投稿者: landofdreams

  • 愛と涙の東京物語(4)

    「日本へ行けば、ジャッキーチェンに会える」そんなでまかせを私はアボリジニのおばちゃんたちに言った。2003年11月に開催した東京でのアボリジニアート展覧会に際しての来日のためである。日本へ来てもらえるならウソもつこう…と。
    なんと言ってもアボリジニの人々の間でジャッキーチェンは絶大なる人気を誇るスーパースターNO.1なのだから。

    来日したトプシーとリネットは大きな興奮とともに日本へやってきた。生まれて初めての大冒険、2週間の日本滞在である。

    成田空港へ出迎えに行った私は彼女たちと熱い抱擁で再会を喜び、さあ!いざ車に乗り込もうとしたらトプシーがいきなり私の袖をひっぱる。「なに?」と彼女の口元に耳を傾けるとコソコソ内緒話のように「ジャッキーチェンはどこだ」と早速問い掛けてくるではないか。
    成田空港には当り前だが日本人がうじゃうじゃいる。こんなにたくさんのアジア系の人間を見たことがないトプシーはあたり構わず指差しをしながら「あれがジャッキーか?それともこっちがジャッキーか?」と、まるで焦点が定まっていない様子。彼女は空港にいる日本人がすべてジャッキーチェンに見えてしまったようなのだ。

    「…まいったな」。私は内心ドキリとし、どうやってこの2週間のあいだにジャッキーチェンのそっくりさんを探そうか・・・いっそのこと報酬付きで一般公募してみようかなんてことが頭をよぎる。

    そこへ友人のトモ子ちゃんが「いーのがいるのよ。ジャッキーはまさにあいつしかいない。本人もジャッキーチェンの大ファンだからさ。ファンへの手の振り方とか直筆サインとかものすごく上手に真似できるんだよ。私、やつに頼んでみるからさ」

    持つべきものはうそつき仲間の友人である。私はすがる思いで彼女に「じゃあお願いしちゃってもいいかな。トモ子ちゃん。助かるよ」。そう言ってジャッキーチェンに扮してくれる男性の快い返答を待つことにした。

    オーストラリア中央砂漠のど真ん中から今回はるばる日本へやってきたアボリジニのゲストたち。もしかしたらこの来日は彼女たちにとってはそれこそ一生に一度の思い出になるのかもしれない。

    そう思うと2週間の日本滞在は決して長いわけではない…が、私のお財布も笑っちゃうぐらい空っぽになったのでやっぱり2週間でよかったのかも。

    こうなったら2週間の滞在中はあそこもここもと寝る間を惜しんで私は彼女たちを連れまわすことにした。初めて見るもの、初めて味わうもの、初めて感じること…何から何まで初めてづくしの体験に多少の戸惑いを見せながらもトプシー・リネットは始終満ベンなる笑みを浮かべていた。

    それでもやはりホームシックにはかかるものである。普段いつも一緒に暮らす家族がたまらなく恋しくなる。そこで敏腕コーディネーターのオレ様は3日に一度は砂漠の家族に電話をかけて声を聞かせるなどの涙ぐましい配慮をする。もちろん、オレ様の携帯電話からだ。念のためにお知らせをしておくがトプシーには5人、リネットには8 人の孫がいる。彼等ひとりひとりに「私は日本で元気に楽しく暮らしているから心配するな」と一部始終日本での様々な体験を語る2人。そう、オレ様の携帯電話からひとりひとりに(涙。大粒)。

    次回から私はプリペイド式の携帯にしようと固く決意した。そう、残高がなくなればあっという間に切れちゃうあの便利なやつ。

    深夜のパチンコが彼女たちはお気に入りだった。帰りに飛び込みで入った焼肉屋では箸を使わずすべて自分たちの手でじかに肉を焼いていた。また、デートスポットである東京お台場の夜景を見せてあげようと観覧車に乗せたらそれこそ絶叫もの。自分の身体が地面から離れて上空へ舞い上がるあの感覚はまさに私がスペースシャトルで宇宙へ飛ばされるようなそんな奇妙な思いだったらしく、トプシーもリネットも恐怖で顔をずっと伏せっぱなし。窓から見える宝石箱のような美しい夜景をとうとう一度も見ようとはしなかった。

    さて、前述のジャッキーチェンであるが何と依頼した男性からは快諾の返事があったとトモ子ちゃんから弾むような声で連絡があった。そこである晩我々はキャンプ場を貸切ってバーベキューを催し、そこへ突然ジャッキーチェンが現れるというまったく意味不明なシチュエーションをたくらんだ。普段砂漠でも狩猟で射止めたトカゲやイモムシをそのまま火にくべて食するスタイルはまるでバーベキューと同様だ。日本滞在中は少しでも彼女たちの日頃の生活習慣に近づけてやりたいとここでも敏腕コーディネーターの熱い配慮がうかがえる。予想通りトプシーもリネットも大満足の様子でこれでもかというほど肉を口一杯にほうばっていた。友人知人を招き総勢30人が砂漠からの特別ゲストへ大きな関心を示し代わるがわる彼女たちを囲んだ。

    そこへ!!!!

    ついにやってきたではないか、ジャッキーチェン。私のリクエスト通りシャツの胸元を少しはだけて顔がバレないように前髪ちゃんと垂らして絶対照明の真下には立たないようにと暗めの木陰から堂々登場。……したのだが、すでに彼がウソモノジャッキーだと知っている30人の友人知人の中には彼が当日ジャッキーチェンに扮することを知らない者もおり、何食わぬ顔で「あれー?まことちゃん。遅かったねー。仕事だったのー?今日はやけに派手な格好してんね」とのたまうばか者もいるではないか。まずい、まずいぞ。こうなりゃ、オレ様の出番だ。世界のスーパースター、ジャッキーチェンがこんなしがないキャンプ場に忙しいスケジュールをぬって来てくれたのだから絶大なる興奮と感激をファンは示さなければトプシー・リネットにすぐニセモノだとばれてしまうではないか。

    よし、やろう。ここでその緊迫感を見事に演じられるのはもうオレ様しかいない。思い起こせば中学生のときに劇団若草に応募したことだってあったではないか。

    少しお酒でほろ酔いだったこともあり私は夢にまで見たスーパースタージャッキーに会えたというとてつもない興奮のあまりに半狂乱になったオンナを見事に演じることを試みた。

    「じゃっきぃぃぃぃぃ~~~!ぎゃあ~~~!!!じゃっきぃぃぃぃ~~~!!!」セリフはそれだけだ。駆け寄って彼のシャツにしがみつき、声を裏返してひたすら叫び続ける。「じゃっきぃぃぃぃ~~~!じゃっきぃぃぃぃぃ~~~」いいのだ。半狂乱なのだから自分の世界にどっぷり漬かれば、ただそれだけでよかったのだ。

    この迫力ある私の演技に冷たい視線を流す30人の友人知人は放っておこう。トプシーとリネットさえ信じて喜んでくれたらそれだけでいい。

    彼女たちは500%、彼がジャッキーチェンだと信じ込んだ。近寄っていって握手を交わしあれこれおしゃべりに花を咲かせている様子。あとでニセモノジャッキーに聞いた話だがトプシーは何やらそうっと彼の耳元で「今晩、あとで私の部屋に来ないか」なんてお誘いもしたらしい。やるときゃ、やるな。トプシーめ。

    私は幼い頃本当にサンタクロースが存在する人物だと信じていた。今思えばまったく素晴らしい夢だったと、そんなピュアな心を持っていた自分が妙にうれしかったりする。そう、あの夢をいつまでもずっと抱き続けていられたら…と未だに夢見る夢子の私である。

  • 愛と涙の東京物語(3)

    連載40回目の記念すべき2004年2月号。よくもまあネタも尽きずにここまで続いたもんだとあらためて感激。それもこれもこれまで私に尽きることないネタを提供し続けてくれたアボリジニの皆様、そして「ああ、いつも読んでますよ。”裸のアーティスト”を、ドラゴンネットで」と応援してくださる読者の皆様のおかげゆえ今月も引き続き「愛と涙の東京物語 その3」がお送りできるわけである。深謝!

    しかし・・そろそろ覚えてもらってもいいもんだわよね。「裸の・・」じゃなくて「裸足の・・」であるということを。それから「デンゴンネット」ってちゃんと言わないと鬼の編集長に叩きのめされるってこともね。

    オーストラリア中央砂漠は世界でも最も水が少ないと言われる乾燥地域。普段そんな中で暮らすアボリジニはただでさえ貴重な水で”身体を隅から隅までピカピカに洗う”なんて発想は当然ながらあるわけない。そんな彼等も現在は居住区内で政府が提供している住宅で生活を営んでおりそこにはもちろんシャワーやトイレがきちんと設備されているのだが果たして彼等がそれらを毎日使用しているのかどうかは、はてさて?大きな疑問である。

    アボリジニ村に滞在している間、私は頻繁に彼等の家に遊びに訪れるのであるがいきなりジロジロ他人様の家の中を見るのも失礼であるからにして遠慮しーしー奥ゆかしく体育の座り方をしてまずはじいいいっとしばらく様子をうかがうようにしている。ドアを開けた一番最初の8畳ぐらいの空間にはボロボロに破けたソファーがひっくり返っていることが多く、さっきまで確かに生きていたであろう牛の頭だけが部屋の隅にオブジェのように置かれている空間はなかなか見応えがあって興味深い。冷蔵庫にはたまに靴が入っていることもある。

    「トイレ、貸して」と尋ねると一人の子供が私の手を引っ張って”バスルーム”らしきところへ案内をしてくれたことがあった。突然、床のぬめりですっころんだ。お尻は痛いし、周りは臭いしほんとにその場でおしっこちびりそうになったがとても目の前にあるベタベタの便器にしゃがむ勇気のない根性無しの私はそのままぐっと我慢した。おしっこも結構がまんが効くものである。そう、下っ腹に上手に力を入れて笑わないようにしてればいい、ただそれだけだ。

    アボリジニ村で毎日シャワーを浴びる人々がいったいどれぐらいの確率でいるものなのか私の持つ乏しい情報では定かではないのであるが今回日本へはるばるやってきたトプシーとリネットは間違いなく”あまり浴びてない”人たちだったような気がする。

    滞在した東京のウイークリーマンションでそんな彼女たちは毎日シャワーを浴びた。いや、浴びさせた。何といっても今回彼女達は展覧会の主役でありましてやテレビ出演まで果たす注目のスターになるのであるからにして身だしなみには細心の注意を払わなきゃ。まずは2人をお風呂場へ連れて行き指差し確認をしながら「赤い印の蛇口はお湯。青いほうは水。レッドはホット。ブルーはコールド。おーけー?」ってな感じで楽しく学習。

    どういうわけだかいつも必ず水浸しになる洗面所を私は毎回大きなバスタオルでピカピカに拭いたものだった。心境はまるでお寺の廊下磨きをせっせと行う”一休さん”。

    海外に長く住む日本人が帰国をする楽しみのひとつとして「温泉に入ってゆっくりのんびり」という声を聞くはずだが私も紛れも無くそのうちの1人である。ましてや今回砂漠のブッシュからやってきた特別ゲスト3人を何が何でも温泉に連れて行きたいと懇願していた私は友人に依頼して温泉調査をしてもらい、いよいよその願いが現実になる日が近づいた。目的地までの移動は新幹線。もちろんこちらもアボリジニご一行様にとっては初体験だ。予約を事前にしておかなかった私は緑の窓口で「普通車満席」との通告に一瞬ひるむ。・・・が、すぐに立ち直ってたちまちいつものカッコつけマンとなり「グ、グリーン車4枚お願いします」とクレジットカードを突き出した右手が震えていたのは絶対に気のせいだ。グリーン車なんて普段オレ様だって乗らないよ。すごいよ、まるで動く応接間だよ。一時間余りで現地に着いちゃうのなんてもったいないね、と貧乏性丸出し平民の私であった。そこで驚く無かれ、社内販売もタダだと思ったグラニス(同行したアートコーディネーター、オージー)はあれこもこれもと販売員のお姉ちゃんに指差しして抱えきれないほどの食べ物つかんで大笑い。「だって飛行機の中の食べ物はみんなタダだったじゃない」と真剣に私に訴えるかわいいおばちゃんももちろん日本の「温泉」は初体験。

