投稿者: landofdreams

  • 砂漠の儀式へ、日本人代表の再出場

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    5月中旬、日本出張を終えて数週間ぶりに豪州大陸に到着。日本を発っておよそ10時間、メルボルン空港に降り立った瞬間、いつもほっとした気分になるのはどういうわけだろうか。広い大きな空を見上げて「ああ、帰ってきたなあ」とつぶやきながら空港から乗り込んだタクシーの中で、留守中携帯電話にたまったメッセージをまずは確認。「お預かりしている伝言は53件です」とオペレーター。いつもよりも数段多いメッセージの件数にハテナ?と思いながらも一つ一つ確認していくと、そのうちの30件は同一人物からの伝言だった。

    「モッシモシー。マーユーミー。どこにいるの? 砂漠のグラニスよー。連絡待ってるわー。ガチャン」。「ハッロー。まゆみー。まだ帰って来てないのー?もしかして結婚でもして、今ハネムーンにでも行っちゃってるのー? ガチャン」。 「コンニチハー。マユミ。どこほっつき歩いているのー。早く連絡くれって言ってんだろーが!ガチャン」。と段々メッセージも声荒げになるのだが、なぜかどれ一つとっても肝心の用件が入っていない。

    人の留守電に30件も伝言を入れておきながら用件を何も言わない砂漠のグラニスおばちゃん。いかにも彼女らしい。すぐに折り返し砂漠のアボリジニ居住区で働いている彼女の所へ電話を入れてみた。

    ノーザンテリトリー州との時差はおよそ30分。電話するにはまだ少し早い時間かなとは思いながらも、30件のメッセージの内容をいち早く突き止めたいことからかまわずダイアルを回した。

    「あ?もしもし、おはよう。グラニス。マユミだよ、メルボルンの。今日ね、たった今日本から帰ってきたんだけどあんなにたくさんのメッセージ、一体どうしたの?何かあったの?」開口一番そう尋ねると、グラニスはとてもエキサイティングした声で「おーまいがー!まゆみ。よかったわ。あなたがやっとつかまって。実は一年に一度のアボリジニの女性儀礼が今年も行われるのよ。ほら。去年アンタも参加したやつ。そうそう。あれあれ。いやー。うちの居住区のオンナ長老達がね。あのジャパニーズを今年もぜひ呼べってうるさいのよ。毎日電話しろしろって私の顔見てそういうからね。それで何度もアンタに連絡を取っていたってわけ。どう?今年も来れる?」と一気に捲くし立てる彼女。  「うっわー。私また行ってもいいのー?去年その儀式は確か6月だったよね。で? 今年はいつからなの?」。「今週の土曜日」。「え? は? ふ?土曜日って今日はもう水曜日じゃない」。「そう。あと3日後よ。で? 来れるの?来れないの?」。アボリジニ達と長く暮らすグラニスの時間概念はもはや尋常じゃない。「ちょ、ちょっと待ってよ。私ね。たった今東京から戻ってきたばかりなの。まだ家にもたどり着いてないのよ。今回は留守も長かったから溜まってる仕事もたくさんあるし、それにええ・・・と。ああーーん。とにかく少し時間をちょうだいよ。また後で電話するわ。それじゃあね」と、一応電話は切ってはみるが、本当のところ私には迷う理由は何もなかった。

    アボリジニ社会における儀式の重要性は以前にも何度かお話をした記憶があるが、こればかりはいくら親しくなっても自分から儀式に参加をしたいなどと安易に申し出はできない。だからこそ一年に一度しか行われないそんな神聖な場所へ長老自らじきじきに『来い』とお声をかけてもらえたのは、この上なく名誉なことだと自負した。だってそこは日常生活から切り離されたもうひとつのアボリジニの世界があるのだから。

    儀式の多くは男女がそれぞれ別々に行い、お互い相手の儀式の内容を知ることも見ることも許されない。だから私は男性の儀式を全く知らない。

    昨年は儀式が行われている間中、ブッシュの山奥でトイレの最中に万が一毒ヘビにお尻をがぶりとやられたらどうしようという恐怖から、8日間もウ○コ様がお顔を出さず、ずっと便秘で苦しんだことや毎日使う水がとても足りなくて歯が3日に一度しか磨けなかったことや写真撮影が一切禁止であるのを知らずにカメラを取り出した私を「そんなことをしたらオマエを皆の前で全裸で踊らせる」と長老がマジでおっかない目でにらんだ恐怖なんて、一年も経てばすぐに忘れちまうもんだ。

    さあ!今年も”日本代表”として堂々と行って来ようではないか。念のため昨年の日記をもう一度見直して準備に取り掛かろう・・・そう思ってノートを開いたところ、何と最初の3日間しか日記はきちんと書かれていない。あとのページはフニャフニャな文字で意味も不明。おまけに英語と日本語とアボリジニ語が全部ごちゃ混ぜだから、これを解読するのは至難の業。そうだった、そうだった!みるみる昨年の記憶が蘇ってきたが後半は極度の疲労でペンを走らせる気力が少しも残っていなかったんだっけ。それに夜中あまりに寒くて気管支炎にもかかったんだ。そうだ。目にバイキンが入って結膜炎にもなったぞ。薬は必需品だ。頭はどうせ洗えないけどシャンプー、一応持っていくとするか・・・。これってとても嫁入り前の上品なオレ様の発言とは思えないであろうが、このときばかりは嫁に行くより砂漠のど真ん中でアボリジニのおばちゃんたちと野宿しながら世界存立のアボリジニストーリーを学ぶことのほうが数段も魅力的に思えたのだ。・・・そう、行くまでは確かにね。

    今年のメンバーは総勢11名。私が同行する仲間たちだ(もちろん現地には豪州全土から数百人が集まる)。昨年とは若干顔ぶれが異なるが、アボリジニ同士であってもこの儀式に参加をするのは大変な名誉なことであり誰もが行けるわけではないという。

    日本人代表のオレ様は2名のおばちゃんの世話係を早速命じられた。一人はルビーおばちゃん、パーキンソン病を患っていて歩行困難。もう一人はクマンジャイおばちゃん。全盲のために常に介助が必要。こうした障害を抱えた彼女たちだが今回のこの儀礼に誰よりも参加をしたいという熱意は強い。

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    2台の4駆に大きなスワッグ(キャンバス地でできた寝袋。キャンプには欠かせない)をパンパンに積んで《←もちろんオレ様の仕事。爪が割れてあー痛い。泣いた泣いた。》さあいざ出発!

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    儀式を通して与えられる知識はアボリジニにとって世界の起源にかかわる重大な情報である。そのためそう簡単に不特定多数に開示するわけにはいかないが、日本人代表がそこで体験した非日常的なストーリーを次号で少しお話してみよう。お楽しみに。にひひ・・・。

    追伸:余談になるが先日、日本の”ぴあ”から出ている女性誌「Colorful カラフル」の取材を受けたものが8月7日に発売されるようだ。機会があれば、ぜひご一読を。

  • 砂漠の芸術

    オーストラリア先住民、アボリジニがそれはそれは豊かな芸術性を持つことは、今や世界中の人々に認知されてきているが、彼らが描くそのアボリジニアートについて今回は少し話をしてみたい。オレ様もたまには真面目に何かを熱く語りたくなることだってあるのである。それに何たってこのアボリジニアートの(インチキ)専門家としてオレ様は食べてってるんだからねーー。

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    アボリジニアートと一概にいっても、これだけ気が遠くなるほどだだっ広いオーストラリアのあっちこっちに、しかも数百もの異なった言語集団で生活をしているアボリジニたちが、まさかみんな同じ内容の絵を描くとは思えない。絵はアボリジニにとって大事な生活の一部なのであるから。日本だって北海道で暮らす人々と沖縄の人々とでは食文化も習慣も民謡も祭典ごとも愛の告白《←ホントか?》もみな異なるでしょう。それと全く同じ。

    海岸のそばに住んでいるアボリジニ達は海の生き物をモチーフにした神話を多く描くし、その反対に水を求めて遊動生活をしてきた大陸の中央砂漠に暮らすアボリジニたちは、乏しい食料をいかにして獲得するかという情報を暗号化して砂の上に描いてきた。双方に共通していることは数万年に渡ってこの大陸に暮らしていた狩猟採集者であるということ、そして「読む」「書く」といった文字を持たず物質文化は極度に乏しい「未開の人たち」と、実際にはあとから入植をしてきた白人たちにそうみなされていたこと。それは悲しいことに1950年代まで続いたのである。

    私は暗号化された砂漠の芸術に心惹かれ、その暗号の奥に秘められているという物語を無性に探りたくなった。しかしその物語は外部者には一切明かされることはなく、おまけに女性と成人儀礼前の男性にも決して語られることはないという。アボリジニアートが外部者には明かされない物語を秘めているというなら、自分が彼らにとって外部者でなくなればいい……。そう思ったオレ様は、これまでおよそ10年間にも渡ってせっせ、せっせとアボリジニ村へ通いつめてきた。(できればそこに「嫁にも行かず」と付け加えていただけると有難い)。

    決して誇張するわけではないが、アボリジニ達に身内として認知されるようになるまでには計り知れない時間と婚期……おっと。もとい。根気と情熱とお金と体力と寛大な心と愛情が必要であると確信する。

    身内となるために時には真っ暗闇のシーンと静まる大地で一晩中乳を出して踊り明かすこともあれば、あまりの空腹で目が半分白目状態になっても水一滴飲むことなくひたすらイモムシ狩りに格闘したりと、実に多種多様なハードルをいくつも飛び越えねばならないのだ。そんなハードルを一つ、二つ、と汗ふきふき越えるたびに、少しずつ「身内のように気の置けない怪しいジャパニーズ」として彼らの眼差しが次第に変わって来るのを感じるのである。

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    またオレ様は、これまでもしかしたら自分は半分ぐらいは男じゃなかろうかと思えるほど男らしくたくましく生きてきたつもりだ。だからお前はオンナじゃないからとアボリジニ達から秘密の情報をもらえる可能性は十分ある。そういえば以前ある占い師に占ってもらったときも「アンタはまるで男のように生きている。自分が男だから男を必要としてないのさ。今後もずっと独りでしょう。それにそろそろヒゲぐらい生えて来るかも」なんてことまで言われたっけ。クソババア。金返せ!

    せっせと通い詰めるアボリジニ村でいつも私を特にかわいがってくれる一人の女性がいる。名前はウィンチャ。可愛い名前とはうらはらに顔は一見おっかないが《実は私の祖母に顔がそっくり!》、彼女のハートはゴールドのようにピカピカだ。英語をあまり理解しないので、会話はお互いハチャメチャなのだが心はちゃんとつながっていると感じられる存在感たっぷりの偉大な女性、そして著名な画家でもある。ウィンチャは私が側に寄ると決まって髪を撫でてくれる。スキンシップが好きな女性だ。またどうやら肩より長い私の髪に興味があるらしく(そういえばアボリジニ村では長髪の女性は見かけないなあ…)。私がいつも使っているシャンプーをぜひ自分も使いたいので帰るときには絶対置いていけ、と命令してくる。私と同じシャンプーを使えば自分の髪も途端にみるみる長くなるに違いない、と彼女はそう信じて疑わないのだ。

    また、砂漠では私の運転でウィンチャをよく狩りに連れて行くことがあるのだが、行き先を確認すると「天まで行ってくれ」との指示。「えっ?」と聞き返すと、彼女はひゃっひゃっと笑いながら「じゃあ、シドニーまで」と眼は真剣そのもの。ちょ、ちょっと。いくらなんでもここは砂漠のど真ん中。シドニーまでは軽く3日はかかるでしょうに。と、こちらも慌てふためく。でもアデレードぐらいまでだったら1日半で着くから、そこがシドニーだってウソついちゃおうかな……とっさにそんなことまで思い付く。ウィンチャに身内だと認めてもらうためにはウソだって必要なのだ。

    結局、シドニーへもアデレードへも行くことなく、ウィンチャは突然車から降りて地面の上に指で絵を描き始める。身体の奥からうねり出るような低い声で彼女はまるで仏教の経典でも読むかのようにリズムを取りながら、何世代にも渡って伝承をされてきた創世のストリーを私に聞かせる。そんな彼女の隣に一緒に腰を下ろして広大な大地に響き渡る不思議な歌声に耳を傾けていると、自分の身体がそのまま大地に吸い込まれそうな、そんな感覚を覚えた。

