投稿者: landofdreams

  • アボリジニの絵画の真髄を学ぶために

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    1997年、オレ様が初めてオーストラリア先住民アボリジニが住む中央砂漠のコミュニティを訪れた年である。早いものであれからもう10年だ。

    今でこそ家族同様に付き合うアボリジニたちであるが、そこまでの熱い絆を結ぶまでに、それはそれは様々なドラマが繰り広げられたものだった。

    当時、メルボルン市内のアボリジニ絵画を専門に取り扱うギャラリーで仕事をしていたオレ様だが、毎日毎日「明日こそは辞表を出そう。オレ様もうだめ。ああ、ギブアップ」。そんな情けないことばかりを考えていた。

    当然のことながら画廊の仕事は絵画を販売すること。しかしオレ様だけがちっとも絵が売れない。どうやってもダメ。周りのベテランスタッフが、じゃんじゃかセールスしているのを横目でうらめしく眺めながら「絵が売れないのであればオレ様はこのギャラリーでは用なし人間。

    いつお前はクビだとボスから宣告されるのだろうか」。毎日そんなくらーーーーいことばかりだけが頭をよぎる。そんなストレスで食欲に拍車がかかり、体重が一気に3kg増。オレ様、ますます暗くなる。

    “アボリジニの絵画の真髄を学ぶことは彼らの深遠なる文化を真剣に学ぶこと”

    自称努力家のオレ様が、毎日これでもかと読みあさっていたアボリジニについての専門書にそう書かれてあったのを目にしたときに、まさしく「おお。これだ!!!」と確信し、鏡に向かって意味のないガッツポーズをしてみる。意外とキマルもんである。

    そう、絵が売れないのはオレ様自身がアボリジニについて、まだ何もわかっちゃいなかったから。なぜもっとそれに早く気づかなかったのだろう。こんなインチキセールスマンからお客様が絵画を買うわけがないではないか。

    そこでオレ様、両手をあごにあてて15分ぐらい考える。

    アボリジニの文化を学ぶには、自分が現地へ直接出掛ければよい。そしてアボリジニ達と一緒に生活をして、彼らから実際に文化を学べばいいんだ!!

    久しぶりの名案に身体が震えた。・・・・が、その現地っていうのはいったいどこだっぺ? オレ様、戸惑うときは必ず茨城弁が登場する。・・・そんなことはまあ、どうでもいいっぺ。

    オレ様が勤務をしていたギャラリーが専門に販売をしていたのは、オーストラリア中央砂漠のドットペインティング。ということは砂漠地帯に何らかの手段を使って、さっさともぐり込めば何とかなるのではないかと思ったが、じゃあいったいその手段とはいかように? どうやってそこへもぐり込む? そこがまるでどんなところなのか知識も情報も何もないこのオレ様が、果たして現場にたどり着けるものなのか?

    答えはもちろん「NO」。いきなりしょっぱなから大きくつまずいたオレ様は、さっきのガッツポーズも一時取り消すことに。途端にふにゃふにゃヘナチョコ野郎になっちまったもんだった。

    さて、今回はそんなオレ様のこれまでの体験を交えながら、読者のみなさんへ「アボリジニ村を訪れるには」の手引きを少しご紹介させていただきたいと思う。

    というのもオレ様、あちこちで常にアボリジニの話をしているのだが、意外にも「私もアボリジニ村へ行きたい。ぜひ連れてって」という人がたくさんいるのに驚いているからなのだ。「あれまぁ。そうなの? へーー。どうして?」と顔はにこやかなオレ様だが、時には眉間にシワを寄せてキビシイご指摘もさせていただく。

    まず、「あなたはどうしてアボリジニの村に行きたいのでしょう?」とお尋ねする。大抵の人たちは「そこへ行けば何か面白い出逢いがありそうで。狩りとかにも行けるんでしょう?」という明らかに好奇心のみの回答をされる。

    まあ、それはそれでいいでしょうが、オレ様そういった人達は、まず一緒にお連れすることはないでしょうな。

    ここでまずお話しておきたいのは、アボリジニの村は「観光地」でも何でもないのだから、オレ様が自らそこへ「観光客」を連れて行くわけにはいかないということ。つまりアボリジニから『何か』を学びたいとか、アボリジニの『世界観』のようなものを短期間で体験したいなんていう興味本位の理由で、アボリジニ村へ入るなんていう行為は、彼らにとって大変失礼なことなので、やめてちょうだいね…ということなのである。

    しかしながら10年前、初めてアボリジニ村へ足を運ぼうとしていた当事のオレ様こそが、まさにこの「大変失礼なヤツ」だったのであった。

    まず、アボリジニ村へ入るにはアボリジニの土地権を管理している政府機関に申請書を提出して、そこから許可が下りるのを待つのが原則だ。その申請書にはオレ様がいったいどこのだれ兵衛で、その村にどのような理由で入りたいのか、またそこに知り合いがいるのか? 滞在期間はどれぐらい?そこまではどのルートで(つまりどのような道のりでという意味)行き、運転する車種は何なのかまでの細かい記入を求められる。

    おまけに時折、その政府機関はアボリジニ村からの正式な招待状まで要求してくる場合だってあるのだから、ますます厄介だ。

    当然といえば当然なのだが、アボリジニ村はよほどのことがない限り、いきなり見ず知らずのよそ者に招待状なんて書くわけないから、早くももうここでどんづまり。

    やっぱりやーめた! ってことになってもちっともおかしくはないのである。

    しかしアボリジニの絵画が売れるようになるためには、どうしてもアボリジニ村へ入って文化を学ばなければならないと勝手な理想を抱いていたオレ様。一生懸命申請書を書いて、あっちこっちの未踏のアボリジニ居住区へ片っ端から出してみるが、返事は一通も来ない。はっきりと断られるのならまだしも、完全に無視をされてしまった。

    しかし、よくよく考えてみると、オレ様にとってアボリジニ村へ入るという行為は確かに面白そうでたくさんの有益情報が得られるかもしれないが、アボリジニたちにとって怪しいアジア人のオレ様を受け入れることのメリットって、いったい何だろう?

    おまけにアボリジニと暮らした『証拠写真』を撮って友人知人に見せびらかそうとカメラのフィルム(当時は今のようなデジカメなんてなかったのじゃ。時代を感じるのぉ・・・)までたくさん用意をしていたオレ様の非礼行為は、太ももを長老にヤリでブスリと刺されても、決しておかしくはなかったはずだ。

    結局アボリジニ村へ入る手段がまるでなくなったオレ様。ほぼ諦めかけたときに、ひょんなことから一人の日本人歴史学者に出会う。彼はアボリジニの歴史を専門に研究している若い男性だった。

    同じ日本人でアボリジニに携わっている人間には、そうそうオーストラリアで会うことはない。我々は一気に意気投合してすぐに友達になった。聞くところによるとその男性、数ヶ月前から定期的にアボリジニ村にリサーチのため、滞在をしているというではないか。

    ああ。ああ。あああああ~~~~~。『思えば叶う』とはまさにこのことだ。

    オレ様の心境を話してみたところ、なんと彼が次にアボリジニ村へ入るときに一緒に連れていってもらえることになったのである。ひゃっほ~~~~~い♪ ガッツポーズ復活! おまけに3段跳び蹴りまでやってみせちゃいます。

    そこで何よりも家族を大事にするアボリジニの社会へ飛び込んでいくゆえ、オレ様はトノガタの実妹として、村のみんなに紹介されたことは記憶にまだ新しい。

    5歳も年上であるオレ様が妹だなんて、あまりにもずーーずーーしーーーとは思ったが、それもまあよかろうよかろう。いっそのこと『姉さん女房』なんていかがかしらん・・・とトノガタに嫁入り前の自分を精一杯アピールしてみたが、返事もしてもらえなかったっけ。

    ということで、こうしてめでたくオレ様の『初・アボリジニ村訪問』がその若いトノガタのおかげで無事実現し、決して『観光客』としてではなく、今後もずっと付き合って行きたいと心からそう思える仲間と出会えたことに感謝したい。

    あれから10年。今は単独で彼らの村を定期的に訪れるようになり、狩りをすればアボリジニたちよりも大きな獲物を次々とゲット。そして儀式で踊ればほかの誰よりも見事なダンサーとして拍手喝采。

    ああ、まだまだオレ様のアボリジニ熱はおさまらない。

  • 愛と涙の大阪物語 最終回

    いよいよ今回でアボリジニ女性画家・モリーンとノーマとともに繰り広げた『愛と涙の大阪物語』が最終回となるわけだが、もちろんこの紙面ではとても書ききれないドラマがあれこれ展開したということはいうまでもない。

    大阪で彼女たちを出迎える数日前に、オレ様は東京ビックサイトで開催された『癒しフェア』というイベントで、2日間アボリジニアートを展示する機会に恵まれた。

     

    この『癒しフェア』は開場前から、入り口に長蛇の列をなすほどの超人気ぶり。何しろたった2日間のこのイベントに、およそ4万人の人々が癒しグッズを求めて全国あっちこっちから押し寄せてくるという、東京ビックサイトオープン以来の大イベントだというではないか。

    だだっ広い会場には数百ものブースが立ち並び、「あなたのオーラの色、撮影します。1回3000円」とか「この魔法の石を肌身離さず持っていれば、あなたは必ずシアワセになれます。1個40万円から」とか、なかには結構うさん臭いものもいくつかあったが、そんな店舗に限って人気が高かったようだ。

    オレ様はその会場の一角にスペースをご提供いただき、およそ20点のアボリジニアートを展示して来場者へ常時作品の説明に明け暮れていた。するとその中にたった一人、“キラリ”と光る男性の存在が!!!!!!!!!!!

    しかもその男性は目に大粒の涙をためて、1枚1枚の絵を食い入るように見つめているではないか。

    ああ。もうオレ様ダメ…。こういうのに非常に弱い。すぐに駆け寄って行って後ろからぎゅうっと抱きしめてあげたい心境に駆られる。何しろこの人混みだ。どさくさに紛れてやっちゃえば誰にもわかんないはず…。

    そう思って、そぉーーーとその男性に近づいていき、満面なる笑みで「これまでアボリジニアートはご覧になったことはありますか?」とさり気なく尋ねる。もちろん声を2オクターブほど上げて。

    するとその男性は大きな瞳でまっすぐにオレ様を見つめながら「いいえ、初めてです」とだけ静かに答えた。結構シャイな方のようだ。

    うーーん。困ったぞ。オレ様、次は何と言ってアプローチするべきか。『アボリジニアートをお買い上げになると、もれなく私もお嫁さんとして付いてくるのはご存知ですか?』。いきなりこれでは初対面の男性には危険すぎるかもしれない。

    オレ様がそんな妄想に酔っているとき「うちの子、絵がすごく好きなんですよ。でもこんなに一生懸命観ているのなんて初めてですね。アボリジニアートって、とても自然でいい絵ですね」と彼の母親と思われる女性が、私に話しかけてきたではないか。

    おっ! なんだ。なんだ。ここで突然お姑さんの登場かい?

    「うちの子、今15歳なんですけどね。これから絵を習わせようかと思ってまして。でもアボリジニアートを習えるところなんて日本にはないですよね」。

    そう。最初に言い忘れたが、その“キラリ”と会場でとびきり光っていた男性というのは15歳のジェントルマン。そして名前が何と「大地」クン。

    「アボリジニアートはすべて先住民アボリジニたちが、広大なオーストラリアの『大地』と自分自身のつながりの喜びを描いている絵画なんですよ。そうですか、大地クンていうお名前なんですね。きっとアボリジニとどこかでつながっているんでしょうね」。

    そんな話を機にオレ様はもうほかのお客様そっちのけで、その素敵な15歳のジェントルマン「大地」クンにつきっきりでアボリジニアートの講義を行うことに。

    癒しフェアを終えた2日後に、オレ様は大阪へ飛んで砂漠からの女性画家二人を出迎えて、今度はテレビのイベント企画に携わることになっていた。それを大地クン親子にお話したところ「ぜひ! アボリジニの人達に会いに行きたいです」とこれまた大地クン、目をうるうるさせて訴えてくるではないか。

    よっしゃ。そこはカッコつけマンのオレ様だ。来日するアボリジニの画家たちと大地クンが何とか一緒に絵が描ける作戦を立てることにした。

    それにしてもわざわざ東京から大阪までアボリジニの女王様たちに会いに来てくれるとは、何と奇特な親子だろう。オレ様、胸の奥がじんわ~~り潤うのを感じたほどだ。だってすごくうれしいじゃないか…。

    さて。大阪入り2日後、無事にアボリジニの女王様二人も日本へ到着し、毎日過密なテレビスケジュールをキャーキャー言いながらこなしていたそのとき、早朝、私の携帯に電話が鳴った。「あのー。大地です。今、大阪に着きました。お父さんの運転で昨日の夜中に東京を出てきました。家族6人みんなで来てます。僕たちどこへ行ったらいいですか?」

    人間の深く強い「想い」というものは実に様々なことを可能にさせてくれる。

    東京から深夜、車を吹っ飛ばして約7時間。遠路はるばるよくもまあ、来てくださったこと。大地クンファミリーは、それぞれモリーンとノーマにたくさんの日本のお土産を持ってきてくださり、始終なごやかなひとときにつつまれたものだった。

    来日早々、慣れない日本の環境にやや緊張気味であったモリーンとノーマ。しかし温かい大地クンファミリーとのふれ合いで彼女たちの表情も次第に和らいでいく。アボリジニ社会は、何よりも家族同士の絆を大事にしているからなおさらなのであろう。

    大地クン達には我々が宿泊しているホテルの部屋まで来ていただき、早速共同作業での大作を1枚仕上げることに。

    家族全員が筆を持ち、モリーン、ノーマともどもそれぞれの想いを熱心にキャンバスへと表現した。

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    人と人とのご縁ほど、オレ様にとって宝物だと思えるものはない。まったくひょんな出会いから、こうして大地クン念願のアボリジニアートレッスンが実現し、やはり『思えば叶う』を信じてよかったと心からそう思えるこの出来事。

    最後は完成した絵画と一緒にみんなで記念撮影を行い、大地クンファミリーはそのまま帰路、東京へと向かった。胸にしまいきれないたくさんの素敵な思い出とともに。

     

    そしてあの絵画は、大地クンファミリーの家のどこへ飾られるのかな…そんなことも後日電話で聞いてみよう。

    大忙しのイベントがすべて終了し、あと2日後には海の向こうのオーストラリアへ帰る日が迫ってきたとき、敏腕インチキコーディネーターのオレ様は砂漠の女王様達に、ぜひとも日本の神社仏閣を観てもらおうと京都一日観光を計画した。

