投稿者: landofdreams

  • 私のアイドル達

    時間とお金に余裕のない私の砂漠への旅、それは勢い。アボリジニ居住区への訪問はまるでいつも早食い競争のような旅になる。今年も正月早々、実行した。

    旅の目的は砂漠に住む「裸足のアボリジニアーティスト」たちへのアプローチ。私にとってはどんな有名な芸能人に逢うことよりもアボリジニの画家に逢えることのほうが、じつは300倍もうれしかったりする。

    この私の「たとえ何百キロ砂漠の向こうであろうとも、あのアーティストに逢いに行きたい!」という欲望は、まだオーストラリアの中央砂漠を訪れる機会のない人にはいったいどのように説明をしたらよいものか、しばしば思い戸惑うことがある。そういえば私は幼いころから「好きな芸能人は?」なあんて聞かれても答えられる人物がさっぱり思い浮かばず、学校の下敷きにも仲良しの女の子がみんなマッチだの、トシちゃんだの(年齢、かなりバレバレ)のブロマイドを入れていたのに私はひとりマンガ・巨人の星の左門豊作(登場人物のひとり)の切り抜きを大事に入れていた変わり者だった。それでも、やはり周りの女の子のようにかわいく「きゃーっ。かっこいい!」とか「いやーん。ステキ!」とかホントは言ってみたいなあ・・・といつもうらやましく思いひとり自宅で密かに「キャー!」の練習をしたこともあった。やっぱり変わってるかも。

    今回の砂漠の旅はアリススプリングスから550キロ南西に向かったアボリジニ居住区へ。事前に申請しておいた居住区へ入るための許可証を忘れずに持って・・・っと。それから水・ガソリン・食糧をレンタカー一杯に詰めて往復1100キロの旅にむけていざ出発。

    私の旅はいつもひとり旅である。・・・が、十分用心しないと命取りになる危険性が実はたくさんあるので要注意。一度、砂漠のど真ん中でパンクをして途方に暮れまくった経験アリ。もちろん携帯電話の電波は届かず、次のガソリンスタンドまではまだ250キロもあった。SOSを出したくても何しろすれ違う車が一台もない。一日半、待った。泣き出したくなる一歩手前だった。

    真夜中にひとり車の中で眠る恐怖といったらなかった。電灯ひとつない砂漠の夜は見渡す限り真っ暗闇。唯一うっすら見えたのはカンガルーの目がそこらじゅうで赤く光っていたことだけ。遺書もそろそろ書いておこうかと真剣に考えた。「そんな危険を冒してまで砂漠へ行き続けるアンタはやっぱり変わっている。」と、友人はまるで私を変質者扱いするが私はそれでもいいと思っている。

    そんな思いをしながらたどり着いた居住区で、夢にまで見た憧れのアボリジニアーティストに出逢える興奮は言葉に出来ぬほど大きい。特に自分の好きなアーティストだと尚更だったりする。彼等を目の前にして私の足がガクガク震える。「あーー、カタログでみたのとおんなじ顔してるー。あー。動いてる話してる。飲んでる酔っ払ってるぅー!」と私の興奮は止まらない。

    1984年に初めて白人社会とコンタクトを取ったという男性画家がいる。そう、わずか18年前まで彼は文明社会をまるで知ることもなく砂漠のど真ん中でずっと暮らしていたのだ。当時彼の兄弟9人が砂漠から一斉に発見された最後のアボリジニ達として新聞の一面を賑わしたこともいまだ記憶に新しい。 彼の名は「トーマス・チャパルチャリ」。年齢不詳。ブッシュで生まれた彼に誕生日の記録はない。現在は画家として活躍している。

    彼に初めて逢った私は、まるで女子中学生が放課後に片思いの男子生徒を呼び出して告白するようなくさいセリフをつい口走ってしまう。「・・・えっとえっとえっと。。。そうです。ずっとずっと好きでした。オアイデキテコウエイデス。」式のようなもの。しかし、英語のわからない彼は私の話を聞いているのか聞いてないのか全くの上の空で、視線はもう別のほうに向いていた。とほほ。

    こうして、居住区滞在中はあちらこちらとまるで追っかけミーハーのように私はカメラを首からぶら下げて裸足のアーティスト達の写真を撮りまくる。彼等はとてもポーズをとるのが上手で実に良いモデルとなるのだ。そして現像したものは必ず彼等に郵便で送ることを固く約束させられて私はいつも居住区をあとにする。

    「今度はいつ来るんだ?」「タバコを買ってきてくれ」「俺も街に行ってみてぇな」口々にそんな事を言う彼等に私は頭を深く下げて車に乗り込むと私の姿が見えなくなるまで手を振って見送ってくれる彼らに実はまたすぐにでも車を引き返して逢いに行きたくなってしまうのも事実である。

    帰りの長い道のり、独りでいろいろなことを考えるのには十分すぎる距離だ。どこまでもどこまでもまっすぐにひたすら続く砂漠の一本道は、ときに見ていて切なくなる。ひとり旅にはたまらない。こんなとき、ふと誰かに抱きしめてもらいたくなったりする。。。。。と、そんな東洋人の孤独なひとり旅の切なさを癒すために 5分間だけでいいから抱きしめてくれるようなオープン・マインドな男性がたまたまそこに居合わせる可能性は限りなくゼロに近いので、私は再びしゃきんと背筋を伸ばして運転し続ける。

    今度はいつまた砂漠に来ようかな・・・・とひとり目を細めてニヤニヤしながら。

  • 画廊の仕組み

    はじめて、その不思議なアボリジニの絵画を観たときの記憶。当時、日本語教師として渡豪していた私は帰国をちょうど3週間後に控えていた。それは今まで見たことがない絵で、見たことがない画面の構成で、見たことのない色使いだった。もちろん絵の意味なんてさっぱりわからなかった。9年前の出来事である。

    その不思議な絵の力に引き寄せられるかのように私はアボリジナルギャラリーで日本人スタッフとして仕事を始めることになった。そして7年後のいま、一大決心をしての独立、メルボルン市内に小さなアボリジニ絵画専門の事務所を構えることに。

    よく晴れた午後の昼下がり、私はボーっと睡魔と闘いながらも溜まりにたまった書類の整理をしていると事務所の半開きになっているドアの隙間からチラチラと中をのぞく人が何人もいる。「ここ、何?こんなとこあったっけ?」何やらそんな話し声も聞こえてくるではないか。

    「・・・アボリジニ部屋らしいよ。でも、ここいつも閉まってるよねえ。」・・別に盗み聞きをしているわけではないがやはり聞こえてしまう。彼らは中に入って来たいのか?それともただの冷やかしか?この際私にとってはどっちでも大歓迎なので「ほらっ!入って来なさいってば。」そう思いながら思いっきり微笑んでみる。たいていの人はそこで一緒にひきつり笑いを残してそのまま慌ててエレベーターに乗り込んで立ち去ってしまう。