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    細かいドット《点描》と奇妙な暗号だけで描かれているアボリジニアートも、実はそこには民族に伝わる太古の神話や砂漠において生きるために必要な情報や地図、貴重な生物や水のありかだったりするのである。自然がもたらす様々なサインをいったいどう読むか、そしてそこで何が起きているのかなど、すべての情報は大地の精霊のスピリットにつながるとウィンチャはきっと私に教えてくれているんだろうと思える。言葉が通じないので、これは私の勝手な解釈かもしれないが、そう確信できる不思議な自信が私にはある。

    つい最近まで「未開の人たち」とさげすまれ、西洋美術という概念を一つも持たない裸足のアーティストたちによって描かれるアボリジニアートを私は立派な現代美術として今後も熱く語っていきたい。

  • 種蒔き

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    4ヶ月ぶりの一時帰国。今、この原稿は東京のホテルの小さな小さな一室で書き上げている。前回は年末のそれはそれは慌しい時期での帰国だったので、今回は春爛漫のポカポカ陽気の中、少しのんびりと桜見物でもしようじゃないか…、と楽しみにして帰ってきたその日に突然予期せぬ大きな地震。成田空港一時閉鎖。震源地は何と我が実家からわずか数キロ先だったというではないか。おまけに朝からの大雨で一気に冬の寒気が戻ってきたとか。気温はたったの7度であった。とほほ。わが愛するニッポン国よ。こんなにも厚く私を出迎えてくれてありがとさんよ。

    前号では少し私自身の仕事についてお話をした記憶があるが、今回の日本帰国はまさに私のその活動のメインでもある”種蒔き作業”が主な理由である。”種蒔き作業”というのは、簡単にいえば”たくさんの人に出逢うこと”だと私は確信している。

    ということで、この”種蒔き作業”のチャンスが、過日東京で開催されたオーストラリアの大々的なプロモーションイベントへ出席をした際に早速到来したのであった。

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    このたびの主催者はオーストラリア政府観光局。そしてイベントの主旨が「ブランド・オーストラリア」の開発といった、これまでとはひと味もふた味も異なるオーストラリアの魅力・価値をたっぷりとアピールしましょう、という新たな発想のもとで開かれた素晴らしいもの。それゆえ各関係者が続々とパークハイアットホテルに足を運んだ。

    超高級ホテルパークハイアットと聞いただけで、そこへ向かう私の気分はすでに芸能人。調子に乗っていつもよりちょいとめかし込んで行った私を一体誰が、”つい数ヶ月前までオーストラリアの砂漠のアボリジニ村でイモムシ捕まえて、乳出して儀式で踊って風呂に10日間も入らずにゴミの山で寝たオンナ”だと想像するであろうか。にひひひひ…。まあ、よかろう。怪しい独身オンナは多面の顔を持つものなのだ。

    さて、私が到着をしたときに会場には、すでにざっと100人以上は集まっていたであろうか。まずはトイレ、いや…”れでぃーするーむ”へ向かう。口紅がはみ出していないかどうかをチェックして「ヨッシャ!」と気合だか掛け声だかよくわからないトーンで喝を入れてみる。受付でご挨拶を済ませ、念のためにと 100枚カバンに忍ばせてきた名刺の1枚を丁寧に提示して、すぐに会場の中に自分の知っている人がいないかと探したが、とほほ……知人はほとんど見付からず。ついでに真田広之なんかも来ちゃってないかしら、と期待もしてみたが、真田さんの姿なんて……どこにもあるわけない。真田広之なんて名前を出すこと自体、自分の年齢バラしているようなもんだが、この際もうどうでもよい。

    まあ、こういったパーティーというのは、会場で知り合いを即座に見つけて声を掛け、一緒に群れていると結構楽なもんだが、私の場合は昔から一匹オオカミ的な要素が大いにあり、不思議と一人でいても疎外感をあまり感じたことがない。したがって今回も一人で会場をうろうろしながら、とびきり美味しそうなビュッフェのメニューをいち早く確認し、食事の時間がきたらまずはあれから手をつけよう……なんて、そんなことを考えたりしたもんだ。そしてまだしつこく真田さんを探す!!

    それにしても、さすがパークハイアットホテル。今せっせとこの原稿を書き上げているせま~いオンボロホテルとはわけが違う。見るものすべてが超豪華。

    そんなゴージャスな空間に、このたび私のアボリジニアートコレクションの中から3点の絵画が展示された。まことに光栄である。日本でアボリジニアートのオリジナル作品を観てもらうのはまだまだ機会が少ないゆえ、ここぞとばかりにお気に入りの3点をチョイスしたところ、会場に来られた多くのお客様の目を惹いたようだ。

    あちらこちらから次々にお声を掛けていただく。よしっ! 今だ。種蒔きだ。今こそ種を片っ端から撒くのだ!!! という脳みそからの指令により、私はカバンに忍ばせていた名刺をまるで手裏剣をばら撒くかのように、逢う人逢う人にお渡しした。おまけに当日黒い上下のツーピースを身にまとっていた私の姿は、まるで忍者そのものだった。

    それにしても片手にワイングラスを持ちながら名刺をスマートに取り出し差し出すワザは、是非とも身に付けておきたいものだ。舞い上がり絶頂の私は、名刺入れにここぞとばかりにぎゅうぎゅうに名刺を詰め込んだせいで、最初の1枚目がなかなか取り出せないまま、ただ、ただ、ひきつり笑い。

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    ところで読者の皆様は初対面の相手と出逢ったときに、果たしてどんな「自分」を見せますか? 話をする中でちょっとはカッコよく見せたいとか、働いている人はいかにも仕事ができそうに見せたいとか、まあそんな気持ちを少なからず抱いたりはしないだろうか。

    正直なところ数年前の私は確実にその手のタイプの一人で自分の心に常に頑丈なよろいをかぶせ、おまけにそのよろいにまでたっぷりと濃厚メーキャップを塗りたくっていた、そんな正体不明の人間だった。しかし今は随分と自分の心をスッピンにすることを覚え(顔のスッピンは犯罪まがいになるのでやらないよーん)、まっすぐにそのままの自分をあるがままに自分らしく表現できるようになったことは、やはり豪州先住民アボリジニたちとの出逢いが強烈な影響であったと信じている。

    何たって彼らは自分たちの感情にとても素直で、いつも思いっきり笑って思いっきり怒って思いっきり泣いているまっすぐな人たちなんだもの。何て健康的で人間らしいんだろうとつくづく感心させられるのだ。

    そんな話を会場で、アボリジニアートを鑑賞されるお客様に、私は毎度のごとく一人勝手に熱く語りながら自己満足の笑みをにやりと浮かべ、さっきのご馳走を腹一杯いただいて家路へと向かった。

    東京新宿の夜のネオンがああ、何と眩しいことよ。これらのチカチカもたまに見るのは楽しいが、私はやはり砂漠のど真ん中で今にもこぼれ落ちてくるような星空を眺めながら、大地に包まれるあの心地よい”感覚”がたまらなく好きだなあ。

    私の専門はアボリジニ。歴史も文化も芸術もみんな合わせて「今を生きる現代のアボリジニ」に焦点を当て、彼らと同じ目線から様々な物事を見ていきたいと切に願う。当然口で言うほど簡単なことではないはずだが、今自分ができることからやればいいと思っている。

    そんな中で、これまでのカンガルーやエアーズロックというオーストラリアへの既存イメージから大きく視点を変え、今後はもっともっと”アボリジニ”という現在も生きている大事なオーストラリアの文化の一つを私なりにご紹介していこうではないか。

  • やりたいことが「私の仕事」

    さて、今回は「私の仕事」について少しお話をしてみようと思うのだが、いかがであろうか。

    というのも最近とても頻繁に人様から同じことを尋ねられる機会があって、それが決まってどれも同じ内容であるからこちらもややビックリ…。つい先日も会ってまだ2~3度目の女性からこう問われた。「あのー。私いつも不思議に思ってるんですけど、内田さんって一体何をやって食べてっているんですか。年がら年中メルボルンを留守にして砂漠のアボリジニ村に行っているようだし、そうかと思えば家から一歩も出ないで居留守使って何かやってるみたいだし。《←アンタが何でそんなこと知ってんねん!?》 内田さんってなんかーー、自由人っていうかただの怪しい人っていうかーー、よく分からない人であることは確かですよねーー」と。

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    よくもまあ、まだそんなに知らない私のことを”怪しいヤツ”だなんて、このオンナは大胆に言えたもんだと感心すら覚えたが、私がどうやって日々の収入を得ているのかそんなに気にしてくださるのであれば、遠慮せずにお手当てとかくれちゃっていいのよーーと真剣に訴えてみたい。

    そもそも幼少時代、貧乏な家で育った私は「早く自立して自分でお金を稼げるようになりたい」と子供心にずっとそう思って暮らしてきた。

    大学を卒業してすぐに日本の企業に入り、たくさんの給料をもらいながらも物理的な忙しさとは別に、どこかで死ぬほど退屈をしている自分がいるのに気づき始めたのが26歳。自分をうまくだましだまし目をそらせてはみたけれど、それがだんだんにごまかしにくくなって会社を辞めたどころか、日本まで脱出したくなって瞬く間に自分にGOサインを出し、海外へと旅立った。外国での生活にマニュアルなんてあるわけないから、毎日が新しいことの連続でおしっこちびる体験なんてしょっちゅうだった。 余談であるが、私の友人はおしっこでなくてウ○コをもらしたという話も聴いた。小学生じゃあるまいし、いい年した大人が外国で何でウ○コをもらすのか不思議だったので無理矢理その理由を聞いたところ、何やら初めて招かれた外国人のホームパーティーで、あまりの緊張のせいか急にお腹がギュルギュル鳴り出し「エックス、キューーーーズミィーー」といってトイレへ駆け込んだが間に合わず(…というかなかなか英語で「トイレ貸して」と言い出せなくて大分我慢をしていたらしい)、便器の上に腰を下ろさないうちに盛大なるオナラの音とともに「ブボベビバーーーーー!!!!」と肛門が決壊してしまったらしい。そのときは悲しい運命だったともはや諦めるしかなかったようだが、彼は(おっ!ここでその友人が男性だとバレてしまったぞ)その後もまだ元気にたくましくメルボルンで暮らしている。

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    私の仕事に話を戻そう。

    私は自称「アボリジニアートコーディネーター」とのたまいながらも実は「自由業」で、つまりは何でも屋であるということをこの際告白しようではありませんか。しかしこれがたまらなく自分にピッタリ合っていて「一生このままでホントにいいのか」と時に不安にはなりながらも、明日には砂漠へ飛んでいって才能あるアボリジニ画家を発掘し作品を買い付け、来月はそれを販売するための企画展を練り画家を来日させ、半年後はどこかの大学で学生たちにアボリジニの講義を行って……なんて直接すぐゼニにはつながらないことを根気強く行う日々。そう、いつかは必ず芽が出るだろうという願いを信じて、ひたすら種まき作業の毎日なのだ。もちろん楽しみながらね。

    そうはいっても種ばかりまいていると当然腰も痛くなる。指圧にだって通うし最近少し曲がってきてやしないかと心配して背伸びもしてみる。毎月決まった給料をもらっていた頃からは想像もつかない生活だ。しかし、それらはすべて「自分のやりたいこと」であるということが大きなポイントなのだ。そして紛れもなく「自分の選択」であることもね。やりたいことがわからなかったときは「やりたくないこと」も一応やってみた。……が、やっぱりやりたくないから「自分には向かない」と勝手な理由をつけては日々悶々としていた。

    当時、迷いに迷って占い師にまで「私の天職って何でしょう?」なんてみてもらいに行ったが、自分自身やりたいことがわからないくせに他人様にそれがわかるわけがないと、やはりまた悩む。

    そんなとき、アボリジニアートが私の人生に登場したときに「これだ!」と直感的に心が叫んだ“あの感覚”は、説明しろと言われても困ってしまうが、それこそ「やってみたい」と素直に思えたことに感謝したい。そしてその気持ちが10年経った今でも、ちっとも変わっていないという奇跡にも。

    「やりたいこと」が今一つまだはっきりしない方々。私自身がそうだったように、少しだけ視点を変えて「自分の得意なこと」を考えてみてはいかがだろうか。もちろん「得意なこと」が「やりたいこと」には直接つながらないかもしれないが、求めているものがもしかしたらそこにあるのかもしれませんぞ。