    何しろモリーンもノーマも生まれて初めての電車乗車体験。自動改札にたじろぎ、制服を着た車掌さんと写真を撮りたがり、車内でも疲れていて眠いはずなのに車窓から目が離せない様子。

    こんな日本での様々な体験を彼女達は故郷アボリジニの村へ帰って自分の家族達にいったい何て話すんだろうか。

    いっちゃなんだが、その日の京都は気温37度。おまけにあのすさまじい湿気でしょ。こっちは日本が誇る世界遺産の金閣寺に、これから案内しようと汗だくだくになってるっつーのに、モリーンもノーマも暑いからもう歩くのいやだとだだをこねる。やれ腹が減っただのアイスクリームを買って来いだの好き勝手、言いたい放題だ。

    滞在もうあと残り2日であるのをいいことに温厚なオレ様、ここでとうとうぶち切れて「てめーら。それでも砂漠の民か! こんな暑さがなんだ。わがまま言うのもいい加減にせーよ!」と空手チョップのまねごとをしてみせるが効果なし。彼女達はゲラゲラ笑うだけだった。

    結局、金閣寺まではクーラーガンガンにきいたタクシーで行くことに。すると「おねえちゃん。どうせならワシ、あっちこっちこのまま回ってやるでー。今日はとくに暑いことやしなー。そのほうがええん、ちゃう?」とタクシーのおっちゃんからのオファー。

    さすが。関西人様だ。ありとあらゆる状況下でもすぐにビジネスに結びつける商い人。オレ様、泣く泣く財布から2万円を出したり引っ込めたりしながら、おっちゃんに渡す。

    こうして京都で世界遺産を砂漠の女王様たちにご覧いただいたのを最後に、我々の『愛と涙の大阪物語』に無事、幕を閉じたのであった。

    モリーン・ノーマ、豪州の辺境地帯、砂漠のど真ん中から本当によく日本へ来てくれたね。異国の地でさぞ不安だらけの日々だっただろうにね。トイレを流さないとか、1リットルのシャンプーを一人で全部1回で使っちゃったこととか、ホテル朝食のビュッフェを手づかみで取ったこととか、お祭りの金魚すくいの金魚を食べようとしたこととか、オレ様絶対に誰にも言わないからね。

    だからまた日本に来てね。今度は愛する家族を全員連れて。

  • 愛と涙の大阪物語 その 2

    不覚にも先月号を休んでしまった。伝言ネット“鬼の編集長様”のおっかない顔を頭にチラチラ浮かべながら締め切りギリギリまで何とかふんばって「絶対に書き上げるぞ!」と意気込みだけは十分だったはずなのだが、どうも肉体的疲労と物理的時間の配分がものの見事に調和せず、結局は「ごめんなさい、堪忍してください」と謝罪をしてしまうことに。

    …ということでまずは皆様にもこの紙面をお借りしてお詫びを申し上げたい。

    「ちょっと…つわりがひどかったもんで。休んじゃってほんと、すんません」。以前このガセネタで日本からのある原稿依頼を断った記憶があるのだが、そのときの担当者に「内田さん。その吐き気ってどうせただの二日酔いか想像妊娠なんでしょ」と間髪入れずに突っ込まれたことがあった。何とも失礼な野郎である。

    いやー。それにしても2006年があと1ヶ月で終わろうとしている中、今年の『日豪交流年』という特別なイベント年に際して、このオレ様も実にあっちへこっちへと飛び回らせていただく機会に恵まれた。

    日本でのアボリジニアート展覧会がここぞとばかりに全国で開催が実現し、確実に豪州先住民アボリジニの深遠なる芸術の啓発に努められたという自負すら覚える。

    その日豪交流年のイベントの一つとして大阪読売テレビ主催の“夏休み家族向け企画”にアボリジニアート展が盛り込まれることになり、コーディネーターのオレ様はオーストラリア中央砂漠の辺境地帯に住むアボリジニの画家を二人はるばる来日させるという大役を仰せつかったのであった。

    8月のとんでもなく暑い1週間、『愛と涙の大阪物語』がスタートした。

    日本とオーストラリアの位置関係すらまったく想像がつかないどころか「ニッポン」というのが一体なんなのか、またそこではどんな食べ物が口にできるのかなどという情報を一つも持たないまま二人の女性画家・モリーンとノーマは日本へやってきた。

    二人は関西空港へ到着するなり自分たちの周りがアジア人だらけであることにしばし驚きを隠せない様子ではあったが、それでも私の袖をグイっと引っ張って「あそこにいるのはジャッキー・チェンの弟か?」と見知らぬ男性を指差したり「ジャッキー・チェンは今、どこで何をしている? 私たちはいつ会えるんだ?」ときゃっきゃ、きゃっきゃ興奮してみたりと、いきなり異国へ来たという不安気なそぶりはあまり見せなかったのでこちらも安心した。

    それにしても読売テレビさん。オレ様、つい言っちゃったんだよね。『日本に来てくれればジャッキー・チェンに会えるんだ』ってさ。何たってアボリジニ社会ではジャッキー・チェン様は超スーパースター以外のナニモノでもないのだから。

    事前に頼んでおいた『ジャッキー・チェンのそっくりさん募集』は、ちゃんとやっておいてくれただろうか。

    ちょっと背格好が似ているそこらのあんちゃんに「アチョー! ! ! 」とか言って足でも上げてもらえれば、それで十分なんだけどなあ。

    さて、初日の晩はさすがに長旅の疲れがあったせいか、砂漠からの女王様たちはホテルの部屋に入るなり、すぐにバタンキュー。

    小腹が空いたときのためにとあらかじめ用意しておいたサンドイッチを少しだけつまんだ彼女たちはすぐにゴジラのような大イビキをかいて爆睡した。もちろん風呂には入らない。

    8月2日(水)

    我々が滞在した大阪天保山のホテルはまさにオーシャンビュー。部屋の窓を開けると目の前にはどこまでも続く海・海・海。そして大阪港に寄港するたくさんの船・船・船。これにはさすがに砂漠の女王様たちは絶叫した。

    何しろいつもは豪州のアウトバックで暮らしている二人である。普段目にするのは乾燥した真っ赤な大地にうっそうと生える木々だけだ。

    「カピ~! カピ~! 」とそれはそれはうれしそうに大声上げて、朝起きてからずうーーっと窓の外を眺める二人であった(注:カピとはアボリジニのルリチャ語で“水”という意味)。

    アボリジニの人々は朝目覚めるとすぐに、必ず大きなカップでぬるくて甘いミルクティーをがぶがぶと飲む習慣があるのだが、このホテルにはそんなマグカップなどは用意されていない。日本茶用の小さな湯飲み茶碗が部屋の冷蔵庫の上にあるだけだった。

    敏腕インチキコーディネーターのオレ様、ちゃんと紅茶と牛乳は買っておいたのだが、ついうっかりしてしまい肝心の大きなカップを用意するのを忘れてしまった。

    「ごめん。ごめん。それじゃあ朝食も兼ねて1階のレストランへみんなで行こうよ。紅茶はそこで飲めるはずだから」。そう言って彼女たちを着替えさせて(歯磨きなし)朝食のビュッフェ初体験に挑戦した。

    ホテルの朝食会場には、たくさんの夏休み親子連れ客がみな楽しそうに食事をしている。そこへ砂漠の女王様たちの登場となると、途端にあちらこちらから熱い視線が注がれてモリーンもノーマも最初はやや尻込みをしていた。

    が、何しろ腹はグーグー減ってるし、紅茶はがぶがぶ飲みたいし、おいしそうなソーセージやパンがたくさん目の前のテーブルにのっていりゃ、もうそんな注目なんて気にすることなく、即座に名ハンター狩人サマに変身さ。

    まるで砂漠のど真ん中で獲物を獲るかのようにあれもこれも、これでもかというほどお皿に食べ物を盛り付ける二人だった。それも手づかみで。

    これにはさすがにたまげた様子で、係りのお姉ちゃんが吹っ飛んできて彼女たちに注意した…が、二人とも『へっ? 何で駄目なの?』ってな顔をしていたのが、何とも印象的であった。

    午後にはテレビ取材も兼ねて念願の「ユニバーサルスタジオ・ジャパン」がスケジュールとして組まれていた。どこへ行くにも後ろからテレビカメラに付いてこられ、それだけでも通行人たちの注目を浴びる二人は、まるで芸能人並みの扱いだ。

    中にはサインを求めて駆け寄ってくるオンナの子もいたが、文字を持たないアボリジニの二人は「私たち、字が書けないの」と笑ってそう言いながら、ぎゅうっとそのオンナの子に握手をした。

    そんなムービースターのような彼女たちが、実はつい数日前まで砂漠のアボリジニ居住区でダニだらけの犬たちに囲まれ、カンガルーの丸焼き尻尾をかじっていただなんて一体誰が想像したことか。

    特にモリーンは、日本出発前に親族の一人が他界したため髪を短く切り(アボリジニ社会では自分の家族・親族が亡くなると髪を短く切るという習慣《…というよりも掟に近いもの》がある)、それが恥ずかしいからと、暑い8月の大阪へ毛糸の帽子をかぶってやってきた。

    彼女はロングヘアにいつも憧れていたから、なおさらだったのであろう。

    誰が見ても男らしくたくましい中性のオレ様は、ロングとまではいかずとも一応セミロングぐらいの髪の長さなのであるが、モリーン曰く、オレ様と同じシャンプーを使えば瞬く間に自分の髪も同じように伸びてくると信じて疑わず、薬局の前を通るたびに「シャンプー、シャンプー」とオレ様におねだりしてきた。

    「これがいいよ」と1本レジに持って行こうとすると「髪を切った家族全員に」とモリーンは8本のシャンプーをオレ様に買わせたツワモノだ。このやろ。調子に乗るなよ!

    人間、誰しも自分を取り巻く『環境』によって価値観が変わるものだとこのオレ様は確信するのだが、この1週間の大阪滞在でモリーンとノーマは「日本」をいったいどのように捉え、感じたのだろうか。そんな彼女たちの声を次回お知らせしたいと思っている。

    オレ様の2006年、今年もまたすっかり“アボリジニ漬け”の1年になったが、それも今の自分としてしっかり受け止めて行くつもりだ。

    そして今年お世話になったたくさんの皆様ひとり一人に心から御礼を申し上げたい。

    どうぞよいお年をお迎えください。

  • 愛と涙の大阪物語 その1

    夏真っ盛り、8月の大阪。気温は連日35度以上。アル中一歩手前のオレ様は、朝から冷蔵庫の中の冷たいビールについつい手が伸びてしまう自分を厳重に戒める。

    湿度だって半端じゃないもの。一歩外に出たものなら途端に背中は汗でびっしょり。朝、念入りにドライヤーでセットした髪も、あっという間にふにゃふにゃさ。

    そんな猛暑の大阪へ、オレ様はオーストラリアの中央砂漠から二人の女性画家を来日させることになった。主催者である読売テレビが、夏休み家族向けイベントでアボリジニアート展を企画開催したことが主な理由である。

    まだまだ日本では馴染みのない豪州先住民の絵画を現地からはるばるやってきたアボリジニ画家達に、会場で実際に実演をしてもらうというのがねらいらしい。ついでにオレ様のいつものインチキトークをじゃんじゃか披露すりゃあ、来場者はもうイチコロに決まってるさ。にひひひひ。

    それに今回はテレビ局の主催なんだから、きっとメディアへの露出だってあるとにらんだ。うーーん。見事に輝いているこの目の下のクマ、どうやって消し殺そうか。来るとき空港の免税店で買ったシワ取りクリーム、高かった割にはあまり効果が出ていないが、まあ何もしないよりはいいだろう。

    普段は男だか女だかわからない中性のようなオレ様だが、やはり40歳も過ぎると気になるところは大変気になるというのが、紛れもない現実であることをご理解いただきたいものだ。

    さて、いよいよここから『愛と涙の大阪物語・その1』をご披露するわけなのだが滞在日数7日間、毎日毎日あれこれとドラマの連続だったのでわかりやすいように日記形式でその内容をお知らせしていこう。

    8月1日 《火曜日》

    今回めでたく初来日となるアボリジニの若手女性画家・モリーンとノーマ。同行してくる現地アートコーディネーターのグラニスおばちゃんは2度目の来日となる。

    前回は3年前、東京で行われた展覧会への出席だった。出発前にファックスで送っておいたすべてのニッポン滞在情報をうっかり忘れてきたことから、成田空港の税関でまんまと足止めをくらい、入国まで2時間半もかかった記憶はまだ新しい。

    何やらそのとき連れてきたアボリジニの女性画家二人とともに別室に連れて行かれて、ひたすら質問攻めに合ったというではないか。挙句の果てには身体検査までやられ、カバンの中味も全部チェック。

    おめーら! うそだろーーー! と絶叫したくなるような数々のブツが、彼女達のカバンの中から次々と出てきたことはいうまでもない。そんなことを何も知らずに、オレ様は空港出口で2時間半も今か今かと彼らの到着を待ち焦がれていたのであった。

    普段彼らが生活をしている砂漠=ブッシュには、実に2000種類にも及ぶ草花が生息している。中には効果抜群の薬草であったり、貴重な食物だったり…。そして中には口に入れると、たちまちクラクラーーーッと後頭部の奥から気持ちよおおおくなる怪しい葉っぱだったり。

    そのとき彼女たちが一体何を持ち込んで来たのかここでは公表できかねるが、やがて真っ青な顔をして3人がやっと到着出口に現れたときのオレ様の安堵感は言葉には表せないほど大きなものだった。

    そんな苦い経験もあることから「果たして今度は大丈夫だろうか」と心臓バクバクさせながら、関西空港の到着ロビーで待ちわびるオレ様。テレビカメラチームも一緒だった。彼女たちの感動的な初来日到着シーンをぜひとも撮影したい、というので同行していただいた。

    “ゆうべ、シワ取りクリームたっぷり塗っておいたからアップでもOKですよ”と小声でディレクターにささやいてみたが、そんなのまるで聞いちゃいないといった素振りで、大変明るく無視された。

    さて、空港の掲示板に到着を知らせるランプを確認して”いよいよだな”と緊張しながら出口の一番前に陣取って待ち構えていたオレ様。テレビカメラもスタンバイOKだ。そんな様子を見ていた到着口付近のお客様からは「今日はどんな芸能人が来るの?」と何度も問われたもんだった。

    「ふふふ…。奥さぁぁぁん。それは来てからのお楽しみですよ」ともったいぶって返答していたら、そのうちどこからか聞き慣れた声がするではないか!!!