    温泉には心優しい友人夫妻、そしてこの滞在中ずっと同行取材をしてくれている友人カメラマンのタカさん、その仲間の中本くんがご一緒下さり総勢8名・1泊2日の忘れられない想い出の旅となった。

    ファミリービジネスだろうと思われるアットホームな温泉宿のご主人たちは玄関先で快く我々を出迎えてくれたが身体のとても大きな色の黒い、しかもいきなり靴を履いたまま館内に入っていったトプシーとリネットを見て動揺を隠せない様子であったのを私は見逃さなかった。食事は特別に”肉をいっぱいで。肉なら何でも食べますから”と事前にリクエストを入れておき、おまけにお風呂も完全貸切家族風呂予約で我ながら万全の体制を取った・・・・(と思った。)

    部屋割りは女性5人、男性3人。男らしい中性の私はどちらで寝ようか一瞬迷ったが取り合えず今日は広く快適な女性部屋へ。まずはじめに彼女たちの興味深々である浴衣を着せてはみたが2人の大きなお腹に帯の長さがとても足りないので適当にごまかし「びゅーてぃふる、わんだふる」を連発しほんとに見とれちゃうほど色っぽくなった3人としばらく大騒ぎしながらの大撮影会。そしてさあ温泉に来たらまずはお風呂でしょう、お風呂!と事前に彼女たちに日本のお風呂についてあれこれ説明を試みたがまるでわかってない様子。もちろん砂漠の民にとっては生まれて初めての「お風呂」体験である。一体何をどうすればいいのかさっぱり見当のつかない様子のトプシー・リネット。

    よし、まずは私がどんな風にして入るのかをデモンストレーション。・・・したけど全然ダメ。2人ともモジモジしていてちっとも衣服を脱ごうとしない。困った私は「さあ。お脱ぎ。いい子ちゃんたち。何なら私が脱がしてあげようか。にひひひひ」と近づいたら「除雌gのr上スルン愚をでゅろもうええが覚えてろろろ」とまたしても彼女たちの言語・ルリチャ語で何か言われてしまったのだがそれがどうしても「おめー。おいらたちにこんな思いを味あわせやがって。砂漠に来たら覚えてろよな。」と私には聞こえてならなかった。

    「何だい。いつも自分たちは砂漠の儀式でおっばいブルン、ブルン振り出して踊ってるくせにぃぃぃ」と私も負けずに抗議。結局彼女たちはバスタオルで身体中をぐるぐる巻いて湯船につかることまでは何とか出来たのだがお湯が熱すぎるとか何とか言ってわーわー狂ったように叫び、腰元までしゃがむのがもう精一杯。生まれて初めての温泉体験は何やらいまひとつだったようだ。

    それじゃあ今度は食事はどうだといわんばかりに彼女たちを旅館の大広間に案内したところお膳一杯に並んでいる色とりどりのおかずに一体これらが食べ物なのかと不安気な表情でお互いの顔を見合わせているではないか。砂漠の民は魚をほとんど食べないのをご存知であろうか。そんな彼女たちのお膳にはあゆの塩焼きがギョロッと目玉をこちらに向けてのっかっていた。食べる真似だけ見せるリネットは「お腹が一杯」だと言って箸をつけない。私がアボリジニ村でよく使う手だ。採りたてのイモムシを目の前に出されたときに「お腹いっぱい」と必ず言っちゃったりなんかする。

    東京のウイークリーマンションからエッコラ温泉まで担いできた彼女たちの大きなバックにはこんな事態のためにと予めパン・コーンフレーク・コンビーフ缶などの非常食を入れてきた。結局お膳の食事をほとんど残し部屋に帰ってそれはそれはうれしそうにコンビーフ缶を丸かじりするトプシーとリネットを私はとてもいとおしいと感じた。

    来日以来、あんまり新しいことばかりの毎日にさすがに疲れも出たのであろう。夜は2人ともゴジラのようないびきをかいてさっさと就寝、いい夢見てね。グットナイト。

  • 愛と涙の東京物語(2)

    思い起こせばメルボルンのアボリジナルアートギャラリーに初めての日本人スタッフとして採用されたのが1994年だった。…ということは今年2004年で私の人生にアボリジナルアートが登場して丸10年ということになる。何だかめでたいというか感動というかこの誰よりも飽きっぽい自分がよくもまあ10年間もずっとアボリジ二漬けになっていられたもんだという変な驚きのような感覚。

    ギャラリー勤務当初はかかってきた電話ひとつ満足に取れず、来店したお客様と何とか目を合わせないように店内を逃げ回り、自分の存在感をまったくアピールできないまま取り合えずギャラリーに通ったそんな毎日。当時はなんと言っても私自身「アボリジナルアート」がよくわかっていなかったのだからましてやそれをお客様になんて到底説明できっこなかった。アボリジニの絵画を学ぶことは彼等の文化を一緒に学ぶこと…そんなことが書かれてあった人類学者の本を読んでから私のアボリジニ村への“住み込み調査”決行まで時間はかからなかった。

    誕生日をもう30回以上も迎えた歳になってからまさか「生まれて初めての体験」をこんなにも多く味わうことになろうとは。文明に毎日どっぷり漬かって暮らしている私がオーストラリアのど真ん中の砂漠で“狩り”だの“儀礼”だのに参加して一晩中スッポンポンに近い状態で踊らされるようなそんな体験。それらはまさに“いったい何が起こっているのだ!”と驚愕する以外のなにものでもなかった。それはこれまで自分が勝手に抱いていたものごとに対する先入観を見事に打ち砕かれたという大きなショックに近いもの。砂漠のアボリジニ村での様々な体験は私にとってすべてが新鮮であったのだ。しかし、私は日頃テレビやラジオ…それに今はインターネットというまさに文明の武器を使ってあらゆる情報を入手できるそんな環境に身を置く現代人。砂漠に暮らすアボリジニたちにはそんな通信手段は全くといっていいほどない。それゆえ自分たちの暮らす村の外ではいったいどんなことが起こっているのかなんて全く想像できるはずがないのは当然のことであろう。

    ここからは先月号からの続きとなるのだがそのアボリジニ村から何と私はブッシュのおばちゃんたちを2人日本へ招く機会をつくった。…というか「いつか必ず私のカントリーを紹介するから」と以前交わした約束をどうしても果たしたかったという熱い自分の想い。まあ、自己満足ってやつに近いものでもある。そんな想いから2003年11月、東京でアボリジニナルアート展を企画・開催し、実現に至ったのである。来日したのは近年注目されているアボリジニ女性画家のトプシーとリネット。そして白人アートコーディネーターとして私の友人でもあるグラニスおばちゃん。そんな3人が成田空港到着時から早速税関でまんまとひっかかり別室に一時間以上も閉じ込められての取り調べから、この「愛と涙の東京物語」は始まった。

    世界でも最も乾燥したオーストラリアの中央砂漠は1年間の降水量がたったの250ミリである。我々の滞在中に東京が豪雨にみまわれ1時間に何と57ミリの雨をもたらしたのがよりによって展覧会オープニングの当日。「ちょっと~~~。なんでこんな大事な日に雨なんて降んのよー!」と眉間に大きなしわを寄せて今夜着るはずのちょっとイカしたドレスを見つめて大きなため息…をついたのはもちろんこの私。ところが隣で「ひゃっほう~!!具利子不ネオウノリコスrんそりmぶのしrのほほー。あめ。あめ。」と砂漠からやってきた3人組はアボリジニ語でとにかく大騒ぎをしていた。彼女たちにとって今年初めての雨だったという。外出をするためにホテルで借りたワンタッチ傘が妙に気に入った砂漠の3人組は家の中でも地下鉄の中でもところかまわずパチパチ開いては閉じて私に何度も注意された。

    前述した「生まれて初めての体験」を私がアボリジニ村で味わったようにトプシー・リネットにもこの東京物語で存分に味わってもらいたい…私の願いはただそれだけだった。大げさに言えば「彼女たちにとっての一生に一度の想い出作り」のためだったら私はどんなことでもしようじゃないか!というそんな意気込みがあった。

    …が、滞在先のウィークリーマンションではトイレは流さないわ、シャワーは熱湯で浴びるわ、「わたしの使っていいよ」と与えたシャンプーを1回でボトル全部使い切るとか「初めての体験」を味わったのは実は他の誰でもないこの私であった。日本に来たからには神社仏閣へもご案内。早速浅草寺に連れて行ったら、境内中にハトがエサをもらうために人々にたわむれているのを見るやいなや「このハトを日本人は食べるのか」と真剣な表情で尋ねてくるトプシー。そうか、狩猟民にとって砂漠で目にする動物たちはすべて自分たちの口に入るものという当たり前の概念に“なるほど”とうなずく私。「ハトは平和のシンボル、食べない。食べない。」とトプシーに言い聞かせ次の目的地へと彼女の手を引いた。

    その目的地とはデパートの地下。あそこはいつ行っても私でさえはしゃいでしまう楽しい場所。見事に美しくディスプレイをされたケーキや野菜・果物は見ているだけで惚れ惚れしちゃう。そしてあの食品サンプルの試食に砂漠の3人組は目を丸くし「今日のランチはここで済まそう」とグラニスの一言に我々はデパート内を3周ぐらいぐるぐる回り瞬く間にお腹一杯にしたものだった。「あんた、日本人のくせによくそんな恥ずかしいこと出来たよね。」とあとでその話をした友人に嫌味のように言われたが私も豪州滞在10年目。もう身体も頭脳も細胞はオージーとアボリジニになってっからへーき、へーきと豪快に笑い飛ばしてやったもんね。

    一番心配をしていた彼女たちの日本滞在中の食事は思っていたよりも困難ではなかった。どちらかというとリネットのほうがチャレンジャーであり新しいものを取り合えず口に入れてみようという、まるで赤ちゃんのように目の前の食べ物を片っ端から試みた。もうお腹一杯で食べられないと言いながらも次々と手を出し、しまいには半分もどしながらも食べ続けた恐るべき根性の持ち主。そう、狩猟民の彼女は食べ物が今、目の前あるときにすべて平らげるという狩人の魂をしっかり持った女性であったのだ。敬服。

    それに引き換えちょっと消極的なトプシーはファミリーレストラン“ロイヤルホスト”が大のお気に入りであそこの写真つきの大きなメニューをお土産だといってそうっとカバンに忍ばせてきてしまったことはここだけの話にしていただきたい。

    ここで一言申し上げておきますが、私にとっても久しぶりの日本です。そうなりゃ、食べたいものがたくさんあるでしょうが。寿司・刺身・ラーメン・餃子。しかし砂漠の3人組は何しろ“魚”にご縁がないしそんなものは見たことがない。見たことがないものは“食べ物”として認めない。したがって2週間の東京物語のあいだロイヤルホストへ10回以上も足を運んだ事実もここにご報告しておこう。こうしてまだまだ続く「愛と涙の東京物語」、次号もどうぞお楽しみに。

  • 愛と涙の東京物語(1)

    ものごころがついてから人前で号泣したのなんて一体いつ以来のことだろう。おまけに鼻水までたらしてだ。人のあったかさがこれほど心に染み入るだなんて…。私も歳を取ったもんだなぁ。

    東京表参道でのアボリジナルアート展覧会に向けて、私は豪州中央砂漠のアボリジニ居住区より2人の女性画家を日本へ招いた。距離でいうとざっと7500キロ。彼女たちだけでの海外渡航は困難なので今回はもうひとり白人のアートコーディネーター、グラニスおばちゃんへ日本までの同行を依頼したところ彼女は快く承諾をしてくれた。…というか、彼女が一番“ジャパン、ジャパン、どんなところかさっぱりわからんがとにかくジャパン、ジャパン”とはしゃいでいた。

    そんな彼女はもうアボリジニの居住区で14年も暮らしているベテラン選手。それゆえかなりアボリジニに近い感性の持ち主である。さあそれはいったいどういうことかと申しますと…例えば家の中ではひと目もはばからずスッポンポンに近い状態で歩き回るとか、「時間」というものを全く意識しないで日々狂ったように買い物しまくるとかトイレもたまに流すのを忘れて出てきてしまうとか。他人様のウンコを流すのも慣れればなんてことはないもんだ。