    私のようにあっちこっちと遠回りをしながらも、今の危険な自由業を自分自分の責任でやってみちゃうのだって、なかなかダイナミックで楽しいモンだということが開業5年目にしてやっと分かってきた感じ。家のローンだって払えているし、飼い猫たちへのキャットフードも買えているんだから、何だかんだいってちゃんと食べていっているのである。もちろん長い人生の途上では、今後もおしっこちびりながらまだまだ学んでいくことはたくさんあるのは間違いないのだが。

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    あ。ところで前述のウ○コ君。便器の上のモノは結局どうなったのか、皆様気になってはいませんか。何やらその家の便器には高級そうなふわふわの毛のついたカバーがかかっていて、ティッシュペーパーで一生懸命拭き取ってもまだシミが残ったために、最後の手段としてカバーを取り外して黙って持って帰るという「変態行為」をしたそうだ。

  • ユニークなゲストたち

    “千客万来”とは何とも嬉しい悲鳴であるが、ここ最近次から次へと我が家へ訪れてくるちょっと…いや大分ユニークなゲストたちを今回改めてご紹介したいと思う。

    辺境地帯からやってきたその特別ゲストたちは肌の色が黒い、英語がよく通じない、自分の年齢をあまり把握していない、お風呂に入らない、カンガルーは生肉が最高! と確信し、おまけに牛の脳みそがあればもっと最高!!! と絶賛する楽しい人たち。

    その辺境地帯とは豪州中央砂漠のど真ん中。一番近い街まで車でざっと450kmはある。そこにある小さな居住区に住む先住民アボリジニたちの描く絵画が、今や巷では大きな注目を集めているのをご存知だろうか。

    それに伴ってシドニーやメルボルンなどの都市で頻繁にアボリジニアートの個展が開かれたりしているのだ。先日も、とあるメルボルンのアートギャラリーで行われた展覧会に招かれたアボリジニの画家たちが、それぞれ居住区の家族にしばしの別れを告げ遠方からはるばるやってきたのである。

    4人のそれはそれはゴージャスな女王様たちのメルボルンでの滞在先は、これまたどういうわけだか我が家であった。展覧会を主催したギャラリーのオーナーは取りあえず長期滞在用のアパートを彼女たちのために用意してあったようだが、女王様たちは誰もそこに泊まりたがらず(今まで一度もそんなところへは滞在したことがないので恐ろしすぎると断固拒否!)、当然のようにみな我が家へそれぞれ自分のカバンをエッコラエッコラ抱えて到着。

    有無もいわさず我が家へやってきてくれたという彼女たちからの厚い信頼は、大いに喜ばしいことだ。それにこれまでにも幾度かアボリジニの友人を我が家に泊めた経験はあるから問題もないだろう。4人の大所帯だってへっちゃらへっちゃら。こうなりゃどっからでもかかってこーい!

    我が家は一応3つのベットルームがあるのだが、一つは自分の寝室でもう一つはゲスト用の小さな寝室。あとはアボリジニの絵画があっちこっちに散らばっている私の勉強部屋。←勉強しないけどそう呼んでいる怪しい部屋。ベッドは置いていない。誰がどこに寝るかはあとで決めよう。というか当然早い者勝ちになることは絶対に間違いない。

    そんなこんなで家主の私を含めて計5人の共同生活が瞬く間にスタートしたものの、普段気ままな一人暮らしを存分に謳歌しているこの私に、いきなり砂漠の辺境地帯からやってきた4人の女王様たちのホストママになるという任務は、とてつもなく大きいということが、彼女たちの到着2時間以内にすでに判明。

    家に置いてあるすべてのものにまずは興味深々。電気ドライヤーをブンブンならして熱風を顔や髪に充てて騒ぎまくる女王様たち。あっという間にヒューズが飛んでそのドライヤーはあの世へ逝った。

    そして私の怪しい勉強部屋へ行っては素早くパソコンを見つけ、インターネット電話に瞬く間に釘付け。たまたま日本からかけてきた友人とネット上の電話で楽しくおしゃべり。もちろん言語はアボリジニ語だ。「パリャ? ユーア? ウイーヤ。ウイーヤ」。電話の向こうで慌てふためく友人が「ねえ、ねえ、ちょっと。そっちで一体何が起こってんのよ。大丈夫なの?」と心配する。

    友人よ、すまぬがどうかしばらく放って置いて欲しい。

    女王様たち、珍しいもので遊びつかれたら、今度は腹が減ったと家の中をあっちへウロウロこっちへウロウロ。飼っている2匹の猫たちに彼女たちの目が一瞬でもいった時にはさすがにドキリ。食べられる前に外へ放してやった。

    そろそろ夜も更けてきて寝る時間になったが、みんなテレビに夢中でかじりついていて誰一人リビングルームから動こうとはしなかった。ホストママは一日目にしてさすがに疲労困憊したのでサッサと自分の寝室へもぐり込み、いつものように大の字になって一人深い眠りに就いた。この際家中の電気が付けっぱなしであろうが、水道が出しっぱなしで水浸しになっていようが、猫が食べられていようが、もうそんなことはどうでもいいと思えるほど完全に疲れきっていた。…おやすみなさい…。

    ところが、真夜中…。ものすごいにおいといびきでハッ!! と目を覚ます。一度寝たら絶対に起きることのないこの私が目を覚ましたのだ。一体何が起こったのか。

    確かに一人で寝たはずの私のベットに、大きな身体の色の黒い物体がぎゅうぎゅうになって2人も寄り添っているではないか。いびきもすごいが彼女たちの体臭もすごい。どことなく昔嗅いだ鉄棒のにおいに似ていた。私は身体を硬直させそのまま朝を迎えることに。だって身動きが全くできなかったんだもの。

    そして翌朝、一緒に寝ていた女王様たちに理由(わけ)を聞くと「ゆー、ろんりー。ゆー、ろんりー」とカタコトの英語でそればかり。直訳すれば「ちょいとオマエさん。一人で寝るのはあまりにも寂しいじゃないの。かわいそうだからあたいたちが一緒に寝てやったのさ」とまあ、こういうことになるようだ。

    そう。そうなのだ。アボリジニ社会では女性は特に決して一人では行動しないし、一軒の家に単独で暮らすことなんてまず考えられないという。ましてや、たった一人で毎晩眠るとはいったい何事だと女王様たちは私に説教までしてきた。

    そりゃあ私だって何も好き好んでこの歳まで嫁にも行かず、一人フラフラしているわけじゃないのよね。まして独りでいることが”孤独”だという概念が自分にちっともないからしょーもないんだろうけど。

    でもこうやってそんな自分のことを心配してくれて、さみしいんじゃないかと一緒に寝てくれる優しい女王様たちは、やはり私のかけがえのない大事な仲間。一緒に居て最高に心地が良いと感じることのできる大切な友人。

    人生も40年近く生きていると何を『豊か』といい、何を『貧しい』と判断するのか。それは時代によって、自分の心によって、変わっていくものなのだろうと確信している。が、今後も自分にとっての豊かな人生とは何なのかをアボリジニの女王様たちと関わりながらじっくり考えていきたいと思っている。毎日の忙しい日常の中に、ほんの少しでも穏やかな時間を生み出す努力をしていきたい。

  • 初心に戻って…

    新しい年を迎えるとこんなオレ様でも何となく気分もキリリとなり正座をしながらあれこれと抱負などを考えてみたくなったりするものだ。

    “初心に戻って”という言葉を最近よく思い起こす。初めて何かをたくらむ?ときのあのわくわくドキドキ感というか心の緊張感というのはたまらない興奮だ。

    そこで今回は2005年のスタートとして”あの頃”のあまりにもフレッシュだった自分のハートにもう一度耳を傾けてみたくなった。それゆえアボリジニの話題からは少しかけ離れてしまうが今回に限ってそのへんはどうかお許しいただきたい。

    思い切って日本を脱出してからはや12年。“外国で暮らしてみたい”と心の片隅にそんな想いを抱いて、メルボルン空港へスーツケース2つ抱えて降り立った。

    「自分の可能性を信じて」なんていうと聞こえはいいが、とにかく「行けば何とかなる」というまったく大胆な発想しかなかった当時26歳のオレ様は、案の定見知らぬ街メルボルンではおしっこちびりそうになった体験をいくつもすることになるが、それでも何とかこの土地に、このオーストラリアに溶け込もうと日々奮闘した。

    「憧れの外国で好きな仕事を思いっきりやってアンタは幸せだわよね~」と時折友人たちから羨ましそうにつぶやかれるが、このオレ様だってオーストラリアに来た当初は文化的背景の異なる人たちと一緒に仕事をすることに困惑を覚え、言葉がわからないことから相手にしてもらえずに半分ノイローゼ気味に陥り、さみしいということを理由に悪い男にも騙されたことだってこの際白状しちゃうもんね。おまけにそのときの持ち金がわずか$900しかなかったことまで銀行口座を初めて開いたときの明細書がしっかりと証明してくれている。そして“やっぱり何とかなったじゃん”とどこか得意気になってみたりする。

    オレ様とアボリジニアートとのまさに“運命的な出会い”は、ある夕暮れ時の雨宿りだった。あれが運命だったとか宿命だったとか、オレ様にはいまだによくわからないのだが、とにかく予期せぬ出来事がたった一回の雨宿りで自分の人生に舞い込んできたという話をここで少しさせていただこう。

    1993年、当時ボランティアの日本語教師として人口800人の小さな田舎町で暮らしていたオレ様は、ビザが切れるという理由もあり、日本帰国を間近に控えていた。日本を出発するとき、成田空港で家族や友人たちに「しっかり外国で頑張ってくんのよー!」とバンザイ三唱をされ、おまけに餞別までいただいちゃったりしてるもんだから、このまま手ぶらで帰るわけにはいかないと思い、お土産を探しに、初めてメルボルンへ行くことになったのであった。

    久しぶりに見上げる高層ビル、人混み、美味しそうな日本食レストランがたくさんある。さすが大都会だ。毎日ホームステイで真っ黒に焼かれたわらじのようなステーキしか食べていなかったオレ様は、真剣に真っ白いピカピカ光るお米を日々夢見たものだった。ランチにはお寿司と天麩羅そばのセット。久しぶりのお醤油味に涙が出そうになる。そして夕飯もここで食べようと、すでにメニューまで決めていた。

    閑話休題。

    そうそう。雨の多いメルボルンで、ふと雨宿りのつもりで飛び込んだアボリジニアートギャラリーで、オレ様はとんでもなく衝撃的なアボリジニアートとの出逢いを体験したのだ。というよりも、ギャラリーオーナーのハンク・エビス氏にあのとき声を掛けてもらっていなければ、今のオレ様は間違いなくオーストラリアにはいない。

    閉店間際に、しかも雨宿りで画廊へ飛び込んで入ったずぶ濡れの日本人を、いったい誰が「絵を買うお客」として接客をしてくれようか。店のスタッフからは完全に無視をされ、それでもずうずうしいオレ様は初めて目にした点々模様の不思議なアボリジニの絵に瞬く間に魅了され、店を出ようとはしなかった。初めて観るアボリジニアート。しかしちっとも初めての気がしなかったとても懐かしい温かい気持ちに包まれたオレ様は、ただただ時間を忘れて店内をぐるぐると挙動不審者のように廻っていた。さすがに怪しいと思われたのか、突然背後から男の人の声が。それがハンク・エビス氏だった。

    「君は日本人かね?」

    「はい。そうです。」

    「メルボルンへは観光で来ているのかね?」

    「いいえ、田舎町で立派にストリッパーとして働いています。稼いだお金は日本の家族へ毎月仕送りしています。」

    と答えたかどうかは内緒の話。

    他愛も無い会話をしながら彼がこのでっかい画廊のオーナーだということが判明した。そしてアボリジニアートについてどう思うかなんてことを質問されたが、オレ様には返答できる知識も情報もまるでなかったので、そのことを正直に話した。すると彼は、絵を買うはずもないこの怪しいオレ様に延々と勝手にアボリジニのレクチャーを始めたのである。

    よっぽどお客さんがいなくてヒマだったか、もしくはオレ様をあとで食事にでも誘ってその後2階の別室で… なんて孤独なオンナ特有の妄想がぐるぐる頭をかけ巡った。

    しかし、ハンクのしてくれたアボリジニの話がとても面白かったので、もっと別の作品が観てみたいと結構ずうずうしいことを平気で言った記憶がある。すると「それじゃあ私の個人コレクションを特別に見せてやろう。2階へおいで。」と閉店時間をとっくに過ぎ、店のスタッフも全員帰って誰もいない画廊の2階で自分のプライベートコレクションをどこのウマのホネともわからぬこのオレ様に見せてくれるというのだ。怪しい! 絶対に怪しい!!