    「モシモシ~! モシモシ~! ひれをウフbフソエイウンモビrモイウアウオpr!ぱりゃ」とアボリジニの言語、ルリチャ語で交わされている言葉が確実に耳に入ってきた。

    そう。遠路はるばる6000kmの距離を経たアボリジニ村から御一行様のご到着である。今回は飛行機が着いてから30分もしないうちに到着出口に姿を現してくれたのだった。

    「いらっしゃーーい! いらっしゃーーーい!! よく来た。よく来た。疲れたでしょう? フライトはどうだった?」。なんて興奮冷めやらぬ状態で、彼女たち一人ひとりと熱い抱擁を交わす。

    そのときはテレビカメラの横顔アップなんて、もうどうでもいいと思った。ちなみにあとでテレビ放映された映像を見たら…案の定、オレ様のたくましい後ろ姿しか写っちゃいなかったしね。

    我々は空港からすぐにホテルへ直行した。まだいくらか緊張が解けきっていないモリーンとノーマ。機内でもほとんど眠れなかったという。

    「ここは本当にジャパンか?」といきなりノーマが不安げに問いかけてきた。そりゃそうだ。何たって初めての飛行機、初めて見る外の景色、まわりはみんなアジア人の顔をした人間ばかり。自分はいったいどこに連れて来られちゃったんだろう?ちゃんと家には帰れるんだろうか。そんな彼女の不安は尽きない。

    ホテルへ到着。

    我々には最上階の和室が用意されていた。畳10畳分のひと部屋に今日から1週間、我々4人の共同生活がスタートする。プライバシーなんてまるであったもんじゃない。

    まずはモリーンにシャワーの使い方を教える。日本式のお風呂なんてもちろん初体験。オレ様は4人みんなで1週間使えるようにとファミリーサイズのシャンプー(1リットルボトル)を用意しておいたが、が、モリーンがお風呂から出たときには、そのボトルは空っぽになっていた。

    どうやら彼女はそれが1回分だったと思ったらしい。とほほ…、先が思いやられるぜ。

    普段、砂漠の居住区で暮らすアボリジニの人たちは家の中を片付けるとか整理整頓なんていう概念はまるでない。(そういうオレ様も人のことはいえないが)いやはや、本来「家」というコンセプトが、アボリジニと我々では全く違うのであるから仕方がないのではないか。

    何たって5万年もの太古からオーストラリアの大地と見事に調和しながら共生してきた彼らの深遠なる”狩猟採集”というライフスタイルを考えると、現在我々が生活をしている屋根のついた壁やドアがある「家」は彼らにとってはただの物入れ同然。だから冷蔵庫に平気で靴をしまったりしているし、たまにドアも叩き壊されて焚き火になっているところも目にする。

    しかし、ここは大阪のホテルの中。部屋で焚き火をされては困る。土足も厳禁だと注意を促す。トイレは1回1回流すように。ゴミはきちんとゴミ箱へ…と何度いっても瞬く間に部屋はゴミの山。食べたカスをあっちへポーーン、こっちへポーン。

    オレ様はそのたびに腰を曲げながらせっせせっせとゴミ拾いに明け暮れる。今日がまだ到着1日目だと考えただけで一気に血圧が上がったような気がした。

    さぁさぁ、それでもまだまだ続く「愛と涙の大阪物語」。次号もどうぞお楽しみに。愛と涙の大阪物語 その1
    Updated: 2006/10/10
    夏真っ盛り、8月の大阪。気温は連日35度以上。アル中一歩手前のオレ様は、朝から冷蔵庫の中の冷たいビールについつい手が伸びてしまう自分を厳重に戒める。

    湿度だって半端じゃないもの。一歩外に出たものなら途端に背中は汗でびっしょり。朝、念入りにドライヤーでセットした髪も、あっという間にふにゃふにゃさ。

    そんな猛暑の大阪へ、オレ様はオーストラリアの中央砂漠から二人の女性画家を来日させることになった。主催者である読売テレビが、夏休み家族向けイベントでアボリジニアート展を企画開催したことが主な理由である。

    まだまだ日本では馴染みのない豪州先住民の絵画を現地からはるばるやってきたアボリジニ画家達に、会場で実際に実演をしてもらうというのがねらいらしい。ついでにオレ様のいつものインチキトークをじゃんじゃか披露すりゃあ、来場者はもうイチコロに決まってるさ。にひひひひ。

    それに今回はテレビ局の主催なんだから、きっとメディアへの露出だってあるとにらんだ。うーーん。見事に輝いているこの目の下のクマ、どうやって消し殺そうか。来るとき空港の免税店で買ったシワ取りクリーム、高かった割にはあまり効果が出ていないが、まあ何もしないよりはいいだろう。

    普段は男だか女だかわからない中性のようなオレ様だが、やはり40歳も過ぎると気になるところは大変気になるというのが、紛れもない現実であることをご理解いただきたいものだ。

    さて、いよいよここから『愛と涙の大阪物語・その1』をご披露するわけなのだが滞在日数7日間、毎日毎日あれこれとドラマの連続だったのでわかりやすいように日記形式でその内容をお知らせしていこう。

    8月1日 《火曜日》

    今回めでたく初来日となるアボリジニの若手女性画家・モリーンとノーマ。同行してくる現地アートコーディネーターのグラニスおばちゃんは2度目の来日となる。

    前回は3年前、東京で行われた展覧会への出席だった。出発前にファックスで送っておいたすべてのニッポン滞在情報をうっかり忘れてきたことから、成田空港の税関でまんまと足止めをくらい、入国まで2時間半もかかった記憶はまだ新しい。

    何やらそのとき連れてきたアボリジニの女性画家二人とともに別室に連れて行かれて、ひたすら質問攻めに合ったというではないか。挙句の果てには身体検査までやられ、カバンの中味も全部チェック。

    おめーら! うそだろーーー! と絶叫したくなるような数々のブツが、彼女達のカバンの中から次々と出てきたことはいうまでもない。そんなことを何も知らずに、オレ様は空港出口で2時間半も今か今かと彼らの到着を待ち焦がれていたのであった。

    普段彼らが生活をしている砂漠=ブッシュには、実に2000種類にも及ぶ草花が生息している。中には効果抜群の薬草であったり、貴重な食物だったり…。そして中には口に入れると、たちまちクラクラーーーッと後頭部の奥から気持ちよおおおくなる怪しい葉っぱだったり。

    そのとき彼女たちが一体何を持ち込んで来たのかここでは公表できかねるが、やがて真っ青な顔をして3人がやっと到着出口に現れたときのオレ様の安堵感は言葉には表せないほど大きなものだった。

    そんな苦い経験もあることから「果たして今度は大丈夫だろうか」と心臓バクバクさせながら、関西空港の到着ロビーで待ちわびるオレ様。テレビカメラチームも一緒だった。彼女たちの感動的な初来日到着シーンをぜひとも撮影したい、というので同行していただいた。

    “ゆうべ、シワ取りクリームたっぷり塗っておいたからアップでもOKですよ”と小声でディレクターにささやいてみたが、そんなのまるで聞いちゃいないといった素振りで、大変明るく無視された。

    さて、空港の掲示板に到着を知らせるランプを確認して”いよいよだな”と緊張しながら出口の一番前に陣取って待ち構えていたオレ様。テレビカメラもスタンバイOKだ。そんな様子を見ていた到着口付近のお客様からは「今日はどんな芸能人が来るの?」と何度も問われたもんだった。

    「ふふふ…。奥さぁぁぁん。それは来てからのお楽しみですよ」ともったいぶって返答していたら、そのうちどこからか聞き慣れた声がするではないか!!!

    「モシモシ~! モシモシ~! ひれをウフbフソエイウンモビrモイウアウオpr!ぱりゃ」とアボリジニの言語、ルリチャ語で交わされている言葉が確実に耳に入ってきた。

    そう。遠路はるばる6000kmの距離を経たアボリジニ村から御一行様のご到着である。今回は飛行機が着いてから30分もしないうちに到着出口に姿を現してくれたのだった。

    「いらっしゃーーい! いらっしゃーーーい!! よく来た。よく来た。疲れたでしょう? フライトはどうだった?」。なんて興奮冷めやらぬ状態で、彼女たち一人ひとりと熱い抱擁を交わす。

    そのときはテレビカメラの横顔アップなんて、もうどうでもいいと思った。ちなみにあとでテレビ放映された映像を見たら…案の定、オレ様のたくましい後ろ姿しか写っちゃいなかったしね。

    我々は空港からすぐにホテルへ直行した。まだいくらか緊張が解けきっていないモリーンとノーマ。機内でもほとんど眠れなかったという。

    「ここは本当にジャパンか?」といきなりノーマが不安げに問いかけてきた。そりゃそうだ。何たって初めての飛行機、初めて見る外の景色、まわりはみんなアジア人の顔をした人間ばかり。自分はいったいどこに連れて来られちゃったんだろう?ちゃんと家には帰れるんだろうか。そんな彼女の不安は尽きない。

    ホテルへ到着。

    我々には最上階の和室が用意されていた。畳10畳分のひと部屋に今日から1週間、我々4人の共同生活がスタートする。プライバシーなんてまるであったもんじゃない。

    まずはモリーンにシャワーの使い方を教える。日本式のお風呂なんてもちろん初体験。オレ様は4人みんなで1週間使えるようにとファミリーサイズのシャンプー(1リットルボトル)を用意しておいたが、が、モリーンがお風呂から出たときには、そのボトルは空っぽになっていた。

    どうやら彼女はそれが1回分だったと思ったらしい。とほほ…、先が思いやられるぜ。

    普段、砂漠の居住区で暮らすアボリジニの人たちは家の中を片付けるとか整理整頓なんていう概念はまるでない。(そういうオレ様も人のことはいえないが)いやはや、本来「家」というコンセプトが、アボリジニと我々では全く違うのであるから仕方がないのではないか。

    何たって5万年もの太古からオーストラリアの大地と見事に調和しながら共生してきた彼らの深遠なる”狩猟採集”というライフスタイルを考えると、現在我々が生活をしている屋根のついた壁やドアがある「家」は彼らにとってはただの物入れ同然。だから冷蔵庫に平気で靴をしまったりしているし、たまにドアも叩き壊されて焚き火になっているところも目にする。

    しかし、ここは大阪のホテルの中。部屋で焚き火をされては困る。土足も厳禁だと注意を促す。トイレは1回1回流すように。ゴミはきちんとゴミ箱へ…と何度いっても瞬く間に部屋はゴミの山。食べたカスをあっちへポーーン、こっちへポーン。

    オレ様はそのたびに腰を曲げながらせっせせっせとゴミ拾いに明け暮れる。今日がまだ到着1日目だと考えただけで一気に血圧が上がったような気がした。

    さぁさぁ、それでもまだまだ続く「愛と涙の大阪物語」。次号もどうぞお楽しみに。

  • 愛と涙の大阪物物語 準備編

    「ねえ、内田さん。アボリジニアート展、やりましょうよ。そしてアボリジニの画家に日本へ来てもらって、そこで絵画の実演をしてもらうの。絶対にオモシロイ企画だと思うけどね。どう思います?」。

    そんな申し出を大阪読売テレビから受けたのが今年の5月であった。何やらその読売テレビが昨年から主催をしているという夏休みの家族向けイベントがあり、これが何と10日間で40万人もの来場者を誇る人気の催しだというではないか。

    いやはやそんな大きなイベントで豪州先住民の深遠なる芸術を披露できるだなんて願ってもないことだ。絶好のプロモーションだ。オレ様はやや興奮気味に二つ返事をして、早速展覧会の準備に取り掛かることにした。

    準備というのは、もちろん展示をする絵画の選出から始まり、それらを東京から大阪まで搬送する運送業者の手配、また絵画にかける保険や展示会場のイメージ作りなどやることは山ほどあるのだ。

    そして何よりも肝心なのがオーストラリアの砂漠のど真ん中に住んでいるアボリジニの女王様たちを一体どうやって日本へ連れてくるか。イベント開催まで正味あと2ヶ月である。

     

    これまでオレ様自身、アボリジニの画家を日本へ連れて行ったことは幾度となくある。きっとこの経験を買われて今回も声がかかったのであろうが、すべてがすべて大成功したわけでは決してない。

    “日本”という異なる社会・異なる環境・異なる人たちのなかでアボリジニたちが受ける不安やストレスは計り知れないだろう…が、そこは敏腕コーディネーターであるオレ様の腕の見せ所であると自負しながら、朝から晩まで彼らにひたすら密着し、少しでも快適な日本滞在になりますようにと願いながら実に涙ぐましい努力をした。

    …にもかかわらず、その甲斐むなしく、わがまま言いたい放題のある女性画家に、この温厚なオレ様がとうとうぶっち切れてしまいましてね。

    挙句の果てには公衆の面前で(あれはホテルの朝食会場だったっけ)、大ゲンカをしたら、つい人目もはばからず「うおぉぉぉおおぉおおぉお~~!!!」と嗚咽してしまった苦い夏の思い出。失恋したときだってオレ様あんなふうには泣かなかったのにな。

    結局、その画家はイベントを途中でキャンセルし緊急帰国となったのだった。

    翌日、現地のローカル新聞に書かれた帰国の理由は「体調不良」。決して敏腕コーディネーターとの「性格の不一致」だったとは明かされず。

    さて、そんな経験もあることからやはり来日してもらう画家の人選は慎重に行わなければなるまい。

    読売テレビから来日のオファーを5月に受けたオレ様は、その後すぐにメルボルンから砂漠のアボリジニ居住区へ飛んだ。もちろん来日してもらう画家の人選のために。片道ざっと3000kmの道のりであった。

    オレ様が赴いたアボリジニの居住区は、アリススプリングスから西へ400kmに位置するマウント・リービックという350人ほどのアボリジニが住んでいる集落なのだが、そこには10人前後の白人が政府管轄の任務を任されて同じように暮らしている。早いものでオレ様がこの居住区を訪ねるようになってまもなく 10年だ。

    長い長い時間をかけて培った彼らとの大切な絆である。

    一番最寄の街まで400kmもあるその偏狭な土地では、働く人たちの入れ代わりが非常に早く、オレ様も訪れるたびに白人たちの顔ぶれが毎回異なっているのに気付かされる。

    短い人は1週間、1年も持てば大したもんだと褒め称えられる。

    しかしその居住区で彼らの深遠なる文化を理解しながらアートの啓発に努め、18年もの間アボリジニ居住区で暮らしている稀有なオーストラリア人の女性がいる。

    この紙面にも幾度か登場しているグラニスおばちゃんだ。彼女は私にとっての「砂漠のおかあちゃん」。いつも笑顔で豪州大陸と同じぐらいでっかいハートで、すべての人たちを丸ごと包んでくれる救世主。