    そんな3人とともに暮らした12日間「愛と涙の東京物語」をゆっくりご紹介していきたいと思う。

    普段居住区から400キロ離れた街にさえあまり出掛けないアボリジニにとって海の向こうなんてところは全くの未知の世界。今回の日本への旅はそれこそ人生最大のイベントであった。そこはいったいどんなところで何が待ち受けているのか彼女たちにはさっぱり想像がつかなかったことであろう。

    とにかく“日本に行けばジャッキーチェーンに会える”という熱い想いだけを胸にトプシーとリネットはグラニスとともに日本へやってきたのだから。

    10月21日

    カンタス航空21便成田到着予定06時40分。どれぐらいの荷物を砂漠から持ってくるのか見当もつかなかった私は父の大型車とともに成田空港へ出迎えに行った。「オーストラリアのブッシュから日本への珍しいゲスト」という話題性たっぷりの彼女たちの到着に、空港には日本テレビのカメラもスタンバイして私はいまかいまかと出口から次々に出てくる乗客の顔をひとりひとり覗き込んだ。

    彼女たちが無事に出てきたら私は駆け寄って行って熱い抱擁で出迎えよう。英語ダメダメの父にも「いい?ちゃんと“うえるかむ、とぅー、じゃぱん”って言うんだからね、恥ずかしがらないでちゃんと言ってよね。と何度も念を押し、少しテレビカメラを意識した私は誰にもわからないようにさささっと口紅を塗り直してみたりもした。

    ……が……待つことざっと1時間。

    「そろそろ出てきてもいいですよね~」と日本テレビカメラマン。「そうですねえ。何かあったんでしょうかね」と引きつり笑いで返答する私。「まさかさぁ、乗ってないってことはないよね。」と友人でフリーの番組コーディネーターのタカさん。彼は今回ずっと私たちと同行で取材をするぞと張り切ってこの日も早朝からスタンバイしてくれていた。

    それなのにもう次の次のその次の到着便の乗客もすでに出てきているではないか。私の脳裏にはあれもこれもといやぁ~~なことがたくさん浮かんでくる。こんなときにまったくポジティブな発想が出来ない自分の性格を恨んだ。

    「わたし、今から砂漠に電話してみます。ちゃんとゆうべみんな飛行機に乗ったかどうか確認します。」…と鼻の穴を大きく見事に広げて、自分の手のひらサイズの携帯電話から7500キロ海の向こうの居住区へ電話を入れた。いや、実はもうすでに前日ちゃんと飛行機に乗ったかどうかの電話確認は済んでいるのだが(心配で3回もかけた)それでもこの不安はまったくといっていいほど消える気配がなかった。

    砂漠の居住区にはグラニスのご主人ティムがお留守番。電話が通じると少し寝ぼけた声で「ちゃんと飛行機には乗ってるから心配する必要はない。」と口をもごもごさせて面倒くさそうに答えるティム。「おんどりゃ~~!ティム!こんな時間に寝てんじゃねーよ。大事なことなんだよ。ほんとに昨日飛行機乗ってんだろーなー!!」と英語でオンナ番長風に言ってみるのは初めてだったが結構キマッタ。それほど私はカリカリしていた。

    そんなやりとりをしていると「ナカマラー! ナカマラー! ナッカマッラ・ナッカマッラ!!」と突然甲高い声が聞こえてくるではないか。この日本で私のアボリジニスキンネームを呼ぶのは間違いなく…「きゃああああああ~~~。グラニス~~。トプシー~~。リネットぉぉぉぉぉぉぉ~~~」彼女たちの姿を見つけた私はまるで数年ぶりに最愛のダーリンに再会をしたかのような言葉には出来ない感激と興奮に身をつつまれた。私のあまりの絶叫に、空港にいたすべての人間が“いったい何事が起こったのか”と一斉にこちらを見ていたようだった。

    何やら、一時間半も別室に連れて行かれてあれこれと取り調べを受けていたと真っ青な顔でグラニスは言う。しかし、あれほど日本での滞在中のイベント内容、滞在ホテル、その他もろもろ細かいこと全部を明記して事前に送っておいたファックスを絶対に忘れないで持ってくるようにと念を押してそう言っておいたのにグラニスはそんなことはさらさら覚えちゃいない。それゆえ税関係員の質問に何一つ答えられず、おまけに身体の大きな色黒い女性を2人も連れていたものだからそのまま別室へさぁどうぞと案内をされたらしい。

    「おーまいがー。おーまいがー。(注:OH MY  GOD!)」とグラニスは恐怖におののきながら手荷物すべてを開けられて、はるばる砂漠の居住区から持ってきたコーンフレークや紅茶・アスパラガスの缶詰を係員に見せたという。 彼女こそ、日本がどんなところだか全く理解をしていない貴重なオーストラリア人女性である。彼女を今すぐ日本のスーパーマーケットに連れて行かなくちゃ!と心からそう思った。だって私が砂漠に非常食としておせんべいを持っていくのとは訳が違うでしょ。

    そんなハチャメチャな初日スタートを切った我々の日本滞在珍道中であったが、そこには笑いあり、涙あり、鼻水ありのドラマが見事に展開されていった。 当初心配していた彼女たちのホークシックなんてまるでうそのように吹っ飛び毎日朝から食欲モリモリ。生まれて初めての温泉体験、ドキドキハラハラのテレビ出演、大絶叫の観覧車。お気に入りのワンタッチ傘は家の中でも始終パチパチ。そして何よりもたくさんの素敵な仲間と出逢えたことに心から感謝。

    “わたしひとりじゃ何も出来ないことが自分ひとりじゃないことで何でも出来た”と確信した「愛と涙の東京物語」を今後しばらくご紹介させていただこうと思っている。

  • アボリジニのおばちゃん達、東京へ

    今月号のこの記事を皆様にご覧いただいている頃、恐らく私は日本でアボリジニのおばちゃんたちと東京見物をしていると思われる。そう、今回は2週間にわたって東京表参道のギャラリーで開催するアボリジナルアート展に向けての来日なのである。出発前に多くの友人・知人から「がんばってきてね」「あなたにしかできないことだから」「それにしてもよくやるよね」「途中でぶッちぎれてアボリジニのおばちゃんたちを地下鉄ホームなんかから突き飛ばさないでよね」なんていう激励注意のお言葉をたくさん頂戴して私はこのイベントに大きな興奮とともにのぞんだ。

    これまでアボリジニの画家を日本へ連れて行った経験は幾度もある。しかし、そのとき同行したアボリジニの女性は英語も流暢で現代社会にどっぷりと染まっている、つまりコミュニケーションにはそれほど困る問題はあまりなかったのであるが(性格の不一致という理由で大喧嘩はしたが)今回はまさに豪州大陸のど真ん中、ブッシュからのご一行様なのであるから準備にも余念がない。

    このたび見事日本行きのチケットを手にしたのはアボリジニの画家でも最近特に注目を浴びているリネットちゃんとトプシーちゃん。・・・“ちゃん”なんて気安く言ってはみるが、お二人とも私よりずっと年上で孫までいらっしゃるという人生経験ベテラン組。まずはパスポート申請からこの日本行きの作業は始まったのだが思ったより取得が困難ではなかったのが唯一の救いであった。彼女たちのスキンネームであるナパチャリとかナンパジンパなんていうのもちゃんとパスポートには記載されていた。勉強になるなあ。

    まず初めに彼女たちに“日本”について、いやそれよりも外国というものについて、いやはやとにかくアボリジニ居住区以外の場所について説明をする必要があった。彼女たちは普段砂漠の辺境地に住んでいるとはいえもちろんこの21世紀をともに生きるオーストラリア人なのであるからある程度の文明社会への理解はある。・・・が、海の向こうの見知らぬ国に関してはやはりまったく想像がつかないようだった。

    “JAPAN”といってもまずピンときていない。“アジアの一部”と説明したらますます混乱している様子。仕方なく“飛行機、ろおおおんぐWAY(遠いところ)”といって子供の頃遊んだように飛行機が飛ぶまねをしてみた。ついでに意味無くピョンピョン飛び跳ねてもみた。そしたらゲラゲラ笑われただけだった。

    とにかく全くの新しい未知なる世界を私は彼女たちの人生に紹介するのであるからその責任も重大である。

    普段この大自然に囲まれた砂漠での生活から、突如コンクリートジャングルでの東京滞在になるのであるからホームシックにだって瞬く間にかかるであろうと思われる。食事、滞在場所、言葉の壁などこれは私が初めて外国で暮らしたときに味わった異文化への違和感とまったく同様なのだから。

    それに東京のあの狭いホテルの部屋に長期間缶詰になるのは私だってお断り。そこで知人宅(普段は空家)への滞在が可能なものかどうか頭を下げてお願いしてみたが「ブッシュからの人たちだとシラミの心配があるから」とあっさり断られた。これは人権問題にしてもいいのではないかと思うほど私はその言葉に傷ついたがやはり普段アボリジニと接触がない人へ大きな理解を求めるのは私が安易過ぎたのだろうと反省。慌てて都内のウイークリーマンションをインターネットで探した。そして見つけた。全員が一緒に泊まれる少し広めの部屋を獲得した。多少割高ではあったがこの際止むを得ない。そこなら台所もついているのでトプシーちゃんリネットちゃんの好物である「牛の脳みそ」もちゃんと料理してあげられる。それに彼女たちがいくら食い散らかしても誰にも文句は言われない。おまけに私が食い散らかしてもごまかせる。

    豪州のブッシュからのご一行様が来日をするというニュースを日本のメディアでいくつか取り上げていただくことになった。滞在中の同行取材の話も出ている。・・・ということは私がアボリジニのおばちゃんたちに本当にぶっちぎれて大声で怒鳴り散らしている姿もちゃんとカメラに収まるというわけだ。ますます私の嫁入りが遠のく気もするが、こんなワイルドな女性こそぜひ私の嫁に!という少し変わった男性もいるかもしれないのでこの際少し大げさに怒鳴ってみたりしようと内心思っている。

    せっかくの日本が東京だけではつまらない。というか、可愛そうだ。そこで優しい友人夫妻が一緒に小旅行へと誘ってくださり紅葉の美しい山々をぜひ砂漠のおばちゃんたちにも見てもらおうと2泊3日の温泉旅行も企画している。山へ連れて行った途端、狩りに行きたいと彼女たちから言われるかもしれないがそれはそれでうまく対応しようと思う。

    そう、温泉。ただでさえ乾燥した水の少ない砂漠で暮らしてきたアボリジニたちにとってその水は“生きるため”の大事なものであって“身体を洗うもの”なんていう発想はまずないということをここにお知らせしておきたい。そんな彼女たちにとって温泉のような熱いお湯の中に自分の身体をどっぷり入れるという行為、しかも全く知らない人たちとスッポンポンになるということがどれだけの大ニュースになるのかなんて実は想像もつかないが、私だって以前アボリジニ村で“儀礼”に参加するからといわれてスッポンポンに近い状態にさせられたことがあるんだからね。これも経験、経験。

    主催ギャラリーでは私の“アボリジニ村体験記・裸足のアーティストに魅せられて”なんていう2時間トークも用意されているとのこと。ここではトプシー・リネットちゃんたちの故郷をスライドで紹介しながら豪州先住民アボリジニについて私の知っている限りのお話をさせていただく。日本滞在中、遠く離れた家や家族を恋しく思う彼女たちへスライドの画像を通して少しでもホームシック解消になれば・・・とこんな気遣いまでする心優しい私もぶっちぎれれば人が変わる。

    アボリジニのおばちゃんたちとの日本滞在12日間。さあて、どんなドラマが待ち受けているのだろうか。とにかく、まずはみんな無事に成田空港に到着をしておくれ…今の願いはただそれだけである。

    つづく

  • 21世紀のアボリジニ

    先日、こんな体験をした。ある食料品店に買い物に行ったときのことだ。そこの店主とはまあ、行けばいつもひと言ふた言世間話程度の言葉を交わすことはある。彼には私が普段どんな仕事をしているのかは以前話したことがあった。