    「かえって、怖いんだってば。そういう笑い。」・・・と、その話を聴いた私の友人。「じゃあ、どうすればいいっていうの。」と鼻の穴を大きく膨らませて尋ねる私。
    「いや、もともと入りにくいんだよ、画廊って。勇気いるんだよ。僕だってはじめは緊張したもの。」
    「作品を買わされるんじゃないかと思うわけ。そうなの?」
    「うん、それもあるね。」
    「でも、どんなお店だって入ったら必ず買うなんてことはありえないでしょう?まずはいろいろ見てみるでしょう?画廊だって同じなのに。それに私のところは画廊とかギャラリーとかそういった場所として空間を提供しているわけじゃないのよ。もっとこう・・何ていうかアボリジニアート学習部屋みたいな・・・」
    「ああ、それならいいんだけど。でもね、やっぱ異質な空間だからさ。みんな、一度入ったら簡単に出て来れない気がするんじゃないかな。」
    「・・・そんなあ。別に取って食いやぁしませんよ。60回のローンも組ませませんってば。そんな得体の知れない怪しげな画廊と一緒にされては困るってものよ。」そう言いながらも、やはりもう少し私は『入りやすい空間』の提供を試みないといけないのかもしれない。

    以前、まだギャラリー勤務をしていたころあるコレクターと思われる紳士が入って来られるなりいきなり作品を指差して『これは何をあらわしているの?』と尋ねてきた。それは縦の線がたくさん入った抽象画でアボリジニの男性のボディペイントをモチーフにしたものであった。彼はそのときの私の少し困惑していつもよりも深く刻まれた眉間のシワを見て”お前に何がわかるものか”とでも言わんばかりに私の答えを待たず「あ、これ滝ね、滝。そうでしょう?」と自信満々に言い放つ。私は声を失って、それでもきっと口元だけはただパクパクと動かしていたのであろうか「・・・砂漠で暮ら すアボリジニは滝なんて生涯見たことがありません。ですからこれは滝ではないですし、流しそうめんでもないですし、沸騰したお湯からこぼれ落ちるスパゲッティでもありません。かといって夏の海水浴のあとの女性の乱れ髪でもなければネコに引っかかれた傷でもありません。ここまで私に言わせますか。え、そこのあなた。」って本当はそう言いたかったのではあるが。

    結局、その紳士は首をひねったまま静かにギャラリーを去って行かれた。ああ、これでまた客をひとり失ったか・・・とまだ勤務して間もなかったころの自分を戒めたこともまだ記憶に浅い。

    アボリジナルアートは、まさに”現代アート”である。そして、この現代アートほどぱっと見て、よくわからない作品はない。見る側はたちまち不安を感じて『私は頭が悪いので理解ができません。』と自分をいきなり卑下するタイプと『どうせあんたは理解できない私を馬鹿だと思っているんでしょうに。』と逆切れして攻撃するタイプとがある。それは貴重な画廊勤務経験8年目の私の観察記録から学んだものである。初めは戸惑って当然。しかし、実はそこからアートをめぐる冒険が始まるのも事実である。

    たった一人で仕事をしていると、作品の買い付けから額装・販売・梱包・発送手続きをすべて自分でまかなう。それは当たり前。それゆえ、さらに自分が長期外出するときには事務所はおのずとクローズする。オーストラリア中央砂漠でのアボリジニ居住区滞在時はもちろんのこと、トイレに立つとき、お昼ご飯を買いに行くときも短時間ながらもクローズしなければならないのである。いささか不便である。ただ、オープンをしているときにはもういつでもどなたでも大歓迎なのでぜひともお気軽にのぞいていただきたいものだ。

    現在の事務所にある数々のアボリジニ作品は私が直接アボリジニ居住区へはるばると赴き、そこでアーティストたちから直接購入してきたいわば思い入れの大きいものばかりである。作品への想いが強すぎると、時にそれを手放したくなくなるという困った事態も発生したりする。いわば作品が売れるときには『嫁に出す』といった親の心境になったりしてしまうのだ。手塩にかけた娘を嫁にやるといった気持ち。そんな娘の嫁入りを喜ばない親はいない。私は時折、知人のコレクターが作品の前でじっとたたずんでいる姿を見ては耳元でよくささやいたものである。

    『おねがい、お嫁にもらって。』

    このセリフを過去にも現在にもまだ現実の場面で使えていない私は、今後もとうぶんひとり暮らしを謳歌するのであろう。

  • アボリジ二女性画家バーバラ・ウィア初の日本滞在記・愛と涙の2週間(後編)

    アボリジ二の女性画家、バーバラとの日本滞在2週間。滞在も後半に入ってくるとお互い疲れも出てくる。慣れない環境と食事、チンプンカンプンの言語にバーバラの機嫌が日に日に悪くなっていくのをひしひしと感じた。ただ、始終朝から晩までコメツキバッタのように彼女と一緒にいて世話をする私も「ほぅりゃー!バーバラ・・・いい加減にせーよ!!」と怒鳴りたくなるのをグッとこらえて我慢すること数回。彼女は自分にアテンションが向けられないとすぐにヘソを曲げる。そして仮病まで使う困ったチャン。

    これは東京でのある朝のこと。秋葉原の地下鉄ホームで私が他のスタッフと会話に夢中になっていた時に彼女はきっと自分がひとりぼっちにされたと思ったのか急に「吐き気がする。」といきなりホームにしゃがみ込んだ。周りの視線が一気に我々に注目する。「あ、またはじまっちゃったか。」と私は内心思いながらもダダッ子をなだめる口調で「あらあら、それは大変。すぐにトイレに行かなくちゃね。どう?大丈夫?トイレまで我慢できる?」と、世界一優しい顔を作り彼女の手を引いて駅構内の公衆便所に連れて行った。しかしだ!つい30分ほど前にみんなで朝食をとった時に「・・・私は普段砂漠ではあまり食べない小食だから。」と言いながらもパンを6つあっという間にぺロリンと平らげた彼女のそんな様子から「ただの食べすぎ心配なし。」と思わないわけがない。

    しかし、一瞬たりとも彼女を疑った罰がいきなり私に襲い掛かってきた。そしてそこで誰もが信じがたい光景を私は目にすることに。そう言われてみれば本当に真っ青な顔をしていたバーバラは、トイレまでどうしても我慢出来ないと言いかけている時、駅の階段でとうとう・・・それはまるでゴジラが火を吹くかのように「ブツ」は見事に空中を舞って私のズボンの裾にくっついた。いったい私が何をした。なぜこんな目に遭わなければならないのか。と、泣きそうになりながら「ぎぃぃぃやぁぁぁ!!だ、だいじょうぶううう?ばああああーばらあ・・・」とあまりにも隠し切れない動揺に私も腰がふにゃふにゃになった。が、とにかく早く彼女を安静にさせなくちゃ・・。と、ひとまず駅を出て(もちろん駅員さんに頭を下げて謝ってから)秋葉原電気街の駅ビルのベンチで休むことに。明日はいよいよアボリジナルアート展覧会のオープニングセレモニーでいわき市に移動だというのに、こんなんで彼女は一体大丈夫なのかしら・・・などというこちらの不安を省みず彼女は出すもの出したらもうすっかり元気になり、すぐにあのキンキンキラキラの秋葉原電気街に興味を示した。