    ちょっとやそっとのことじゃ動じない。砂漠を誰よりも愛し、そこで暮らすアボリジニたちを全身で受け止め守り続ける女神様のような存在だ。オレ様もああなりたい…といつも羨望の眼差しで彼女を見てしまう。

    しかしながら順応とは恐ろしいもので、18年も砂漠でアボリジニたちと一緒に居ると彼女の暮らしぶりもすっかり”アボリジニ風”になってしまっている。

    「時間」という概念をすっかり忘れて約束をしてしまうところとか、トイレのドアを閉めないで平気で用を足すとか、まぁそんなことなのだが。

    アボリジニの画家に日本へ来てもらうには、当然のことながら、彼女の存在抜きには成立しないので、まずはグラニスに相談を促す。

    実は2003年にも一度グラニスと女性画家を2名来日させているので話はトントン拍子で進んだのだが、肝心の画家がいまひとつ決まらない。

    居住区では40歳代半ばから後半以降のアボリジニになると出生届が定かでない。ということは、パスポート取得がひときわ困難になるではないか。イベント開始まであと2ヶ月しかない。ここは安全策をとって若手の画家で勝負しよう。

    そこで名前が挙がったのが「モリーン・ナンパジンパ」と「ノーマ・ケリー」。近年、絵画制作に意欲を燃やしやる気満々の二人である。早速彼女たちに日本行きのアプローチを始めた。

    「モリーン、ノーマ。ジャパンヒロウィエフピイタラゴブレイヲニヅ4イエー0ソウロ、パリャ?」。もちろん彼女たちの言語、ルリチャ語でのアプローチである。どうだ。かっこいいだろう。

    すぐばれる嘘はここまでにしておきたい。オレ様は簡単な英語で日本行きの主旨を伝えた。「ジャパンはどこだ?」と彼女たちからの最初の質問。そりゃそうだ。

    普段、テレビでニュースを観るわけでもなくインターネットで情報を得ることもない、「世界」がどんなものなのかまったく謎めいている二人に、まずは日本の位置を教えてやらねばならないのだ。

    そこで敏腕コーディネーター、「ジャパンは海の向こうにある私が生まれた国」と答えたところ二人とも「へ?」ってな顔してオレ様を見ている。そして「海ってなんだ?」と真面目な顔して聞いてくる。

    そうか。そうだった。モリーンもノーマも砂漠の民ではないか。彼らは生まれてこのかた一度も海を見たことがないということにオレ様、まったく気付きもしなかった。そこで次の手段。

    用意万全のオレ様、今度は世界地図を広げて「ここ。オーストラリア。そしてこっち。ジャパン」と彼らに実際に日豪の位置関係を把握してもらおうと試みたのだが、そのときあんまりオーストラリアと日本との距離が離れていると思われると「そんな遠いところへ自分たちだけでは行きたくない。怖い怖い」と言い出しかねないので、できるだけ近いお隣の国、インドネシアあたりを指差して「ジャパン。このへん。近い。近い。すぐ。すぐ。寝てたらあっという間に到着」。そんなことを言って二人を安心させてみせた。来日してもらうためには嘘もつく。

    そして次の質問。「ジャパンにはケンタッキー・フライドチキンはあるのか?」とやはりまずは一番に食べるものの心配をするモリーン。

    普段、居住区で暮らすアボリジニの人たちにとっては、たまに街から買ってくるケンタッキーフライドチキンが何よりのご馳走であることをご存知いただきたい。

    「ケンタッキー? あーーる。ある。何でもある。ステーキもある。ジャパン、おいしいものいっぱいある」。「じゃあ、牛の脳みそは?」「……。きっとあーるある。多分あーるある。探しておく」。「ところで私達、ジャパンではジャッキー・チェンに逢えるのか?」。

    おー! 来たな来たな。この質問は絶対に来るとにらんでいた。

    何たって2003年に二人の画家を来日させたときに、偽ジャッキーを友人に頼んで演じさせたのだが《持つべきものは嘘つきの友人である》、それが思いのほか大成功をおさめ、以来マウントリービックでは「ジャパンへ行けばジャッキー・チェンに会える」という伝説が、瞬く間に流れるようになってしまったのだ。

    今夜早速大阪の読売テレビに「8月、ジャッキー・チェンのそっくりさん募集」の広告を出してもらうようEメールを打っておこう。

    そんなこんなでようやく二人から快諾の返事をもらい、いよいよ日本出発へ向けての本格的な準備開始となった。

    未だなんだかよくわかんないけど、日本へ行くことになっちゃったわ…という顔をしている二人だが大丈夫! 後悔はさせないよ。オレ様が付いているからね。安心してね。その言葉を残しながら居住区を後にしてオレ様は後日メルボルンへ戻った。

    さぁて。これから「愛と涙の大阪物語」を、次号からたっぷりとご紹介させていただこうではありませんか。笑いあり・涙ありのハチャメチャ珍道中。どうぞお楽しみに!

  • 素のままの自分に戻るとき

    どういうわけだかこのオレ様、いつだって誰も行こうとしないところに行くことに深い喜びを覚え、いつの間にか観光地でも何でもないところへ無意識のうちに足を運んでいる。子どもの頃は誰でもこうした冒険心に溢れるものだろうが、大人になってそれを実行するオレ様はどうかしているのであろうか。

    前月号でアボリジニの女性の儀礼に参加をしたという話をしたが、この儀式こそ誰もかれもが安易に行ける場所では決してなく、招かれた者にだけ許される神聖なひととき。おまけにその儀式の会場へたどり着くまで、それはそれは気の遠くなるような長距離運転を余儀なくされる。出発地のアリススプリングスから片道ざっと1600km。つまり往復3200kmの道のりなのだ。

    おまけに道路はほとんど未舗装ゆえ、時速80kmが最速スピードだ。だから尚更時間がかかる。

    ガタガタゴトゴトとランドクルーザーの車上に乗せたスワッグ(キャンバス地でできたキャンプ用の寝具。砂漠での睡眠には絶対欠かせない優れもの)がずり落ちてくるのをサイドミラーで、ちらりちらりと横目で気に掛けながら、とにかくどこまでも続くまっすぐな一本道をただひたすら走り続けるのである。

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    道中の景色はほとんど変わらない。そんな環境で1日10時間以上も車中で時間を共有する7人のアボリジニ御一行様達とのひとときは何事にも変え難い貴重な体験であると確信する。

    まず2時間おきに必ず「モシモシ~! モシモシ~!」(←どういうわけだかアボリジニのおばちゃんたちは私のことをこう呼ぶ)と後部座席から大声で叫ばれる。

    「どうした? またなの?」そう彼女たちに尋ねると、みな声を揃えて一斉に「クンプ!クンプ!」と腰をもじもじさせて答えるのだ。「ああ、クンプね。ちょっと待ってて。今すぐ車を止めるから」。

    オレ様は道路の脇に車を止めて「さっきもいったようにできるだけ車から離れてしてよね」と一応注意を促すが、そんなの誰も聞いちゃいない。全員車から1m以内の至近距離で、いや、中にはドアサイドですぐに行動を開始する者もいる。

    そう。「クンプ」とはオシッコのこと。しかもアボリジニのおばちゃんたちはどういうわけだか皆、立ちションなのだ。オレ様の目の前でスカートをペロンとめくり上げ、中腰になってさっさと用を足す。生まれて初めて女性の立ちションを目の当たりにしたオレ様は、しばし呆然と立ちすくむが、こんなことでいちいち度肝を抜かれていたんじゃ、この先どうなることやら…と平然を装う。そう、旅はまだまだ続くのだから。

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    5月29日(月)

    いよいよ儀式第1日目。すでに早朝5時半起床。数百人は集まっているであろうアボリジニの女性たちの歌声があっちからもこっちからも聞こえ、その声で眠い目をようやく覚ます。オレ様は寝ぼけまなこのまま、ヨロヨロと儀式会場の中央部へ足を運び、そこに装飾をしてある儀式用の様々な祭具を一つひとつ丁寧に触ってくるのが重要な任務。これはオレ様だけではなく、儀式参加者全員が絶対に欠かしてはならない朝のおつとめなのだ。

    それにしてもアリススプリングスを出発してから、もうすでに3日目が経過したというのに、まだ一度も顔を洗っていない。歯を磨いてない。髪もとかしてない。それどころかパソコンを一度も触らず、お酒もたしなまず、夜更かしすることも食べすぎ飲みすぎで胃腸薬を飲むことも何もしていないぞ。おお! なんと健康的な生活を送っていることであろうか。

    今頃Eメールが一体どれぐらいたまっているかなんて、もうどうでもいいとさえ思えるが、それでも顔だけは洗いたいなあ。しかしただでさえ貴重な飲料水を洗顔に使うだなんて、砂漠にいる限り誰にもそんな発想はない。…が、車のサイドミラーでチラリとのぞいた自分の顔が毛穴ブツブツ真っ黒太郎になっているのを見た途端、やはりこの貴重な水を盗んで叩きのめされてでもいいから、今日は絶対に顔を洗おうと心に決めた。

    そうだ。洗うのは周りの人達にバレないように、日が沈んで辺りが暗くなってからがいいな。そしたら誰にも見つかるまい。いや、それにしても真っ暗の中、懐中電灯で自分を照らしながら、どうやって顔を洗おうか? ううーん。至難の業だな。しかし3日ぶりに顔が洗える喜びと興奮を考えたら、そんな知恵はすぐにわくはずだ。

    それにこんなときのためにと、メルボルンから高級洗顔ローションを小瓶に移し変えて持参してきた。ああ、素晴らしい。素晴らしすぎる。今夜は顔を洗えると思っただけで、もう世界は全部自分のものみたいな気分になれるのだから。

    夕飯(らしきもの)をさっさと済ませて、オレ様は早く真っ暗にならないかな…とはるか大昔にデートで海辺を散歩したとき、早く薄暗くならないかなあ。そしたらきっと…(ニヤリ) …とそんなことをちらりと願ったあの頃のことを思い出したりした。

    それはそうと真っ暗闇の中、自分のカバンから小さいボトルの洗顔フォームを取り出すのはなかなか難しいことに気づいた。それでも懐中電灯をあてながら一生懸命片手をかばんに突っ込んで探した…ら、フタがゆるんでいたせいで、夢にまで見たオレ様の高級洗顔ローションは、かばんの中にすべてこぼれ散っていて、私に悲しく「さようなら」を告げていた。

    5月30日(火)

    いかなる人間も自分のオリジナル人生の物語を探そうとして、あれこれといろいろな試行錯誤を行うものだが、オレ様ほどこの豪州の中央砂漠に魅惑され、砂漠に命を捧げてもいい(かなり大げさ)ぐらいの勢いを持つ日本人は果たしているであろうか。砂漠にいればいるほど、砂漠こそが世界で最大の迷宮であることが理解されてくる。

    この儀式の間、オレ様にとって強烈に印象強いアボリジニの女性の存在があった。名前はマリンガ・マーシャル。年齢は誰も把握していないが、推定で恐らく60歳ぐらいだろうと思われる。

    どういうわけだか彼女は始終オレ様のそばを離れたがらず、車中でも助手席にぴったり横にへばり付き、おまけに道中はずっと手を握りっぱなし。夜寝るときにさえ「私の隣で寝なさい」とぎゅうぎゅうのスペースを作ってくれて、異臭たっぷりの毛布を快く提供してくれる。

    挙句の果てには「モシモシ、あんたまだ独り者だってね。私の息子と結婚したらどうだね? 3人いるんだが、長男は今、ブリスベンの刑務所に入っているから出所までもうしばらく待っていてくれればよかろう。次男はこの間浮気がばれて、ガールフレンドにナイフで膝を刺されて、今、車椅子で生活をしている。別れるのも時間の問題さ。それから3男はね…」彼女はそう言いかけながら、カンガルーの尻尾を丸かじりした。カッコ良すぎだ!

    マリンガからもう一つ「クダイチャ」というお化けの話を聞いた。これは昔からアボリジニの間で大変恐れられている男性のお化けの存在であり、深夜、キャンプをしている女性の集団へ忍び込んでは、次々とお好みのガールを連れ去っていくという。もちろん連れ去られたその女性は、もう二度とみんなの元へは戻って来ない。

    なになに。男性に深夜連れ去られるだと?いいじゃない。素敵じゃない。遠慮なくオレ様を連れ去ってちょうだい。もうガールじゃないから対象外かもしれないけど、深夜で暗けりゃよくわからないから、きっと大丈夫だわ。

    そんな話を聞きながら、私は今夜もあっという間に深い眠りに就く。

    5月31日(水)

    それにしても、ここで働くアボリジニ以外の白人ボランティア達よ、あなた達は何という働き者なのであろうか。自分達への見返りなど何一つ求めず、自分が提供できる最大限のLOVEをここでアボリジニたちに捧げている姿には、まさしく最敬礼。

    それに引きかえ、普段のオレ様の生活といったら、何とエゴイストなのであろうか。いつも自分のことばかり考え、自分中心の生活。仮面をかぶってカッコをつけてばかりじゃないか。だからこそオレ様には、こういった環境にどっぷりと身を任せる必要があるのだ。

    10日間も不毛の大地で、水一滴も浴びることなく砂と汗とホコリまみれになるこの時間。カッコなんてつけてる場合じゃない。素のまま。ありのまま。これが大事なのである。

    「こんな過酷な儀式への参加は、今年限りでもう終わり」。そう毎回思いながらも、きっと来年も同じように、この素敵な仲間たちと一緒に大地の声を聴くのであろう。そして次回こそは化粧ボトルのフタをきっちり閉めて、この儀式にのぞむのだ。

  • 日本代表、3度目の出場

    40歳の誕生日を目前に控えた今、オレ様は自ら辺境地帯に身を任せ、電気も電話も水道もトイレもカラオケもパソコンも何もない砂漠のど真ん中でオーストラリア全土から数百人は集まっているであろうアボリジニの女性たちとともに大地との共存を謳歌し、30代を自分らしく締めくくろうとている。

    そう。今年も招かれた1年にたった1度だけ行われる伝統的なアボリジニの女性の儀礼。そこへは許された者だけが許された場所で、それぞれの部族が世界存立のストーリーを見事な歌や踊りで披露し合うとてもスペシャルなひとときだ。儀式の様子を撮影することは一切禁止。またその内容を出版したり公の場で発表することももちろん禁じられている。

    そんな大イベントに日本人代表(←ここ、特に強調!)として参加を認められ今年で3度目の出席となったわけではあるが、不思議なことに初回・2度目に比べると意外と身体も心も100%異空間・異環境のこの場所に結構順応しているオレ様なのだ。