    そこで決まってその店主から毎度聞かれることが「何でオマエさんみたいな日本人の若い娘(これは勝手な私のイマジネーションだと思う)が、“アボアート” なんてやってんだろうねえ?イイ金になるんかい?」ってこと。「まあ、失礼ね。このハゲ出っ歯オヤジ。私は純粋にこのオーストラリアのアボリジナルアートを愛しているのよ。それだけよ。」と鼻の穴を大きくしてムキになって答える。私はこの“アボアート”と言われるのがこのうえなく嫌いなのである。まったく持って白人側の勝手な差別用語だと確信している。

    すると、そこへ常連と思われる女性買い物客が会計をするために私の横のレジに並んだ。彼女は私を見るなり「あら、あなたのそのネックレス素敵ね。どこで買ったの?」と言って顔をぐっと近づけて来た。「ああ、これね。これは私の友人のアボリジニの女性がブッシュで採れる木の実で作ってくれたものなの。私のお気に入りなのよ。」と少し得意げにそう言うと、すかさずハゲ出っ歯オヤジがしゃしゃり出てきて「おいおい、聞いてくれよ。このジャパニーズガールがなぁ…。(最近ガールと言われることもあまり…というかほとんどなくなったので一瞬顔がほころぶ。)何の仕事してるか知ってるか?“アボアート”だよ、“アボアート”!信じられねーだろ。それでもってよ、ブッシュに行ってイモムシなんてじゃんじゃん食ってんだぜ。そんな風には見えねーけどな。オレ様はやだね。できないね。」 ……言っておくが普段温厚なこのジャパニーズガールもこのときばかりはさすがに立腹した。そう、腹が立ったということだ。近くにちゃぶ台というものがあったら間違いなく立てひざついてひっくり返していたはずだ。

    「ちょっと、ハゲ出っ歯オヤジ!あなたはアボリジナルアートについていったいどれだけ理解しているっていうの。美術館に行って彼等の芸術を一度でも鑑賞しようとしたことがある?少しでも本を読んだことがある?何もわからないくせに私がいかにもキチガイじみた変なことをしているような言い方しないで頂戴!!きぃぃぃぃぃ~~!それにね。言っときますけどねぇ、私はイモムシだけじゃなくて大トカゲも食べるのよ。地鶏みたいで美味しいの。黄色いブヨブヨした脂肪なんて舌の上でこう…溶けていってまさに大トロなんだから。」興奮のあまり私は声を高らげてそう言い放ち、足早に店を出た。こういった出来事は実は初めてではないのでそのたびに私はひとり興奮とともにあれこれ様々なことを思うのである。

    オーストラリア先住民アボリジニは一般の人々にいったいどういった印象を持たれているのか。いや、与えているのか。政治的な絡みなどを考えると私も安易な発言は控えるべきだし、私は私自身の目で捉えたことだけしかやはりわからないのが事実である。

    現在、オーストラリアには人口およそ25万人と言われるアボリジニたちもそのほとんどは混血でいまや全体の8割は我々と変わらぬ都市生活を営んでいる。肌の色は白人と変わらないし髪も金髪で少なくとも外見的には“アボリジニ”に見えない人々が実に多いのが現状である。そんな彼等は自分たちの固有の言語もとっくに忘れ、部族間での伝統的儀式などは知るすべもない。それでも白人の中にはまだまだ「アボリジニは黒くてブッシュで裸で暮らしている人たちさ。」なんておかしな偏見を持った人が意外と多いのだからまったく困ったものである。

    これまで誌面にも数々登場してきた私の喧嘩友達、アボリジニ画家のバーバラも混血である。母親が純血のアボリジニ(とても有名な画家・ミニープーラである)で父親がアイルランド人だ。父親の顔は知らないとバーバラは言う。そんな彼女は少女時代自分がアボリジニであることをずっと隠していた時期があったと私に伝えた。肌の色が褐色なのは「私はインド人だから」とまわりには嘘をついていたらしい。なにせ当時アボリジニであるということは「酒におぼれた仕事もしない怠け者、一日中路上にたむろしているだらしのない人」としての固定概念を勝手に植え付けられ、それゆえに定職にも就けずレストランやパブからも追い出されていた、そんな時代が確かにあったのであるから。

    そんなアボリジニたちの意識を大きく変えたのは1967年の国民投票の結果だった。これによってアボリジニはオーストラリアの市民として正式な権利を初めて付与されたのだ。まだわずか35年前のことである。だがそれ以来、これまでのようにアボリジニであることは“隠すべきもの”から“差別に抵抗する根拠” として大きく変わっていったのである。

    シドニーオリンピックで一躍アボリジニの名を世界中に広めた400メートルランナー・キャシーフリーマンは陸上選手として、またバーバラはオーストラリア国内はもとより今や海外でもコレクターが注目し、あちこちから個展のリクエストが絶えないアボリジニの画家としてそれぞれ“アボリジニ”であるためのアイデンティティを立派に主張している。 

    前述のハゲ出っ歯オヤジを機会があればいつか砂漠のど真ん中におっ放してやろうかと思っているがいかがであろう。そうすれば、オヤジには私が言わんとしていることが少しでも理解できるのではないかと勝手にそう判断した。一見、何もないただのだだっ広い広大な砂漠がアボリジニにとっては自分の自宅の庭のようなものでそこにはいつどこへ行けば何があり、どんな獲物が捕れるのか実に明確に頭の中に叩き込まれている…そんなカッコイイ人たちからハゲ出っ歯オヤジにはぜひ“生きるため”の知恵を存分に学んでいただきたいのである。

  • アボリジニあれこれ

    早いもので私もこの連載を始めてからもうかれこれ2年以上の月日が経つ。こんな飽きっぽい私がなぜこんなに長く続けられているのか・・・疑問でしょう。きっと原稿料をわんさかもらっているに違いないと勝手に想像をしていてくれたまえ。

    時折、これまでに書き綴ってきた自分の原稿を私も一応は全部読み直してみることがある。今更あれこれ言っても遅いのだが「ああいった表現をすればよかった。」とか、「ここのこういう書き方はまずかった。」などという大きな反省をして夜も10分ほど眠れないことだってある。

    しかし、一番の大きな反省点はこれだ!これなのだ。いつも何かとオチャラケた体験紀行記ばかりを書いていて、実は肝心なオーストラリア先住民・アボリジニに関する適切な情報提供があまりにも少ないということである。これじゃあまるで私がいつもアボリジニ村でイモムシばかり食べているとか、また乳出し踊りばかりをしているとかの誤解をされてしまう恐れがある。はっきり言ってそれもかなり正しいのだが、今月号は新年号ということもあり心新たに「アボリジニあれこれ」について簡単にご説明してみようと試みた。こう見えても私も一応本をたくさん読んだり学者にインタビューしたりとアボリジニ研究をしているんだよーーん。

    … と、言っておきながら早速まずひとつお知らせしておきたいことがあるのだが、ご存知の通りこの広大なオーストラリア大陸に住む先住民アボリジニはもともと 500以上もの言語集団に分かれていて、もちろん住む地域によっては生活の仕方も考え方も全く異なる集団なのである。私の専門は中央砂漠のアボリジニ達。したがってここで紹介するのは主に砂漠で暮らすアボリジニ達のことであることをご理解いただきたい。

    歴史

    オーストラリアの先住民アボリジニは地球がまだ氷河期だったおよそ5万年前、インドネシアとオーストラリアの間にあるトレス海峡を渡った東南アジア系の人々が祖先だったと考えられている。彼らは広範な地域で小さな集団を作って生活し、その長い歴史のほとんどの時代を狩猟や野生植物の採集などで過ごして来た。私もこれまで何度も彼らの狩猟に同行してオシッコちびるような体験をしたが、が、その中でも一番驚いたのが地面の下から水を得るために何時間もひたすら掘りつづけてやっと得た「奇跡の水」が実はアンモニアのにおいだらけで鼻がひん曲がりそうになったこと。だが、その水をみんなが目の前で美味しそうに飲んでいたとき私は心の中で「カンニンしてください。」とお祈りしていた。そんな彼らの狩猟採集生活にも少しずつ変化が現れてきており、これまで使っていたブーメランや槍の代わりに散弾銃を持ち、四輪駆動のトラックで狩猟に出かける姿も今では珍しくないのだ。また、1788年にヨーロッパから白人が入植した事でアボリジニ達の暮らしは大きく変わり、白人による土地の収奪などによって生活の場を失い1930年代には当時30万人以上もいたと言われていたアボリジニが何と5万人まで激減していったのである。

    住居

    獲物を追って大地を移動する生活を続けてきたアボリジニ達には我々のように家を構えて一箇所に住むといった概念がまるでない。それゆえ彼らの住まいは実にシンプルだ。乾季には木の下で生活。強い日差しと夜露が避けられればそれで十分なのだから。現在はオーストラリア政府がアボリジニ達のために近代的な住居を供給しているが、もともと「住まい」に関する考え方が根本的に違うために、ドアを叩き割って焚き木にしたり、冷蔵庫の中に靴をしまってみたり、部屋の中にさっき殺したばかりの牛の頭がまるで置き物のように置かれてあったのにはさすがの私もたまげた。

    食物

    狩人の血を受け継ぐアボリジニの人々は草原(ブッシュ)にある食べ物(タッカー)・つまりブッシュタッカーを確実に、それはそれは見事に見つける名人。砂漠で重要な蛋白源になるイモムシの幼虫や貴重な糖分になる蜜アリなんて大変なごちそうなのだ。そんなごちそうを私もいただく機会に恵まれ(とほほ・・・)イモムシを生で口に入れた瞬間には同時にもう泣いていたような気がする。ああ、これでもう誰ともKISSが出来なくなってしまった。イモムシを生で食べるこんなオンナといったい誰がKISSをしたがるものか。口の中でまるで生卵がドロっと流れていくような・・・まさにあんな感じ。「美味しかった?」と面白がって聞いてくる諸君にひとこと。正直言って味なんてよくわかりません。現場では頭の中がちょっと真っ白になっていてとにかく早く飲み込んでしまえと唾液をいっぱい口に溜めたことしか記憶にないのであるから。しかし、これは手のひらでグニョグニョ動く生の物体を口に入れたときの話。ちゃんと焼いてもらえばこれがまた美味。皮はパリパリ・中身はフワフワで結構香ばしくイケちゃうのである。

    現在はそんなアボリジニ居住区にも政府が設けたスーパーマーケットが設置されており、彼らはそこでほとんどの食料をまかなっている。ここで、アボリジニの人々の人気食品ベスト3をご紹介してみると1位は砂糖・2位が炭酸飲料・そして3位が小麦粉である。中でも砂糖は一人で一日に120gも使うというのだから驚きだ。そのため糖分の摂りすぎによる肥満や糖尿病・虫歯の発生率が高まっていることは言うまでもない。私も以前アボリジニ村滞在時に3歳児ぐらいの男の子が1.5リットル入りのコカコーラボトルをラッパ飲みしている光景を何度も見たものだ。食生活の改善が彼らの今後の大きな課題である。

    結婚

    いい歳をして(余計なお世話だ)まだ「結婚」をしていないこの私が、アボリジニの「結婚」について綴るのはちょっとシャクだ。…が、結構興味深いのでちょっとだけご紹介してみよう。まず、相手選びが日本の「いいなずけ」に似ているのである。男性・女性それぞれが8つのスキンネームに分類され、自分のスキンネームによって自動的に結婚相手が決まってしまう。ある部族間では男性は必ず自分の母親の兄弟の娘を妻にするというルールもあり、その相手は子供のときからすでに決まっているという場合があるのだ。

    またアボリジニ社会では一夫多妻も認められているが、ただしこの風習は夫に先立たれた女性が夫の弟などと再婚することで老後の保障につながり、一方で男性にとっても働き手が得られるという点でお互いに利点があるためだとも考えられるが…うーーん、正直言って私には複雑すぎてこのスキンネームシステムがよくわからない。だが、明確なのはこのアボリジニ社会で私も暮らせばすぐにでも嫁入りが出来そうな気がしてならないということだ。日本に住む両親にアボリジニ村への嫁入りについてちょっと相談してみようと思う。