    私は自分のお財布の中身をため息つきながら再確認して「いい?バーバラ。日本の電化製品はオーストラリアでは使えないんだからね。だから絶対!何も買えないんだからね。」とこれでもかとしつこく言い聞かせてお店に入った。だが、ここで彼女が大きく興味を示したものが何と電気アンマ機。”よおーっし!それじゃあ・・・ “と、私も面白がって彼女を座らせてスイッチオン。恐らく彼女はオーストラリアの先住民アボリジ二で日本の電気マッサージ機に挑戦した第一号であろう。その場にメディアがいなかったのが何とも残念であった。・・が、途端に彼女は飛び上がり「このマシン〔機械〕にはデビル〔悪魔〕がひそんでいる。だからもう絶対に触るな」と急に真剣な顔で私に怒ってきた。・・・・やれやれ・・・・・。

    さて、バーバラとの滞在2週間が何もこんな珍道中ばかりではない。福島県いわき市立美術館では展覧会の開会式に合わせてアイヌ民族とバーバラの様々なイベントを企画してくださっていた。その中でも古布絵刺繍家で長い間いわき市にお住まいであったという宇梶静江さんとバーバラのトークショーには地方の新聞社・ラジオ局が会場に大勢詰めかけ、かなりの注目を集めた。私は二人の通訳として真ん中に座ることに。お互い先住民として生まれ育ってきた中でいわれなき差別を受けてきた歴史を持つ二人はこれまでもちろん一度も逢ったことがなかったにもかかわらず、会場で初めて逢うやいなや「SISTER!」と呼び合って熱く抱擁を交わしていたのがとても印象的であった。

    アイヌ民族はかつては東北地方から北海道、サハリン〔樺太〕、千島列島に及ぶ広範囲に住んでいた日本の先住民族である。その北海道に大量の移住者が押し寄せた明治以来、日本政府はアイヌ民族に過酷な同化を強いてきて彼ら固有の言語や文化・生活習慣を否定してきたという。現在も昔ながらの生活をアイヌ民族に期待する人が多くいるが、当然アイヌ文化も他の文化と同様に時代とともに変わってきてるのであるから、言うまでもなく今後のアイヌ文化の行く末はアイヌ自らが決めるものなのだろう。

    これまでの私自身の頭の中には、「アイヌ民族=北海道」という図式が当たり前のように出来ていて現在関東周辺にも約5000人近くのアイヌの方々が住んでいるという事実を初めて知って驚いた。また、彼らが受けた侵略の歴史や現状も全くと言っていいほど「知らない」ということについて考えさせられたことは言うまでもない。バーバラと宇梶さんはトークショーの間じゅう、「先住民が先住民であり続けるために、これからもプライドと誇りを持って力強く生きていきたい。大事な自分たちの文化をきちんと次の世代に伝承していくことが我々の役目」と声を揃えて言っていたのがまだ私の耳に強く残っている。

    北海道、そして都内から駆けつけてくれたアイヌの仲間たちが民族衣装を美しくまとって私たちに披露してくれたカムイノミ(神への祈り)に私はアボリジニに文化に大きく通ずるアイヌの精神を見た。

    そして『自分がどんなに厳しい生活をしていても訪ねてきた仲間に腹一杯食べさせる、それがアイヌ流さ。』そういっていた彼らの言葉が私は今でも忘れられない。

  • アボリジ二女性画家バーバラ・ウィア初の日本滞在記・愛と涙の2週間(中編)

    これまでにオーストラリア先住民・アボリジ二が日本を訪れたことは何度かあると聞いてはいた。・・・が、アボリジニ画家が来日するのはどうやら初めてのことらしい。早速日本のメディアにいくつか取り上げられ、私にもラジオ出演の依頼が来た。

    何やら番組は人気のJ – WAVEということだが私はラジオをあまり聞かないのでいまひとつピンと来なかった。だが、もちろん快く引き受けることに。しかし多忙の為、スタジオには行けない旨を伝えると、何やら電話インタビューでかまわないという。なんだか面白そうだ。番組の打ち合わせはほとんどなし。「内田さんが感じるアボリジ二ナルアートの魅力を語って下さい。DJはジョン・カビラというプロの話し手ですから彼のリードに任せていればOKですよー。」・・・と、言われるままに本番がやってくる。

    たかだか4分間のおしゃべりに心臓バクバク状態。喉を潤すためにとハチミツレモンを一気飲みした途端、自宅の電話がなった。あ、来た!担当者の言うとおり、相手はしゃべりのプロ。いやあー、早口でベラベラべラリンとこちらの緊張も省みず次々に質問してくる。「内田さんは、何故オーストラリアに行くことになったんですか。ワーキングホリデーですか。」と、まずしょっぱなから大きく私をつまずかせるジョン・カビラ氏。「オーホホホ。ワーキングホリデーっですか?、私ははるかに対象年齢オーバーでしたの。オーホホホホ。」・・・その後しばしの沈黙。

    全国放送ラジオでしゃべりのプロが黙る瞬間。その後、ここぞとばかりに自分のアボリジニ熱を熱く語る私が、シャワー浴びたてで濡れた髪をバスタオルでグルグルとソフトクリーム巻きにしていたことなど誰にも気付かれることもなく全ては無事に終了した。

    さて、肝心のアボリジニ女性画家バーバラは困ったことに見るもの触るものがすぐに欲しくなってしまう悪いクセがあり、姉の靴を平気で履いて帰ってきてしまったり友人宅の応接セットのカバーまでもらってきたりと帰りの彼女のスーツケースは滞在中にみんなからもらったものだらけで溢れかえっていたことは言うまでもない。

    おまけに彼女は日本滞在2週間に備えて財布(らしきもの)を持参しては来たが、中身はスーパーのレシートしか入っていなかった。いいですよ。全て面倒見ますよ。見りゃいいんでしょが・・と、半分やけっぱちにもなりたくなる。滞在中の食事代・ホテル代・電車代・お土産代・毎日オーストラリアの家族にかけた電話代・など総額したらとても恐ろしくて一気に言葉も失う。私は自分のわずかな貯金の残高をながめては、しばし大きなため息ついていた。

    東京は何しろやたらと移動が多い街だ。地下鉄・JRといった具合に目的地まで2つも3つも電車を乗り換える。エスカレーターの前でたじろぐバーバラ。彼女は怖くて乗れないと涙ぐむ。じゃあ、階段で行きましょうか・・・と滞在中いったい私とバーバラは何百段の階段を昇ったことか。おかげ様で体重3キロ減。(ダイエットされてる皆様方。ぜひとも日本にアボリジニを連れて行くことをお勧めします。)