    案内された2階の部屋には鍵がかかっていた。うう…ん。ますます怪しい!

    最初に話しかけられてからかれこれ4時間が経っていた。彼の話を聴きながら、なぜこんなにもオレ様に時間を費やしてくれるんだろうと、不思議に、そして怪しく思いながらも、心地良く流れる空気に身を任せていると、

    「君は日本に帰ったら何をするんだね?」と再びハンクがオレ様に問い掛ける。

    「それは日本へ帰ってから良く考えます。仕事をまた探さなければなりませんし」

    「ここで働きながら、アボリジニアートを日本へ紹介してみる気はないか?」

    「????????????」

    はじめは何のことをいわれているのか良く理解ができなかった。雨宿りの日本人客に一体何をしろというのか。しかももうすでに帰りの準備が整っているオレ様にこのままオーストラリアへ残らないかだなんて、絶対に頭がどうかしている。慌てて今度は自分の頭の中を整理しようと試みたが、余りにも突然のこの申し出にさすがのオレ様も動じずにはいられなかった。

    結局あれからこうして12年もの間、アボリジニにずっと携わっているのであるから、その後オレ様がどうハンクに返事をしたのかは皆様もうご承知であろうが、もしもあの時雨宿りでラーメン屋に飛び込んでいたら今ごろオレ様は立派なラーメン職人となっていたのだろうか。人生、いつどこで何が起こるかわからない。だから面白い。

    2005年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

  • 敏腕コーデュネ-ター その2

    瞬く間に訪れてきてしまった2004年12月。ああ、これでまた今年もあっという間に終わっちゃうのよねえ…。これといった特に大きな達成感もなく毎日ドタバタするばかりで、今年はそれこそただ何とな~く忙しいだけで過ごしてしまったという反省が、この豊満な胸を痛める。

    今年は日本への一時帰国がざっと3回。その間、私の職場でもある豪州大陸中央砂漠・アボリジニ村居住区へせっせと赴くこと4回。もちろん行けばその現地にしばらく滞在をするわけだから、よく考えてみればあまりメルボルンでは落ち着いて生活していないということになる。常にあっちこっちと飛び回っているこんな生活じゃあ、素敵なトノガタとゆっくり愛を育む時間なんてまるでないのは当然さ。

    そもそもこんなに毎日慌しく動き回らなければならぬようになったのも、5年前に独立をしてフリーランスとなってからだ。まあ、組織を離れてからは誰にも拘束をされることなく自分の時間が大いに自由になったものの“明日食うカネ、自分で作れ”という厳しい現実は、時折なんともいえない焦燥感に駆られることもしばしば。何たって会社勤めをしていたころは“給料っつーものは銀行に毎月自動的に振り込まれるもの”と、そう信じて疑わなかったのだから。

    それが会社を辞めた途端、いくら首を長くして待っていてもオレ様の銀行口座に大金をじゃんじゃか振り込んでくれる人間は一人もいないではないか。それゆえ朝から晩までパソコンにらめながら“仕事につながりそうなもの”をリサーチし、せっせと企画書作ってあっちこっちにEメールで投げかけて自分を売り込む…。

    そんなオレ様をまるでどこかから見ていたかのように、ある日アボリジニのドキュメンタリー映像を制作するにあたって、そのコーディネーターをやっておくれという指令がシドニーから舞い込んできた。うおぉぉーー。仕事だぁぁぁ~~~! もちろん二つ返事で承諾したことはいうまでもない。

    撮影の主旨は前号でも少し紹介をした記憶があるが、京都大学のある名誉教授がアボリジニの現在の生活習慣病に着目をされ、その原因と健康改善について長年に渡ってご研究されているというドキュメンタリー番組を学会用に制作するものであった。

    ドキュメンタリー映像というのはあくまでも「事実」を伝えるもの。しかも撮影期間が15日間と限定されている。それに一概に“アボリジニ”を撮影するといったって、都市で暮らす西洋化した人々と、未だ砂漠の辺境地帯で狩りを行って暮らしている人たちなど、かなり多様化しているということを果たして撮影隊の皆様はどこまでご存知なのだろうか。

    さあ、そこでこの敏腕インチキコーディネーターのオレ様が、ここぞとばかりにあれこれと得意のウンチクを披露して彼らを一気にアボリジニワールドへと引っ張り込んだのである。

    「砂漠ですかぁ。面白そうですね。一体どんなところなのかなあ。何といってもドキュメンタリーは「事実」を伝えなくてはなりませんからねぇ…。つまり現場へ直接足を踏み入れて、実際にそこで何が行われているのかをキャッチするんですよ。内田さん!」と、鼻の穴を大きく広げてそう主張するシニアディレクターS氏。

    「現場って、実際にアボリジニ村へこれから行くって事ですか? Sさん、そこがこのメルボルンからどれほど遠いところなのかをあなたはご存知なんですか。行くにあたっては政府からの滞在許可だって必要ですし、それにこれからすぐに航空券やレンタカーを手配するのはかなり難しいですよ。そういったリクエストはもっと事前におっしゃっていただかないと…」と、さすがの敏腕インチキコーディネーターであるオレ様も相当困った顔をして見せた。

    そして、今すぐ自分が魔法使いになりたいと心からそう願ったものだった。魔法を使えば、誰のどんな願いだってちゃんと叶えてあげられるのに。

    『魔法使い』と辞書で引こうとしたら、間違って『魔女』と引いてしまった。そしたらそこには「悪魔のように性悪な女・また不思議な力を持った女」と解説されていた。どちらの解説も微妙にこのオレ様に合っているではないか。よし、こうなったら快く魔女となってみんなをハッピーにしてやろう。

    そうやって魔女となったオレ様は、あたかも本当に魔法を使ったかのようにテキパキと迅速な手配をさっさと済ませ、砂漠のアボリジニ村への出発を見事に実現させた。

    ホテルなんてまるでないアボリジニ村では友人グラニス宅へ無理を承知で泊めてもらった。泊めてもらってこう言うのも何だが、彼女の家は決して綺麗とは言えず浴室の床はいつもぬるぬる、天井には蜘蛛の巣が張り、冷蔵庫の中には葉っぱがもうヨレヨレになったレタスや緑色のチーズなどがいっぱい詰まっていたりする。

    そういえば一度彼女の家でこんな体験もした。真夜中にのどが渇いて一人そうっと台所へ行って冷蔵庫の中の牛乳を飲もうとしたとき…! 電気をつけなかったので何も見えず、コップもどこにあるのかよくわからなかったオレ様は、暗闇の中で牛乳のボトルを振ってみたら丁度一杯分ぐらいの量だと確信。じゃあいいや、面倒くさいからこのまま飲んじゃえ。そう思ってボトルから一気飲みを試み、まずは唇を直接ボトルにくっつけ、空いたもう片方の手はどういうわけか腰に回し、足は肩幅程度に開いて一気にボトルの角度を変えたその瞬間、渇ききった喉ごしに今にも冷たい牛乳が流れ落ちることを想像したオレ様の揺れに揺らいだ心を、まるでまっぷたつに切り裂くかのように流れ落ちてきたのは、まぎれもなくまったりとした濃いヨーグルト状の液体だった。そして鼻に直撃したその悪臭と突然の異常事態に気づいた触覚・味覚・嗅覚・聴覚がフル回転してオレ様に慌てて警笛を鳴らしたようだがもう手遅れ。

    ここで腐った牛乳は酸っぱいだけだと思われている読者の皆様へ一言。実はほのかな苦味もあるってこともお知らせしておこうではないか。そして冷蔵庫へはいつも新鮮なものだけを貯蔵しましょうという忠告も。

    砂漠での撮影は3日間。当然ながら狩りは絶対にはずせぬアボリジニのライフスタイルなので一緒に付いて行く。生まれて初めて見るというイモムシや炎天下でのカンガルーしっぽ丸焼きは撮影隊を大いに興奮させたようだった。

    「やっぱ、これが現場なんっすよ! 最高っすよ! さすが内田さん。内田さんがいなかったらここまでボクら、来れなかったですからね」。そんなおだてにめっぽう弱い魔女のオレ様はまた調子に乗って次の魔法をあれこれ考えたものだった。

    こうして無事にアボリジニ村での撮影を終えた我々だが、再びメルボルンへ戻ってからはオレ様の魔法が追いつかないほど超ハードなスケジュールの毎日で、15日間での走行距離はざっと3000キロなり。もちろん運転手はずっとこのオレ様さ。

    しかしこの撮影期間中に出逢った様々な人たちとのあったかいふれあいは、魔法なんてちっとも必要ないほどごく自然にみんなを笑顔にした。

    なんだかんだと文句言いながら、今年もどっぷりと“アボリジニ漬け”であったこの一年。何を“しあわせ”だと定義づけるのかは自分のこころ次第。来年も堂々と“あるがままの自分”でいようではないか!

    皆様、2004年もお世話になりありがとうございました。この紙面をお借りして心より御礼を申し上げます。

  • 敏腕コーデュネ-ター その1

    つい先日まで同居していた我が家の怪獣居候様にはとっとと出て行っていただいた。その理由は富士山より高い山ほどある。まずは私の留守を見計らって彼女がジャンジャンかけまくった電話代の多額請求から始まり(今月の請求書を見て愕然としたことは言うまでもない。大粒の涙を流し、この温厚なオレ様が逆ギレせずにはいられなかったのだ!)、また、自分の”家族”だからと連日連夜我が家に次々とゲストを勝手に招いてドンチャン騒ぎ。極めつけは息子が病気だから治療費を貸して欲しいとそのお金を要求。はて、その病気で苦しんでいるはずの息子とは2日前に街でばったり出会っているではないか。しかも彼がそのときゲームセンターで女の子とイチャついていたのもちゃんと目撃しているぞ。このうそつき野郎め~どこが病気なんだ。

    … そんな居候様が出て行かれたあと(訂正:追い出したあと)、再び平穏無事な生活に戻ったオレ様にホッとする間もなく、仕事の依頼が入る。何やら日本でアボリジニの健康問題について長年研究をされている大学教授のドキュメンタリー映像を創るにあたって、その現地撮影コーディネーターをして欲しいというものであった。本来オレ様の本業はアボリジニアートコーディネーターであるが実際のところ、美術以外にもアボリジニに関わることであれば、多くを喜んで承諾する。特にこうしたメディア関連のコーディネーターは、取材を介して実に様々な方々との出会いがあるのが、たまらなく嬉しかったりするものだ。どさくさに紛れて撮影中に未来の旦那なんてのも見つかっちゃったりしたら尚更嬉しい。

    ふむふむ。撮影コーディネーターね。いいじゃない。いいじゃない。興味深そうな仕事じゃない。それに怪獣居候様を長い間世話したために、我が家の家計はまっかっかの大赤字となったゆえ、少しでも稼がねばならなかったオレ様は二つ返事でこの依頼を引き受けることに。契約期間は15日間。これだけの日数があれば恋の花も十分咲かせることができるだろう。にひひひひ。ディレクターはどんなトノガタかしらん。リチャードギアのような甘いマスクの男性だったらどうしよう。私の瞳をじいいっと見つめながらあれこれと指示をしてくるに違いないわね。

    万が一ホテルの部屋へのお誘いを受けてもいくら相手がリチャード・ギア似のディレクターだろうとオレ様は「仕事中ですから」ときっぱり断ろう。

    孤独なオンナは妄想上手。テレビにだってたまに話しかけたりする。取り合えずカレンダーの撮影予定日に大きなハナマル印を付けてニヤニヤと更なる妄想を広げた。

    私の人生に豪州先住民アボリジニが登場してきて早11年。彼らの深遠な文化と歴史、そして目を見張るユニークな芸術に瞬く間に魅せられて現在に至るのであるが、海の向こうのニッポンで分野が違うとはいえ、同じアボリジニの研究をしている日本人に出会うことは非常に稀有である。