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    思い起こせば初回参加のときには何が何だかまるで勝手がわからず、もう初日から逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。それにブッシュでの用足しにとうとう最後まで慣れることができず、8日間ずっと便秘だったけ。何たってオーストラリアのブッシュにはマジで毒蛇があっちこっちに潜んでいるんだからね。

    万が一、用足しの最中にお尻をがぶりとやられたりしたら…そう心配するだけで緊張しちゃうではありませぬか。ウ○コ様だってそりゃおっかなくて出てこられやしない。

    そして2年目。何にもない砂漠のど真ん中での長期滞在となると、水や食料の補給をローカルの政府に依頼することになる。毎日日替わりで担当の女性スタッフから麻製のでっかいバックを二つずつ配られるのであるが、そこには朝食用のコーンフレーク・紅茶・砂糖・コンビーフの缶詰・インスタントチキンヌードルなどどれもこれもが乾物中心のものばかり。何たってそこは砂漠のど真ん中。

    貯蔵する冷蔵庫も何もないんだから仕方がないのではあるが。だからこそ寝ても覚めてもオレ様の頭の中に浮かぶのは、冷たいビールと真っ白いピカピカ光るご飯。ここまで自分が食い意地が張っているとは考えてもみなかったが、大体人間というものは食事からホームシックにかかるらしいと以前誰かに聞いたことがあったが、まったくその通りだと思ったもんだ。

    新鮮なお刺身とあったかい味噌汁がああ、今すぐ食べたい…そんなことばかり考えていたら頭の中がもうマルコメ味噌でベタベタになっちゃった感じだったもんね。

    そして食料と一緒に20リットルタンクの水がそれぞれのキャンプの人数分だけ配られるのだが、これはもう毎日あっちこっちで奪い合いのケンカとなる。たとえそれがぬるくてまずくて臭い水でも、砂漠のど真ん中では何よりも貴重なものであることは間違いない。

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    そうやって命がけで獲得した水であったが…何とまあ、少し腐っていたらしくてそれを知らずに飲んだオレ様は儀式の間、ずっとずっとずーーーっと下痢ピーだったのさ。初年度には便秘で苦しみ2年目にはまさか下痢ピーでもがきあえぐだなんて、これをアボリジニワールドへの登竜門と呼ぶのにはあまりにもひどすぎやしないか。

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    そこで迎えた3年目。3度目の正直とはよくいったもんだが、先ほど身体も心も100%順応している、とひとまずいってはみたものの、やはり日頃現代文明にどっぷり漬かっているシティーガールのオレ様には耐え難いことばかりではある(40歳にもなってガールとはかなりずうずうしいじゃろ…と書いた途端、大いに反省《涙》)。

    幸いウ○コ様は4日半目で顔を出してくれた。これで腹もすっきりし、おならも出なくて絶好調。乾物ばかりの食事も慣れれば意外と平気なもんだ。余裕を見せて毎日日記らしきものまで書いている。が、あとで読み返してみると6日目ですでに中断。儀式は10日間あったのだが最終日に近づくにつれてもう疲労困憊。

    毎晩気絶するように自分の寝袋へ転がり込んだ。そして眩しいほどの満点の星空を眺めながら…「ああ。あのお星様達がみんなごはん粒だったら一体茶碗何杯分になるんだろう…」そんなことをぼんやり考えているうちに瞬く間に深い眠りにつく。

    今回はその日記を少し公開してみたいと思う。誠に残念だが儀式そのものの内容をここでお伝えすることはできないので、それにのぞんだオレ様の「砂漠忍耐ド根性物語」で我慢いただこう。

    5月26日(金)

    カンタス航空796便でアリススプリングスへ。何とこの出発の2日前に日本から戻ったばかりのオレ様はスーツケースを部屋に放ったまま、慌てて今度はキャンプ用の荷造りをしてほとんど徹夜で空港へ向かった。…そしたらメルボルン空港が濃霧のために出発2時間半遅れとのアナウンス。待っている間ロビーでうっかり寝てしまい、飛行機に危うく乗り遅れそうになった。優しいおじいさんに肩をポンポンと叩かれ慌てて目が覚めたオレ様であった。機内では食事も取らずに再びひたすら爆睡。

    アリススプリングスへ到着し、翌日からのキャンプに備えて少し買い物を。当分快適ライフとはおさらば…ならば今日から練習を…とテレビも電話も何もない寂れた暗――いモーテルに宿泊し、それでも食事だけは豪勢に…と大盛りペッパーステーキとサラダをほおばってさっさと就寝。明日からは何たって長距離運転だからね。今夜はぐっすり眠っておきましょう。

    5月27日(土)

    AM7:30起床。

    前日打ち合わせをしておいたローカル政府、セントラル・ランド・カウンセルの女性スタッフLISAと午前9時に待ち合わせ。彼女と一緒にまずは 350kmの道のりを交代で運転し、オレ様のセカンドホームでもあるアボリジニ居住区・マウントリービックへ儀式に参加をする女王様たちをピックアップしに行く。

    久しぶりの女王様達との再会。熱い抱擁。「今年もよく来たな」と全員が声を揃えて出迎えてくれた。たまらなく嬉しい瞬間である。中にはほっぺにチュウをしてくれるおばあちゃんもいたが、彼女の口臭があまりにも強くて目まいがしそうになった。体臭は変わらず「鉄棒」みたいなにおい。ありがたや…ありがたや…。マウントリービックからの今年の儀式参加者は総勢12名。

    2台の車に分乗して現地へ向かう。私の車には7名乗車。目的地までは軽く1500kmはある。もちろん一日では到着できないため途中、適当な場所を見つけてまずは野宿。日が暮れた砂漠の気温はとてつもなく低いので、タオルを首にぐるぐる巻いて茶巾寿司のように寝袋に丸まって就寝。とほほ。夕飯はポテトチップスのみ。腹減ったなーーー。

    5月28日(日)

    AM5:45起床

    まだ辺りは真っ暗だっつーのに儀式への参加で興奮を隠せないアボリジニのおばちゃん達のうねるような、まるで経典でも聞いているかのような歌声で目が覚める。おまけに極寒。ああーー! もう眠れやしない。

    1 分でも早く目的地に到着したいおばちゃん達はもう出発の準備開始。やる気満々。1分でも長く寝ていたいオレ様は、しばし寝たフリをしてみるが全く効果なし。さっさと起きて運転準備させられる。時間がないので顔洗えず。いや、時間も確かになかったが、それよりも肝心の水がなかった。

    ただでさえ貴重な飲料水をまさか洗顔したいから少しちょうだい。なんてことをこの奥ゆかしいオレ様が仲間達にいえるわけがない。当然のことながら歯も磨かず。よーーし。こうなったら儀式の間の9日間はずっと歯を磨かないでいてみようではないか。そしたら歯クソがどれぐらいたまるものなのか、リサーチしてみてはいかがなもんだろうか。そう思って舌で奥歯を触ってみるともうすでにざらざらしていた。

    こうしてスタートを迎えた3年目のアボリジニ儀式。往復3000km以上の運転で意識もうろうとなり、道中のパンク修理で手はボロボロ。洗顔できずに毛穴ブツブツ。まるでアボリジニアートの点描画のようだった自分の顔。「こんな過酷な旅は今年でもう最後」。そんなことを毎年いいながらも、気がつくと再びこの砂漠にどっぷりと身を任せている自分。

    そんなこんなでお伝えしたいことはまだまだトラック100台分ぐらいあるので、日記の続きはまた次号で。お楽しみに~!

    「癒しフェア」2006年 7月29日・30日
    : 東京ビックサイト 東2ホール
    : 10:00am~5:00pm
    : [Beauty] [Health] [Healing] [Spiritual] を一度に体験できるイベントでアボリジニアート展開催 
    : ぜひお見逃しなく !(詳細は http://www.a-advice.com を参照)

  • 強運の持ち主

    私は周りの人々からよく「あなたって運の強い人間ね」と言われることがある。自分では特に意識をしているつもりはなくても「運」とか「縁」とか「ツキ」っていうのは必ず自らが招くものだと思われてならない。

    それなのに私の場合、どうも「男運」をうまく招くことができない。いやはや「金運」もダメっぽい。

    「ウマ年は強運の持ち主」なんていう本を、日本に住む姉から贈ってもらって熟読したことがあった。ウマ年はウマ年でも特に私の生まれた年「丙午(ひのえうま)」というのは、やたらと運気が強いらしい。それでもひと昔前までは丙午生まれの女は「亭主を食い殺す恐ろしい女」と言われ、なるべくその年には子どもを産まないようにと出産を控えていた時代まであったそうだが、亭主のいないオレ様はいったい誰を食い殺せばよいのだろうか、と小さな疑問を抱いてみたりする。 それでも断言していいのは、運の強い人間というのは非常に明るい人が多いということ。

    いや、明るくしているからこそ運がどんどん寄ってくるのかもしれないと思うのだがいかがだろうか。

    常に明るく、行動的な人生を送ることをモットーとしているオレ様ではあるが、ときには悲しみに明け暮れて目の幅涙を流すことだってあるし、誰にも会いたくないときなんて、大得意の”居留守”を使って自宅でじぃぃぃぃぃーーっとお地蔵様のように静かにしていることもしばしば。そんなときにたとえ「運」が舞い込んできたとしても、オレ様はきっと気づかずに不貞寝をしていることであろう。

    しかしそんな落ち込みもオレ様の場合、実は3日で飽きてくる。クヨクヨしている時間が途端にもったいないと思えてくるのである。

    そうなると3日間まるで何かの潜伏期間であったかのように家でじぃぃぃい――っと蓄えていたエネルギーを急に発散したくなり、この際ヨレヨレのトレーナーにスウェット姿でもまぁいっかーと外へ飛び出し、近所のごみ拾いをしてくれているような見知らぬおじちゃんを捕まえて一人勝手にベラベラとしゃべりまくる。おじちゃん、かなりいい迷惑だと思う。

    運の強さといえば今年は特にそれを感じている。

    日豪交流年ということが、もちろん大きな影響の一つではあると思っているが、日本のあっちからもこっちからもいったいどうしちゃったの? というぐらい「是非アボリジニアート展を」という申し出が舞い込んで来ており、嬉しい驚きを隠せない。

    現に今は名古屋での展示会の真っ最中だ。1週間という短期間ではあるが、日本ではなかなかオリジナルの作品を観る機会のないアボリジニアートをぜひ一目鑑賞しようと、遠路はるばる足を運んでくださる皆様に心から感謝を申し上げたい。

    この展示会ではアボリジニの講演会も予定されている。主催が大学であるだけに興味を持たれる学生さん達、みんな全員集合さ!!! オレ様、またエラそーーにアボリジニの講義を熱くやっちゃったりするんだもんね。

    おまけに過日は名古屋から読売テレビとの打ち合わせに大阪へ出掛けたのであるが、これがまたなんと!!! 7月に行われるという読売テレビ主催の夏休みの大きなイベントにアボリジニアートを紹介し、そこへ砂漠の女王様たち、つまりアボリジニの画家を二人来日させて欲しいという依頼を受けたではないか。

    ほほーー。読売テレビ様よ。いとも簡単にアボリジニを連れて来い…そうおっしゃいますがね。2年前、東京で行われたアボリジニアート展に来日させたときのアボリジニのおばちゃん達との「愛と涙の東京物語」を是非ともご一読いただきたい。2003年の年末から2004年にかけての伝言ネットにその滞在記事をたっぷりと掲載してますからね。

    何しろ、普段テレビやインターネットで世界の情報をまったく入手しないアボリジニのおばちゃん達に「日本へ来るか?」と誘っても、当然「へ?日本ってどこだ?」ということになる。

    「日本ってのはね。海の向こうにある私が生まれた国だ」と答えてもオーストラリア大陸のど真ん中、砂漠で暮らすアボリジニの民は海を一度も見たことがないので、それこそ何のこっちゃさっぱりわからない。

    おまけに家族と離れて暮らしたことがない彼女たちを1週間以上も異国の地で生活させるということは、まるで単身で宇宙へ行って来いといわれているのと同じ感覚なのだから、極度のホームシックにかかるのも無理はない。情の厚い心優しいオレ様は、日本の自分の携帯電話から砂漠のアボリジニ村にたった1台だけあるオンボロ公衆電話に2~3日おきに電話をして、彼女たちの家族の声を聞かせて、そのたびに安心をさせたものだ。家族の中には嬉しくて泣いている者もいたという。後日届いた携帯電話代の請求書が、6ケタになっていたのを確認したオレ様も静かに泣いた。

    日本滞在中の食事のことだって頭が痛い。アボリジニの女王様達、東京のオフィス街を歩けば「かんがるー。かんがるー」と辺りを鋭い目で見渡し(あれはまさに狩人の目だった!)、神社へ行けば境内にとまっていたハトを本気で口に入れようとしたり、六本木の焼肉屋では生でそのまま肉を食べた。ちゃんと焼いて食べるんだよ、と教えたら「腹が減って待ちきれない」と女王様。成田空港の入国審査では別室へ連れて行かれて持ち物検査。質問攻めに合い真っ青に。また、夜景があまりにもきれいだからと夜の観覧車に乗せたら、自分がこのまま月へ行ってしまうのではないかと思って号泣した…。赤坂のパチンコ屋に連れて行ったら思いのほか入ってしまって大騒ぎ。まったく運のいい人達だこと。

    おお、そんな女王様達が再び日本へやってくるとは。今度は「愛と涙の大阪物語」が見事に展開されることだろう。

    運気というものがもし貯金できるのであれば、7月までコツコツ貯めようではないか。そしてそれを砂漠からの特別ゲストたちのために思いっきり使いたいと願っている。

  • 夢が実現した日

    日本でアボリジナルアート展を開催すること。これは私の人生に初めてアボリジナルアートが登場してきたときから抱いていた大きな大きな夢であった。

    その「夢」が、いつの間にか具体的な「目標」に変わり、やがてそれが「実現」という”カタチ”になるまでには実に長い道のりを経て、それはそれはたくさんの仲間たちに心強く支えられたものだ。

    “茨城県古河市の三越展示場が、どうやら2006年3月に空いているらしい…”。そんな申し出を古河市在住の仲間から受けたのが今から4ヶ月ほど前。

    それならまずは会場を下見してこよう!とすぐに現地へ赴く。…といっても電車に乗って30分後に到着するような距離にオレ様は住んじゃいないからね。何たってはるか8500kmも離れた海のこっち側から、エッコラエッコラ日本へと出向いて行かねばならないのだが、それを「苦労」だとはちっとも思っちゃおらず、逆に先方様に「まさかオーストラリアから、こんなにも早くお越しいただけるだなんて。内田さんの展示会開催への熱い情熱を感じます」。なーーんてうまい具合に思わせちゃったりするのだからしめたもんだぜ。