    …ということで新年号にぴったし!である「アボリジニあれこれ」はご要望があればもっと詳しく喜んでお話しますのでいつでもご遠慮なくご一報くださいませ。([email protected]

  • アボリジニ村珍道滞在記 後編

    さて、今月は「アボリジニ村珍道滞在記4日間」の後編であるが実はまず何からいったい書こうかとあれこれ頭を悩ますほどイベントが盛りだくさんの毎日であった。ここではそのほんの一部しかご紹介できないのが誠に残念である。

    ご存知の通り、このオーストラリア大陸の最初の住人であったアボリジニはおよそ5万年前から人類の最も基本的なライフスタイルである狩猟採集のみで、それはそれは長い間自然とのハーモニーを大切にしてきた人々である。・・・が、今もってスッポンポンで裸足で狩りだけをしているアボリジニなんてどこにもいないし、彼らは居住区内のスーパーマーケットで缶詰や冷凍肉・野菜を買い我々と変わらぬ生活を営んでいる。(彼らの好物、カンガルーのしっぽも一本$7で購入可)ただ、その”生活”という概念が我々と若干違うだけのことである。そんな現代(いま)を生きるオーストラリア・アボリジニ達とのふれあいを私は今回のこの旅の同行者であるS子・TOM・A里たちと共有したかった。

    まずアボリジニ居住区に入るにあたっては許可証の申請が必要である。観光客がむやみやたらとそこへ入り込まないように訪問者の身分をハッキリさせておく必要があるのだ。そして滞在の目的も同時に明らかにしておかなければならない。ひと目ですぐバレるようなウソではあったが、今回は「アボリジナルアート市場視察」ということでS子は不良美術教師・TOMは悪徳アートディーラー・A里は貧乏美術大学生ということにして見事アボリジニ村訪問を実現させた。インチキだらけの旅がこれまた面白い。

    到着初日、早々に”ハニーアント(蜜アリ)”狩りへ出発した。我々4人が来ることを見込んでアボリジニの友人ナプラーはすでに何人かの仲間たちにも声を掛けてくれていたらしく、狩猟道具(道具といっても鉄の土堀棒と特大の空き缶であるが)も用意されていた。現在食料の80%以上をもはやスーパーマーケットに頼っている彼らではあるが、いまだにこうして伝統的な生活スタイルを残す動きがあることは非常にうれしいことだ。

    さあ、いよいよ蜜アリ狩りに出発だ。我々のレンタカーである三菱パジェロは確か5人乗りのはずであったが恐らく9人は乗り込んでいたであろう。「うっへー。マジ~?これみんな乗せてくの・・・?荷台にも人が乗ってんだけど大丈夫?」といきなり不安気な様子を見せるTOM。「今更なに言ってんのよー。キミ、運転手だよ。はい、さっさと出発する!」と冷静に指示するS子。二人のやり取りを見て「あはははははっは・・・・」と笑い続けるA里。私自身も久しぶりの蜜アリ狩りに胸を小躍りさせながら目的地を彼女達に聞くが、皆ある一定方向を指差しながら「THAT WAY」と口を揃えてそう答える。もちろんそこは砂漠のど真ん中。標識なんてどこにもないし道しるべは唯一彼女達の持つ情報のみ。文字文化を持たなかったアボリジニ達は情報のすべてを目で耳で鼻で身体全体で記憶する。お見事だ。制限速度もあるわけのない砂漠での運転でTOMはスピードの出しすぎだとアボリジニの女性たちに注意された。「ええー、だってここ一本道だよ。一本道。対向車もないでしょうに。」とやけに口ごたえをするTOM。しかしここは砂漠なんだ、TOM。ここでは彼らがボスなんだ。黙ってキミは運転しててくれ。私は心の中でそうつぶやいた。

    いったい何をどんな目印にしているのか私にはさっぱり分からないのだが「ここで止めろ」というナプラーの合図のもと車を降りるやいなや皆一斉におのおのの思う場所めがけて散らばった。我々4人も置いていかれちゃあたまらない・・とそれぞれに必死について行く。砂漠の日中はとても気温が高い。みるみる汗がT -シャツに染みて行くのを感じた。そんな暑さの中でもアボリジニの女性たちは「ここだ!」と思った地面にどんどん穴を掘り始め一時間もしないうちに瞬く間に胸まですっぽり入るような、深さ1メートルはあるであろう穴をみなほとんど同時に完成させた。「あ、いたいた。アリだアリだ。まん丸だ。すごい大きい!」と興奮するS子の側で「わたし、食べたい」といきなりアリを口に入れる度胸者A里。「うんめー。これイケるよ、絶対!でもさぁ。これ一見みるといくらの醤油付けみたいだぜ。」と訳分からぬ事を言いながら絶賛するTOMはひとりで密かに10匹以上は食べていたのを皆知っていた。

    「このアリは糖尿病に良く効くの。糖分を取りすぎるアボリジニ達の良い薬でもあるのよ。」と言いながら美味しそうに次々に蜜アリを口に入れていた女性は見事に丸々太っていた。そんな光景を見ながらこの砂漠のど真ん中で今日初めて出逢ったアボリジニの女性たちと日本人のS子・TOM・A里たちがこんなにも親しく自然体で蜜アリ狩りを一緒にしていることが不思議にさえ感じられた。

    人と人のつながりって本当に素晴らしい。普段、何かと忙しくしていることが「充実している証拠」だと思いがちな私自身の生活を大いに反省した。何万年も変わらぬこの大地のようにもっとリラックスして、スローダウンしてこそより本当の豊かさを得られるのではないだろうか。

    蜜アリ狩りに引き続き、手のひら大の大きなイモムシ狩り,アボリジニ村小学校訪問、トラック荷台乗車での超長距離ドライブ、アボリジニたちとの儀礼ダンス、絵画買い付け、ため息つくほど美しい砂漠の朝日・・・そして何よりも優しいアボリジニたちとのふれあいなど、とても4日間とは思えぬ”魔法の時間”。

    念のためにお知らせをしておくが、私も【自称・インチキコーディネーター】これまでに何人もの友人・知人をアボリジニ居住区へ連れて行く機会があったが、今回ほど”自分”が楽しめた訪問はなかった。なんといっても今回の同行者であるS子・TOM・A里は”自分たちがより楽しむ方法”を私以上に認識していたのである。したがって私は彼らをアボリジニ村で放っておいても全くへっちゃらだったのだ。これじゃあインチキコーディネーターがますますインチキっぽく聞こえてしまいそうだが、今回は私自身も含めそれぞれがこの旅を通して実に様々な想いを巡らしオーストラリアに住む一日本人として、そしてこの地球上に生きる人間として、砂漠で暮らすアボリジニ達と数日間接することによって学んだ大地と人間との大きなかかわりをより一層強く感じたのではないだろうか。

    アボリジニ村滞在中ずっと我々の食事を気遣ってくれた優しいS子ママ。ちょっと気を抜くとみんなの目を盗んですぐ居眠りするおとぼけTOM,そして最年少でも一番クールで物怖じしない、ほんとはあなたが一番パワフルでしたと称えたいA里。素晴らしい旅の実現に心から感謝したい。

  • アボリジニ村珍道滞在記 前編

    未知なる不安をいっぱいに抱えて初めてオーストラリア中央砂漠のアボリジニ居住区に足を運んでからもうかれこれ6年の月日が経つ。当初友人でもある歴史学者に懇願し、彼の妹として(・・・年上の私が妹だなんていうのは何とも図々しい話なのであるが、アボリジニ社会での複雑な家族制度ではまあよかろう。。。ということになった。)滞在したアボリジニ村では言われるがままにゴミの山の上で眠ったり、毛の抜けたダニだらけの目が完全に”イッっちゃってる”犬たちとも仲良く遊んだ。それから数日後、もうこのまま治らないのではないかと思うほどの結膜炎にかかり片目がメヤニでしばらくつぶれていたことは言うまでもない。「・・・すごいところに来ちゃったみたい。」というのが正直な私の印象であった。しかし、私の”アボリジニ熱”がますます高まったのは実はそれからといってもよいだろう。それ以後は独りで車を走らせ、またある時には同行人を共にして”住み込み調査”を幾度となく繰り返すためにアボリジニ村へと向かった。

    「・・・ねえ、ねえ。今度一緒にアボリジニ村に連れてってもらいたいんだけど。」そんな発言をしたのはメルボルンで私がこのうえなく親しくしているS子。「そうだね。いつかね。」とこれまで何度となく言葉をにごしてうまくごまかしていた私。「ねえ、ねえ。今度いつ行くの?わたし、ホントに行きたいんだけど。」目がいつも以上に真剣なS子。「え、マジで行くつもり。でもね、行くとなったらああでこうでこうなるかもしれないけどそれでも大丈夫なの?」とアボリジニ村行きをちょっと脅かしてみる私。しかし、「うん、ぜ~んぜん大丈夫。」と自信満々のS子。「・・・よし、それなら具体的にプランを立てようか。」ということになり我々の砂漠行きがあっという間に決行となった。「ねえ、ねえ、実はさ。この砂漠行きの話を同僚のTOMにしたらぜひ一緒に行きたいっていうのよ。彼、男だけど連れて行ってもいい?」とS子。「え?男?大歓迎だよ。荷物持ちに丁度いい。よし、じゃあ3人でアボリジニ村に行こう・・」と計画を立て始めたころなんともう一名参加希望の勇士が出た。大学でコンピューターサイエンスを勉強しているという友人A里。「ようし、もうこうなったらみんな一緒に連れて行っちまえ。レンタカー代が安くすんでいいや。もうみんな大人だし何かあっても自分の責任だからね、ね、ね。」と、かなり安易な返答をしながらもやや心配ではあるインチキコーディネーターをかってでたこの私。怪我や病気をさせたら大変だ。しかしながらこうして我々4人のアボリジニ村訪問が具体化するまでに時間はかからなかった。

    2002年9月21日。これからまるまる一週間は寝食を共にするという仲間たちとはアリススプリングス空港で合流することにした。メルボルンからみな一緒に行かないところが大人である。

    インチキコーディネーターは2日間ほど前にアリススプリングスに先回りしてちょっと自分の仕事をやっつけてから旅の準備を。いや、準備といっても砂漠が詳しく書かれている大きな地図の購入とレンタカーの手配のみ。後は現地の人間へのコンタクトだ。

    さていよいよ出発の当日。アリススプリングス空港へ先に到着したA里とは初対面であるS子・TOM。空港でそれぞれの自己紹介からこの旅は始まった。用意しておいたレンタカーに荷物を積み込みひとまず街へ出てこれから砂漠での3日間分の食料を調達することに。「ほんとに、みんなちゃんと考えて買ってんの。こんなに誰が食うの。買いすぎじゃない?」と、やや怪訝そうな表情のTOM。これだから男は困るのよねーと1対3で女子チームの勝ち。さっさと山盛りのワゴンを押して頂戴ってば。とTOMの意見などまるで聞いちゃいない。

    さあ、買い物も無事に済んでこれからいよいよ出発だ。最初の運転は私がしよう。・・と意気込んだインチキコーディネーターは早くも道を間違えすぐに交代。続いてS子の運転に。同乗者を3人も乗せていながら、ひたすらまっすぐな道をビュンビュン飛ばすS子。尋常じゃない。「うぉ~。すっげぇー。砂漠だよ、砂漠。ホントに何にもねえよ。」・・と景色を見て感動に浸るフリをするが、すぐに居眠りをするTOM。そんな中でも「えーと、次はCD何聴こうかなあ。」と冷静に選曲をしているA里。インチキコーディネーターはもうどうなってもいいやと半分やけっぱちで到着時間を気にしながら現地までの道のりを一緒に楽しんだ。

    出発から数時間後、タイヤのパンクもなくカンガルーをひき殺すことなく無事にマウント・リービックに到着。今回、我々にとっての最高の想い出の地となったマウント・リービックはアリススプリングスから西に400kmほど走らせたアボリジニ居住区。総勢300人ほどのアボリジニと12名の白人で運営されている村である。ここにもうかれこれ16年もずっと住んでいるという白人女性・グラニスおばちゃんと親しくなったことから私もこれまでに何度もこの居住区へは足を運んではアボリジニたちとの共同生活を堪能した。だから、村にも知り合いがすでに何人かいた。面識のない見ず知らずの人間をアボリジニたちは敬遠しがちだといつか本で読んだことがあったがそんなことはまるでない(と思われる)このマウント・リービックの温かい人々。実は今回の滞在でもアボリジニ達から「私はオマエの息子になる。そしてアンタはシスター。だからその靴と腕時計をわしらに置いていけ。」と理解に苦しむ歓迎を受けたりした。