    その日本人というのが今回のドキュメンタリー映像の主役である京都大学の名誉教授Y氏で、今や日本中で話題の『カスピ海ヨーグルト』を最初に紹介をされた方としても名が知られている。ちなみに、カスピ海ヨーグルトとは家庭でも簡単に作れて健康にも良いといわれているもの。もともとは中央アジアの黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス地方にある国、グルジアで食べられているものらしい。

    そのグルジアには世界屈指の長寿村があり、その長寿の秘密は現地で食べられているそのヨーグルトにあるのではないかとY教授が分析のためにグルジアから持ち帰ったのが最初だというのだ(オレ様、意外と博識じゃないか)。

    ではそのY教授が一体なぜ豪州先住民アボリジニの健康問題に注目をし長年の研究を重ねていらっしゃるのか。

    Y教授曰く”これまで長い年月の間、狩猟と漁労の社会で生きてきた彼らの生活から、いきなりこの現代社会に飛び込んできたアボリジニにとって現代の食生活は全く適合しない”という。これには私も全く同感である。狩猟民であった彼らは狩りをするときに長距離を歩きながら(かなりの運動量となる)、常時飢餓に耐え忍ぶ身体を持ち合わせており、その身体の脂肪は獲物があったとき飢餓に耐えられる様に十分蓄えておく必要があったという。

    ところが今や飽食の時代となり、彼らはいつでも好きなだけ砂糖、塩、油を過剰に摂取するようになってしまっている。私がいつも足を運んでいる砂漠の辺境地帯に住むアボリジニたちでさえも自分たちの村にスーパーマーケットができたおかげで、もはや狩りへ行く機会がめっきり減少。おまけに大人も子供も朝食の代わりに、コーラの大瓶を朝からがぶがぶ飲み干しているのが現状なのだから。

    なんという恐ろしい現実だろうか。世界中で今や一番生活習慣病で苦しんでいるのは、間違いなくこのアボリジニたちなのではないだろうか。極度の肥満からくる糖尿病・腎臓病・そして高血圧で苦しむこのアボリジニたちを何とかしてあげたいというY教授の思いからこのたびの研究が始まったという。

    自称敏腕インチキコーディネーターのオレ様、そんな真摯なご研究をなさるY教授のお手伝いをぜひともさせていただこうと俄然やる気満々、早速腕まくり開始。さっきまで妄想で頭がパンパンに膨らんでいたディレクターとの夢のロマンスはこの際もういいやとさえ思えた。

    ビクトリア州に暮らすアボリジニ数百人を対象としたこの研究、まずは検査の対象者を募るところから苦労がスタート。場所はメルボルン市内にあるビクトリアン・アボリジニヘルスセンターと称する公的機関。そこはアボリジニが無料で様々な医療を受けられるというところ。遠方からも子供連れで来ている人の姿が多く目に付いた。

    さて、いくら都会で暮らしているとはいえ”時間”を最重要視しないアボリジニの彼らに『○月X日に身体検査をしますからね。何時にどこどこへ集まってちょうだいね。来てくれた人には、もれなく日本のギフトをあげちゃうよー』と事前に告知。本当に日本からダンボール箱一杯のミニプレゼントをアボリジニたちのためにはるばる用意されてきた医療スタッフのご努力もむなしく、対象者は待てど暮らせどなかなか現れず。

    おまけに今回の検査のためにと日本から持ち込んだ大型体脂肪計(60キロもある大物)が空港の税関で規定外のブツだと怪しまれて通関ストップ。うわぁぁぁ。これがなくちゃあ肝心の検査ができないではないかとみんな大慌て。もひとつおまけにアボリジニヘルスセンターで事前にY教授と細かい打ち合わせをしていた担当女性が、この大事な検査のときに突然休暇取得。うっひゃー。いきなり居なくなるだなんてあんた、担当者でしょーが。ハレホレハレ・・・。

    そんな波乱万丈のスタートを敏腕インチキコーディネーターがどう切り抜けたであろうか。それは来月号のお楽しみでありまする。おほほほほ。

  • 腹いっぱいメシが食える家

    過日、我が家に突然迷い込んできたとんだ居候ちゃん、アボリジニの画家・ガブリエラとの共同生活もかれこれ2週間となる。好奇心旺盛なオレ様は、当初彼女が我が家でやること成すことすべてが(例えば水道出しっぱなしだったり、冷蔵庫を開けっ放しだったり)腹を立てながらも興味深くてたまらなかった。…… が、早くも限界が近づいてきた。

    ホストママの心優しいオレ様としては彼女にできる限り心地良く滞在をしてもらおうと、始終あれこれと気を遣う。彼女のために一部屋用意してベッドも整えたのに「1人で個室に寝るのは怖い。この家の悪霊に取り付かれる」と毎夜リビングでソファーに寝るガブリエラ。なんだと。我が家に悪霊がいるというのか。失礼なヤツめ。悪霊ぐらい、いつだってこのオレ様が退治してやる。

    リビングで寝る彼女を起こさないようにと私は毎朝まるで泥棒のように抜き足、差し足、忍び足でそうぅぅぅっと足音を立てないでキッチンへ行き、自分のコーヒーを入れる。とほほ。ここはオレ様の家なのになぁ。

    そしてお昼近くまでゴジラのような大いびきをかいて寝ている彼女の寝顔を見ながら「そろそろ出てけー。早く出てけー」と何度も耳元で呪文を唱えるのであった。

    ガブリエラの言う悪霊とは間違いなく私のことであろう。

    前号でもお知らせをした通り彼女の食欲には目を見張る。一日5食。プロレスラー並みの見事な食べっぷりだ。田舎育ちのオレ様ゆえ、幼い頃から両親に「訪ねてきたお客さんには腹いっぱいメシを食わせろ。腹を空かせたまま客を帰らせるほどみっともないことはない」と言われ続けてきたもんだから、毎日ありったけの食材を惜しみなくガブリエラに提供した。

    また「クンガ(←何故か彼女は私をこう呼ぶ。アボリジニのルリチャ語族では”オンナ”という意味)の手料理は世界一」なんていうウソ丸出しの彼女のセリフについつい調子に乗せられるオレ様は、普段ひとりでいればインスタントラーメンで簡単に済ませちゃうお昼ご飯も『腹をいつも限りなく空かせたお客さん』のためにせっせせっせと特製カレーなんて作っちゃったりするのである。

    「クンガは料理上手なんだってね」……ある晩そう言ってガブリエラの叔母さんにあたるという風船のように身体の丸いハービーと、従兄弟だと名乗るちょっと色男のデイビットが突然我が家へやってきた。もちろん夕飯を食べにだ。

    私自身、彼らを招いた記憶は一切ないので、恐らくガブリエラが「この家では腹いっぱいメシが食える」と吹聴したに違いない。とほほ。明日はいったい何人がやってくるのだろうか。そういえば私が以前アボリジニ村へ訪問をしたときに、仲良くなってもらいたいからと、初日村の子供たち2~3人にスーパーでアイスクリームやポテトチップスを買ってあげたことがあったのだが、翌日にはその子供たちの数が7~8人に増え、またその翌日に今度はおばさんやおじさんまでが一緒に並んで私を待っていたという経験があったのを想い出した。どうやら最初に買ってあげた子供たちが「あのジャパニーズは何でも買ってくれる」と村の仲間たちに言い回ったらしい。なるほど。納得。

    そんなわけで3人のアボリジニ達と1人の日本人とで予期せぬ晩餐会となったその晩、私は彼女たちのリクエストに答えてチキンの唐揚げをこれでもかというほど作った。こんなこともあろうかと先日マーケットでチキンを1キロ買っておいてよかったと胸を撫で下ろしていたところ「ライスとサラダもお願いね」とビールをラッパ飲みしながらガブリエラが言う。おめー! 調子に乗るなよな。と、すかさずおっかない顔をしてみたが、ちょっと色男のデイビットがチラリとこちらを見たので無理やりすぐ前歯をニィィィィっと見せて、そのまま上手に笑顔に変えた。

    お酒の勢いもあってか色男デイビットが自分の身の上話を初対面の私にポツリ、ポツリとし始めた。それはとても興味深い話であった。彼は今年で44歳になるらしいのだが(砂漠の奥地に出産のための穴を掘ったその中で生まれたので、自分の正確な生年月日を把握していないという。ちなみに現在アボリジニの出産はほとんどが街の病院で行われるので、それぞれ出生届が出されている)。7歳のときに自分の母親のもとから無理やり引き離され、そのまま白人社会で育ったという。そう、彼はまさしくこのオーストラリア政府がつい30年前まで打ち出していた同化政策の対象者の1人であったのである。 

    それは「盗まれた世代―ストールンジェネレーション」として、今現在においてもアボリジニ達が政府に謝罪を求めているのだが、デイビットは「もうそんなことはどうでもいいんだよ」と言ってまっすぐに笑う。当時7歳の子供がいきなり誰も知らない社会へ連れて行かれ、英語がまったくわからず、白人の食べるこれまで自分が見たこともない食事が口に合わず(そのとき生まれて初めて牛乳を飲んだという)、毎日母親のもとに帰りたいと泣き叫んでいたその彼が「もうあんなことは二度とあってはならない。これからはお互いが学びあって一緒に暮らしていけばいい。そのほうがずっといい」そういって笑っているのである。

    しかしライフルを構える当時の白人の格好を真似しながら「やつらは犬でも撃つかのように、俺たちの家族をたくさん撃ち殺していったことは決して忘れないけどね」と鋭い目でそうつぶやいたデイビットの言葉は、今でも私の耳を離れない。

    世界で最も水の乏しいオーストラリア大陸の砂漠地帯、荒涼としたブッシュへ今でも時々デイビットは自ら足を運ぶという。我が家の地図を指差しながら彼は「ここが僕の生まれた土地。生命(いのち)あふれる豊饒な大地なんだ」と自慢気に教えてくれた。

    あの広大な土地をくまなく熟知し、今でも神話界をリアルに生きるデイビットにとって、そこは紛れもなく豊かな大地なのだろうということが、私は心から納得できた。

    ……こうして突然我が家で開催された予期せぬ晩餐会は明け方まで延々と続けられ、私は翌朝ひどい二日酔いと山のように積み重なった汚れた食器の数々を見て、再び寝込んだことは言うまでもない。

  • とんだ居候

    茨城で生まれ育った私は18歳でその地を離れ、その後日本を離れ、気が付くとオーストラリアで先住民アボリジニの人々と暮らす体験を得ていた。真夏は50 度以上も気温が上がる砂漠で干し上がり、雨季の時期には豪雨で道をふさがれ車が立ち往生した。行き交う人もいない中で路頭に迷い本気で遺書を書こうと思ったことだってある。それでも私は数々の狩りや儀式に参加をする中で、アボリジニ文化の深遠さを自分なりにたくさん、たくさん学んできた。

    まず『アボリジニは現代人である』という当たり前の定義からお話をしていこう。これは友人・知人たちから私が常に言われることなのだが「あなたは”本物のアボリジニ”を知っているんでしょう? すごいわあ。彼らはどんな人たちなの?」という問い掛けに私は非常に大きな戸惑いを覚えるのである。”本物のアボリジニ”とは一体誰だ? ”ニセモノのアボリジニ”はじゃあどこにいる?