    打ち合わせには三越本社からも担当者が足を運んで下さり、古河店の店長さんを交えてトントン拍子に話が進み、めでたく3月21日から2週間の展覧会開催が決定した。

    会期中はできる限り展示場へ常駐し、一人でも多くのお客様にアボリジニの深遠なる文化・そしてひときわユニークなその芸術を熱く訴えた。朝10時オープンから午後6時閉店まで、もう途中でぶっ倒れてもいいからという覚悟で、ただただひたすら自分が魅せられたアボリジニのすべてを語った。

    とにき喉を潤すためにウーロン茶を控え室で一気に飲み干し、差し入れでもらったできたておにぎりを一つ夢中でほおばる。歯に海苔が付いてやしないかと手鏡で「にぃーー」と歯をむき出しチェックしたあと、口紅を塗りなおして再び会場へ。その間、携帯電話も鳴りっぱなしだ。

    茨城県古河市は東京都心から電車でおよそ1時間半の場所に位置するのだが、必要に応じて都内でのミーティングをいくつかやっつけなければならないこともあったため、重たいカバンを持って東京―古河を何度か往復することも。

    履き慣れないハイヒールでふくらはぎはパンパンにムクみ、資料が詰まったカバンを担ぐ肩もカチカチになった。身体はボロボロでもお客様にはそんな素振りは一切見せない。疲れたからといって決して手抜きをしない。これはプロフェッショナルとして当たり前のことだと確信する。

    「内田さんって本当にタフですよネエ。どこからそのエネルギーが湧き出てくるんですか?」と三越の小林店長。

    そう、このエネルギーが恋愛にも大いに発揮できたら…とたまに深くため息をつくことがある。そうれすればオレ様も今ごろは、大変シアワセな家庭を築くマダムに変身していたはずだ。

    「あなた、お帰りなさい。今日もお疲れ様だったわね」とか何とか言っちゃって、花柄のワンピースなんか着て、冷たいビールを差し出していたはずなのだ。

    自らこんなことを申すのは、誠にずうずうしく申し訳ないことは重々承知なのであるが、実はオレ様、恋愛に関してはかなりの奥手であるということを告げようではないか。

    もちろんこれまでには人並みに恋をして、ウカレポンチになったことも、涙を流してトイレで号泣した経験もたくさんある。

    当時、まだ携帯電話という便利なものがなかったころ(←じゃあ、相当前の話じゃろ)、付き合っていた男性からの電話を受けるために友人との食事も断って一目散に帰宅したのに、いくら待ってもかかってこない…。ベッドにつっぷして傍らの電話をうらめしそうに見つめていたけど、それでも電話のベルは鳴らないので、近くにあった雑誌を取り合えず読んで待ってみるが、そんなのちっとも頭に入らない。そのうちに夜の12時を過ぎてしまったので、そろそろお風呂に入らなきゃと腰を上げるが、もしその間に電話がかかってきたらどうしよう…と不安に駆られ仕方がない。電話のコードを引っ張ってきてバスルームの前に置き、電話がすぐ取れるようにドアを少し開けてお風呂に入るが、頭を洗ってても気が気じゃない。だってすすぐときに頭からお湯をかぶっていたら電話のベルは聞こえないのだから…とそんな心配が頭をよぎったその時やっと、電話が鳴った。オレ様は泡だらけの身体で電話めがけて猛ダッシュで飛び付く。

    「あ、もしもし。遅かったのね。どうしてたのぉぉぉぉ~~~~」と泡が目に入って痛かったけど、それを我慢して一生懸命平常心を装うオレ様。「ごめんねー。遅くに電話して。ねえねえ。聞いてよ。私の彼ったらさぁー…」と受話器の向うから聞こえてきたのは、最近新しい恋人ができた女友達からだった。「大した用事でもねーのに、こんな時間に電話なんかしてくんじゃねーよ!!!」と勝手に怒りをその女友達にぶつけまくり、すぐさま電話を切ったあとの虚しさと悲しみを今でも鮮明に覚えている。

    私は幼少の頃から人と同じことをしない変わり者だと言われていて、それは人に流されない意思の強さを持った個性的な人間のことなんだ、と勝手にそう思ってきた。時には男好みのヘアメイクを研究し、他人様と同じように遊んでみるのも楽しいのであろうが、私は上品なギフトボックスに並べられている高級チョコレートには到底なれっこない。大袋に堂々と詰められたでっかい草加せんべいでありたい、とよくわからんことをいつも考えている。

    2週間の展示会は大大大成功のもと、無事幕を閉じた。そしてこれを機に今年は日本全国でのアボリジナルアート展開催が次々と確定したことは大いに喜ばしいことである。

    「夢」を「目標」と化し、それを「現実」のものとするためこの展覧会に関わってくださったすべての仲間達に、この場をお借りして心から御礼を申し上げたい。

    アボリジニ絵画展 名古屋にて開催決定!
    アボリジニ絵画展「アボリジニの文化に学ぶ」
    同朋大学「ギャラリーDO」
    2006年5月15日(月)~5月20日(土)
    問い合わせ先: 同朋学園本部事務局総務部企画課
    Tel 052-411-1111

  • アボリジニアートの展覧会前日

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    ときには深夜までかけて、クローズした画廊の中で画廊のディレクター、アシスタント、それからお手伝いをしてくれている数人の仲間達による展示作業が延々と行われる。もちろん作品の出展者である私もそこに加わる。

    通常、女性のスタッフが多いので、展示作業の間はもっぱらおしゃべりに大いに花が咲き、たいていは彼氏の話や化粧品の話でやんやと盛り上がる。彼氏がおらず、化粧品にもほとんど興味のないオレ様は、ただただ静かにみんなの話をじぃーっと聞いている…わけがないじゃろが。たとえ本題は熱く語れなくともおしゃべりにはじゃんじゃか割り込んでやるもんね。

    スタッフの中に少し化粧の濃い女性がいた。目鼻立ちも整っているのに、何もそこまでファンデーションを塗りたくらなくても十分美人なのに…とその会場にいた誰もがきっとそう思っていたはずだ。

    そういう私も初めて化粧を覚えたとき、この大きな口をできるだけ小さく見せたいがために唇をファンデーションで白く塗りつぶし、口紅をおちょぼ口に描いていたことがあったっけ。まるで品のないへんてこりんな舞子さんみたいだった。

    一度この化粧の濃い彼女を温泉にでも誘ってみようか。夜、クレンジングクリームで化粧を剥がした素顔をお互い見せ合いながら、風呂上りに冷たいビールを一緒に飲んだりしたら、もう気分は「戦士の休息」といった感じで、なかなかよかろうに。「そうよね。わたしたち同じオンナだもんね。ね。ね」などという同志愛さえ芽生えるかもしれない。

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    話を元に戻そう。画廊の床には展示予定の作品があっちこっちに置かれていて、ああでもない、こうでもないと試行錯誤の中で最終的な作品の位置がみんなの意見と共に決められていく。そして作品の位置が決まると、今度は作品リストの制作にかかるわけだが、通常、このリストには作者名、タイトル、サイズ、制作年などが書かれている。アボリジニアートに関しては、さらにストーリーとよばれるアボリジニ独自の物語が加わることが多い。

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    さて、ここでいつも疑問に思っていることを一つ述べたいと思う。

    現代美術を取り扱う画廊のほとんどは、展示された作品の横に必ずキャプション(通常作品の右下あたりに付けられている白いプレート状のものこと)が取り付けられているのであるのが、私個人の見解としては、そういったキャプションは本来必要のないものだと思うのだが、いかがだろうか。 大体、そんなキャプションを読んでしまうと、人々はまず作品に対する先入観を持ってしまうではないか。特に現代美術などの、ぱっと見、チンプンカンプンな作品を前にすると、我々は急に不安になり早急に何か”手がかり”を探そうとして、まずタイトルを見てしまうのである(お見合いで相手の履歴書を最初に確認する、あれと一緒か?)。

    私も全くそうなのであるが人間とは因果なもので、例えば、黒くどろどろしたものが描かれた作品のタイトルが「悪魔の叫び声」だとしたら、私たちは間違いなく「悪魔の叫び声」という色眼鏡で見ることになり、もしもそれが「熊の手の煮付け」であれば、もちろんそのように見るだろうし、もしも「朝飯前」であれば、半ば強制的に「朝飯前」という色眼鏡となるわけである。

    こういった「先入観」をもたらすものは何も作品のタイトルだけではない。キャプションに描かれている作品のプライスもだ。

    私のように業の深い人間は、いやだいやだと思いながらもその価格をた途端に「げ げっ! これが100万円!!」という色眼鏡を通して作品を見ている自分に気づかされる。

    美術作品の値段はあってないようなものだという人がいるが、確かに一般の工業製品のようなコストから割り出す価格というものではないゆえに、悪徳美術商《← オレ様みたいに温厚で正直者ではない奴ら》にまんまとだまされて、大金をがっぽり持って行かれるんじゃないかとさぞご心配されることだろう。しかしそこには美術の世界独特の規則性があり、実は常識的な価格設定がきちんとなされているので、ぜひともご安心くだされ。

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    2006年は日豪交流年ということもあり、私も日本でじゃんじゃかアボリジニアート展覧会を催す予定だ。すでに3月に茨城県古河市、5月に名古屋市、9月には東京代々木上原での開催が決定している。

    開催が決まると、そこへ展示する作品を念入りに選出する作業に入り、その後は例のリスト作成をするわけだが…。うーーん。キャプションをいったいどのようにつけるべきか大いに頭を悩まそうではないか。

  • 祝60回記念 気持ちを新たに

    皆様、新年明けましておめでとうございます。

    2006 年、また新たな1年の始まりです。いつもこうした年初めとなると「今年こそは○○を達成するべし!」なんて結構肩に力を入れ、あれこれ目標なるものを掲げてしまうものなのですが、今年はオレ様もいよいよ40歳という人生の大きな節目の1年となるわけでありましてそんなBIG YEAR“ふぉーてぃー”はあまり気合を入れずに、もう“ありのまま”で“そのまま”でいってもいいんじゃないかと毎度のごとく自分に都合のいいことを考えております。

    ときにはみっともなくて、歯がゆくてもそれはそれでいいものです。まるで出口の見えない真っ暗闇なトンネルの中で、道なき道を歩いているような気持ちになったりもするでしょうが、そんな迷いもまた人間らしくてよいではありませんか。

    “完璧を目指さなくてもいいのよーん”と、これまた実に都合よく自分に言い聞かせながら、目の前のことを一つ一つ誠実に真摯に取り組んで行けば、きっと“何か”が見えてくるはず。その“何か”に私は非常に興味を抱いているのであります。

    歳を重ねることを恐れません!!!

    そう。オレ様、年齢神話には決して惑わされたりはしないのであります。40歳という“ホントの大人へのスタート”を自ら大いにめでたく祝いたいと思ってますから。

    そうそう。めでたいといえばこれもめでたい。お陰様でこの伝言ネットへの執筆も今回で60回となりました。60回といえば何と皆様、5年間ですよ。5年間!(編集部註:本当にありがとうございます)

    毎月毎月、気が付くとあっという間に近づく原稿の締め切り日に編集部のスタッフをだましだまし、いつも締め切りを大幅に遅らせての原稿提出でした。おまけにネタ作りに毎回もがき苦しみながらもせっせせっせと書き続けた甲斐があり、今や数多くの方々にご愛読いただく機会に恵まれました。それによってちょうだいした、それはそれはたくさんのご縁は私の大切な宝物。本当にシアワセ者のオレ様です。

    そんなことを考えるだけで何だかたまらなく嬉しくて、胸元で両手でガッツポーズかなんかしたい心境です。

    今後も腹との境目がさだかでないこの豊満な胸を堂々と張って、私自身のアボリジニストーリーを皆様とぜひ共有させていただくためにがんばって書き続けましょう。

    めでたい話はまだあります。何もめでたいのは私の40歳バースデーと伝言ネット執筆60回だけではありません。皆様、すでにもうご存知かもしれませんが、 2006年は「日豪交流年・Year of exchange」といって日豪友好基本条約が1976年に締結されてから30周年を迎える記念すべき年であります。

    これは日豪両国が、実に様々な分野でのイベント開催・コラボレーション事業を立ち上げていって両国間の友好関係・相互理解・協力をさらに深めていこうというのがねらいだそうです。

    そうなるとこのアボリジニおばばの出番も間違いなくやってくると確信します。

    5 万年前から伝承されている深遠なアボリジニ文化・芸術をぜひとも日本へ紹介しなければなりません。まったくひょんなご縁で12年前に私の人生に登場してきた豪州先住民のアートですが、誰かがそれをきちんとした“カタチ”でいつか伝えることをしなければならないと常に考えています。その“誰か”に私自身が大きく手をあげましょう。

    幸い、東京大地震が襲ってきて上からつぶされたって、自力で瓦礫の下からはいずり出してくるようなたくましいオレ様です。ちょっとやそっとの試練には負けません。

    在職時代、「今日は彼とデートなの。フランス料理を食べに行くのよ」とミーティングを早々に切り上げて帰宅した帰り道、駅前のスーパーで「イワシひと山200円」を買っているところを後輩に見られても、平然としていられる強い魂の持ち主なのです。

    2006年。アボリジニアート日本再上陸。今年は展覧会をあっちでもこっちでもじゃんじゃか開催して、私がここまで惚れこんだ豪州先住民の描く斬新でユニークなアートを一人でも多くの日本人の眼に触れていただくことをお誓い申し上げましょう。

    何だかとんでもないことが起こりそうです。いえ、起こしてみせようではありませんか。

    どうぞ皆様、今年1年も温かいご声援をよろしくお願い申し上げます。

    追伸:最近メディアづいているオレ様ですが、来る1月9日(月)テレビ東京系の番組(11:30am~)「オーストラリアに住む日本の達人たち《タイトル・仮定》」にほんのわずかですが、出演させていただきます。機会があればぜひともご覧くださいませ。

  • 砂漠のテレビ出演その2

    これまで周りの友人や知人たちから「アボリジニ達と一緒に砂漠で暮らすなんて、よくやるよね。何でそんなに頑張ちゃってんの?どこからそのエネルギーが出てくるのか教えて」とやや答えにくい質問を受けたことがあったが、私自身、昔からコンプレックスの塊で、結構人様のいないところではうじうじめそめそが大得意。いつもがんばっているわけでは決してない。自宅で号泣することもあれば、居留守を使って誰とも話をしたくないほど落ち込むことだってある。しかし本来、カッコつけマンの私であるからしてそれをいかに見せずして”ふふふん。わたし、毎日とっても充実してるんですぅぅぅ~~」みたいな空気をかもし出して上手に演じる仮面オンナゆえ、なかなか本性を表に見せることがない。悲しい性分かもしれない。