    日本の秋といったらまさに紅葉。東京のコンクリートジャングルに全く興味を示さないバーバラにぜひとも日本の美しい山々・そして温泉を存分に味わってもらおうと、栃木県の湯西川温泉に向かった。想像通りの色とりどりの山々にバーバラは本当に息をのんで瞳を大きく輝かせ、心から楽しそうに笑った。また、山中のまっすぐに生えた木を見ては「これはスピア(槍)を作るのに丁度いい」とかなり本気で言って私たちを笑わせた。

    宿に着いて「さあ、食事の前にまずひと風呂浴びようよ。バーバラ、温泉なんて初めてでしょう。露天風呂もあるし眺めが最高だよ。早く行こう!」と言いうと、私の顔をじっと見て急にモジモジし始める。水着を持って来るのを忘れた・・・と本当に恥ずかしそうに言い出す彼女。見ず知らずの人同志がスッポンポンでお風呂に入るという行為はどうしても信じられず、だから自分は絶対に裸では入らないと言い張る頑固なバーバラ。「何よ、砂漠のアボリジニ村では儀式でみんな裸で踊るじゃないの。私にもそうさせたじゃないの。ここは日本なんだから皆と同じようにしなくちゃ駄目なの。」 と、私も負けずに主張するが本当に嫌なものはイヤだという顔をした彼女はひとりで部屋に付いているお風呂にゆっくり入って大満足の様子だった。初めて着る浴衣・初めて寝る布団・初めて取る囲炉裏での食事に彼女はもうこれ以上楽しいことはないとしきりに言いながら、「今自分が日本で過ごしているこの楽しい時間をオーストラリアの家族に伝えたい」とまた私の携帯電話をカバンからゴソゴソ取り出したことは言うまでもない。

    また、魚を一切食べない彼女の口癖は「私は砂漠の人間だから。」ということ。滞在中注文するのは必ず”MEET”。しかも、もう真っ黒に焦げた肉でないとご機嫌ななめ。私は幾度となくレストランの厨房に「すみません、お手数ですがもうちょっと焼いてもらっていただいても・・・」と頭を下げた。2週間の滞在中に彼女が一番恋しくなった食べ物が”カンガルー”。これは私が旅先で永谷園のお茶漬け海苔が無性に食べたくなるのと同じなんだろうな。というわけでバーバラの好物”カンガルー”、こればかりはどうしても日本のスーパーでは見付からなかった。

    日本滞在中、バーバラは行くところどこでも注目の的であり、スター的存在だった。幼いころ、当時のオーストラリア政策によって無理やり母親から引き離され強制的に白人社会で生活を強いられ、数年前までは自分たちアボリジニはレストランにも入れなかったという経験をもつ彼女が、現在オーストラリアを代表するアボリジニ画家として日本に招かれたこと、そして自分がいま大きく胸を張って「アボリジニ」であることを主張できる時代にようやくなってきたということをしみじみと語る彼女の言葉に、私はまさに「今を生きるアボリジニ」の強さを感じてならなかった。

    オーストラリアからはるばる日本にやって来た先住民アボリジ二に会うためにそれこそ遥か北海道からわざわざいらして下さった15人のアイヌの方々との熱いふれあいを次号でぜひともお知らせしたいと思う。

  • 「アボリジ二女性画家バーバラ・ウィア初の日本滞在記・愛と涙の2週間(前編)」

    4月から始まったアボリジナルアート日本巡回展もいよいよいわき市立美術館での開催で最後となる。美術館からゲストとしてアボリジニの画家をオープニングセレモニーに招きたいとの要請が・・・簡単にリクエストをしてくれるのはよいが、始終そのアボリジニのアテンドをする私の心配はまったくしてくれていない。航空券の手配から出発前の医療・パスポートチェック、日本滞在中のケアなどやることは山ほどある。肝心のパスポートは何やら以前取得したものがあるとのことでひとまず安心。生年月日を見せてもらった。00月00日00年との記載に私は自分の目を一瞬疑ったが、オーストラリアのブッシュで生まれた彼女に誕生日の記録はない。ああ・・・なるほどそうかと、大きく納得。

    今回日本初訪問のアボリジニ画家は以前この紙面でも紹介したオーストラリア中央砂漠出身のバーバラ・ウィア。普段から彼女と厚い交友関係を持つ私は美術館からの招待の要請を受けたときに真っ先に彼女に声を掛けた。何たって、彼女はすでに日本のお茶の間に幾度となく登場している人気者。まだ記憶に新しいのが 2月に放映された「世界ウルルン滞在記」バーバラは主演だった。これは視聴率がとても高く、事実私のところにもたくさんの問い合わせがきた。それに何よりも英語を流暢に話す彼女とはコミュニケーションが取りやすい・・・と、自分がかなり安易に考えていたことをあとで大いに反省することに。

    2 つ返事で快くオッケーを出してくれた彼女とは出発日にメルボルンの空港で合流。日本行きは初めての彼女、かなり不安そうな様子。彼女の家族全員が見送りにきていた。ちなみに家族とは子供6人・孫15人・そしてひ孫が1人のビッグファミリー。家族の絆が強いアボリジニらしい光景であった。その家族ひとりひとりに「お母さんをよろしく頼むぞ。」「おばあちゃんをしっかりお世話してね。」と代わるがわる挨拶をされたが、その挨拶の裏にはまるで《もしもオッカアに何かあったらオメェ、ただじゃおかねーぞ》・・・とそんな脅しを受けている気にもなり、私の緊張は一気に高まった。シドニーに着くや、彼女は無事シドニー到着を家族全員に知らせるので携帯電話を貸してくれと私に言う。え?だってついさっきメルボルンでみんなと熱い抱擁交わしてバイバイしてきたばかりじゃないの・・・などと言って彼女の機嫌を損ねたら大変・・・という事で私は彼女に電話を貸した。うーん、これから一体どんなことになるのであろうか。

    成田空港には父親が早朝から迎えに来てくれており、ひとまず私の実家に彼女を連れて行くことに。到着するやいなや、再びオーストラリアの家族全員に無事日本到着の知らせの電話をしたいとのこと。おまけに砂漠に住むおばさんの具合が悪く、心配でたまらないからそこにも電話をしたいという。え?ここから砂漠に電話すんの?あんな手のひらサイズの小さい携帯電話から海を越えたはるか彼方のおばさんと電話が出来るこの現代のテクノロジーを私は呪った。

    到着した晩、私の家族とみんなで夕食。普通の日本人家庭で普通の日本人のご飯を彼女に味わってもらいたかった・・・が、はじめて接するアボリジニの女性に家族はどうも緊張を隠せない。彼女が出演したウルルン滞在記のビデオを見ながら食事をしたのだが、テレビの画面の向こうで大きなトカゲの丸焼きを美味しそうに食べているバーバラが今、自分たちと一緒にコタツに入って鳥のから揚げを手づかみで食べているその現実を小学生の甥っ子たちはなかなか理解できない様子であった。

    翌日我々は東京へ移動。我が家にもすっかり打ち解けたようで帰りに私の姉の靴を当たり前のごとく履いて帰った。「アボリジ二の社会では全てが共有だから。ね、ね、お姉ちゃん。ごめん。後でさ。買って返すからさ。」と私は目配せを何度も姉に送りながらさっさと家を出た。

    そんなことよりも普段、砂漠で暮らす彼女に「東京」とはいったいどのように映るのであろうか。そんなことを考えながら銀座のホテルにチェックイン。1人でホテルの部屋のような密室にいるのは嫌だからと、部屋は私と一緒のツインを希望。ホテルに完備してある歯磨きセットや洗面用具などをひとつひとつ彼女に説明。朝の歯磨きを普段しない彼女に歯磨き粉を見せたらそのままチューブを口に入れたので慌ててストップ。

    そんな彼女と始まった笑いあり・涙ありの(これは私が始終流したもの)日本滞在2週間。後編をどうぞご期待ください。

  • 「ディジュリドゥ」ってご存知ですか?