    オーストラリアのアウトバックを旅していて辺境地帯のブッシュで暮らすアボリジニに出会うということは決して『原始人』に出会うことではないのはご存知であろう。当然のことながら原始人は原始の時代にしか生きていないのだから。そう、だから彼らは21世紀を我々とともに共有している紛れもない『現代人』なのである。

    現代人アボリジニは実に多様性のある暮らし方をているのだ。大学を卒業してビジネスを始めるアボリジニ、失業やアルコール中毒に苦しむアボリジニ、先住民族の権利回復運動にとても熱心なアボリジニ、4WDとライフルを駆使してカンガルーを狩猟するアボリジニ、先日私が参加をしたような伝統的な儀式の中で夜明けまでひたすら歌い踊り続けるアボリジニ、そして現代美術としてもはや世界中から注目を浴びるアボリジニアートを制作するアボリジニ、彼らはすべてオーストラリア各地で今現在を生きているそれぞれのアボリジニの姿であり、これが現代人アボリジニの多様性なのである。

    今回はその中の1人、私の10年来の友人でもあるアボリジニ画家・ガブリエラポッサムをご紹介させていただこう。彼女は今やとても著名な画家となりこれまでにも海外の展覧会に幾度も招待され、ニューヨーク・ロンドン・シンガポール・香港と世界をまたに掛けて活躍するアボリジニアーティストである。

    そんな彼女が現在我が家に居候中。どうしてこうなっちゃったのかが実は私も今一つはっきりしないのだが、気が付くと彼女は我が家に当然のように滞在をしていた。こちらが「出て行ってちょうだい」と言わない限りこのままあと2~3年は居そうな様子だ。

    ことの始まりは1本の彼女の電話からだった。深夜、私がすでにベットに入って読書をしていたところ泣きながら(←私にはそう聞こえた)ガブリエラが電話をしてきた。こちらが驚いて理由を聞くとなにやら旦那とけんかをして家を追い出されたというではないか。行くところがどこもないという。う~む…。ホントの話かな…。申し訳ないがそんな猜疑心が一瞬でも私を襲う。

    それもそうだ。一体これで何度目だろう。これまで彼女からの同じようなSOS を安易に受け入れ、こちらも本気で助けようと身体を張った矢先にいきなり失踪しちゃう我が友人ガブリエラ。おまけについ数日前にも街で彼女と私は待ち合わせをしたのだが、待ち合わせの時間を彼女から”ランチタイムね”と指定されたので私も”うん、わかった。じゃあランチタイムね”と確認の返事をしてその当日、私なりに理解する”ランチタイム”に約束の場所へ出掛けていったのだが、アボリジニの彼女が考える”ランチタイム”が私の把握していた”ランチタイム “ではなかったらしく、結局2時間ずっと待ったが彼女は姿を現さなかった。彼女のその日の”ランチタイム”はいったい何時だったのかいまだ解明できておらず。まあ、そんなやりとりは過去10年間数え切れないほどあったのだし、その間3年ぐらい彼女は失踪して誰も行方がわからなかったこともあったのであまり深く考えないことにしたい。

    そんな彼女が我が家に電話をして再び助けを求めてきた。よし、よかろう。来るなら来い。ドーンとこのオレ様の胸にまた飛び込んで来るがいい…と、ガブリエラに英語でこれを何と言ったかあまり記憶にないが、彼女は私が承諾したことをとても喜んで自分の洋服がぐちゃぐちゃに詰まった大きなバックを一つ抱えて、我が家へやって来ることに。

    かれこれ彼女との共同生活もすでに今日で5日目を迎えるが、とても家を追い出されて悲しみに明け暮れている女性には見えないほどガブリエラは毎日食欲旺盛だ。一日5食。見事な食べっぷりだ。トイレにも日に10 回は行く。我が家のトイレットペーパーが一日に2ロールずつ見事になくなっていくのだ。一人暮らしの私にはまるで考え難い現状だがひとまず文句は言わず黙ってそこら中に散らばったトイレの芯を拾い集める。

    心優しいオレ様は気晴らしにドライブにでも行こうかと誘ってみるがあまり乗り気ではないようだ。じゃあ彼女は一日中我が家でいったい何をしているかというとオーストラリア中にいる自分の家族に(アボリジニの親族制度はとても複雑。あっちにもこっちにもそこにもここにも家族がいっぱい)片っ端から電話をして自分の居場所や心情を訴える。もちろんオレ様の家の電話を使ってだ(大粒の涙)。

    水道出しっぱなし、冷蔵庫開けっ放し、それをいちいち注意しながら真夜中にステーキをジュウ、ジュウっと彼女のために音を立てて焼く私の身も案じていただきたい(砂漠のオンナは魚は食べない。肉、肉、とにかく肉さえあれば彼女はHAPPY)。

    自分の家でありながら私はすでに疲労困憊、ヘトヘトである。彼女の後を追っかけまわしては随時最終確認。夜は夜でゴジラの襲撃のようないびきのせいで私は睡眠を妨害される。目覚める時間は彼女の”ランチタイム”だ。時には朝の7時だったり、時にはお昼の1時過ぎだったり。とほほほほほ。

    本来狩猟採集民である流浪の民・アボリジニは一定の場所に長期間いることはないと言われていたが彼女はどうだろう。

    ガブリエラは私と同じ歳ですでに5人の子持ち。ほらはたまに吹くが苦労人である。熟女同志、人生について語ることはたくさんあるゆえ、しばらく彼女との共同生活を楽しんでみようと好奇心旺盛な私は今日もトイレットペーパーをこれでもかというほど買い占めて分厚いステーキを冷凍保存し”来るなら来い!”の体制でのぞんでいる。

  • 儀式への参加 -日本代表-

    普段文明都市メルボルンで暮らす私は、朝起きたらまずは熱いシャワーを浴び、夕方外出なんてするときには更にまたシャワーを浴びる、こんな”水大好きオシャレ人間”が実質8日間もシャワーどころか歯を磨くことすら断念した。

    それほど限られたわずかな水のみで暮らしたアボリジニとのブッシュキャンプは、まさに自分をヘナチョコ文明人と認知せざるを得ない、そんな過酷で厳しいものであった。

    野宿生活では髪なんて当然洗えるわけがないので、頭皮がはじめの数日ばかりはかゆかったのだが、そのあとは何も感じなくなったし、毎日毎日朝から晩までこき使われて疲労困憊していたので、頭のかゆさなんてのは、もはやどうでもよくなっていった。

    アボリジニ社会における”儀式”の重要性は、私自身これまでにもたくさんの関連書物で学んでいたので、最近通い慣れてずい分親しくなった砂漠のアボリジニ居住区でも、私のほうから”儀式に参加をしたいんだけど…”と安易に申し出ることはなかなかできなかった。 知識より実践を重んじ、ましてやフィールド調査を主とする私のアボリジニアート研究での”儀式”への参加は、それゆえとても大きな意味をもたらすものであることは確かだった。

    そんなとき毎年1年に1度だけ行なわれるというアボリジニの女性の集会”Women’s Meeting”へ今回一緒に参加をしないかと声をかけられ、「え…っ。こんな部外者の私が…。いいの? ほんとにいいの? それならもちろん喜んで行っちゃうわよ」と二つ返事でOKサインを出した有頂天のん気野郎の私であったが、実は今回誘われたそのMeetingといわれるものが、一体どれだけ重要で大規模な儀式なのか、なんていう予備知識がその時点ではほとんどなかったといってよい。しかし、かえってそれが新鮮で、「あるがままを自然体で受け止める、それが大事」といういつもの行き当たりバッタリ出たとこ勝負! である自分の信念にはピッタリだなと、安易に旅の準備を始めることに。

    アボリジニにとってのMeetingとは大抵”儀式”のことを指すのだが、その儀式も用途や地域によって、期間も様式も実に様々なものがあることは、事前勉強で心得ていた。許された者だけが、許された場所で世界存立の神秘の一部を知ることができるという、そんな神聖な儀式へ日本代表として参加を果たしたこのオレ様だったが、実はたった2日目にしてもう半死状態。

    まずは儀式の会場まで片道1400㎞という気絶しそうなほどの長距離ドライブで、すでに呼吸困難に陥ったことはいうまでもない。おまけに当然といえば当然なのだが、その会場となった場所はアボリジニの聖地といわれるところ。電気も電話もシャワーもトイレも三面鏡もドライヤーも電子レンジも何もない、まさにブッシュのど真ん中。普段大抵のことでは滅多に驚かないこのオレ様も、さすがに目を疑いたくなるような光景を初日からいくつも目に焼き付けることに。

    まず、1年に1度のこの大集会を心待ちにして、このたび豪州全土からはるばる集まった800~1000人はいたであろうアボリジニのおばちゃんたちが、みんなオレ様の目の前で中腰にかかんでおしっこをあっちでもこっちでもする光景には、慣れるまでそれなりに時間を要した。まあ、ここにはトイレがないわけだし、これは人間のとても自然な行為だと割り切ればよい、と自分に言い聞かせてはみたものの、このオレ様にとって用を足すのはプライバシー厳守のこと。駅で友人と一緒にトイレに入って隣同士だったりした際に、お互いの”音”を聞かれるのでさえ、ものすごく恥ずかしいっていうのに。それを至近距離1m以内で堂々とお尻をめくって”なさる”アボリジニの皆様の姿は勇敢だった。

    それでも恥じらいを感じてか、皆様ウ○コは木陰までわざわざ足を運んで、人目をはばかりながら御用を足されていらしたのだが、そのうちの何人かが、草むらで用足しの最中にお尻をヘビにかまれて大慌てとなり(←これ、ホントの話)、緊急時のためにと用意されていた飛行機に乗せられ、儀式そっちのけで最寄りの病院まで運ばれて行っちゃったことだって、慣れてしまえばぜ~~んぜん何てこと……ないわけがない。

    もしも日本人代表のオレ様が、同じようにお尻をヘビにガブリとかまれて病院送りされただなんてことになったらそれこそ笑い者だ。出発前に激励してくれた仲間たちから『ヘビにお尻かまれたんだって?』なんてニヤニヤされながら聞かれるのは、このうえなくみっともない。ましてやそのヘビが毒ヘビだったらそのまま息を引き取ってしまうかもしれないではないか。
    そんな心配をしていたせいか滞在中、実に7日間もの間私は便秘で苦しむことになった。ブッシュキャンプというあまりの逆境のせいからか、ウ○コ様がちっとも顔を出そうとしてくれなかったのだ。

    お腹は張るわ、髪はボサボサだわ、顔はホコリで真っ黒だわと、真剣に嫁入りはもう500%ぐらい諦めようと明るく決心した。歯も磨かないこんなオレ様とは、誰もチュウなんてしてくれっこないもんね。

    日の入りが毎日午後5時半ぐらいだったので、それ以降はどこを見渡しても真っ暗闇。懐中電灯をおでこにタオルで縛り付け、キャンプファイヤーで火傷をしながらの夕食作りとなる。何故か食事当番は連日このオレ様だった。来る日も来る日も全く切れない包丁で、野菜をこれでもかというほど大量に刻んだ。普段、料理は我ながら得意だと自負するオレ様だが、それはちゃんと自分の好みの調味料が揃ったキッチンで、オーブンやコンロを使いこなしての話。それがアチチチチ……とぶ厚い軍手をはめた手で鍋の取っ手を持ち替えながら、キャンプの焚き火での調理は勝手がいま一つ……というか全然わからない。炭だらけ灰だらけとなって、アボリジニのおばちゃんたちから叱られながら、おまけに使える調味料が唯一「塩」だけだったため味付けまでさっぱり?!?! と始終途方に暮れる始末だった。

    当初”ここからもう逃げ出したい”と本気でそう思っていたアボリジニのおばちゃんたちとのブッシュキャンプも、3日目・4日目・5日目になってくると、何となく元来の自分の『野生の勘』のようなものがみるみる冴えてきて不思議と楽しく感じられてきたのには驚きだった。

    時間に追われることのない毎日というのは、なんという「解放感」だろうか。着ている洋服を一向に気にせずに思いっきり汚せるということが、こんなにも楽しいと思えたひととき。はるか昔の幼少の頃にいつの間にか戻ったような、そんな懐かしい感覚。普段”人の目”ばかりを気にして暮らす日々。それがとてもつまらないものに思えてくるだなんて。こんな非日常的な体験をするとき、多少戸惑いながらも、人はあれこれとまっすぐ自分のこころに向かって語りたくなるものだ。

    儀式中は一切撮影禁止。ノートを取ることさえ許されず、儀式の内容を公に発表をすることもだめ。それゆえ私もここであれこれと儀式の全容を綴ることはお許しいただきたい。その代わりその儀式に少しでも関与できた日本代表の「心の変化」のようなものを今後お話していけたらと思う。

    往復2800キロの大陸縦断ドライブで、実はメルボルンに戻った現在でも、今だ身体中があちこち痛いのだが、その痛みを感じる度に、またあのダイナミックな体験を確実に思い起こせる、そんな喜びもかみしめている。

    人生、一生勉強ですな。

  • 砂漠への招待状

    私は昔から身体がデカかった。態度はそれほどデカくないと自負はしているが、声も普通の女性よりかなり低いので、あんまり女っぽく(←おしとやかにという意味だ)できないのが何を隠そう小さな悩みでもあった。しかし私はこれまで一度だけうっかり男子トイレに入ってしまったことを除けば、病院の受付などで男の人に間違えられたことはないし、ヌードショーの呼び込みに手招きされたこともないし、胸だって人並み(以上)にあると勝手に誤解しているので、自分では正真正銘「オンナまっしぐら!」だと確信していたのである。