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    そんな私が唯一、分厚い仮面を堂々とはずせる場所が砂漠のアボリジニ村なのである。そこは建前やお世辞が一切通用しない社会。怒るときはみんな顔を真っ赤にして怒鳴り散らすし、大の大人でさえ悲しいときは人前でも大声で泣きわめく。それを回りにいる人間たちはみんなまっすぐに受け止める。だからアボリジニたちとは一緒に居てとても安心できるのだ。

    日本からテレビ出演の話が持ち込まれた。豪州先住民文化とその芸術に魅せられた怪しい邦人女性をドキュメンタリーにて番組にしたいとのこと。事前に担当ディレクターと念入りにブリーフィングを行った末、撮影を承諾して丸々6日間密着取材を受けることになったのである。密着取材とは、とにかくいつも自分の背後にでっかいテレビカメラがくっついてきて、大口開けてアクビをしているところとか、お尻をポリポリ掻いていてるところとか、全部知らぬ間に撮られてしまうのである。 おまけに始終、高感度のマイクを洋服に付けられていているもんだから、トイレに行ったときにうっかりスイッチをオフにし忘れて私のオシッコする音が相手に聞こえてしまったときには、天井からロープを吊るしてこのまま今すぐ世を去りたい気分になった。本当の話である。

    撮影されるシーンは実に様々。私自身が日常行っている生活の様子をいくつものパターンに分けて段取られたのだが、まずは本業であるアボリジニアートの販売風景。現在は自宅をギャラリー兼にしているゆえ、そこへいかにも絵画を購入してくださりそうなお客様を1人招いて私の悪徳ディーラーぶりをたっぷりご披露。しかしそのレクチャーの最中に、アボリジニがこれまで非人道的に暴力的な迫害を受けてきたな歴史を話しているうちに、私としたことがつい感極まって涙してしまった。これで主演女優賞獲得は間違いあるまいと確信した。

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    そしてお次はメルボルン日本人学校で生徒さんたちへのアボリジニ講義風景。突然の撮影依頼であったにも関わらず、校長先生をはじめ担当の先生方の多大な協力を得て(本当にお世話になりました。心から感謝を申し上げます)、4~6年生を対象としたスライドを使ったレクチャーは大変好評であった。

    自宅での夕食シーンでは私の最も好きな”うどん”を作ることになった。どういうわけだかディレクターより「内田さん。できるだけ寂しそうに一人で食べてください」とのリクエスト。”そりゃー、独り暮らしなんだから一人で食べるわなー…”そう思いながらも「はい」。そう答えた私は一人ぼっちでリビングに体育の座り方をしながら、悲壮感たっぷり漂わせて自家製うどんをすすったのであった。女優業もなかなか大変である。

    そんなこんなしながらも、撮影のメインはやはり砂漠のアボリジニ村である。私はいつも自分が”住み込み調査”をするために通っているノーザンテリトリー州のマウントリービックというアボリジニ居住区へテレビ撮影隊をお連れすることにした。…が、実はここからがドラマの始まり始まり。

    何しろその時期砂漠地帯は16ヶ月ぶりの豪雨に見舞われあっちこっちが水浸し。アボリジニ居住区への道のりは未舗装道路なのでそこらじゅうがまるで川状態。アウトバックを旅された皆様には、これがどれだけ恐ろしい事体なのかがご理解いただけるであろう。とにかく大型四駆のタイヤがほどんと水で埋もれてしまうほどの困難な走行であったのだ。そして目の前にはピカピカ光る稲妻が大地を一面に照らし、それはそれは美しいこと。…なんていって感動している場合じゃない。ハンドルをあっちこっちに取られながら、時速やっと20kmでジャブジャブ、ブグブグといった鈍い音を発しながら、通常4時間で到着するアボリジニ村へ我々は何と8時間以上もかけて、それこそやっとの思いでたどり着いたのである。8時間も車の密室に居て、あたりは電球一つない真っ暗闇、しかも嵐で雨風ぴゅ-ぴゅー。途中でオシッコしたくてもとてもじゃないがドアを開けられる状態ではない。同乗者は次第に口数が少なくなってくる。よし、ここで主演女優が何か気の利いたセリフを発しなければ。咄嗟に思いついたのが早口言葉。「みなさん。さあ元気を出しましょう。到着まであとたったの300キロです。ここで早口言葉なんていかがです? 皆さん声を揃えて、いち、にの、さん、はいっ。”木こりごりごり木を切りに。木こりの子供も木を切りに。のこぎりの音、ごりごり。木をごりごり”。

    私は担当ディレクターと同じ車であったのだが、あまりの彼の反応の悪さにいつ主演女優の座を下ろされてもおかしくないと、すぐにその場の空気を察知した。到着時刻は午前0時を軽く回っていた…がみんな当然ハラペコだったので、私はそれから撮影隊6名分の分厚いTボーンステーキをじゅうじゅう音を立てて心を込めて焼いて見せた。お手柄だった。食事でいかようにも人を操れることがあらためて認識できた。これでさっきの白けた早口言葉大会も帳消しにちがいない。

    翌日からすぐにアボリジニ村での撮影開始となった。せっかくだからぜひとも狩りのシーンを撮ってもらおうと、私はいつもイモムシ狩りに同行するメンバーに全員集合をかけ、あと30分後に出発だからと念を押したがみんなが集まったのは2時間後だった。まあこれはアボリジニ村では常日頃起こること。私は慣れっこだがやきもきしたのは撮影隊。そんな彼らをなだめながら我々は車3台でアボリジニのおばちゃんたちの誘導のもとブッシュへの狩りへと向かったのであった。陽がガンガン照り付ける中、裸足の女王たちは一斉に目的の場所へと足を運ぶ。ハエがブンブン飛び回っていた。今日は何匹飲み込むだろう…そんなことをぼんやり考えながら、私も彼女たちにおいて行かれないよう早足でくっついて行った。

    「内田さんもイモムシ食べますよね。それ、カメラ入ります」とディレクター。「いえ、今日はカンガルーのしっぽをかじります」と私も間髪入れずに返答。「じゃあ、両方いっぺんにやりましょう」。

    こうして私が大口開けてイモムシとカンガルーのしっぽをさもうまそうに丸かじりしているシーンが見事に日本のお茶の間で放送されることになったことは言うまでもない。

    見渡す限り、ため息出るほど広大なオーストラリア中央砂漠。地図もサインも何もないこの乾燥地帯で先住民アボリジニたちは自由自在に食料を求めて、5万年という長い年月を自然のサイクルに見事に調和しながら生きてきた、いわば”この地球上に最後まで生き残れる能力を持った人たち”なのだと私は皆様にお伝えしたい。

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    そして今”アボリジニアート”という芸術を通して、世界中のあちこちで展覧会が開催され、ますます注目を浴びる中、ようやく自分たちが “アボリジニ”であることを堂々と名乗れるようになった時代がやってきた。その手伝いを微力ながらも私自身が関わっていけることがただただ純粋に嬉しい。

    テレビの放映は読売テレビの「世界のどこかで」(21:55~22:00)というタイトルで11月27日(日曜日)を初回スタートに毎週日曜日、5週間に渡っての番組となる。生憎と関西地方のみの放映らしいが、機会があればぜひご覧いただきたいと思う。

  • 砂漠のテレビ出演

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    私は昔から物事は”直感”で決めるほうだと自分で確信している。そう、だから「偶然」の出会いをとても大切にしているし、たまたまの巡り合わせには極力逆らわないようにしている。豪州先住民が描くアボリジニアートとの”出会い”がまさにそうであったように。

    まったくひょんなことから私の人生に登場してきたアボリジニの芸術に、いやはやまさかこんなにも魅せられ続けることになろうとはね。誰よりも自分自身が一番驚いているのだから、不思議といえば不思議である。

    砂漠の辺境地帯で暮らすアボリジニたちは、確立した価値観のない世界で生きる人々。そんな彼らと長く一緒にいると、現代社会の決められたレールの上に乗ることだけが生き方じゃないな。人生、いろんな生き方があったっていいじゃないか。誰のものでもない、自分の人生なんだから…そんなことをアボリジニの人々は私に教えてくれたのである。いつの間にか私は彼らの深遠な哲学や独特な文化を自分なりにもっともっと学んでみたいと真剣に考えるようになった。そして彼らへの最初のアプローチからあっという間にもうすぐ10年以上の年月が経とうとしている。

    「ねえ、真弓さん。日本のテレビに出てみない?今、大阪の番組制作会社から連絡があってね。海外で何かユニークな活動をしている日本人を探しているらしいんだけど、キミのことをディレクターにちょっと話したら結構興味持ってさあ。真弓さんさえよければこの話、進めていきたいんだけどどうかな」。そんな話を持ちかけてきたのは知人のメディアコーディネーター。私がアボリジニにどっぷり漬かっている生活をよく理解している仲間の1人である。何だか面白そうなので、もう少し彼から詳しく内容を聞いてみることにした。

    ご存知のとおり日本でのメディアの力は宣伝効果大である。実はこれまでにも幾度か日本のテレビに登場する機会をいただいた経験があるのだが、そのたびにアボリジニアートへの反響は確かに大きかった。だが結局はそのほとんどが一過性のものに過ぎなかったのも事実である。

    私は今、自分が”好きで続けていること”を果たしてどこまで誠実で確実に日本のお茶の間の皆様に伝えられるのか…。そのあたりを撮影に応じる前に担当のディレクターとまずはとことんブリーフィングさせてもらいたいと強く希望した。

    以前の自分だったら「うっわー。テレビー?やーだぁー、ハッズカシイけど嬉しいわー。早速実家のトウちゃんカアちゃんに知らせてびっくりさせなくちゃ。中学校の担任の先生や近所の同級生にもじゃんじゃか宣伝してさあ。それにうまくいけばオーストラリアで一人逞しく生きるこの私と、どうしても!!! 結婚したいっていうトノガタなんかも現れちゃったりしてぇ~。テレビの威力ってやっぱ偉大だわーー」なんてかなり調子に乗って舞い上がっていたに違いない。しかし、今の私は違うのだ。自分の結婚相手を見つけることよりもアボリジニの芸術をきちんと日本の視聴者に理解してもらうことをまずは最優先に考える。それが無理であるのならば、敢えてテレビには出る必要はなし。つまりこのままずっと孤独に耐えながらも一人でしっかり生きていく覚悟までできているのであるからタイシタモンダ。…と、顔をひきつらせながらかなり強がりを言ってみたりもする。

    アボリジニアートの魅力を一概に説明することは大変難しい。ましてやそれを1週間ばかりの撮影期間で一体どのようにどこまで表現できるのだろうか。おまけに対象相手となるアボリジニは時間や約束の概念が我々とは大きくかけ離れている人達だ。午前10時といわれてもそれが実際には午後の5時だったりするのが、彼らの社会では日常のことである。そんな彼らに過密なテレビ撮影スケジュールを見せたって――― 「??????」ってことになるのは目に見えているではないか。それにテレビカメラがあっちこっちと日々彼らを追いかけ回して、万が一立腹でもさせて私の太ももが槍でブスリと刺されたりしたらたまったもんじゃない。まじで怖い。それこそもう嫁入りどころではなくなるではないか。

    そんなアボリジニ社会の現状を大阪からわざわざ電話を掛けてくれたディレクターに私はまっすぐ正直に伝えてみた。気が付くと延々と2時間も1人で熱くしゃべっていた。

    「内田さん。おもしろい! ぜひとも僕たちを砂漠に連れて行ってください。内田さんがそこまで魅せられたアボリジニアートの世界を少しでも広めるお手伝いをさせてください」と電話の向こうのディレクターはすでにやる気満々。

    「はい。それじゃあよろしくお願いします。」

    そんなこんなで私はこのテレビ出演の依頼を引き受けることになったのであった。自分の”直感”をまたもや信じて。

    しかしだね。。なんだかんだ言ったってテレビに出るとなったら、こりゃやはり気合が入るってもんですよ。私もごくごくフツーのオンナでござんす。まずは美容院へ行ってヘアカット。「日本のテレビに出るんです。できるだけ若く見えるヘアスタイルにしてください」と担当のヘアドレッサーに無理難題を押し付ける。何しろ今回は出演者、しかも主役なのだ。きっと顔のドアップだってあるに違いない。目じりの小じわはどうしよう。そうだ。先日友人がシンガポールの免税店で購入をしてくれたあの怪しい”シワ取りクリーム”があったぞ。よし、あれをベタベタ塗ってみよう。何やら自宅にもカメラが入るらしい。あんりゃ、それは大変だ。今のうちに隠すものはさっさと隠さねば。

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    撮影期間は全部で6日間。メルボルンで2日間ほど費やし、あとの4日間は砂漠のアボリジニ村での滞在となる。

    大阪からはるばる来てくださった5人の撮影クルーの皆様は本当に超一流プロ級の仕事振りで連日の睡眠時間もままならない中、実によく働いていらっしゃった。

    当然出演者であった私も極度の睡眠不足で目の下真っ黒のクマだらけ。疲労でまぶたもぶら下がり日に日に大変ひどい顔となっていった。

    「内田さん。今日もかなりお疲れのようですね。大丈夫ですか」。
    これが撮影クルーたちの毎日の合言葉となった。

    メイクさんはどこ? スタイリストはいないの?私は主役、主役なのよ。今すぐ冷えたシャンペンを持ってらっしゃい。あ~あ。もう疲れちゃった。クーラーの効いた控え室で少し休ませてもらえないかしら。何て言ってみようものならただの頭のおかしいオンナだと思われる。何たってここは砂漠のど真ん中。ホテルもレストランもそんなものはどこにも見当たらないアボリジニ居住区なのである。

    化粧はほとんどすることなく(それでも眉毛だけはしっかり描いた)、ボロボロのシャツを羽織って髪は後ろにひっ詰めながら気温38度の炎天下の中、木陰にゴロンと寝転がるのが唯一の休憩時間。ペットボトルからぬるい水をごくごく飲むのが至福のひととき。