    アボリジ二の楽器「ディジュリドゥ」ってご存知ですか?・・・と自分で言っておきながら実はわたしもこの楽器については専門的な知識はまるでない。しかし自宅に3本も置いてあるので必ず我が家の来客には「何、これ?」って聞かれるのでよーし、待ってましたとばかりにカッコつけマンの私は演奏してみる。吹いているうちにみるみると顔が真っ赤になってきて、おまけにおでこには血管もくっきりと浮かび上がる。音色の素晴らしさに感動するのかそれとも私のおでこににじみ出た血管に感動するのか来客は、「えー、貸して貸して。わたしにも次やらせてぇー」と鼻の穴を大きく膨らませて私からディジュリドゥを奪い取り、早速試してみるがさっぱりと音は出ず。

    そうなんです。このディジュリドゥをそう簡単に吹かれてしまっては困るのです。なんといってもこの楽器、何万年も前からアボリジニたちが大事な儀礼の時に演奏をしていた歴史上もっとも古い楽器であるのですから。しかも、演奏方法にはそれなりのテクニックを必要とするのですから。

    ディジュリドゥの材質はユーカリの木がほとんどで、シロアリが中をそれはそれは何年もかけてきれいに食べて空洞にしたものを使って作っているのです。決してアボリジニがドリルで穴を開けているわけではありません。ですからこの楽器は人の手がまったく加わっていない自然にできたものなのです。自然のものですから、もちろん「ド・レ・ミ」の音階はなく自分の呼吸法で様々に音色をアレンジ可能。「基本はブルルルル」

    はじめはどうやっても音が出ず、「・・・なんだやっぱりただの木の筒かあ・・」と、いとも簡単にギブアップ。それでもまだちょっと気になってもう一度トライ。何度となく吹いているうちに、拭き口と唇の振動の微妙なバランスが「ああ、こんな感じね」といった具合にわかってきたらもうこっちのものでしょう。

    次は「循環呼吸法というテクニックをお勉強していただかなければなりません。これは、常にずっと音を持続させておくためのテクニックで鼻で息を吸っているときも口からは常に息をブルブルと吐いているという決して理論的には考えてはいけないもので、私はいまだに完熟できず。どうしても不可能だと思い込んでしまっているようです。

    一番の上達方法はとことん練習。そしてこれだ!という自分の一本を持つこと。これに限りますね。 まるでディジュリドゥ販売員にでもなった気分でありますがまったくその通りであります。私のこよなく尊敬するベンディゴ在住のディジュリドゥ製作者、グレッグ・マコーミック氏の選りすぐりをこのたび30本限定大放出!

    彼は演奏の素晴らしさはもちろん、アーティストとしても活躍しているのでデザイン性は抜群です。お部屋に飾っておけばエスニックなインテリアとしても大活躍すること間違いなしです。ギャラリーでは演奏方法をご紹介したビデオも放映中。さあ、ぜひともあなたのお気に入りの一本を見つけておくんなさい!

  • 栃木県立美術館 アボリジナルアート展 入場者数10,000人

    ##9月1日

    今年に入ってすでに4度目となった日本帰国。今回は7月から開催されていた栃木県立美術館でのアボリジナルアート展覧会終了作業に立ち会うための帰国である。 2日前に成田に到着、ホッとする間もなくすぐに会場での撤去作業の打ち合わせの電話を読売新聞社へ入れる。そして今日午後、メルボルンからギャラリーのオーナーとスタッフが成田へ到着。私は出迎えのために再び成田空港へと車を走らせた。

    ##9月2日

    午前6時半。目覚まし時計のすさまじい音で目が覚める。音が大きいことだけの理由で購入したこの時計は、穏やかな眠りの中かからの私を一気に現実へと引き戻した。「ひえ~、もう朝なの・・・。参ったなあ。昨夜はあんまり寝てないのにぃ・・」と、孤独なオンナはついつい目覚し時計にも話しかけてしまう。・・・が、今日は展覧会の最終日であること、つまり宇都宮まで移動をしなければならないことをすぐに思い出してすぐさまベッドから飛び起きた。「今日はきっと忙しい一日となるだろう」と。

    滞在したホテルでギャラリーのスタッフ達と一緒に朝食を取る。たっぷりとエネルギーを補給しなければとビュッフェ形式のレストランでご飯山盛り・味噌汁2杯・シシャモに納豆、・・・と満弁の笑みを浮かべて私がそれらを平らげていると「こんなものをブレックファーストで日本人は食べるのか。キミ達が同じ人間とは思えなくなった。」・・と横目でしかも本当に嫌そうに私のシシャモをにらむスタッフは今回日本が初めて。そうブツブツ言いながら彼は自分のコーンフレークにたくさんのミルクをかけていた。

    宇都宮までの移動はレンタカー。もちろん私の運転である。実家茨城の鹿嶋から宇都宮までは3時間から4時間はかかると言われたところを2時間半で到着。私もやれば出来るもんだ。途中、何度か道にも迷ったが日本語の標識がまるで読めないスタッフたちをだましだまし「ユウー、アー、ワンダフル」とまで言わせて無事栃木県立美術館に正午到着。最終日、最後だからと駆け込んで観に来る人が多く、この日も入り口に列が出来るほどの混雑ぶりだった。我々は会場をひと回りぐるっとした。

    どの展示場もかなりの賑わいである。美術館担当者からも「この展覧会は想像以上の盛況ぶりでした。今回は僕達も十分楽しませてもらいましたよ。本当にありがとうございます。」と深ぶかと頭を下げられ私も一気に舞い上がる。すると、どこからか「ああーー、内田さんやっぱりいた! 来ると思ってたー!!!」3オクターブほど高い声がしてくるではないか。振り返ると、私もビックリ。なんとメルボルンでギャラリー在職時代にお目にかかった旅行者の女性二人であった。今日ははるばる名古屋から来られたという。わざわざ遠路足を運んで来てくださった熱い思いに心から感謝。