    ところがどっこい、先日親しくしているアボリジニの女性に「オマエは男だ」と断言された。それは全く不可解な理由からだった。彼女たちが私を男だと思ったわけ→それは私の乳がヘソまで垂れ下がってないからだというのだ。なんてことだ。乳の大小で彼女たちから性別判断をされたとは。この認識をしっかり調査して来年のオーストラリア学会で発表しなければならないぞ。とにかくアボリジニの女性たちの中では、間違いなくおっぱいの大きさが女性としての認知度の高さと比例しているということがわかった。

    今更ジタバタしてもこれから私の胸が突然ヘソまで伸びるとはとても考えられない。こうなったら正々堂々とオレ様も男らしく正面から立ち向かおうではないか…。と意気込んだ矢先に名案が思い付いた。「そうだ。こうなったら私はまだ成熟しきっていない子供に成りすますのはどうだろう。胸はこれからみるみる大きくなるんだぞーーーー」。と覚えたてのアボリジニ語(ルリチャ語)でしっかりと意思表示をしてみようと思うがいかがだろう。

    さて、ところでどうして今回こんなに『胸』にこだわった内容を書くかと申しますとね、実はとんでもなくスペシャルなアボリジニの儀式にこのオレ様が招待をされたからなのである。儀式では参加者全員が上半身スッポンポンとなり幾日も幾日も踊り唄い明かすことになるという。おまけにその儀式は一年に一度だけ行なわれるという特別なもので参加者は女性のみ。そう、だから『男』(だと思われている)オレ様は本来参加が認められないのであるが!!!…これから成長する子供であればなんとかなるだろうと安易にただそう思ったわけなのだ。

    儀式のタイトルは「WOMEN’S MEETING」といって、豪州全土から総勢1500人余りのアボリジニの女性たちが一同にある一定の場所に集合をする。どんな人々が、何の目的で、何をするために集まるのかは私にはまだ明かされてはいない。

    ただこの儀式に参加ができるのは部族の歌をきちんと歌いこなせ、伝統的な踊りを見事に披露出来る年輩者のアボリジニ女性に限られるという。今のご時世、若手はなかなか伝統を受け継ごうとしないと年輩者は口を揃えてぼやいていた。そこにこんな若輩の《何たって子供ですから。にひひひひ》オレ様が、しかもアボリジニ以外の人間としてこんな大それた儀式に参加ができるというこの興奮を一体どのように伝えたらよいものか。到底言葉や文字では表現しきれないということをどうかご理解いただきたい。

    出発日は何と私の誕生日である。よりによって38回目の”めでたい”バースデーに砂漠入りをするとはこれも何かの”御縁”だと思わぬわけがない。38年も歳を重ねていながら子供になりすますこの図々しさも感心ものだと思っているが、それより何より何とイカしたバースデープレゼントではなかろうか。なかなかもらえないもんね。こういったプレゼントは。

    そうだ…プレゼントといえば一つ忘れ難いものがあるのを思い出した。もう随分前のことであるが友人から(もちろんトノガタ)”誕生日に何が欲しい?”と聞かれたことがあり、根っから謙虚である私は”うーーん。そうねぇ…。大きな花束なんてもらってみたいわあ。あ、ううん…でも気にしないでね。別におねだりしているわけじゃないんだからーーん。うふっ”と慣れない女言葉でくねくね身体をねじ曲げてみたことがあったが、その友人は私の誕生日の当日にこれでもかというほどたくさんの”花のタネ”を贈ってくれたことがあった。ぶったまげた。

    過日、儀式への参加前にアボリジナルアート展示会のためにアボリジニ村から年輩者が4人メルボルン入りしたので彼女たちに初めて参加をする儀式のことについてあれこれ尋ねてみたところ、持参するものは黒のロングスカートのみとのこと。へっ??? それだけ??? ほんと?

    何やら上半身は皆ヘソまで垂れ下がる豊満な胸にペイントをするのでそれが洋服代わりとなり、あとはロングスカートを身に着けて(パンツは履いてはならないらしい)ひたすら唄って踊っているとのこと。

    メルボルン入りした彼女たちから儀式用のダンスを少し習ったが、私の踊りを見てみな歯をむき出して抱腹絶倒。まいったな…。しかし「不安がることはないよ。あるがままに、そのままを受け止めればそれでいいのじゃ…」とそう言ってニヤリと笑うコリーンばあちゃんをとことん信じよう。

    とにかく私は今、儀式への出発前の興奮でちっとも落ち着かない。これほど想像の全くできない未知なる体験にどきどきわくわくすることなんて(しつこいようだが)、38年間も生きた中ではあまり味わったことがなかったような気がする。

    電気も電話もシャワーもまるでないブッシュの中でのアボリジニ達との儀式、遥か彼方の銀河を眺めながら大地に抱かれて眠る心地良さを思う存分味わって来ようと思う。

  • 再会への長い長い道のり2

    レンタカーを見事にぶっ壊しながらも、何とかして砂漠の女王様との再会を果たすためやっとの思いでたどり着いたアボリジニ村。そこはアリススプリングスから延々4時間半のドライブが必然である、まさに砂漠のど真ん中。再会までの長い長い道のりであった。

    途中、予期せぬ事故のために予定よりも大幅に遅れて到着した我々3人は、取りあえず自分たちの車でそのままアボリジニ居住区内をゆっくりと一周してみることにした。一周といってもそこはものの15分ほどであっという間に周れてしまう規模の小さな居住区だ。さすがにあたりはもう夕暮れで薄暗くなってきていたので、肌の色が黒いアボリジニたちが私にはみんな同じ顔のように見えてしまいそうだった。トプシーとリネットはどこだろう? 村のアボリジニたちにとって外からの訪問者はいつだって興味津々……見慣れないレンタカーに乗った我々の周りにすぐさま駆け寄って来る。私にとってこれで一体何度目となったであろうアボリジニ村への訪問は、さすがに顔見知りになったアボリジニの友人・知人が村の中にたくさんおり、私の姿を見てみな遠くから大きく手を振ってくれるではないか。中にはピョンピョン飛び跳ねて歓迎のダンスまでしてくれる少女の姿もあった。これってたまらなく嬉しい。

    そんな中不意に車の窓からひょいっと顔を覗き込んできてニンヤリ笑うオヤジさんもいる。どさくさに紛れて私の手まで握ってくる。でも男性に手を握られるのなんて久しぶりなのでちょっと嬉しい。

    そういえばこのおっちゃん……よく見かける顔であるが誰だったかな。どうも名前が思い出せない。チャーリーだったっけ? いやデイビット? 鼻毛が見えるほど顔を近づけられて戸惑う私。私の毛穴も彼に見られているのだろうか。そしてこのおっちゃんには前歯がない。結構迫力ある表情だ。彼は私の手ばかりではなく腕までもむんずとつかみ、その手がそのままエスカレートして今度は私の豊満な胸に伸びてきて……なんて話はあまりにも作りすぎ。彼はそんなハレンチではない。ただ馴れ馴れしいだけだった。「おー! ナカマラ。(これは私のアボリジニスキンネーム。このアボリジニの親族システムを説明するのは少々ややこしいのでそれはまた今度)オマエ、またやって来たのか。オレのこと覚えとるか? オレはオマエの旦那だ。チャパチャリだ。今度は誰を一緒に連れてきた? トプシーとリネットが今日お前らが来るのをそれはそれは楽しみにしていたぞ。チャポン(JAPAN)はとんでもなくすごいところだったらしいじゃないか。オレ様をいつ連れて行ってくれるんだ。ところでナカマラ! 40ドル持ってないか。あったら今すぐオレにくれ!」とかなり一方的に語りかけてくるこの歯なし男、しかも私の旦那と名乗る男だ。私としたことがいつの間に結婚をしていたのだろうか。自分のことであるのにまるで記憶がない。もしかして前回酔っ払ったあのとき……? いや、前々回のあの儀礼で……?? いやそれとも白昼の車の中か……???

    それにしてもなぜ私の旦那と名乗るこの歯なし男が欲しがる金額は、いつも40ドルなのだろう。妻である以上そこのところをはっきりしておかねばならない。彼には必ず毎度お金をせびられるのであるがそれが50ドルでも100ドルでもなく決まっていつも40ドル。今度いつか2人きりになって夫婦の会話でこの謎を探ってみようと思うがいかがだろう。

    さて、さっきの私の旦那と名乗る歯なし男が言ったように、昨年10月にこのアボリジニ村からトプシーとリネットが日本へ行ったことは、もはや村中の大ニュースになっていた。この村にははっきりいってプライバシーというものは存在しない。従っていつ、誰が、誰と、何を、どんな風に、ああやって、こうやって、こんなことまでしちゃった……ということがたちまち村中のすべての人間に分かってしまうというわけだから、アボリジニ村訪問をいつか予定されている読者の皆様、十分ご注意あそばされたし。メルボルンでは独り暮らしを楽しみ、隣に住む住人の顔さえ知らない私の生活からはまるで想像がつかない生活だが、何だかこんなふうに“みんなで一緒に暮らしている”といった大家族的な暮らしも案外いいものなのかもしれない。

    念願の再会を心待ちにしていたトプシー・リネットは我々が村に到着をしたことを聞きつけすぐさま会いに来てくれた。熱い抱擁を交わし再会の涙を流している真っ只中に、耳元でトプシーから「シャンプー、帰りに置いていけ」との冷静な指示あり。物質社会ではなく精神社会であったアボリジニたちも時代の流れによって暮らしぶりは大きく変化した。シャンプーちゃんと置いてくからもうちょっと泣かして……とつぶやく私であった。

    来日中はトプシーとリネットに、できる限り日本を満喫してもらうべく場所へあちこち案内をした私たちが、今度は彼等のホームグラウンド・砂漠のブッシュで彼等から歓待の案内を受ける番となった。もちろん“狩り”以外のなにものでもない。あのだだっ広いブッシュの中の大地をひたすら何時間も何時間も歩くことは、自然と自分が一体になることだと彼女たちは口を揃えて我々に言う。大地を理解するということは、まず自分の足でその大地を踏みしめて感じることなのだ。おまけに狩りはイモムシ・蜜アリ・カンガルー・トカゲとチョイスは様々だと自慢気に砂漠の女王たちは言うではないか。今回は取りあえず日本からのゲストを連れてきているので、まずは“初心者コース”でお願いしますと頭を下げた。

    これまで何度か蜜アリ狩りの経験のある私は興奮に胸を躍らせた。しかし初心者2人は「ええぇぇーーっ!!!アリなんて食べんのー?信じらんなーい」と意気地のないセリフを吐きながらもしぶしぶ同行。トプシー・リネット・ナープラの3人を乗せた我々は、蜜アリ狩りのために道なき道をブッシュの中へと消えていった。それにしても本当に道のないところを彼女たちの案内で目的地へ迷うことなくちゃんと到着できるのは、まったく見事であった。これは東京都内の地下鉄を私がグイグイ乗りこなせるのと一緒なのかな。

    焼きたてカンガルーのしっぽを丸かじりした。特に気温40度近い砂漠のど真ん中でいただく味は、まさに格別でとてもワイルドな気分になる。インスタントラーメンを鍋ごと「アチチチ」なんて言いながら食べるときのあの野性味溢れた感覚に、どこか似ていると思えるのは私だけではないはずだ。美味しそうに脂ぎったしっぽをガブリとかじるトプシー・リネットは誰よりも凛々しく見えた。

    日本での浴衣姿の彼女たちも確かに美しかったが、夕陽に照らされた真っ赤な大地の上に腰を下ろしてひたすら土の中を掘り続けるトプシー・リネットの姿はその何倍も美しかった。

  • 再会への長い長い道のり

    ほぼ半年振りのアボリジニ村訪問。毎度のことながら胸躍らせる瞬間である。

    昨年来日をしたアボリジニの女性画家・トプシーとリネット、そしてコーディネーターのグラニスとの再会が今回私が訪問をする一番の目的であった。何しろ生まれて初めて海を越えた日本での滞在2週間が、彼女達にとっては未だに夢物語のようだということをその後何度となく電話で聞かされており、それが理由で絵画の制作にもまったく集中ができない困った状態なんだと、グラニスは苦笑いをしながら私にそう話していたのであった。そんな彼女たちが自分たちの日本滞在物語を村のみんなに、家族に、いったいどのように語っているのだろうか、私はそっちのほうが何よりも興味深々であった。