    私も1年半ぶりの訪問に胸の鼓動が高まる。懐かしい。うれしい。また来たよ。まずは居住区内をゆっくり車で廻ってみよう。誰か知り合いはいないもんか。いれば話がずっと早いんだけど。何度も足を運んでいるマウント・リービックだが毎回同じメンバーが滞在しているとは限らないのである。何しろ複雑な家族構成を持っているアボリジニの社会では東に 700キロ離れた村で家族の誰かの葬式があるとみんな一斉にそこへ移動をしたりするのが当然なのである。・・・と、そのときひとりの痩せた大きな瞳の女性が私の視界に入った。「あ、ナプラーだ!!」すると彼女も見慣れない車を見つけて素早く近づいてきた。「今日、オマエたちが来ることはグラニスから聴いて知ってたよ。また会えてうれしいよ。」とアボリジニ社会では滅多にすることのない大きな抱擁を私はナプラーと交わした。
     

    本来アボリジニ村にはホテルなどという宿泊施設はまるでない。したがってこれまでは私も野宿やキャンプ・車の中での宿泊を幾度か経験した。大空のもとで用を足す瞬間といったらたまらない開放感である。誰かに見られてはいないかと周りをキョロキョロするあの緊張感も言葉ではうまく説明できないほどの興奮だ。さて、そんな我々の今回の滞在先は野宿でもキャンプでも車中でもなくグラニスおばちゃん宅であった。しかしながら肝心のグラニスおばちゃんは私用でシドニーへ行っているとのことで生憎の留守。その代わり空いている部屋でよければそこを使っていいわよという快いオファーをすぐに飲み込んで我々はそれぞれの寝袋を抱えてそこに3泊4日お世話になることに。

    「ねえ、ナプラー・・。突然だけど今回はスペシャルビジターを一緒に連れて来ているの。どこかへ狩りとか行けるかなあ。」すると「ハニー・アンツ《蜜アリ》ハンティングに連れて行ける。」と即答するナプラーに内心「やった!」と喜ぶ私以上に同行のスペシャルゲストたちの顔はみな微笑んでいた。到着早々にアボリジニ達と一緒に狩りに行けるだなんてなんと強運の持ち主たちだろう。そんな強運の持ち主たちとの『アボリジニ村珍道滞在記4日間』

    紙面上には書ききれないことばかりのイベントだらけの毎日。従ってこの続きは後編でゆっくりとご紹介しよう。

  • 小豆島物語・バーバラとの日本滞在記《後編》"バーバラとのケンカ"

    他人と「ケンカ」をほとんどしたことがないこの私が「ケンカ」をした。その相手はアボリジニの女性画家、バーバラであった。場所は白亜のリゾート地・小豆島。2002年8月のことである。オーストラリア・エアーズロックとの姉妹リゾート都市友好のキャンペーンのためにバーバラと私は政府観光局より20日間の小豆島滞在を依頼されていた。

    バーバラ・ウィア。〔推定年齢59歳。誕生日の記録なし〕彼女はオーストラリア中央砂漠にあるアボリジニ居住区UTOPIAで生まれ、アマチャラ語を話す著名なアボリジニ女性画家である。以前オーストラリア政府が行った政策の対象となった(“STOLEN GENERATION-盗まれた世代―”)のひとりでもある。

    彼女と私の出会いはもうかれこれ7年前。NHKテレビの取材コーディネーターをした際にバーバラが通訳となってくれたことがきっかけであった。なにしろ彼女は幼いころに無理やり親元から引き離され、その後白人家庭で20年近くも”白人化教育”を受けたゆえに英語とアマチャラ語を流暢に使いわけることのできるとても貴重な存在であった。

    すっかり意気投合をしたバーバラと私は取材後も頻繁に連絡を取り合うようになり、昨年は彼女を初めて日本へ連れて行くなど〔勝手に〕信頼を深めていった。・・・と思った。

    もともと体調の優れないご機嫌斜めの彼女をどうにかこうにか小豆島へ連れてきた私はそれなりに大きな責任を感じていた。それゆえ彼女に始終ご機嫌であって欲しいと願うあまり、ついつい奴隷のように彼女の言いなりとなる私であった。バーバラが「水!」と一声上げれば「はい、ただちに」とすかさず(ひざまづいて)水を差し出し、腰が痛いと訴えれば彼女を横にして何時間でもマッサージ。そういえば、どさくさに紛れてすっぱいにおいのした足の裏ももんだ記憶がある。

    小豆島では滞在したホテルのロビーにスペースを確保し、そこで午前と午後に2時間ずつ彼女が絵画制作のデモンストレーションをすることに。地元の新聞記者たちも取材にやってきた。少しずつ、バーバラの緊張が和らいでいくのを感じた。何たって彼女は周りから注目をされるのが大好き。「私はスターよ、見て見て。」といった具合に記者たちのインタビューにも始終にこやかに応じていた。そして、その翌日から次々と紙面に載る自分の記事を見て喜ぶバーバラ。その喜ぶ彼女の姿を見てなお喜ぶ私。・・・もう大丈夫だろう。彼女のご機嫌は元に戻っただろう・・・そう胸を撫で下ろしたのもほんの束の間であった。

    その晩、彼女は「血を吐いた! 今すぐ病院に連れて行け。」と私の部屋のドアを叩いた。時計を見ると午前一時半。一体何事が起きたものかと慌ててドアを開けるとハンカチで口を覆ったバーバラがパジャマ姿で立っているではないか。慌てて彼女を部屋に入れて事情を聞いたが、どうも「血を吐いた」形跡はない。「血を吐いたと思った」とさっきまでパニック状態であったバーバラが私の目の前で「お腹が空いた」と青ノリせんべいをボリボリ食べ始め、「今夜はオマエの部屋で寝る」とさっさと私の隣りのベットに横たわり、まるでゴジラの大襲撃のようないびきをかいて眠った。

    翌朝、私はしばらく寝たフリをして彼女の様子をうかがった。・・というか極度の睡眠不足で起きられなかったというのが正しいのであるが、それでもあくびをかみ殺しながら一緒に朝食を取る。彼女のご機嫌はいつも以上に悪かった。理由はわからない。ただ、私が何を聞いても返事がない。朝・昼・晩と始終ふたりっきりで食事を取るのに私たちの間に会話がまるでない。沈黙が何よりも苦手な私だが、もう笑顔を作って彼女に話し掛ける気力はどこにもなかった。

    「オーストラリアに帰りたい、もうここには居たくない。一日も早くこの場所を抜け出したい」

    「どうして?理由を話して、バーバラ」

    「理由なんてない。ただ帰りたいだけ。帰らせろコノヤロー。でないと、今後一切オマエを砂漠に行かせるものか。」と、声を高らげるバーバラ。

    「なんですってー! じゃあ何で最初にこの日本行きを承諾したのよ。これ以上私にどうしろっていうのよーーー!!!」私の身体と心は弱りきっていた。睡眠不足の日が続き、疲労が極限に達していた。これまでの憤りがまさかここで爆発するとは。無意識に大きな声を出していた。周りのテーブルの人たちがこちらを見て驚く。そんなの眼中なし。バーバラが怒って席を立つ。一人テーブルに残された私は声を殺して静かに泣く。「ケンカ」の出来ない私が「ケンカ」をしてしまった。仲直りって、いったいどうすればいいんだろう・・・と私は彼女とケンカをしている最中にそんなことを考えていた。

    「ごめん、バーバラ。さっきは言い過ぎた。許してちょうだい。お願いだからご機嫌を直して。」・・・そう言って彼女に大きなHUGをした。

    彼女はホームシックにかかったのだと素直に私に話してきた。自分の体調が優れないゆえ、尚更家族のもとに居たいのだという。ひとり海を越えて来てしまったことにずっと大きな不安を抱いていたらしい。

    “家族”とのつながりを何よりも大切にするアボリジニ社会。その家族からひとり離れて言葉も通じない異国へやってくることがどれだけ彼女にとってストレスであったのかを私がもっと理解をするべきであった。

    「ごめん、バーバラ。そんなに帰りたいんだったら何とかしてみよう。今から航空券の変更がどこまでできるかやってみるよ。」なんて強気で言ってしまった自分だが、これを関係者の皆様にいったいどうやって説明しようか・・・とあれこれ頭を悩ませていると「このようなイベントにはハプニングはつきものですよ。気にしないで下さい。」・・と主催者の方の涙の出るような優しいお言葉。

    「本当に申し訳ありません。そしてご理解有難うございます。」と何度も何度も何度も何度も頭を下げ、バーバラと私は白亜の高級リゾートホテルをあとにしたのであった。

    思い返せば小豆島滞在7日間。和食を全く食べないバーバラとの食事は毎度毎度カロリーたっぷりの高級フレンチ。〔食事は3食ホテル内〕おかげさまで体重増。

    また、出発前にスーツケースにそうっとしのばせてきた例のハワイで買った私のビキニは、結局入れてきたビニール袋から一度も取り出されることなくそのまま再びメルボルンへと持ち帰ることに。ちょっと悔しかったので試着だけはしてみたが。

  • 小豆島物語・バーバラとの日本滞在記《前編》

    瀬戸内海では淡路島に次いで面積が広い小豆島(しょうどしま)。そこは温暖な気候と豊かな自然に恵まれ、四季折々の彩りや雄大な渓谷をリゾート気分で満喫できる見所いっぱいの観光スポットとガイドブックに書かれてあった。その小豆島がオーストラリアのエアーズロックと『姉妹リゾート都市』なんてことを知っている人は数少ない。というかほとんどいない。

    思い起こせば去る4月後半、オーストラリア政府観光局から電話があった。 8月に小豆島で“エアーズロックフェア”を開催するのでプロモーションのためにアボリジニ画家をひとり連れて来てはくれないか・・・・と。あまりにも簡単にそんなリクエストを出す政a府観光局。昨年の私の苦労をまるで理解していないようだ。

    そう、昨年11月に私はひとりのアボリジニ女性画家を展覧会のために日本へ連れて行った経験があることを報告をしておいた。しかし、彼女が一円もお金を持ってこなかったことや、私の携帯から連日砂漠に住む家族に電話をかけ、後日それこそ目ン玉飛び出すほどの請求書が私に送られてきたことや、見るもの触るもの全て欲しがって、それらをものの見事に手に入れた・・そんなことは皆様は知るすべもない。

    しかし、私の知る限りアボリジニ画家で英語が流暢で、パスポートを持っているのはバーバラ、彼女しかいない。そこで彼女に「日本へもう一度行きたい?」とちょっと様子うかがいで聞いてみたら、二つ返事で「もちろん行きたい。だって前回訪れた日本はそれはそれは素晴らしい思い出が沢山あるし、MAYUMIが始終私の面倒を見てくれたから、全くホームシックにかからなかったもの。だから今度も是非あなたと一緒に旅をしたいわ。」なんて彼女本人から言われ、八方美人でお調子者の私は直ぐに観光局にOKの電話を入れた。先方も大変喜んでくれていた・・・と思った。

    さて、日本行きの準備が整って、出発を待つばかり・・・といった矢先にバーバラが急に体調を崩して入院してしまった。一気に日本行きが怪しくなる。主治医に事情を話し、4週間後の日本出発が可能か確認。それほど心配は要らないと言われ、ひとまず安心して様子を見ることにした。

    今回のエアーズロックフェアで、バーバラは、小豆島の高級リゾートホテルにて絵画制作のデモンストレーションをすることを依頼されていた。私もホテルでの物品販売用にブーメランやアボリジニデザインの入った小物類をダンボール箱7箱分用意して出発を待ち望んでいた。

    何といってもそこは海の美しいリゾート地。何やら『日本夕陽百選』にも選ばれたという、美しい夕陽を望む白亜のリゾートホテル。そこには素敵な“何か”が私を待っているに違いない・・・そうほのかな期待を込めて、2年前にハワイで買ったビキニをそうっとスーツケースにしのばせた。

