次回からまた少しずつこの紙面をお借りしてお話させていただきたいと思う。

    cheap NFL jerseys cheap jerseys Dogs The wholesale nba jerseys

  • アボリジナル・アート はじめのおはなし

    アボリジニアート

    オーストラリアのアウトバックを旅する旅行者達にとって、そこはまるで人を寄せ付けない不毛の大地に見えるに違いありません。しかし、オーストラリア先住民アボリジニ達はこの大陸で”狩猟採集”という人類の最も基本的なライフスタイルのまま大昔から(それは4万年とも5万年ともいわれていますが)暮らしてきたのです。

    彼らは我々現代人の、常識では計り知れないような大地との密接なかかわりを持っています。そして読む.書くといった『文字』という伝達手段を持たなかったアボリジニ達は厳しい自然の中で暮らす貴重な知恵と情報を歌・踊り・そして『絵』によって次の世代へと確実に伝承していったのです。

    私の専門であるアボリジナルアートは主に中央砂漠(アリススプリングス近郊の居住区)の点描画です。点と線だけで描かれる一見ただの抽象画にしか見えない作品も、実は砂漠で暮らす彼らにとって何よりも大事な水のありかを示す地図であったりまたは儀礼の際の約束事が描かれていたりと全ての内容が文字に変るビジュアルな言語なのです。ですから、一つ一つの作品に必ず何かしらの意味が含まれていると解釈できます。

    そんな模様を画布も絵の具も持ち合わせない砂漠に住むアボリジニ達はもともと砂の上と自分達の身体の上にのみ、天然の岩絵の具や血液、それに動物の脂肪部分などを混ぜて指で描いていたのです。それが1971年(まだ30年前の話ですよ)イギリス人の美術教師の手ほどきのもとで現在のようなアクリル絵の具とキャンバスが使用されるようになったのでした。

    真っ赤な赤土の中央砂漠のど真ん中で描いている無名の画家達は西洋美術などまるで知るはずがなく、それらの影響を全く受けていない独自の高い芸術性をもったとてもユニークな人々です。

    wholesale nfl jerseys wholesale mlb jerseys cheap nfl jerseys NFL cheap mlb jerseys cheap nfl jerseys cheap jerseys cheap jerseys Keep wholesale mlb jerseys unfortunate cheap nfl jerseys