    グラニスの話によると、何やらリネットは日本から村へ帰るなりご主人に顔面パンチをくらってしばし入院したというではないか。理由を聞くと「2週間も旦那のオレを放ったらかしておいてお前は一体どこで何をしていたんだ。きっとよそにオトコができて遊んでいたに違いない」と突然逆切れしたという。

    おお、かわいそうなリネットよ。私が今回村でご主人に会ってきちんと説明をしてやろうではないか。それでもわかってもらえないようであれば、今度はお返しに私が彼に顔面パンチをくらわせよう。こうみえても以前極真空手を3年ほど習っていたこともあったんだ。始めた動機はまったく不純であったがまだまだ上段回し蹴りぐらいは朝飯前だ。

    メルボルンから砂漠へ空路3時間。アリススプリングス空港から西へおよそ370キロひたすら内陸部を走ったところがトプシー、リネットたちが住む人口350人ほどのアボリジニ居住区である。速度制限のない、景色の一向に変わらない広大な大地を何時間も何時間もただただ走り続けて目的地へ向かっている、そのひとときこそ自分自身、そして自然との対話をゆっくり楽しみたくなるものだ。おまけに道の両脇にうっそうと生い茂るブッシュの木々がまさに「さあ、どっからでもかかって来い!オンドリャ~」とでも自分に問い掛けているようなそんな感覚にさえ陥る。

    今回は遠路日本からはるばる友人夫妻が同行し私以上にアボリジニの女王様たちとの熱い再会を待ち望んでいた。

    「ねえ、ねえ。それにしてもちょっとこの日差し、ハンパじゃなく強いんじゃない? 昨夜私たちが日本を出てくるときは雪が散らついてたんだけど」と友人のトモちゃん。アリススプリングス空港に到着するなりギラギラと肌に突き刺さるような日差しにすっかり閉口気味であった。彼女はつるんとした真っ白な美しい肌の持ち主ゆえ、日焼け対策は万全にしてくるようにと、私は事前に口をすっぱく忠告をしておいた。だが気温40度近い炎天下のもと、彼女はとにかく「アツイ、アツイ」の連発だった。

    空港からレンタカー、4WDを借りてすぐさま我々3人は出発。もちろん敏腕コーディネーターであるオレ様の運転である。「運転免許を取得してからもう15年以上(ほんとはもっと)過ぎようとしているんだから、オフロードのドライブだって全然へっちゃらなのよ。それに今日これから向かうアボリジニ村へは今まで何度も行ってるから道もよく知ってるしね。日本からの長旅であなたたちはさぞ疲れているでしょう? ゆっくり昼寝でもしてたらいいよ。目が覚めたらそこはもうアボリジニ村だってば。ははは……」

    そんな余裕満々なことをいつものように適当に調子よく言いながら快調なスタートを切り、車内でお気に入りのCDをガンガンかけて道中のおしゃべりに花を咲かせていた我々であった。すると……!

    アリススプリングスからすでに200 キロほど離れた未舗装のジャリ道へさしかかったころ「あっ!」と声を出したのと、道の両脇のブッシュにガクンと車両が突然乗り上げたのがほぼ同時であったそのとき……。

    我々の乗った4WDはさっき「どこからでもかかって来い! オンドリャ~!」と問い掛けていたブッシュの木々に本当に立ち向かっていくことになった。”うっそー!”と驚く間もなく、次々とぶっ倒した。それはまるで私が素手でボブ・サップにかかって行くようなものだった。この瞬間我々3人は同時に多分みな同じことを考えたであろう。

    「車が横転する」と本気でそう思った。こんなとき普通は「きゃあー」とか「こわい!」とか「神様助けて~!」と、きっと高い声で叫んじゃったりするんだろうなーと、私の頭の中でのイメージは結構バッチリだったのだが、もともと地声が低いので私にはこのセリフは難しい。せめて初めの音の高さだけでも合わせてみようか……なんてバカなことを考えていたが、今自分の目の前で非常事態が起こっていると認識したことで慌てて咄嗟に出た台詞は「何だこらぁ~!? どーした。どーした」であった。

    どうしたもこうしたも、本当の意味でどうかしているのはこの私である。車両は真ん中の道を横切って反対側のブッシュに再び突っ込む瞬間に、にぶい音をブルルルと出しながらようやく停まった。

    「うっそー。何これ。信じらんない。大丈夫? 2人とも怪我はない?」と同乗者にまず安否の確認。二人は無言。顔面蒼白。そりゃそうだ。私だって泣きたいさ。よりによってあなたたち二人を乗せているときに何でこんな事故を起こしちゃったんだろう。ジャリにタイヤがスリップしたのか?それより何より私もこれまで長いことこの砂漠のど真ん中を走り続けているけど、こんな事故は初めてだ。そうよ、ここはご存知砂漠のど真ん中。ガソリンスタンドなんて何処探してもないし、携帯電話だってつながらない。助けを求めるにも通りすぎる車なんてまず一台もない。

    「ごめんね。こんなことになっちゃって」と今度は本当に涙声になって、私は二人に謝った。普段低い声がより一層低くなった。

    「車がこんなメチャメチャになっちゃって、このまま街まで引き返せるかな」。内心そう案じながら私は恐る恐るもう一度エンジンをかけてみると、何とかかろうじてかかったではないか。「おー。でぃすいず、あんびりーばぶる!!!」と日本人しかいないのに何故か私は英語をしゃべっていた。「でもさ、今の激突もしもオレがビデオ回してたら絶対テレビ局に売れるよなー。惜しかったよなー。」と自称インチキカメラマンのご主人賢ちゃんはこんな事態に余裕の発言。

    その後、前方メチャメチャになった4WDで再び200キロの道のりをエッコラエッコラとアリススプリングスへ引き返したことは言うまでもない。

    警察へ行って事故証明を発行し、レンタカー会社へ頭を下げて代替車を用意してもらい、私は再び男らしく運転手として任務遂行。延々4時間半のドライブののち、その晩念願のアボリジニ村へようやく到着をした。再会までの長い長い道のりであった。極度の心労と長時間の運転で私の目はもう半分以上白目になっていたが、砂漠でのアボリジニの女王様たちとの熱い再会に私は「きゃあ~!」と、かなり高い声を上げて彼女たちに抱きついていた。イメージ通りの声だった。

    ……つづく

  • 愛と涙の東京物語(最終回)

    根は怠惰なくせに好奇心旺盛の私はとにかく思いついたことは即、行動に移さないと気が済まない人生をこれまで送ってきた。スチュワーデスをパッと辞め、日本をさっさと脱出し、アメリカ・オーストラリアを転々と放浪しながら現在に至る。ここに「結婚」という思いつきがもっと早く私の人生に訪れていたら、もしかしたら今ごろはプロ野球選手の妻ぐらいにはなっていたかもしれない。そんな勝手な妄想ばかりが頭をよぎるメルボルンの秋。

    アボリジニ居住区へ行ってみたい……そんな思いつきのような願いがあれよあれよという間に叶ってからもう随分と長い時間が経つ。そしてそこに住む”裸足のアーティスト”を日本へ連れて行きたい……その想いも昨年10月の展覧会で見事に叶った。”想っている事は叶うんだ”と信じる私は今日もあれこれと自分に都合のいいことをたくさん想うのであった。にひひひひ。

    展覧会の初日には主催ギャラリーがオープニングパーティーを企画してくれた。砂漠からの特別ゲストであるトプシー・リネット・そしてグラニスは見事にドレスアップをし、とても日頃ホコリまみれのアボリジニ村で暮らす3人には見えないぐらいイカしていた。私のお気に入りのスカーフをファッションのアクセントにと思いトプシーとリネットにそれぞれ貸してあげた……のだがトプシーはそのスカーフで口に付いたケチャップを思いっきり拭いていた。とほほほほ……。

    会場にはそれはそれはたくさんの人が駆けつけてくれ砂漠からのゲストたちはたちまち注目の的となった。私も会場に来ていた友人や知人たちに自分が日本へ招いたゲストたちを自慢気に紹介したものだった。そこへ私の視界に突然入ってきたある男性の姿。あれ?どこかでお会いしたことがあったけど……。どなただろう……??? 今日は一応パーティーだというのに仕事帰りという理由でジャージのような格好でいらしたあなたはいったい誰? 誰なのよ!!!

    「内田さん、お久しぶりです。今日はおめでとうございます」と私に向かって挨拶をしてくださり、頭をぺコッと下げるそのジャージ姿のトノガタは現在某テレビ局でディレクターをしている高校時代の友人だった。当時彼はクラスの中でもあまり目立つ存在ではなく、まさか華やかなテレビ業界で仕事をする人になるとは誰も想像をしていなかったであろう。

    「内田さん、すごいじゃない。オーストラリアからこんな人たち連れてきちゃって。お金かかったでしょ? 内田さんが全部出したの?」と、さっきのジャージ姿の彼がさらりと聞いてくるではないか。おい!そこのジャージ男。今日はよりによって展覧会の初日で、しかもオープニングパーティーでこんなにたくさんの人たちに囲まれて私もひたすら歯をむき出してずっと笑っていなけりゃならないっつーこんなときに、何でアンタはそんなお金のこと聞くのかね! とややムっとした表情をしてみせたら「ねえ、今回東京にいる間にテレビ出てみない?ギャラは出せないけどさ。メディア使ったら展覧会の良い宣伝になると思うけど」とジャージくん。

    顔はちょっと左門豊作くんのようだが(『巨人の星』の登場人物の一人)業界での力はそこそこにあると見た。さっきの立腹は引き出しにしまっておこう。来日早々こんなに急にテレビ出演の話が舞い込んで来るとはラッキーな我々だ。

    トプシーとリネットは生まれてから一度も美容院へ行ったことがなかった。アボリジニ村では自分たちで互いに髪を切り合う。暮らす環境が違ったって我々は同じオンナ同士じゃないか。そう、やっぱりテレビ出演となりゃ綺麗に映りたい願いは皆いっしょ。

    日本へ来てから体験した彼女たちにとってのたくさんの不思議な出来事。トプシー・リネットは美容院でも大きな注目を浴びた。シャンプー台に案内されていきなり電動イスで背中が倒れたとき、トプシーは絶叫し店内にいる他のお客様が一斉にこちらを見た。どうせならエステもやってしまおう…。リネットはマッサージの間、あまりの気持ちよさにイビキをかいて寝てしまったというウソのようなホントの話もある。およそ2時間後、砂漠の女王様たちは全くの別人となった。本当に美しく変身した2人を見た私は思わず”ぎゅうっ”と抱きしめて「きれいだよ。とっても」とつぶやいた。どさくさに紛れて私のことも誰かそう言って抱きしめてくれないかしらと周りを見渡したが、どこにも私と視線を合わせるトノガタは見あたらなかった。

    テレビ収録は約1時間。スタジオらしきところへ案内され、ブラウン管の向こうで見慣れた女性アナウンサーにドキドキし『サインもらっちゃおーかなー。写真撮っちゃおーかなー』なんてミーハ-根性を丸出しするわけがない私は視点が定まらず、ただキョロキョロするばかりであった。収録も無事に終わり我々は新宿のネオン街をてくてく歩いて帰った。テレビ撮影だろうが何だろうがそんなことはどうでもいいといった様子のトプシーとリネットはお腹が空いてたまらなかったらしく私の腕を引っ張って「フード・フード」とチカチカ光るレストラン街を指差した。

    今回”愛と涙の東京物語・最終回”を迎えるにあたって私も毎月の原稿を仕上げるたびにトプシー・リネット・グラニスと過ごした2週間の日本滞在をいま一度思い起こし、想い出のアルバムに貼った写真300枚を1枚1枚全部に目を通す。

    人は時々「私は○○と出逢って人生観が大きく変わったわ」と言う。自分の人生観を変えてしまうような、そんな出来事なんて本当にあるのであろうか。「いや、それがあるんだよね……」と私は断言する。

    オーストラリア先住民、アボリジニと出会ってから私は「あるがままに」物事を自然体に受け止められるだけのハートのでっかさが、ほんの少し養われたのではないかと思っている。これまでのように変に肩肘張って意固地になることなく、「あれもOK」「これもOK」「だからみんなOK」のようなある意味での寛大さとでもいおうか。「認める」ことで自分がものすごく楽になっていくそんな不思議な感覚。これからもずっと大切にしていきたい。