    7月から延べ50日間にわたって開催された栃木県立美術館でのアボリジナルアート展覧会、来館者の総数はおよそ10,000人を記録。最終日には閉館時間を延長するまでに。美術館側も、久しぶりの好評な企画展だったととても満足をされていた。

    ##9月7日

    今回の展覧会の後援であるオーストラリア大使館も、この盛況ぶりに大きな喜びを示してくださった。この日は、日本着任されてまだ2ヶ月というオーストラリア駐日大使、John McCarthy氏より昼食のお招きを受け、我々3人は東京三田の大使公邸へうかがうことに。

    公邸は想像以上の豪華さで思わずため息。ただの興味本位で拝借したトイレは私の自宅のベットルームより広かった。大使は始終にこやかに、今回の展覧会の成功を誉めてくださり今後に引き続く我々の日本においてのアボリジナルアート展に大きな激励をしてくださった。

    第2会場での展覧会を無事に終了し、多くの方々が観て下さったという喜びは確かに大きなものではあるが、私には観に来られた方に、どの位満足していただけたのかが大切だということ、日本人にとってこの斬新で、かつ非常にユニークなオーストラリア先住民の芸術がいったいどのように受け止められたのかを今後も注目していきたいという想いを懸命に大使にお伝えして、公邸をあとにした。

    こうして今回も私の日本滞在過密スケジュールが無事終了し、再びメルボルンへと帰る日を待つわけだがこうも頻繁に日本とメルボルンを行ったり来たりしていると何だかいったいどっちが自分の生活なのかわからなくなってくるのも事実である。まあ、それも『今の自分』としてしっかり受け止めるつもりではあるが。

    アボリジナルアート、日本進出。まずは好調なスタートであったことをここにご報告しよう。

  • 狩りの醍醐味・砂漠でのご馳走(その1)

    狩りの醍醐味・砂漠でのご馳走(その1)

    今でこそ文明にどっぷりと漬かった生活をしているアボリジニたちですがもともとは狩猟採集民であったため現在においても時折仲間を集ってハニーアント(蜜アリ)やウチティグラブ(ボクトウ蛾の幼虫)を積極的に採集しに行っています。道路標識も何もないところで彼らは地図も持たず確実に獲物のありかを見つける能力を持ち常に大地に感謝をしながら自分たちとのつながりを確認します。

    一粒のアリを見つけるのに自分の身体が埋まってしまうほど細い一本の棒でひたすら土の中を掘りあさります。蜜アリはまさに濃厚なハチミツの味。お尻のところを舌で軽くつぶすとまるでイクラのような食感で口いっぱいに広がる甘い蜜は格別な味わいです。

    また、人に話すと必ず「ウエェ~。気持ち悪い」と言われる蛾の幼虫ですがこれは砂漠で採れる唯一の蛋白源でアボリジニたちの大好物。自分の手のひらの上で動いている白い物体をそのまま口に入れる瞬間はまさに涙ものではありますが我々日本人が刺身を食べるのと全く同じ発想です。当然ですが水のない砂漠で魚は手に入りませんから砂漠の民は“魚”をこれまで見たことがない人がたくさん。ですから刺身を彼らも食べ物とは認めていません。食文化の違いがこんなにもおもしろいだなんて。

  • 楽しい仲間たち

    楽しい仲間たち

    そもそもアボリジニ以外の人間が居住区に滞在をするということがすでに大注目の的となるため行く先々で必ず声をかけられます。

    お金をせびられることもしばしば、持っていったカメラを触りたがる人もたくさん。

    肌の色や顔のつくりがまるで違うのですからこんな宇宙人のような私が『一体ナニモノなのだ』とまずは彼らが理解することが最優先。

    その後しばらくしてアボリジニの親族制度の基盤となるスキンネーム(男女それぞれ8つずつに分類。)をいただけるようになればその時点でもう家族同然の扱いを受けることに。

    私は“ナカマラ”というスキンネームをいただきました。
    そうなると村中にいる“ナカマラ”は私の姉妹となり私の娘は“ヌンガライ”、旦那となれる男性のスキンネームが“チャパルチャリ”とあっちにもこっちにも私の旦那候補がいることになるのでここなら嫁入り可能かも?

  • アボリジニ居住区の様子

    アボリジニ居住区の様子

    居住区内においては現在はオーストラリア政府がアレンジをした住宅に住んではいますがもともと野外での暮らしを基本としていたアボリジニにとって屋根やドアのあるところが「家」だという認識がない人々も中にはいます。ドアが叩き壊されて焚き火となっていたり、はたまた冷蔵庫の中には靴が入っていたり・・。したがってわざわざ野外に自分たちで簡易住宅を作ってそこで寝泊りする光景もアボリジニ居住区内では珍しくはありません。

    「時間」というものに拘束されない解放感はたまりません。私も毎度アボリジニ居住区へ訪れるときにはまずは時計をはずすことからスタート。あるがままに自分の身を置くことの重要性を今更ながらに痛感します。

    居住区内で暮らすアボリジニたちはひとつの大きな家族として皆仲良し。いつ、誰が、どこで、何を、誰としたなんてことはあっという間に村中に知れ渡りますからね。プライバシーなんてものはそこには存在はしません。

    ドラム缶のような大きな入れ物でぬるく甘い紅茶を一日に何倍もゴクゴク飲む人や狩猟で射止めたカンガルーを『面倒くさい』からと焼かずにそのまま生で食べる人などそれぞれがみんな「あるがまま」に生きています。
    学歴社会とか戦争とかここにいるとそれらがまるで無縁に感じられてなりません。

  • アボリジニ居住区への長い長い道のり

    アボリジニ居住区への長い長い道のり

    オーストラリア中央砂漠へは通常空路アリススプリングスへまず入り、そこから4駆でアボリジニ居住区へと向かいます。

    アボリジニ居住区といっても地域によって所要時間は様々。また行く時期によっても道のコンディションがまるで異なるので要注意。一度雨季に訪れて帰って来れなくなった経験がありますからね。

    居住区への立ち入りは通常政府からの許可証が必要となります。万が一許可無しで入った場合には2万ドル(日本円でおよそ160万円)の罰金が課せられます。

    どこまでもどこまでも広く長く続く道、もちろんガソリンスタンドも何もありませんからタイヤのパンクやガス欠にはご注意あれ。何たって通りすがりの人にSOSを・・なんてことは出来ないのですから。道中、1~2台の車を2時間おきに見かけるぐらいでしょう。

     

  • 独立起業宣言その後

    2000年10月に一大決心の独立。気持ち新たに胸はずませながら自宅にオフィスを構え、名刺を作り、銀行口座まで開設した。これでいつでもどれだけの大金が振り込まれてもオッケー!なのだ。共同経営者はナシ。よって私が代表取締役となる。社員もひとりもいない。孤独だ。気分転換にと近所へ散歩に出掛けるが、寒くて10分で帰ってきてしまう。そんな感じだった独立起業直後。