    思ったよりも回復が早かったバーバラだが、実は出発の2日前まで「日本には行きたくない。自分は病気だ。家族のもとを離れるのは怖い。日本で自分の身に何かあったらMAYUMIはアボリジニ達からそれこそとんでもない目に遭わされるはず。それでもいいのか。」と、しまいには私を脅す作戦に出てきた。「でもね。もう出発は2日後なの。お願い。一緒に日本に行って。現地ではもうあなたの到着をみんな心待ちにしているの。行けば大歓迎されるんだから。私、何でもするから。ね、ね、行こうよ。楽しいよ。万歳!ジャパーン!!」と私は少しでも彼女のテンションを上げようと面白い顔までして笑わそうとも試みたが全く効果なし。

    そんな気乗りのしない彼女と日本での滞在20日間。何だかいやぁ~な予感がしないわけがない。案の定、出発の空港からご機嫌ななめで、機内でもブツブツ文句ばかり。疲れているんだろうと「バーバラ、私足をもんであげるよ。」と一時間ほど彼女の足を揉み続けた。爪も1センチほど伸びていたので切ってあげた。こんな事が後20日間も続くのかと想像しただけで、自分が病気になりそうな気がしたが、それも気合で乗り越えようと意気込んだ。なんたって、白亜のリゾートホテル。そこには素敵な“何か”が私を待っているのだから。

    小豆島へは高松から高速船に乗ればわずか30分。この高速船は島内の人々の通勤の足となっているらしい。ところで砂漠で暮らすバーバラは果たして海を船で渡るという経験は・・・・案の定初めてだという。彼女はとても怖がって窓の外を一度も見ようとしなかった。しかし、夏オンナである私はデッキに上ってサンサンと輝く眩しい太陽に「こんにちは」と明るくご挨拶・・・何てことしてたらきっとアブナイ人だと思われるので、遥か遠くに見える、これから20日間もお世話になる小豆島を一生懸命自分の視界に入れていた。

    さて、いよいよ高級リゾートホテルに到着。オーストラリアからはるばる有名なアボリジニ画家がその荷物持ちと一緒に到着したのだ。さぞ、盛大に歓迎をされるものだと思っていたら・・・誰も今日我々が到着するということを把握していない様子。会場も何もセッティングがされておらず、エアーズロックフェアと書かれた垂れ幕がかかっているだけであった。私はますますいやぁ~な予感がしてきた。

    「私たちは何もわかりませんから・・どうしたらよいでしょう・・・」とホテル側の人々。彼らの無関心さに私は多少怒りすら覚えたが今更何を言っても始まらない。こっちもバーバラに始終怒られながらやっとの思いで日本に連れてきたんですからね。何かやりましょうよ。やって、お願いですから。何なら私が会場作ります。テーブル貸してください。彼女はそこでデモンストレーションを。いいですね。地元の新聞社に取材の連絡をしてください。細かいスケジュールはあとで相談しましょう。それからああでこうで・・と、ここでも仕切り屋ばばあとなったのである。

    こうして、私とバーバラの『小豆島物語』がいよいよ始まった。一体どうなることだろう・・と私はそっとスーツケースに忍ばせてきたビキニを眺めながら独り大きなため息をついた。まだまだ続く小豆島物語。後編をどうぞお楽しみに。

  • インターネット元年

    2000年に6年間勤務をした画廊を辞めてからおよそ一年間、じいいいいーーと自宅でおとなしくコツコツとアボリジナルアート展覧会カタログの翻訳作業をしていたことは確か先月号で話をした記憶がある。その一年間の潜伏期間(・・・というと、まるで犯罪者か病原菌のように聞こえるであろうが)のあと、私は泣くような貧乏状態からメルボルン市内にアボリジナルアートの事務所を設立する一大決心をした。“ギャラリー”なんていうようなかしこまった空間ではなく誰もがいつでも自由にアボリジニの絵画をご覧いただける、そして私のアボリジニ話にお付き合いいただける、そんな場所を設けたかったのが実情であった。(それにしては事務所のドアがいつも閉まっているではないかとのご意見あり。ごめんなさい。出張中です。)

    資本金・・・・そんなものはほとんどなく、それでも少しでも部屋をカッコよく見せようとあれこれ準備をしたらあっという間にお金がなくなってしまったというのはここだけの話である。そういえば余談であるが、画廊を退職する直前に「デッサン・モデルのバイトをしないか?」と声をかけてきたいかにも怪しそうな人相の「作家」と名乗る男性がいた。「え?ヌード?」じきに定収入の道が途絶える私にとって「デッサン・モデル」のバイトは当然ヌードに決まっている、と私の“常識”が勝手に判断した。バイト代ははずんでくれるんだろうか・・・なんて、ただその場を盛り上げるためにきゃーきゃー言いながら尋ねてみたりもしたが、長い時間、同じポーズをずっと取っているなんてことはただでさえ肩凝りのひどい私にはまるで向かないのではっきりと断った。・・というか、ああだこうだと文句を言っていたら「うるさい人間はモデルには不向きだ」とあっさり先方から断られた・・と言うのが実は正しい。

    さて、話をもとに戻そう。一大決心をして事務所設立、独立起業をするとなるとまず「名刺」が必要となる。とりあえず1000枚作成してみた。メルボルンで、日本で、いつも会う人ごとに手裏剣のように配り歩いているためか設立からすでに6ヶ月が経つ現在、その1000枚の名刺はきれいになくなった。こんなふうにアボリジナルアートも完売できたらどんなにうれしいだろうに・・なんてそう思いながら今日も名刺配りに出掛けようっと。

    新しい名刺が完成し、事務所に電話を取り付け、あとはコンピューターを作動させれば一応は仕事が出来る環境である。念願の自分のオフィスの完成だ。取り合えず現代人の仲間入りである(・・と思っている)この私も日々コンピューターを使用して“びじねすうーまん”らしきものを演じてはいるが、ほんとはこれまた厄介であることも事実である。

    そのコンピューターであるが、思い起こせば1997年が私にとってのインターネット元年であった。それまでは悪戦苦闘をしながらワープロを使いこなすのがやっとで、私自身インターネットが一体何なのかを知るゆえもないまま知人の勧めでコンピューターを購入し、同時にインターネットに接続できる環境を完備させた。それまでインターネットがどういう仕組みのものなのかを全く知らなかった私は、プロバイダーの人に取りあえず使用方法を聞いたがその後も「だからそれがなんになるってーの?」と、別に大した期待も持たなかった。恐る恐る自分で接続をしたのは実にそれから数ヵ月も経ったあとのことである。

    根が怠惰なくせに、好奇心だけは人一倍強い私はインターネットを使えるようになったことがまるで「人類月面への第一歩」とか「初のチョモランマ登頂」みたいな気分になれた。私の実家の母親も、一時帰国中の私がお茶の間でインターネットをして遊んでいると隣で目をまん丸くしながらまるで明治時代に初めて写真という技術に出会った日本人のように「魂が吸い取られそうだ」などという反応を見せる。そんな彼女はいまだにEメールどころかメルボルンに住む私にファックスを送ることすら試みようとしない。

    しかし、このインターネット情報のおかげで私は遥か海を越えた実に様々な方々からたびたび連絡をいただく機会に恵まれるようになった。大半は日本からであるが、あるときにはカナダの果てから、またあるときにはメキシコの奥地からというものもあった。そのうえ先日の東京出張中に招かれたアートレセプションのパーティーでは、全く知らない女性から「あ、内田さんですよね。アボリジニの。《あらやだ。“アボリジナルアート”の、って言って欲しいもんだけど。》わたし、インターネットで内田さんのこと観たんです。顔も覚えていました。」と言われて一瞬“ぎょっ”とした表情を見せた私であるが、すぐに彼女とも意気投合して一緒にワインをがぶ飲みする仲間となった。

    こんなふうに、インターネットという電話回線を通して遠く離れた海の向こうの・・・コンピューターの向こうにいるアボリジナルアートを愛する人たちとこれからもたくさん出逢えればいいなと心からそう願っている。なんといっても自分の見えないところで知らない人たちとつながっていると思えること、それがインターネットであるのだから。今後は私の愛する砂漠のアイドルたち(もちろん、“裸足のアーティスト”として活躍するアボリジニたちであります)をひとりでも多くインターネットでご紹介をしていこうと思っている。それにしてもインターネットってのは、ほんとにすごいもんだ。

  • 日本巡回展 終了

    お、終わった。とうとう終わってしまった。2001年4月から開催した、私の最も大きなゴールであった日本での初めてのアボリジナルアート展覧会。北海道旭川・栃木県宇都宮・福島県いわき・そして山口県下関と、この一年に日本を巡回し、私に日本とメルボルンを実に8往復もさせてくれた念願のアボリジナルアート展覧会。2002年6月、下関美術館での最後の撤去作業を終えながら私は会場で実に大きな興奮を覚えていたのであった。

    想いおこせば4年前、日本からの一枚のファックスがこの展覧会を開催するきっかけとなった。

    「アボリジナルアートを日本で展覧会することは可能ですか?」と、その送信者は世界一の発行部数を誇ると言われる読売新聞社。考えてみればここから私のアボリジナルアート日本展実現に向けての血と涙の奮闘が始まったのである。そう、4年前のこのときから。私はまだ32歳であった。

    何しろ当時、美術展開催については私は全くの無知識。一体何からどう始めてよいのかさっぱりわからないのだから途方にも暮れることばかり。作品の選択は?カタログは?輸送費?保険?後援・協賛?そして何より開催してくれる会場は?

    当時の日本でのアボリジニ知名度はそれほど高いものではなかった。また、ただでさえ予算の削減を強いられた公立の美術館が自分たちがほとんど“知らない” 美術展をまずやりたがるわけがない。そう、それなら“知らない”人たちへは“知らせる”という手段を私は選んだ。日本全国の美術館リストを早速入手して片っ端からファックスをメルボルンから送った。内容は、もちろんアボリジニについて。私が知る限りのアボリジニに関するあらゆる資料・写真を夜な夜な自宅で来る日も来る日も美術館宛に作成した。夜中に仕事をすると、当然寝るのが午前2時・3時となる。そうなるとおなかが空く。夜食を食べる。体重増加。顔にもブツブツ吹き出物。こりゃいかん。

    そんなことまでしても何とか開催を希望する美術館を獲得しようと意気込んだが結果はむなしく“ゼロ”であった。そう、“0”皆無・何にもなし。アボリジナルアート展をやりたいという美術館は日本にはどこにもなかったのである。顔にブツブツを作ってまでしたあの努力は報われなかったのか??

    よし、書面でダメなら直に会って話をしよう。私は早速、勝手に日本出張を決行した。

    知人を介して「・・・あそこの美術館の館長なら知っている」と言われたところへは全て足を運んだ。重たいカタログをエッコラエッコラと担ぎながら、毎回自分の名刺をまるで手裏剣のように配って。「思えば叶う・・・思えば叶う・・・」とこれまた呪文のように唱えながら。

    そして、2000年に行われたシドニーオリンピックが全世界を沸かせたころ「アボリジニ」というオーストラリアの先住民が大きな舞台に登場したのである。

    そして夢にまでみた4つの美術館がアボリジナルアート開催に手を上げてくれたのであった。“やったぁ~!”私は宙に舞うような気持ちであった。長い長い間、自分が思い描いていたものがいまようやく「カタチ」になろうとしている喜びは想像以上に大きなものだった。・・・が、開催会場が決定してから今度は準備で連日てんてこ舞いとなった。

    まずはカタログの翻訳。すでに英語で記されているカタログを日本語訳にするのであるが、何しろアボリジニの画家の名はチャンパチンパとか、チャパルラなどと実にふざけたような発音のものばかりなのだから訳すほうもこれまた一苦労だった。それに、一日中自宅に閉じこもって毎日コンピューターのキーボードを叩くばかりの日々にもさすがに閉口した。何しろこんなおしゃべりな私が一日誰とも口をきかずにいられるわけがない。気分転換にとジャージ姿で外へ出てみてはゴミ拾いのおじちゃんを捕まえてかなり一方的に話をしたことも記憶に新しい。

    展覧会開催に当たっては“コーディネーター”というタイトルをいただいた。しかし、“コーディネーター”とは実に都合の良い名称で現実には「なんでも屋」であった。

    8 回の日本往復へは毎回必ずオーストラリアからのスタッフを同行し総勢6名の添乗員となった。時には運転手・荷物もち・通訳と毎回これでもかというほどこき使われまくったが皆それぞれ初めてのニッポン!である。やはりいつものおせっかいばばあはここぞとばかりに張り切った。

    この展覧会が開催したことで、新聞・ラジオ・雑誌と様々なメディアで紹介をしていただく機会にも恵まれた。そしてそれぞれに素晴らしい方々との出逢いも多くそれが私にとっての大きな大きな力となっていることもあらためて申し上げたい。

    “ゼロ”からスタートしたこのアボリジナルアート展はまさに手作りの展覧会。入場者数よりも作品を観た人々がどれだけ満足をしていかれたかが私には何よりも大きな意味を持つ。

    今それが無事に終了を向かえ、私は静かな興奮をひとり味わいながら、さて今度は一体何を自分の新しいゴールにしようかとたくらみはじめてもいる。

  • アボリジナルアートQ&A

    今回は、頂いたお便りやよく聞かれる質問にお答えいたします。皆さんもアボリジナルアートに関してお知りになりたいことがあれば、お気軽にご質問ください。

    一番尊敬しているアーティストは誰ですか?