    アボリジニ達に同行した狩りのシーンでは、焼いたイモムシを大口開けて食べるところもしっかりカメラに捉えられた。

    ああ、こんな姿が日本のお茶の間に映ってしまうのか。虫を食う奇妙な娘を持ったと我が家の両親はきっと親戚中から笑い者にされるに違いない。かわいそうな父上、母上様。

    次号はこのたびの撮影時の様々なハプニングをいくつかご紹介してみようと思っている。

    何といっても砂漠が16ヶ月ぶりの豪雨に見舞われ未舗装道路はまるで川。そこを時速たったの20kmでじゃぶじゃぶ濁流に漬かりながら延々ドライブしたんだから。通常4時間で到着する居住区へ何と8時間以上も運転(しかも真夜中、あたりは真っ暗)することになったあの恐怖は並ならない。レンタカーの鍵も一時紛失。しつこいようだがそこは広大な砂漠のど真ん中であるということをお伝えしておこう。どこを探したって見当たるわけが…ない (大粒涙)。

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    テレビ放映は「世界のどこかで」というタイトルのもと11月27日(日)から毎週日曜日、21:54~22:00までを5週間に渡って放送されるとのこと。残念ながら関西地方だけの放映に限られるらしいが、機会があれば皆様にもぜひご覧いただきたい。

  • 涙・涙。感動の儀式終了

    「マウント・アレン」と呼ばれるオーストラリア中央砂漠のアボリジニコミュニティで今年の「Women’s meeting」は行われた。豪州全土からおよそ数百人も集まったアボリジニの女性たちが一年に一度だけそれぞれの部族の歌や踊りを8日間に渡って披露し合うものだ。

    これまでアボリジニの儀式には何度か参加を認められたことはあったが、今回のような大掛かりなものには滅多にお声がかかることがないゆえ、それを認めてくれた長老に私は心から感謝を述べた。

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    当然のことながらそこは砂漠のど真ん中なので、まともな木陰なんてのは一つもない。日中気温が40度を軽く超えるが、涼む場所はどこにも見当たらないのだ。やたらと動き回ってはあっという間に喉が渇いてのびてしまいそうになる。かといって熱射をまともに浴びながらじぃっとしているわけにもいかない。困ったぞ。政府から配給されたわずかな水を少しずつ少しずつ口に含みながら夕方涼しくなるのをひたすら待つことにしよう。

    日が暮れると砂漠の気温は一気に下がる。昼間あれだけ暑くて閉口していたのに、夜は突然マイナスに近い温度になるのだから恐ろしい。おお。これが中学校のときに社会科で習ったあの”砂漠気候”か。まさか自分が実体験をするとはな。ああ、それにしても何てクソ寒いんだろう。昼間はあまりの暑さで脳みそが今にも溶け出してしまいそうだったが今度は寒さで瞬間冷凍だ。

    ふゎー。そんなことよりあと何日でこの儀式は終るんだろう。毎日毎日時計やカレンダーとは無関係の日々ゆえ、実際今日が何月何日なのかさっぱり見当がつかない。街へ戻ったらすぐに熱いシャワーをこれでもかというほど浴びてやる。そしてもう缶詰と固いパンだけの生活ともおさらばじゃ! それでもって真っ白いピカピカ光る温かい白飯に納豆かけて腹いっぱい食べっからなー!と私の頭の中はもう完全に納豆ネバネバ状態だった。

    何日も風呂に入らぬ生活。日に日に髪の毛が1本1本くっついてまるでレゲエミュージシャンような風貌になってくる。自分の頭の臭さがたまになびく風に乗って鼻を襲う。く、く、くっさー! これまでにかいだことのない臭さだ。

    そういえば小学校時代、福田くんという同級生がいたのを思い出す。彼の頭にはいつもフケが積もっていたことから名前がいつの間にか福田くんから「フケダくん」に変わっていた。ある生徒はわざわざフケダくんの背後に回って彼の頭のニオイをかいで「くっせー!」と声を上げて走り去ったりした。ああ、なんて残酷な小学生だったのだろう。フケダくん。ごめんなさいね。当時、きっとあなたも髪を洗えないご事情がおありだったのね。でもね。今の私はもっとひどい状態だから安心して。昨日、砂漠で大きなマグカップでがぶ飲みしたブラックコーヒーにハエが2匹浮いて死んでいたんだけど、そのコーヒーの色が真っ黒だったから知らずに飲み干してしまったのよ。

    そう。私はハエも飲み込むオンナなの。フケオくんも砂漠でコーヒーを召し上がるときには浮いているハエの存在がちゃんと確認できるように、必ず粉ミルクを入れて飲んでちょうだいね。そしてお互いこれからも強く生きていきましょうね…と、ハエ飲みオンナはフケオくんに満点の星空の下から熱いエールを送ったのであった。

    さて、儀式の話に戻りましょっと。

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    今回参加をした儀式はこれまで経験したものとは全く比較にならないほど規模の大きなもので、各部族から異なる歌や踊りが次々と披露されていく。身体には”ボディ・ペイント”と呼ばれる模様が描かれ、そこには先祖からまつわる部族の歌が必ず伴う。うねるような経典のような響きに耳を傾けながら、自分の顔や背中・肩・乳房に赤茶色や黄色・白色のオーカー(天然の岩絵の具)が彩られていくのをじぃっと待つあのときの緊張感は、とても言葉で容易には表せない。褐色の肌を持つアボリジニの女性たちの中では自分の肌の色がひときわ目立つ。ペイントを終えて最後に頭に羽をつけたら、さぁ、いよいよ踊りが始まる。私は自分たちの出番を静かに待った。

    そこでは初めて出逢ったたくさんの何百人というアボリジニたち大観衆の鋭い視線を一斉に感じながら、私はマウント・リービックチームの長老に導かれて彼女たちと同じように身体を動かし大地をリズミカルにステップした。そして真っ赤に焼けた大地を見渡しながらはるか数万年前にこのオーストラリア大陸に渡ってきたアボリジニ達がたった200年前に入植してきた白人たちによって自分たちの土地を追われてしまったこと、人権を無視され文化を剥奪された悲惨さは、今「ここ」では少しも感じられないということを確信した。

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    “自分たちの文化はこうして確実に残っているのだから…”この儀式に参加をしている全員がみなそう思っているに違いない。そしてその一員として自分がその瞬間を共有できたことに、心の底から感謝をしたいと思った。 初めて大観衆の前で披露した私のダンス。おかしな怪しいジャパニーズが見よう見まねで踊る姿は彼らにはどう映ったのであろうか。滑稽には見えただろうがなかなか評判もよく、ダンスが終るとあっちこっちから大歓声が飛んできて・拍手喝采で出迎えてくれた。大声で私の名前を呼びながら手に手に握手をされたり、肩を抱いて顔を寄せてきてくれる人がたくさんおり、なかには親指を立てて「YOU! ベリーグット!ナンバーワン!!!」と頭を撫でてくれる人もいた。

    無事に滞りなく終った安堵感と感動からだろうか。私はボロボロ涙を流していた。 こんなあとは通常、しばらく余韻に浸っていたいものである。しかし長老は私の目を鋭く見つめて「さっ、もう終ったから。オマエはさっさと夕食の用意にかかれ。その前に焚き木取りも忘れずに。ゴミもたまっているから始末しておけ」と容赦なく指示を出す。 とほほ…。 やっぱ、早く街に帰ろう…っと。

  • 砂漠の儀式へ、日本人代表の再出場 その2

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    砂漠での朝は実に様々な音で目が覚める。といってもそれらはテレビや車やパチンコ屋などの人工的な音ではなく、1年にたった一度だけ行われるこの儀礼のために豪州全土から一斉に集まってきたアボリジニのおばちゃんたちのうねるような歌声であったり、耳元でパチパチと燃えたぎる焚き木の炎の音であったり、ときにはただただ大地を吹き荒らす風の音であったり。

    電気も電話も水道もトイレも何にもない砂漠のブッシュでアボリジニ達と1週間も一緒に暮らしていると、自分の身体全体が大地からの音やにおいにとても敏感に反応するのを感じる。そう、その瞬間はこのシティガアァーールのオレ様でさえほんの少しだけでも大地と共存できたようなそんな喜びを覚えたりするものだ。

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    2005 年5月22日。私はアボリジニの儀礼へと招かれた。メルボルンからその目的地まではざっと2900kmの道のりである。一瞬気絶しそうな距離だと思われるかもしれないが、今のご時世飛行機を利用すればあっという間にほほほ~~いと現場までたどり着いてしまえるものだ。取り合えず私は今回同行するアボリジニのおばちゃんたちの住む居住区までまずは赴き、そこで彼女たちと合流してから大型四駆2台で儀式の行われる目的地へと向かった。その距離500km。ドライバーは私ともう一人のコーディネーターの2人だ。何てことはない。朝飯前である。

    地図にはまるで載っていないような道なき道をひたすらまっすぐ走っていく。本当にこの道で正しいのか…と運転中に何度も不安になり、後部座席に座っているアボリジニのおばちゃんたちの顔をバックミラーでチラチラ見ながら「ほんとにこっち?」と目で合図を送ってみるのだが、誰もそんなことを気に留めちゃいない。みんなお菓子やジュース・バナナを座席いっぱいに広げて気分は完全にピクニック。そりゃそうだ。何たってこの儀礼への参加はアボリジニの女性が1年にたった一度、堂々と旦那を置いて自宅を留守にできる唯一のひとときなのだからはしゃぎ回りたいのは当然だ。中には自分の留守中に旦那が寂しがってジェラシーを抱くようにとわざとそんなアボリジニの歌を口ずさむおばちゃんもいた。へぇー、かわいーとこあるもんだねー。

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    旦那のいないオレ様は留守中寂しがってくれるのは2匹のネコ以外誰もいないもんだから、歌える歌が一つも思いつかず、その現実に打ちのめされていたら途端に腹が減ったのでコンビーフの缶詰を運転しながら丸かじりした。我ながらかっこいいと思う。

    さて、段々目的地へ近づいていくと「Women’s meeting」と書かれた看板がちらほらと目に入ってくる。それらがおよそ1kmごとに立ててあり、我々はそのサインをフォローしながら車を走らせる。そこはまさにブッシュのど真ん中。右を見ても左を見てもうっそうと生える木々ばかり。看板には「これより先は聖地により立ち入り禁止。守らぬ者へは罰金$20,000」とあり、それまで騒いでいた車中の全員が「いよいよ…だな」と背筋をピンと伸ばしたものだ。

    東京ドームをひと回りほど小さくした広さの会場で、まるで地区運動会のようにそれぞれのコミュニティがあっちこっちへとキャンプを張る。我々も早速自分たちのキャンプの準備に取り掛かった。信じられない話のようだが、今回の参加者でオレ様は見事に最年少。身軽にひょいひょいとトレイラーによじ登り誰よりも機敏に働いてみせた。調子に乗ってジャンプのまねごとなんかもしておばちゃんたちをゲラゲラ笑わせた。

    すると丁度そのときである! オレ様がトレイラー本体と開けたドアの間に身体を寄りかからせているとき、アボリジニのおばちゃんが突然そのドアをバタンと閉めた。

    「うんぎゃー!」私の乳首が挟まれた。

    死ぬかと思った。砂漠ではブラジャーは一切しない。痛さは格別だった。まさか先っちょがチョン切れてしまったりはしてないだろうな…。そんなことを心配してTシャツの首からそうっと真下を覗いてみたが、かろうじてまだあったので安心した。少し腫れあがったせいか大きさがいつもの倍になっていたが、まあそれも悪くはなかろう。

    儀式は8日間に渡って繰り広げられるが、その期間中私は2人のおばあちゃんの世話係に任命された。そのうちの一人、ルビーばあちゃんは昔からパーキンソン病を患っており、なかなか一人では自由にトイレへも行けない。したがって彼女のトイレへはいつも私が同行した。何度もしつこいようだが、ここはブッシュのど真ん中。トイレなんてものはどこにも見当たらず、かろうじて政府がこの儀式のために設置した簡易トイレがいくつか点在しているだけだった。だがそれらは鼻がそれこそひん曲がってしまうようなニオイとブンブンバエがこれでもかというほど攻撃してくるので、とても便座にお尻をつけられる状態ではない。それゆえ必然的にルビーばあちゃんにはできるだけキャンプ地から近い草むらでいつも用足しをしてもらうことになった。

    私は女性の立ちションを初めて見た。しかし彼女がそれで心地良いのであればそれでよかろう。人間、自然体が一番だ。ルビーばあちゃんは英語をあまり話さないので会話もなかなか簡単ではなかったが、我々の心はガッチリつながっていたと確信できる。また私の名前がどうしてもうまく発音できなかったようなので彼女から「もしもし」というニックネームを名付けられた。

    ご想像いただきたい。早朝、空がまだまっかっかな色の時間、そう私が丁度鼻ちょうちんを膨らませて熟睡している真最中「もしもしー。もしもしー。トイレット。トイレット」と呼び起こされる恐怖を。そのたびに私は特大の懐中電灯を片手にルビーばあちゃんの手を引いて暗闇の草むらへ立ちションをさせに行くのである。来る日も来る日もまたあくる日も果てしなく「もしもし」コールは続いたのだった。

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    豪州政府はトイレ設置だけではなく食料や水も定期的に配布してくれる。大きな布袋2つが毎朝トラックで配られ、それらはまるでサンタクロースが持ってきたプレゼントの袋を子供たちが取り合って嬉しそうにその中味を見るのと同じように、私たちも毎日その袋の到着を心待ちにした。今日の中味は一体何だろう? そんな袋の中味は毎日バラエティに富んでいて我々を驚かせた…ら、どんなによかったことか。食料は決まって小麦粉・缶詰・じゃがいも・にんじん・パンなどがごろごろと無造作に入れられており、貯蔵する冷蔵庫がないので生鮮食品はほとんど見あたらなかった。たまにカチカチに凍った赤い冷凍肉が配布されるが、それも直射日光で自然解凍するとうっすら緑色に変色。しかしこの際止むを得ない。貴重な食料としていただく。ありがたや。ありがたや…。

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    水はタンクに入ったものを一日5つ配布されるだけだった。それらは我々13人分の食事や飲料に充てるだけでギリギリの量だ。身体を洗うとか歯を磨くとかそんな発想は誰も持っておらず。従って私も滞在8日間で歯磨きをしたのはたったの3回。しかも木陰に隠れて申し訳なさそうにね。自分がしゃべるとその息が臭い。でもみんな臭いからそんなことはもうどうでもよかった。

    日に日に爪の中が真っ黒に変色し始め指紋にも汚れがついて一向に取れない。ああ、今日は一体何月何日だろう。鏡も《恐ろしくて》見てないし身体もベタベタで昨日のボディペイントがまだ残ってる。それなのに全く嫌でないのは何故だろうか。

    それはきっとこれまで自分に付着した生活や習慣・価値観・ステータス・しがらみといったものから一気に脱却した解放感のようなものだと考えるがいかがだろうか。