    今年4月からは日本で行われているアボリジナルアート展覧会開催のために日本とメルボルンを往復する生活が続いている。日本での滞在はオープニングでの通訳から展示作品のチェックから展覧会全般のコーディネートからあれもこれもとそれは忙しく、毎日たくさんの新しい人々に出会う。そしてまるで手裏剣のように名刺を配りまくり、声を2トーンほど上げてのビジネストークで起業設立の宣言をしている。

    その甲斐あって「あの画廊の人の紹介でこの人に会って、この人にあっちへ行けと言われたから本日こちらに参りました・・・」なんてことを東京滞在中ずっとしていて「明日、銀座のホテルで画廊主催のパーティーがあるんだけどキミも良かったら来る?」なんてお声も掛かったりする。”画廊主催のパーティなんてどんな人達が来るんだろう?”そんな期待に胸を膨らませ当日は名刺入れに入りきれないほどの名刺を用意し、いつもの馬鹿笑いだけは絶対にしまいと決意しながら、パーティーに着ていく洋服を慎重に選んだ。化粧も念入りにし、滞在しているホテルの部屋の姿見の前でシンプルなネイビーブルーのノースリーブのドレスに身を包み、ぐるりとひと回りまでしてみる。「よっしゃあ!」と、確認なのか気合いなのかわからない掛け声とともに部屋を飛び出して会場へと向かった。ご存知の通り、今年の日本の夏は異常なほど暑くただでさえすぐに汗をかく。これじゃあせっかくセットした髪もすぐふにゃふにゃになると思いながら、タクシーから東京の雑踏をボーっと見つめていた。

    午後6時45分。予定よりも少し早く到着した私は、受付でもらったパンフレットを見ているふりをしながら、会場に来ている人々を横目でチェックする。パーティー会場は大きなシャンデリアがいくつもぶら下がっており、テーブルにはワイン・ウィスキー・オレンジジュースなどがきれいに並べてあった。白い上着を着た、まさに『給仕』という感じの人たちが銀のトレイに飲み物を満載しながら、こちらに向かってくる。「あ、その赤ワインください。」落ち着こう。取りあえず気付けにワインを飲みながら、あらためてまわりを見回してみる。・・・が、もちろん知っている人など誰もいない。私はこういったパーティーというものは実はあまり得意ではなく、いつもひとり自分が浮いているような気がしてならない。今夜、このパーティに招待をしてくれた人を探しに少し会場内をウロウロ歩いてみたが見つからない。

    そんな中、私に声を掛けてくれたトノガタがいた。髪はやや長髪で作務衣に下駄という見るからに芸術家の風貌であった。しかし、そのトノガタ、タダモノではない。彼の紹介で『岡本太郎美術館』の館長、青山スパイラルガーデン(ここのギャラリーは立派)のマーケティング部長、美術ジャーナリスト、・・・と、次々にいろいろな方へ名刺を差し上げることができた。皆様名刺を見るやいなや、『アボリジナルアートコーディネーター』という私のタイトルにはじめは「ふん?」といった表情を見せるが、わりと真剣に話を聴いてくださる。反応は決して悪くなかった。・・・と思う。

    私は現在フリーランスとしてアボリジナルアート日本進出に向けて展示会場を探している旨を熱く語り、今年は即売会も企画していること、11月にはアボリジニ女性アーティストも一緒に来日することを訴えた。きっと何か出来るにちがいない。

    2杯目の赤ワインを飲み終えるころ、パーティーも終わりに近づき、私はあのタダモノではないトノガタに(結局最後まで彼がナニモノかは不明であった)丁重に挨拶をして会場をあとにした。

    いただいた数々の名刺をもう一度ながめながら、『明日食うカネ、自分で作らにゃあ』と独立起業のキビシサ・ムズカシサをかみしめて自己奮起を新たにした東京での一夜であった。人生、常に『チャレンジ』である。だから面白い。

  • アボリジナルアートQ&A

    今回は、頂いたお便りやよく聞かれる質問にお答えいたします。皆さんもアボリジナルアートに関してお知りになりたいことがあれば [email protected] まで、お気軽にご質問ください。

    ##1. アボリジナルアートは一つ仕上げるのにどれぐらいの時間がかかっているのですか?

    うーーん、これは非常に難しい質問ですね。・・・というのもこれは作者の手法によって大きく異なりますから。砂漠の砂絵のイメージから来る点描(ドット)をたくさん用いる作者は、サイズ90センチ×60センチのキャンバスをおよそ一週間から10日ほどかけて制作します。

    それに比べてライン(線)を主体とする作者は早い人で30分ほどで仕上げます。・・・・が、これらは本当に大まかな目安でしかありません。

    お忘れになってはいけないのが彼等の絵画の制作はアトリエやスタジオではないということです。砂漠の大地の上で、そして青空のもとでの作業になりますから、天候にも大きく左右されますし、作品が売れるとその場で彼等は現金をもらいます。自分の家族がお腹をすかせている時にはさっさと作品を仕上げて、さっさとお金をもらうというサイクルにもなっていますから、絵画のクオリティも大きく差異することになるわけです。

    ##2. アボリジナルアートに宗教的意味はありますか?

    読む・書くといった「文字」を持たないアボリジニにとっての絵画は次の世代に砂漠で暮らす為の様々な知恵を伝達する大事な教育の意味があります。

    また、彼等が独自に持っている世界観も同時に絵画によって表現されますから、もちろんそこには宗教的、哲学的要素は大きく含まれます。一見抽象的に見えるアボリジナルアートですが、そこにはそれぞれストーリーがあるのでそれを解読する面白さも一緒に楽しんで見てください。

    ##3. アボリジニの方々は売れた作品の収入をどのように使っているのですか?

    これは実に多くいただく質問のひとつです。まず、「お金」という概念が私たちと全く違っているということをご理解いただきたいですね。もちろん「貯蓄」をするという考えもありませんから、絵画によって得た収入は瞬く間に消えてしまうことがしばしばあります。有名な画家になるとかなりの現金収入を得るのですが(一日数千ドル)私有財産を持つという概念が無い彼等は、その収入を居住区で自分の家族(アボリジに特有の親族制度があります)に毎回均等に配当をしたりします。現在はアボリジニ居住区の中にもスーパーマーケットがありますからそこで食料品を購入し、また街へ出掛けて映画を観たりショッピングを楽しんだりもします。

    ##4. 今後の展望は?