    うーーん。たくさんいますから難しいですねえ。でも最も印象に残っているのが6年前に86歳で亡くなられた女性アーティスト「エマリー」でしょうか。1996年に私はHNKテレビの取材で彼女とオーストラリア砂漠のど真ん中で4日間密着生活をしたので尚更なのですが。

    彼女がはじめて絵筆を握ったのが78歳の時ですから、亡くなるまでわずか8年という画家としてのとても短いキャリアの中で、実にユニークにスタイルをいくつも変えて彼女独自の画法を創り出していった素晴らしさは、今後も多くの方々にご紹介したいですね。彼女は一度も美術館へ訪れたこともなければ自分が「画家」だという概念も持たずに、全く西洋美術の影響を受けずして、ダイナミックにコンテポラリーアートを築いたオーストラリアを代表する偉大な画家なのです。

    これまで人々が抱いていた、アボリジナルアートのエスニック的イメージから斬新なるモダンアートへとエマリーが見事にその橋渡しをしたようなそんな気がしています。

    日本でのアボリジニナルアートへの評価は?

    いやいや・・・正直言ってまだまだ「評価」なんていうところへは到達していません。おかげさまで昨年は日本で初めてのアボリジナルアート巡回展(全国を4箇所廻りました。)を何とか実現させました。これまで日本人にとって”ゼロ”の段階だったアボリジナルアートがようやく「ああ、アボリジニね。知ってる知ってる。オーストラリアのあれね」というようなレベルにまで持っていくことが出来たと確信しています。これまで地道にずっとあきらめずに啓蒙活動をしてきて本当に良かったと思えた瞬間でもあります・・・

    これはもう自己満足でしかないんですけれどね。それぞれの美術館でこの展覧会の開催を試みた学芸員の方々からも「とにかく興味深い企画だった。自分たちが十分楽しめる展覧会だった。」というお褒めの言葉をいただけて、私はますます舞い上がりました。

    読む・書くといった「文字」を持たないアボリジニにとって「絵を描くこと」は大事な伝達の手段なのです。何万年も前から語り伝えられてきた情報や砂漠で生き抜くための知恵・神話・・・それらを今でもアボリジニは「絵画」という方法で先祖と確実にコミュニケーションをとっているのです。

    日本での展覧会は終了してしまいましたが、今後も私のアボリジナルアートへのプロモーションは変わらずに続きます。重たいカタログを小脇に抱えて、この夏もまたエッコラエッコラと汗を拭きながら、銀座の画廊を廻ることでしょう。たとえ時間がかかってもいいのです。本当に素晴らしい芸術だと自分の心がそう信じるのですからこれからも気長に“アボリジニねえちゃん”と言われながらにやにやしていますよ。芸術に「境界線」はないのですからね。

    砂漠で食べたイモムシの味は?

    アボリジニの女性たちと一緒に「狩り」に行くという行為は私にとってはそれはそれは貴重な情報収集になります。何しろ目的地まで向かう間に、彼女たちからいろいろなストーリーを聞くことが出来ますし、またその現場に一緒にいられるということが彼女たちから大きな信頼を得た証でもあったりするのです。(アボリジニの居住区に入って最も大事なことはまず、彼等に自分がナニモノなのかを理解してもらうことですからね。)

    興味の対象である人間に彼等は様々な質問を投げかけてきます。私だって必ず「身の上調査」をされるのです。そんな貴重な「狩り」に同行できて、獲ったイモムシが自分の手のひらの上でゆっくり動いているのを見た時には一瞬涙も出そうになりましたが、アボリジニ社会では多くのものを仲間や家族と共有するので、食べるように勧められて首を振ることは出来ません。うーーん、せめて焼いて食べさせておくれよ..お願いしますよ・・・・・と心の中でつぶやきましたが、まわりから一斉に浴びる注目の中そんなことは言っちゃあいられません。イチ・ニイ・のサンで口に入れたら「ぷにゅうっ」と生温かい液体が口の中いっぱいに広がりました。感覚としては生卵を食べた感じでしょうか。美味しいとかマズイとかそんなことわからないほど頭の中は興奮と動揺でいっぱいでした。・・・いま、はっきりと覚えているのはそれだけです。

    感銘、驚きを一番受けた出来事は?

    これはとても「言葉」では言い表せないことばかりです。何しろ自分のハートでいつも感じることですから。アボリジニ居住区へいつも入る度に、「また訪れたい」と私に必ず思わせる何かがそこにはあるのです。何日もシャワーを浴びられず頭がかゆくなっても、ダニだらけの犬たちに追っ掛けられても、マイナス3度のテントの中でまるで自分が茶巾寿司にでもなったかのように背中を丸めて寝袋に包って寝ることになっても、毎回彼等のホットなハートに触れられることが私の「アボリジニ熱」をますます高めていくんだと思っています。

    長い長い間、孤立したオーストラリア大陸で狩猟・採集のみで暮らしてきた彼等の奥深い文化・芸術は、私たち現代人には計り知れないことばかり。アボリジニたちは自然と、それはそれはうまくハーモニーしながらオーストラリアの「大地」をしっかりと守ってきたのです。毎回想像を絶する事に遭遇してギャフンと言わされることばかりです。

  • 愛しのチビッコギャング達

    私がこんなにも、まるで一種の病気でもあるかのようにオーストラリアの中央砂漠に心惹かれて何度も何度もアボリジニ居住区へ足を運ぶのは何も私のアイドルたち、アボリジニのアーティストに逢うためだけではない。実はここでいつも大きな瞳をグルングルン回して砂漠外からやってくるストレンジャー(つまり、部外者のわたしたち)を待ち構えているアボリジニ・チビッコギャングたちと過ごす時間もこれまた私にとっては大きな楽しみ、そして貴重な収穫なのである。

    砂漠で最も貴重な水では”身体を洗う”といった、そんな発想のまるでないアボリジニたちの体臭は独特のニオイがあり、髪の毛も汗とホコリでペットリとしている。子供たちは地べたにしゃがむ私の後ろに素早く回り、当たり前のように私の髪の中身を掻き分けるようにして調べる。え?何やってんの???するとその子供が不思議そうに私の顔を覗き込んでつぶやく。『何でオマエの頭には無いんだ?』と。そう、アボリジニ社会ではお互いの髪の中にいるシラミを除去することが日常のお勤めなのである。こりゃまいった。私は初めて目にする子供の頭の中にモゴモゴ動いているシラミと、その髪の隙間に点々と存在するシラミの卵の現実に言葉を失った。そしてその横で完全に目がイッちゃっている毛の抜けたヨボヨボの犬が私の手を舐めていたことにも驚きは隠せなかった。

    「なんだ、オマエ・・・どっから来たんだ?」

    「家族はいるのか?」

    「ダンナは一緒か?」・・・(ふん、余計なお世話だぜ)

    「オマエの鼻、変なカタチしてるなあ。」

    「何か言葉、しゃべってみろ。」

    などといつもいきなり彼らからの身の上調査から始まるアボリジニ村での滞在も、2-3日も一緒にいると途端に警戒心を無くして彼らはところかまわず私にまとわりつくようにアタックをしてくる。アボリジニの子供たちに”遠慮”はない。私の持ち物すべてに興味しんしんである。なんと言っても私のカバンの中にはデジタルカメラ・財布・化粧ポーチなど彼らの興味を注ぐものだらけであるのだから。勝手に手を突っ込んで取り出してはひとつひとつをもの珍しそうに私に質問してくるのだ。私の口紅を勝手に塗って興奮する女の子は全世界共通。ちょっとうれしくなる瞬間。「それ、あげるよ。」そう言うとはにかんでそうっと自分のポケットにしまい、走って母親のもとに行く彼女の名はナタリー。後に彼女は私の一番弟子となった。地べたに腰を下ろしてみんなとおしゃべり。・・・といっても誰もが英語を流暢に話すわけではないので彼らの言語を100%理解しない私はますます自分が違う星の下からやって来た『宇宙人』のような気分になる。が、チビッコギャングの中には居住区内にある小学校へ通っているせいか、英語がペラペラで私の通訳を快く引き受けてくれる世話好きの子供もいるので大助かり。一番弟子ナタリーもそのひとりであった。

    砂漠で暮らすアボリジニの子供たちのエンターテイメントは何も無い。テレビも無ければパソコンでゲームをすることも知らない彼らに私は得意の空手を教えた。途端に村中で私はジャッキーチェンの妹ということに何故かなったがそれはそれでいいとそのままにしておいた。なにやらジャッキーチェンだけは時々行われるテレビ上映で放映されるので知っているらしい。何十メートルもの高いビルから飛び降りたり、空中回転をするジャッキーチェンはアボリジニたちのスーパースターなのだという。その妹の私も当然のごとくその日からはスーパースター。全く気分が良いではないか。

    ただ、スーパースター・ジャッキーチェーンの妹となった私は出会う人ごとに「おんりゃぁ~」と、空手チョップの真似をしなければならなくなった。これも意外と大変だ。でも大喜びをする彼らに”カッコツケマン”である私はひたすら「おんりゃぁ~、おんりゃぁ~」を言い続けて目的地のスーパーまでたどり着く有様。それ以来、村中を散歩するたびに、7,8人のアボリジニの子供たちが私の後を付いてくるようになった。そして彼らから私はたくさんのことを教わった。その1つが『割礼』について。アボリジニの子供たちは生涯に幾度と無く成人儀礼を通過しなければならない。前歯を抜歯したり胸元に深い傷を付けたりしてその痛みに十分耐え忍ぶことが出来た者だけが立派な”大人”として認められるのだ。認められて見事”大人”となった少年・少女は今度はその部族間での大事な情報や秘密ごとを歌や踊りと共に年配者から教えられる。その儀礼の期間は長いもので3ヶ月、短いものでは数週間といった儀礼の用途に合わせて様々らしい。

    そういえば、私が滞在したアボリジニ村での年配女性はみんな前歯がなかったなあ。聞くところによると、前歯がないのは女性を最も美しく見せる証だという。『オマエもどうだね』と、実は何度もオファーをいただいたことがあったが丁重にお断りをしたことをここにご報告しておこう。

    「モノ」や「お金」が第一優先ではない彼らの社会にはもちろん学歴社会とか二酸化炭素問題などは全くの無関係。大きな瞳の中に私の姿をそのまま映し、こぼれんばかりの屈託の無い満弁の笑みをもたらすアボリジニの子供たちに、私が出来ることはいったい何だろう。そんなことをふと考えながらきっとまたふらりと彼らに逢いに私は砂漠へ出向くのであろう。そしてメルボルンの旅行代理店に格安の航空券を獲得するため今日も片っ端から電話する。

    『すみません。アリススプリングスまで一枚お願いします。』

    私の”アボリジニ熱”はまだまだ冷める気配をみせない。