    私の人生にアボリジナルアートが登場してきてまだわずか8年です。これまでいろいろなものに興味を持ってきた自分ですが、その中でもなぜこんなにもアボリジニに魅せられるのだろうと考えることはあるのですが、まだ明確な解答は得られていません。

    日本での「アボリジナルアート展覧会」は私の大きなゴールのひとつでした。現在、その日本での巡回展が実現したことをこのうえない喜びだと思っています。これまで自分が長い間思い描いてたものがようやく「カタチ」になったという、大きな自信にもつながりました。

    今後はこれをスタートに日本のアート業界へ新しいユニークな芸術として、アボリジナルアートをもっともっとご紹介していきたいですね。

    11月にはアボリジニの画家を日本に連れて行く予定です。それにあわせて小さな個展も考えています。アボリジナルアートに出会って私のハートが素直にときめいたように、ひとりでも多くの方々にこの絵画の持つ温かさとパワフルさを感じていただけたらと思っています。

    私のアボリジナルアート熱はまだまだ当分冷めそうもありません。

  • アボリジナルアートの本当の姿

    昨年のシドニーオリンピックで一気に知名度を増したオーストラリアの先住民アボリジニ。しかし、いざ、彼らのアートとなるとなかなかイメージできる人は少ないのでは?そもそも、読む・書くといった「文字」を持たずに、何万年もの間この広いオーストラリア大陸を狩猟と採集のみで自由自在に駆け巡り、その大地とかかわる様々な「生きていくための知恵」を確実に次の世代に「文字」以外で伝承をしていった先住民。その伝達手段は「絵画」であったり「歌」や「踊り」であったりする。

    それゆえ、アボリジニにとっての「絵画」とは我々の一般的な「絵画」の概念とは大きく異なるもので、単純に「これがアボリジニの絵画だよ」と言ってしまって「ふーーん」と妙に簡単に納得をしていただくわけにはいかなかったりするのである。

    そもそも、砂漠で暮らすアボリジニ達が現在使用しているアクリル絵の具に出会ったのはわずか30年ばかリ前のこと。それまでは砂の上と自分達の身体の上に岩絵の具を用いて模様を描き、もちろんそれらは「保存」されることなく描かれてはすぐに消されていたために、我々がこれまで目にする機会などはまるでなかったのは当然である。

    彼らが描く模様、一見ただの抽象的な記号のようにも見えるのであるが、それらは「文字」の代わりとなるビジュアルな地図であったり記録であったり、または法則であったりする。つまり、絵画の中の構図や形象は世代ごとに確実に伝承をされているもので、純粋な意味での彼らの創作ではないのである。これがアボリジナルアートのユニークさでもあるのだ。そう、彼らは自分のイマジネーションで絵画を描くわけではない。

    また、そこに描かれている内容は彼ら以外の者には決して明かされることのないインサイド・ストーリーがほとんどで、我々に語られるのはそのほんの一部にすぎないのも事実だ。

    彼らの繊細なその表現はもちろん「絵画」としての魅力を十分に備えているのであるが、果たしてこの記号だらけの、地図や文学にも近い作品達を「アート」と言ってよいものなのだろうか、と私はふと考える事もあるのだが、たとえアウトサイドストーリーしか我々が知り得なくても純粋に作品が放つ魅力に何度も心を打たれたことは間違いない。

    そう、アボリジナルアートは確実に美術としての力を有している。

    まずは、素直に直感を持って作品に向かい合っていただきたい。

  • アーティストの素顔

    今回は、今活躍中のアボリジニ女性画家、そして私の大事な友人であるひとりをご紹介しましょう。

    彼女の名前はバーバラ・ウィラー。初めて知り合ってからもうかれこれ5年の月日が流れる。1996年にNHKテレビの取材で、ある画家を4日間砂漠のど真ん中で撮影をしたのだが、そのとき我々の通訳となり世話役となり大活躍をしてくれたのが、彼女だったのである。そのとき「初めて逢ったにもかかわらず、・・・・・・あれ?以前から知り合いだったっけ?」と、そんな印象を強く受けた記憶あり。

    そんな彼女が去る2月11日にTBSテレビで人気番組である「ウルルン滞在記」に堂々主役で出演。番組終了後の反響はかなりのもので想像以上であった。私のところにも彼女に関する情報が欲しいというメールが殺到した。映像の力はやはり大きい。

    そこで先日彼女とメルボルンのレストランで友人を交えながら一緒に食事をして、撮影の裏話をちょいと聞いたらそれがオモシロイの何のって。何しろ撮影時期が砂漠の一番暑い時期、1月だったのがまず信じられない。これまで私も何度もアボリジニ村には滞在したが、あの暑さったらハンパじゃあない。日中軽く45 度にはなる。何をしてても、暑い。どこにいても暑い。冷たい飲み物・・・・手に入らず。

    番組に起用された女優さんも途中でダウン。もちろん暑さでやられたらしい。食事は毎日トカゲ・カンガルー・トカゲ・イモムシの繰り返しだったという。普通カメラの廻ってないところでは撮影クルーが用意した食事をとる・・・・とお思いでしょう?・・・・・・が、この「ウルルン滞在記」の番組ディレクターは"それじゃあリアル感が出ないっしょ!ダメダメ。シャワーもダメダメ。あくまでも現実に近くね。耐えてね。頑張ってね。"と全く鬼のようだったとバーバラは言う。撮影は早朝4時ごろからスタート。そして深夜1時に終了。番組協力とはいえ、普段スケジュールなんかで動いているはずのないアボリジニのバーバラにとってはもうフラフラで倒れる寸前。しまいにはディレクターとケンカをしたらしい。だから撮影のギャラをいっぱいもらってやったと彼女は誇らしげに笑っていた。さすがである。

    そんな彼女を私は近い将来、日本に連れて行きたいと切願する。いつも彼女の「カントリー」に魅せられっぱなしの自分である。だから今度は私が自分の「カントリー」を彼女に知ってもらう番だ。

    以下、彼女の経歴をご紹介。作品をご覧になりたい方はぜひご一報ください。


    BARBARA WEIR(バーバラ ウィラー)

    言語集団: アマチャラ(ANMATYERRE)
    出身: ユトーピア
    1945年ごろアリススプリングズの北東、ユトーピアに生まれた女性

    アボリジニの母とアイルランド人の父を持つ彼女は両文化の特徴が上手く調和されたユニークな性格の持ち主。

    1950 年代にオーストラリア政府が行った政策により、9歳のときに無理やり両親のもとから引き離され、アリススプリングズ・ダーウィン・ブリズベンなど次々と違う白人家庭のもとへと引き取られていくうちに、自分の言語もだんだんと忘れていき、いつのまにか白人社会へと染まっていった。

    だが、心の片隅にはいつも“自分の故郷ユトーピアヘ帰りたい"という気持ちが強くあったため、1970年代はじめに自分の意志で再び戻って行った。しかし、アマチャラ語をほとんど覚えていなかった彼女は、故郷へ帰っても誰ともコミュニケーションが取れずにいたのだが、その彼女の幼い頃を鮮明に覚えていたのが現在オーストラリアで最も偉大なアーティストであるエマリーであったのだった。

    それからというもの、彼女は再びアマチャラ語を学び直し、ユトーピアにもたびたび訪れるようになったのである。エマリーとの日常の強い接触、また彼女の画家としての才能に大きな影響を受け自分自身も画家として活動し始めたのが1990年ごろであった。

    現在、アボリジニ社会と白人社会との狭間に立った彼女の描く独創的なスタイルには大きな注目が集められ、オーストラリア国内はもとより海外でもその評価も高い。そして現在彼女の作品が日本の美術館でで展示されていることを私は大きな誇りに思っている。